中山丹治郎
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中山 丹治郎(なかやま たんじろう、1853年(嘉永6年1月[1][2][注釈 1])- 1900年(明治33年)12月4日[1][2])は、明治期の弁護士、政治家。衆議院議員、栃木県会議長、宇都宮市会議長。
経歴
[編集]下野国都賀郡、のちの栃木県[1]下都賀郡石橋町[2][3][4](現下野市)で、松兵衛の長男として生まれる[3]。法律学を修めた[1][2]。17歳で家督を相続し、戸長、土地実地測量委員などを務めた[3]。1879年(明治12年)代言人(弁護士)免許状を取得し[1][2][3]、宇都宮江野町で開業した[3]。
自由民権運動に加わり、新井章吾、塩田奥造らと国会開設運動、反三島闘争などを進めた[3][4]。1884年(明治17年)加波山事件では関係者として一時拘引されたが、釈放後、容疑者の弁護人となった[3][4]。1887年(明治20年)条約改正反対運動に加わり、保安条例違反で皇居三里外に退去を命じられた[3][4]。
1888年(明治21年)栃木県会議員に選出され5期在任し[3]、同副議長、同議長、栃木県教育諮問会員なども務めた[1][2][3]。その他、町村連合会議員、宇都宮町会議員、宇都宮市会議員、同議長、所得税調査委員などにも在任した[1][2]。
星亨の辞職に伴い1897年(明治30年)1月に実施された第4回衆議院議員総選挙栃木県第1区補欠選挙で当選し[3][5][6]、自由党に所属して衆議院議員に1期在任した[1][2][3]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『栃木県歴史人物事典』455頁では1854(安政元)。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 倉沢瓶城『栃木県弁護士列伝』倉沢瓶城、1894年。
- 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』1936年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。