下元熊弥
下元 熊弥(しももと くまや、1882年(明治15年)6月2日[1] - 1945年(昭和20年)9月21日[1])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]高知県高岡郡東又村与津地(現・四万十町与津地)出身[1]。下元興行・桃の四男として生まれる[1]。東又小学校、海南中学、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業[1]。1904年(明治37年)3月、歩兵少尉に任官し歩兵第37連隊付となり日露戦争に従軍[1]。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。
1912年(大正元年)12月、参謀本部員となり、第16師団参謀、参謀本部員を歴任。1918年(大正7年)6月、歩兵少佐に昇進。1919年(大正8年)2月から1921年(大正10年)1月まで支那政府応聘。1921年(大正10年)11月、歩兵第3連隊付に発令され、同月から1925年(大正14年)1月までフランス出張(国際連盟陸軍代表随員)となる。この間、1922年(大正11年)2月に歩兵中佐、1924年(大正13年)12月に歩兵大佐に昇進。
1925年(大正14年)5月、陸軍歩兵学校教官に就任し、歩兵第5連隊長、歩兵学校教官を経て、1930年(昭和5年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第24旅団長となる。1932年(昭和7年)2月、第一次上海事変勃発により動員され、混成第24旅団長として出征。同年8月、歩兵学校付となり、同校幹事を経て、1934年(昭和9年)8月、陸軍中将に進み下関要塞司令官に就任した。
1935年(昭和10年)3月、第3師団留守司令官に移り、同年12月、第8師団長に親補された。1937年(昭和12年)8月、予備役に編入されたが、同月に召集され第108師団長に就任。日中戦争に出征し、石家荘会戦等に参戦し、臨汾を攻略した。1938年(昭和13年)6月、参謀本部付となり、同年7月に召集解除され、高知市種崎に仮寓した[1]。終戦後の1945年(昭和20年)9月に東京で[1]自決した。
栄典
[編集]- 1904年(明治37年)5月17日 - 正八位[2]
- 1905年(明治38年)8月18日 - 従七位[3]
- 1910年(明治43年)9月30日 - 正七位[4]
- 1915年(大正4年)10月30日 - 従六位[5]
- 1920年(大正9年)11月30日 - 正六位[6]
- 1924年(大正13年)12月27日 - 従五位[7]
- 1930年(昭和5年)2月1日 - 正五位[8]
- 1934年(昭和9年)9月1日 - 従四位[9]
- 1936年(昭和11年)10月1日 - 正四位[10]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 高知新聞社 1999, 391頁.
- ^ 『官報』第6267号「叙任及辞令」1904年5月24日。
- ^ 『官報』第6648号「叙任及辞令」1905年8月26日。
- ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
- ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。
- ^ 『官報』第2500号「叙任及辞令」1920年12月1日。
- ^ 『官報』第3747号「叙任及辞令」1925年2月20日。
- ^ 『官報』第931号「叙任及辞令」1930年2月7日。
- ^ 『官報』第2307号「叙任及辞令」1934年9月7日。
- ^ 『官報』第2928号「叙任及辞令」1936年10月3日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。ISBN 4875032854。