ブルース・アシュモア
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ブルース・アシュモア Bruce Ashmore | |
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生誕 |
1959年4月13日(65歳) イングランド ケンブリッジ |
国籍 | イギリス |
教育 | ケンブリッジ大学 |
業績 | |
専門分野 |
レーシングカーデザイナー テクニカルディレクター |
勤務先 | アシュモア・デザイン(2003 - ) |
雇用者 |
ローラ(1976 - 1993) レイナード(1993 - 2000) フォーサイス・レーシング(2001 - 2002) |
ブルース・アシュモア(Bruce Ashmore, 1959年4月13日 - )は、イギリス・ケンブリッジ出身のレーシングカー・デザイナー[1]。主にローラ、レイナードに所属し、マシン設計および開発の担当をしていた[2]。
経歴
[編集]17歳の1976年頃からイギリスのハンティンドンにあるローラ・カーズ・アカデミーでインターンとして働き始め、エリック・ブロードレイに師事。
ローラ時代
[編集]-
1988 Lola T88/00
-
1991 Lola T91/00
-
1993 Lola T93/00
それ以降、ローラに17年間在籍。
ケンブリッジ大学を卒業後は、インターンからチーフデザイナーへと昇進するまでの間、ブルースは多くのレースカープロジェクトのデザインチームのメンバーであり、ローラインディカーのチーフデザイナー。
製造初年 | 型式(Lola Heritage) | 製造 | シリーズ | 製造 | 型式 |
1978 | Lola T500 | 5 | IndyCar | ||
1979 | |||||
1980 | IndyCar | 3 | March 80C | ||
1981 | IndyCar | 9 | March 81C | ||
1982 | IndyCar | 20 | March 82C | ||
1983 | Lola T700 | 3 | IndyCar | 21 | March 83C |
1984 | Lola T800 | 5 | IndyCar | 47 | March 84C |
1985 | Lola T900 | 22 | IndyCar | 44 | March 85C |
1986 | IndyCar | 38 | March 86C | ||
1987 | IndyCar | 33 | March 87C | ||
1988 | Lola T88/00 | 25 | IndyCar | 20 | March 88C |
1989 | Lola T89/00 | 32 | IndyCar | 6 | March 89C他 |
1990 | Lola T90/00 | 26 | IndyCar | ||
1991 | Lola T91/00 | 38 | IndyCar | ||
1992 | Lola T92/00 | 26 | IndyCar | ||
1993 | Lola T93/00 | -- | IndyCar | GenTech (UK) | |
XX/00 - CART Indycar Speedway spec. XX/01 - CART Indycar Road - Circuit spec. |
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レイナード時代
[編集]1993年にアシュモアはレイナードに移籍し、1992年11月に既に起動していたレイナードの最初のインディカーであるReynard 94Iの開発プロジェクトチームにやや遅れて合流する。
このチームはレイナードのトップデザイナーであるマルコム・オーストラーを首班としたもので、パックウエストのブルース・マッコウの好意から、Galmer G93の車体IPが用意され、さらには、ジェラルド・フォーサイスと組んでいたバリー・グリーンの好意から、ビスターのGenTech (UK)から、ロビン・ハードのマーチ・インディカーのサポートまでが準備されていたという万全の態勢で、投入初年からレイナード・94Iは即座に結果を出し、レースで優勝し、翌1995年以降から倒産前年の2001年まで、連続してシリーズチャンピオン、レイナードはインディカーの主要なシャーシメーカーになった。
マッコウは、レイナードの北米でのオペレーションを丸ごと彼に委ねるというところにあり、インディアナ州インディアナポリスにレイナードノースアメリカ(RNA)が設立されたと同時に、マッコウの依頼による風洞施設が建設された[3]。
後にこれが、自動車研究センター、ARCとなり、レイナード北米本部になる。
1993年から1998年の間、彼はRNAのテクニカルディレクターを務め、1999年にRNAの社長に就任。
後にARCのテクニカルディレクターを務めたとされているが、実際には、現在もARCの理事として紹介され、ARC運用の実務に関するすべてが彼に委ねられていた[3]。
レイナード崩壊直前
[編集]アシュモアは2001年にフォーサイス・レーシングに加入。2003年のチャンピオンシップタイトル獲得計画をしていたチームでレイナード・01I、レイナード・02Iを使用して、2年間チーム体制の整備をして、次年度の準備が整うのを待ってチームを離脱。
2003年、チームはローラ・B02/00を使用して、ポール・トレーシーのチャンピオンシップ獲得が実現した。
レイナード崩壊後
[編集]2002年の終わりにアシュモアデザインオフイスが開設。
アシュモアデザイン(Ashmore Design)は、設計事務所で、
- (Menard Competition Technologies)
- (Menard Engineering)
- (RuSPORT Champ Car Team)
- (Conquest Racing)、そして最近では、
- (C&R Racing Inc) と契約を締結。
アシュモアは、クリス・ポールセンがC&Rレーシングのために行ったアメリカ合衆国自動車クラブ (USAC)のシルバークラウンレースカーの設計を支援していた。
出典
[編集]- ^ “Bruce Ashmore”. oldracingcars.com. 2022年7月22日閲覧。
- ^ “Reynard Motorsport Ltd - Bruce Ashmore”. web.archive.org (2000年10月12日). 2022年9月23日閲覧。
- ^ a b “BOARD OF DIRECTORS”. ARCIndy. 2022年7月1日閲覧。