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チーム・ハース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
チーム・ハースが開発したローラ・THL1(2007年撮影)

チーム・ハース (Team Haas) は、かつて存在したアメリカ合衆国のレーシングチーム。1985年から1986年にかけてF1世界選手権に参戦した。自社開発のF1マシンをローラ名義で登録したため、規定上コンストラクター(製造者)には当たらない。「ハース・ローラ」 (Haas Lola) 、「ベアトリス・ローラ」 (Beatrice Lola) 、「フォース」 (FORCE) とも呼ばれる。

沿革

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チーム発足

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チームオーナーのカール・ハース (英:Carl Haas) は俳優のポール・ニューマンとともにニューマン・ハース・レーシングを結成し、北米のインディカー・ワールド・シリーズ (CART) で成功を収めていた。1984年、ハースはエイビス・レンタカー (英:Avis Rent A Car System) やSTPオイル (英:STP) などを傘下に収める全米第8位の大企業ベアトリス・フーズ (英:Beatrice Foods) の支援を獲得した。両者はCARTの派生プログラムとしてF1チームの結成に合意し、5年間のスポンサー契約を交わした。

ハースはまた、アメリカにおけるローラ製レーシングカーの輸入ディーラーでもあり、シャシー名に「ハース」ではなく「ローラ」と名付けることを希望した。チームの技術顧問にはローラ代表エリック・ブロードレイの名があったが、実際にはローラは計画に参加しておらず、名義貸しのような形であった。

共同オーナー兼チーム代表には、F1に精通した人物として、1983年までマクラーレンのチーム代表を務めたテディ・メイヤーが就任した。1984年に同じくマクラーレンの創設メンバーだったテイラー・アレクサンダーと共に「メイヤー・モーター・レーシング」を設立し、CARTシリーズに参戦し成功を収めた流れからのカール・ハースからの招致だった。

チームの設計部門にはウィリアムズパトリック・ヘッドの下で働いていたニール・オートレイロス・ブラウンを迎え入れた。チームはイギリスロンドン近郊のコーンブルック[1]にファクトリーを構え、運営母体となるフォーミュラ・ワン・レースカー・エンジニアリング (Formula One Race Car Engineering, FORCE[2]) を設立した。

エンジンはコスワースが新開発するフォードV6ターボエンジンの独占使用権を獲得した。ドライバーは1980年にドライバーズチャンピオンを獲得したアラン・ジョーンズと契約した。ジョーンズは1981年シーズン後に一度引退したのち、1983年アロウズからスポット参戦していたが、今回は本格的な現役復帰となった。

アメリカのF1チームの参戦はパーネリペンスキー1974年 - 1976年)以来久々であり、また、大口スポンサー(ベアトリス・フーズ)、名門エンジンサプライヤー(フォード・コスワース)、チャンピオン経験者(ジョーンズ)という、新興チームとしては強力な体制が注目された。

1985年

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フォードGBAエンジン(TECターボ)の完成は1985年シーズン中には間に合わないため、先に完成したTHL1シャシーにハート製の直4ターボエンジンを搭載し、一足早くF1にデビューすることになった。

第12戦イタリアGPにジョーンズの1台体制で初出場した。メカニカルトラブルが続発し、ポールタイムから約10秒遅れで辛くも予選通過したが、決勝もエンジントラブルでリタイアした。その後3戦に出場したが、南アフリカGPはジョーンズの体調不良で決勝を棄権し、残る2戦ともリタイアを喫した。

1986年

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ジョーンズに加えてパトリック・タンベイと契約し、2台体制でのエントリーとなった。タンベイが負傷により欠場した際は、エディ・チーバーがスポット参戦した。

フル参戦となる2年目のシーズンは、大きな誤算の中で戦わなければならなかった。まず、メインスポンサーのベアトリス・フーズが買収され、ハースを後援していた社長が更迭された。新経営陣は'86シーズン開幕前の段階で5年契約を反故にし、1986年限りでスポンサーを降りると宣告した[3]。さらに、フォードGBAエンジンは年明けには完成し、2月下旬に新車THL2の初走行が行われたもののフォードの意向で燃費面の熟成に時間をかける方針が取られた上に、パフォーマンスは期待外れだった。ロス・ブラウンは「新型マシン(THL2)は本当にいいクルマだった。ところが、エンジンに全然パワーがなかった」、ジョーンズは「技術を駆使した小型のエンジンだったが、まったくの腑抜けだった」と振り返っている[4]

チームは開幕2戦をハートエンジン搭載の旧型THL1で戦い、第3戦サンマリノGPからフォードエンジンを搭載するTHL2を投入した。このレースはジョーンズのみが使用し、第4戦モナコGPからタンベイにも新車が与えられた。このレースでタンベイはティレルマーティン・ブランドルと接触し、派手な横転事故を起こした。

マシンの性能的には中団グループに位置し、予選ではタンベイが何度かシングルグリッドを獲得した(最高6位)。相変わらずリタイア回数が多かったが、第12戦オーストリアGPでは、ジョーンズ4位、タンベイ5位で初ポイントを獲得。続くイタリアGPでもジョーンズが6位に入賞した。最終的に入賞はこの3回のみで、6ポイントを獲得し、コンストラクターズランキングは8位となった。

活動終了

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ベアトリス・フーズの撤退後、チームは新スポンサーとしてバークレイ (英:Barclay) との契約に漕ぎつけた。しかしコスワースとの関係が悪化し、フォードエンジンの供給を失ったことから、カール・ハースは最終的に1987年の活動継続を断念した。本拠施設や資材はブラバムのオーナー、バーニー・エクレストンに売却された。

チーム・ハースの撤退後、フォードGBAエンジンの使用権はベネトンが獲得し、1987年のマシンB187に搭載された。以後、ベネトンはフォードのワークス待遇チームとして躍進することになる。

開発技術者のうち、ニール・オートレイはマクラーレン、ロス・ブラウンはアロウズトム・ウォーキンショー・レーシングを経てベネトン及びフェラーリでチャンピオンマシンを開発することになる。また、1986年シーズンの途中から、タンベイ担当のエンジニアとしてエイドリアン・ニューウェイも在籍していた。優秀な人材を揃えていただけに、ブラウンは「あのまま続けていれば、信じられないほど強力な集団になっていただろう」と惜しんでいる[5]

変遷表

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エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 優勝数
1985年 チーム・ハース (USA) Ltd. THL1 G ハート415T BP アラン・ジョーンズ NC 0
1986年 チーム・ハース (USA) Ltd. THL1
THL2
G ハート415T
フォードGBA
BP アラン・ジョーンズ
パトリック・タンベイ
エディ・チーバー
8 0

脚注

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  1. ^ コーンブルック · イギリス”. google maps. 2022年10月4日閲覧。
  2. ^ ハース・ローラ オートスポーツ No.445 34-36頁 三栄書房 1986年5月1日発行
  3. ^ ローラTHL2/フォード 走り出したフォードV6ターボ オートスポーツ No.445 34-36頁 三栄書房 1986年5月1日発行
  4. ^ 『F1倶楽部 Vol.22』、p.99。
  5. ^ 『F1倶楽部 Vol.22』、p.101。

参考文献

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  • Adam Cooper文、津久部茂明訳 「砂上の楼閣 Beatrice Lola Haas」『F1倶楽部 Vol.22』 双葉社スーパームック、1998年 ISBN 4575471372

関連項目

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