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ディエゴ・フォルラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フォルランから転送)
ディエゴ・フォルラン
2018年のフォルラン
名前
本名 ディエゴ・フォルラン・コラソ
Diego Forlán Corazo
ラテン文字 Diego FORLAN
基本情報
国籍 ウルグアイの旗 ウルグアイ
スペインの旗 スペイン
生年月日 (1979-05-19) 1979年5月19日(45歳)
出身地 モンテビデオ
身長 180cm
体重 75kg
選手情報
ポジション FWCF[1][2]
MFAM[1][2]
利き足 右足
ユース
1990-1991 ウルグアイの旗 CAペニャロール
1991-1994 ウルグアイの旗 ダヌービオFC
1994-1997 アルゼンチンの旗 CAインデペンディエンテ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1997-2001 アルゼンチンの旗 CAインデペンディエンテ 80 (37)
2001-2004 イングランドの旗 マンチェスター・ユナイテッドFC 63 (10)
2004-2007 スペインの旗 ビジャレアルCF 106 (54)
2007-2011 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 134 (74)
2011-2012 イタリアの旗 インテルナツィオナーレ・ミラノ 18 (2)
2012-2013 ブラジルの旗 SCインテルナシオナル 34 (10)
2014-2015 日本の旗 セレッソ大阪 42 (17)
2015-2016 ウルグアイの旗 CAペニャロール 30 (8)
2016 インドの旗 ムンバイ・シティFC 11 (5)
2018 香港の旗 傑志 7 (5)
2022-2023 ウルグアイの旗オールド・ボーイス
通算 525 (222)
代表歴
2002-2014 ウルグアイの旗 ウルグアイ 112 (36)
監督歴
2020 ウルグアイの旗 CAペニャロール
2021 ウルグアイの旗 CAアテナス
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ディエゴ・フォルラン・コラソDiego Forlán Corazo (スペイン語発音: [ˈdjeɣo foɾˈlan]) , 1979年5月19日 - )は、ウルグアイモンテビデオ出身の元サッカー選手、指導者。元ウルグアイ代表。ポジションはフォワードミッドフィールダー[1][2]バスク系ウルグアイ人[3]。現在はプロテニス選手[4]

ピチーチ賞ヨーロッパ・ゴールデンシューの両方を2度受賞している。2010ワールドカップでは、ウルグアイ代表として5ゴールを挙げて得点王に輝き、大会最優秀選手としてゴールデンボールを受賞するなど、個人的にも大きな成功を収めた[5]。フリーキックの名手でもある。

経歴

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クラブ

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キャリア初期

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祖母はヨーロッパにあるバスク地方ギプスコア県オンダリビア出身のバスク人であり、まずアルゼンチンに、その後ウルグアイに渡った[3]。母方の祖父であるフアン・カルロス・コラソ英語版は1962年の1962 FIFAワールドカップウルグアイ代表監督で、父親のパブロ・フォルランも元サッカー選手で1974 FIFAワールドカップへの出場経験を有する。少年時代はテニスの腕も一流だった[6]。学生時代は学業も疎かにせず、成績も優秀であり、高校はモンテビデオ市内有数の名門校に通っていた。語学は、母国語のスペイン語に加え、フランス語ポルトガル語イタリア語英語で会話することができる[7]

12歳の時に姉が交通事故により恋人と下半身の自由を失う。姉の治療費は高額で、この事を知ったディエゴ・マラドーナが募金を呼びかけたものの、家計は圧迫された。15歳のフォルランは、姉のために1年間の期限という約束で父親の所属していたペニャロールと契約し、結果を出した。2000年アルゼンチンCAインデペンディエンテに移籍し、2001年にカップ戦を含めて23ゴールをあげた。

マンチェスター・ユナイテッド

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2002年1月、プレミアリーグマンチェスター・ユナイテッドに移籍金690万ユーロで移籍した。1月29日のボルトン戦でデビューしたが、2001-02シーズンは無得点に終わった。9月18日、UEFAチャンピオンズリーグマッカビ・ハイファFC戦でPKを決めて移籍後初ゴールを挙げ、10月26日のアストン・ヴィラ戦でリーグ戦初ゴールを決めた。2002-03シーズンはチェルシー戦でロスタイムに決勝点となるボレーシュートを決め、アンフィールドでのリヴァプール戦で2得点するなど、通算6ゴール(内4ゴールは決勝点)を記録し、クラブのリーグ制覇に貢献した。2002年12月のサウサンプトン戦では試合終了間際にゴールを決めた。2003-04シーズンは通算4ゴールと不振に喘いだ。マンチェスター・Uでは2シーズン半で95試合に出場して17得点を決めたが、2004年8月にFWウェイン・ルーニーが加入したことにより、ポジション争いが激しさを増すことが予想された。

ビジャレアルCF

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2004年には所属選手をバスク人に限定するチーム哲学で知られるアスレティック・ビルバオへの移籍に興味を示したが、移籍金などの問題もあって実現しなかった[3]。2004年8月21日、フォルランはリーガ・エスパニョーラビジャレアルCFに新天地を求めた。移籍初年度の2004-05シーズンはリーグ戦38試合で25ゴールをあげ、アルゼンチン代表フアン・ロマン・リケルメらと共にクラブをUEFAチャンピオンズリーグ出場権を得る3位に導いた。また、FCバルセロナサミュエル・エトオらを抑えて得点王(ピチーチ賞)のタイトルを獲得し、アーセナルFCのFWティエリ・アンリと並んでヨーロッパ・ゴールデンシューを受賞した[8]。得点の内訳は右足で14得点、左足で10得点、頭で1得点であり、両足を同等に扱えることを証明した。翌2005-06シーズンは調子を落とし、10ゴールに終わったが、3シーズン目の2006-07シーズンは19ゴールを決めてUEFAカップ出場権獲得に貢献した。ビジャレアル在籍時はフォワードの選手ながら守備的な選手が付けることが多い背番号5を付けていた。これは空いていた背番号をもらったとのことであるが、現役を引退した兄と同じ番号でもある[9]

アトレティコ・マドリード

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2007年6月30日、エースストライカーのフェルナンド・トーレスを手放していたアトレティコ・マドリードへ移籍金2100万ユーロ(約35億円)で移籍した。2007-08シーズンはFWセルヒオ・アグエロと2トップを組み、16ゴールを決める活躍を見せた。

2008-09シーズンはリーグ戦33試合に出場して32ゴールをあげ、またしてもFCバルセロナのエトーを抑えて自身2度目の得点王を獲得し、2度目となるヨーロッパ・ゴールデンシューを受賞した[10]リーガ・エスパニョーラで30ゴール以上をあげたのは1996-97シーズンのロナウド以来の記録である。

2010年4月22日、UEFAヨーロッパリーグ準決勝リヴァプール戦1stレグで試合唯一となる得点を決め、2ndレグでも得点して決勝進出に貢献した[11]フラムと対戦した決勝では2ゴールを挙げて2-1で勝利。アトレティコにUEFAヨーロッパリーグ優勝をもたらした[12]

2010-11シーズンは8得点に終わり、監督のキケ・フローレスの確執が度々報じられる[13] など、キャリア最低のシーズンとなった。夏の移籍市場ではインテルへの移籍の可能性が報じられる[14]。8月29日に本人が退団会見を開き、アトレティコのファンに別れを告げた[15]

インテル、インテルナシオナル

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2011年8月31日、インテルナツィオナーレ・ミラノ(インテル)と2年契約を結んだことが発表された[16]。しかし、怪我やディエゴ・ミリートの好調もあり、リーグ戦18試合出場で2ゴールにとどまった。

2012年7月、インテルとの契約を解除し、インテルナシオナルに移籍[17]

セレッソ大阪

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2014年1月、セレッソ大阪と2014年12月までの完全移籍で合意[18][19]。2014年3月18日に行われたAFCチャンピオンズリーグブリーラム・ユナイテッドFC戦で移籍後初ゴールを挙げ、3月23日に行われた鹿島アントラーズ戦でJリーグでの初ゴールを決めた[20]。ACLの山東魯能戦でチームの16強入りを決める決勝点を決めた。リーグ戦では中断期間までの13試合で6ゴールを決めた。キックの精度やシュート力だけでなく、シュートを打つためのスペースと時間を作る動きなどストライカーとしての魅力は見せたが、加入前のレヴィー・クルピ監督退任から続いていた経営陣の迷走により、南野拓実ら他の選手と同様にその能力を全て発揮出来なかった[21]

ランコ・ポポヴィッチがクラブから解任され、後任のマルコ・ペッツァイオリの元では途中交代となった際、ベンチの側にあったボトルを蹴り上げ厳重注意を受けた[22]。ペッツァイオリ解任後就任した大熊裕司はフォルランをベンチに置くことが多く、22節神戸戦を最後にスタメンに名を連ねることはなく、残留の懸かった最終盤でもベンチに入ることはなかった。南米などで移籍先を探ったが、好オファーがなく断念。自身に主導権があったC大阪との契約延長オプションを行使し、半年契約で残留が決まった[23]

4月29日に行われた京都サンガF.C.戦で来日初ハットトリックを達成[24]。5月17日のV・ファーレン長崎でのゴールは[25] セレッソでの最後のゴールとなった。

2015年6月1日の16節終了時点で10得点を挙げ、J2得点ランキング1位にランクイン[26] していたが、セレッソは高額な年俸などを理由に7月末で切れる契約を延長しない事が発表された[27]。また、フォルランも8日に自身のツイッターに「1年半の契約を終え、セレッソ大阪との契約を更新しないことにしました。クラブに感謝します。ありがとうございました!」とチームを退団する事を報告している[28]。7月31日まで契約だったが、クラブと本人が合意し、6月22日付での契約満了へとなった[29]。6月21日に行われた徳島ヴォルティス戦の試合終了後に退団セレモニーが行われ、「今日は寂しい思いをしている。こんなに大好きなチームを去ることは残念だが、心の底から昇格を願っている。またいつの日か日本に帰ってきて、みなさんと会える日を楽しみにしています!」と話した[30]。高額な年俸の割に結果が残せなかったことに批判もあったが、フォルランはクラブに残せたものについて「自分の姿勢や人間的な部分を見てもらえているとしたら、それは伝わっているのではないか」とコメントしており、チームメイトだった山口蛍も「プロとして模範となる姿勢はしっかり見せてくれたと思う」と話している[31]

ペニャロール

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2015年7月に父親であるパブロ・フォルランが長年にわたってプレーし、自身も下部組織として所属していたウルグアイのCAペニャロールへ移籍。24年ぶりの古巣復帰となった[32]。復帰戦となったモンテビデオ・ワンダラーズとの親善試合で2ゴールを挙げる活躍をした[33]

2015-16シーズン31試合8得点を記録し、クラブの3シーズンぶり50度目のリーグ優勝に貢献した。しかし、2016年6月15日に退団を発表した[34]

ムンバイ・シティFC

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2016年8月にインド・スーパーリーグムンバイ・シティFCと3ヶ月の短期契約を結んだ[35]

傑志

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ムンバイ退団後は無所属が続いていたが、2018年1月に香港プレミアリーグ傑志に加入した[36]。同年5月、契約満了となり退団。

2019年8月7日、現役引退を発表した。

オールド・ボーイズ&オールド・ガールズ・クラブ

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現役復帰。2022年2月、ウルグアイのオールド・ボーイズ&オールド・ガールズ・クラブのシニアチーム(40歳以上の選手で構成)に入団。ウルグアイ大学スポーツリーグ(Liga Universitaria de Deportes)でリーグ戦を戦うこととなった。

2月23日、再デビューを果たし、左コーナーキックのキッカーを任されたフォルランは、これを直接ゴールに沈めた[37]

テニス選手

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2023年7月テニスの国際大会に初出場を果たす[38]

2024年も45歳以上カテゴリーの最高ランクの男子シングルスの国際大会に出場している[38]。11月にプロ選手としてデビュー[39]

代表

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ウルグアイ代表でプレーするフォルラン

2002年にウルグアイ代表に初招集され、3月27日に行われたサウジアラビア代表との国際親善試合でデビュー[40]。同年に開催された2002 FIFAワールドカップに出場し、グループリーグのセネガル代表戦でボレーシュートを決めたが、チームはグループリーグで敗退した。

2007年頃に代表レギュラーの座を獲得し、コパ・アメリカ2007準決勝ではブラジル代表相手に得点したが、PK戦でシュートをミスし、チームは5-4で敗れた。2008年6月17日、2010 FIFAワールドカップ・南米予選ペルー代表戦ではハットトリックを達成した[40]

2010 FIFAワールドカップでは第2キャプテンを任され[41]、グループリーグ第2戦の南アフリカ代表戦ではミドルシュートとPKで2得点を挙げ、大会選定のマンオブザマッチに選出された[42]。他にもグループリーグ初戦のフランス代表戦、準々決勝のガーナ代表戦でもマンオブザマッチに選出され、7試合でチーム最多の5得点を挙げて得点王タイとなり、ウルグアイの40年ぶりの4位進出に貢献[43][44]。この活躍により、大会MVPにあたるFIFAゴールデンボール賞を獲得した[45]

コパ・アメリカ2011では決勝のパラグアイ代表戦で2得点を挙げ、ウルグアイの6大会ぶり15度目の優勝に貢献。祖父から続く3代続けてのコパ・アメリカ制覇を達成[46] すると共に、エクトル・スカローネと並びウルグアイ代表通算最多得点となった[46]。2010年10月11日、2014 FIFAワールドカップ・南米予選のパラグアイ代表戦で得点し、ウルグアイ代表単独最多得点となった。

2013年6月20日のFIFAコンフェデレーションズカップ2013ナイジェリア代表戦で、ウルグアイ代表史上初となる通算100試合出場を達成[47]。また、この試合では決勝点を挙げた[47]

2014年、ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップでも代表入りを果たし、同年6月28日に行われたコロンビア代表戦が最後の代表出場となった[40][48]

2015年3月12日、ウルグアイ代表からの引退を表明した[49]

エピソード

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  • セレッソ大阪の入団会見では、長い日本語での挨拶を行い、最後には「おおきに」と関西弁を交えた[50]
  • 自身のキャリアが映画化されることになった[51]
  • 2015年9月1日に第1子が出来、父親になることが発表された[52]

所属クラブ

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ユース
シニア

個人成績

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クラブでの出場成績

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クラブ シーズン リーグ カップ 国際大会 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
CAインデペンディエンテ 1998/99 2 0 - - - - 2 0
1999/00 24 7 - - - - 24 7
2000/01 36 18 - - 6 2 42 20
2001/02 18 12 - - 5 1 23 13
通算 80 37 - - 11 3 91 40
マンチェスター・ユナイテッドFC 2001/02 13 0 - - 5 0 18 0
2002/03 25 6 2 0 13 1 45 9
2003/04 24 4 2 1 4 2 32 8
2004/05 1 0 0 0 1 0 2 0
通算 63 10 4 1 23 3 98 17
ビジャレアルCF 2004/05 38 25 1 0 0 0 38 25
2005/06 32 10 2 0 13 3 47 13
2006/07 36 19 4 1 2 1 40 21
通算 106 54 7 1 15 4 128 59
アトレティコ・マドリード 2007/08 36 16 6 1 11 6 53 23
2008/09 33 32 3 1 9 2 45 35
2009/10 33 18 6 3 17 7 56 28
2010/11 32 8 3 1 7 1 42 10
通算 134 74 18 6 44 16 196 96
インテル・ミラノ 2011/12 18 2 0 0 2 0 20 2
通算 18 2 0 0 2 0 20 2
インテルナシオナル 2012 19 5 0 0 - - 19 5
2013 15 5 8 3 - - 23 8
通算 34 10 8 3 - - 42 13
セレッソ大阪 2014 26 7 1 0 6 2 33 9
2015 16 10 - - - - 16 10
通算 42 17 1 0 6 2 50 19
CAペニャロール 2015/16 30 8 0 0 3 0 33 8
通算 30 8 0 0 3 0 33 8
ムンバイ・シティFC 2016 11 5 - - - - 11 5
通算 11 5 - - - - 11 5
傑志 2017/18 7 5 0 0 5 0 9 5
通算 7 5 0 0 5 0 9 5
通算 525 222 38 11 109 28 674 261

代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 112試合 36得点(2002年-2014年)[53]


ウルグアイ代表国際Aマッチ
出場得点
2002 5 2
2003 7 5
2004 11 2
2005 9 2
2006 3 0
2007 9 5
2008 7 3
2009 9 3
2010 11 7
2011 13 3
2012 9 1
2013 14 3
2014 5 0
通算 112 36

得点

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# 開催日 開催地 対戦国 スコア 結果 大会
1 2002年3月27日 サウジアラビアの旗 サウジアラビアダンマーム サウジアラビアの旗 サウジアラビア 0–1 3–2 親善試合
2 2002年6月11日 大韓民国の旗 韓国水原市 セネガルの旗 セネガル 3–2 3–3 2002 FIFAワールドカップ
3 2003年3月28日 日本の旗 日本東京都 日本の旗 日本 0–1 2–2 親善試合
4 2003年8月20日 イタリアの旗 イタリアフィレンツェ アルゼンチンの旗 アルゼンチン 1–0 2–3
5 2003年9月7日 ウルグアイの旗 ウルグアイモンテビデオ ボリビアの旗 ボリビア 1–0 5–0 2006 FIFAワールドカップ・南米予選
6 2003年11月19日 ブラジルの旗 ブラジルクリティーバ ブラジルの旗 ブラジル 2–1 3–3
7 2–2
8 2004年6月1日 ウルグアイの旗 ウルグアイ、モンテビデオ ペルーの旗 ペルー 1–3 1–3
9 2004年7月10日 ペルーの旗 ペルーチクラーヨ エクアドルの旗 エクアドル 1–0 2–1 コパ・アメリカ2004
10 2005年3月30日 ウルグアイの旗 ウルグアイ、モンテビデオ ブラジルの旗 ブラジル 1–0 1–1 2006 FIFAワールドカップ・南米予選
11 2005年6月4日 ベネズエラの旗 ベネズエラマラカイボ ベネズエラの旗 ベネズエラ 0–1 1–1
12 2007年6月2日 オーストラリアの旗 オーストラリアシドニー オーストラリアの旗 オーストラリア 1–1 1–2 親善試合
13 2007年7月7日 ベネズエラの旗 ベネズエラサン・クリストバル ベネズエラの旗 ベネズエラ 0–1 1–4 コパ・アメリカ2007
14 1–4
15 2007年7月10日 ベネズエラの旗 ベネズエラ、マラカイボ ブラジルの旗 ブラジル 1–1 2–2
16 2007年10月13日 ウルグアイの旗 ウルグアイ、モンテビデオ ボリビアの旗 ボリビア 2–0 5–0 2010 FIFAワールドカップ・南米予選
17 2008年6月17日 ペルーの旗 ペルー 1–0 6–0
18 2–0
19 3–0
20 2009年3月28日 パラグアイの旗 パラグアイ 1–0 2–0
21 2009年6月10日 ベネズエラの旗 ベネズエラプエルト・オルダススペイン語版 ベネズエラの旗 ベネズエラ 1–2 2–2
22 2009年10月10日 エクアドルの旗 エクアドルキト エクアドルの旗 エクアドル 1–2 1–2
23 2010年3月3日 スイスの旗 スイスザンクト・ガレン スイスの旗 スイス 1–1 1–3 親善試合
24 2010年5月26日 ウルグアイの旗 ウルグアイ、モンテビデオ イスラエルの旗 イスラエル 1–0 3–1
25 2010年6月16日 南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国プレトリア 南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国 0–1 0–3 2010 FIFAワールドカップ
26 0–2
27 2010年7月2日 南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国ヨハネスブルグ ガーナの旗 ガーナ 1–1 1–1 2010 FIFAワールドカップ準々決勝
28 2010年7月6日 南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国ケープタウン オランダの旗 オランダ 1–1 2–3 2010 FIFAワールドカップ準決勝
29 2010年7月10日 南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国ポート・エリザベス ドイツの旗 ドイツ 2–1 2–3 2010 FIFAワールドカップ3位決定戦
30 2011年7月24日 アルゼンチンの旗 アルゼンチンブエノスアイレス パラグアイの旗 パラグアイ 2–0 3–0 コパ・アメリカ2011決勝
31 3–0
32 2011年10月11日 パラグアイの旗 パラグアイアスンシオン 0–1 1–1 2014 FIFAワールドカップ・南米予選
33 2012年6月2日 ウルグアイの旗 ウルグアイ、モンテビデオ ベネズエラの旗 ベネズエラ 1–0 1–1
34 2013年6月20日 ブラジルの旗 ブラジルサルヴァドール ナイジェリアの旗 ナイジェリア 1–2 1–2 FIFAコンフェデレーションズカップ2013
35 2013年8月14日 日本の旗 日本宮城県 日本の旗 日本 0–1 2–4 キリンチャレンジカップ2013
36 0–2

監督成績

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2021年9月15日現在
クラブ 就任 退任 記録
試合 得点 失点 得失点 勝率 %
ペニャロール ウルグアイの旗 2019年12月20日 2020年8月31日 11 4 3 4 12 12 +0 036.36
アテナス ウルグアイの旗 2021年3月17日 2021年9月16日 12 4 5 3 16 8 +8 033.33
通算 23 8 8 7 28 20 +8 034.78

タイトル

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2010 FIFAワールドカップでのフォルラン(右)とスアレス

クラブ

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マンチェスター・ユナイテッドFC
アトレティコ・マドリード

ウルグアイ代表

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個人

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映画

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  • 『DF10』[51](日本での公開は未定)

脚注

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  1. ^ a b c La prensa uruguaya alaba a Forlán pese a caer en semifinales”. ロイター (2010年7月8日). 2024年4月13日閲覧。
  2. ^ a b c “DIEGO FORLÁN - PLAYER POSITION”. FOOTBALLCRITIC. https://www.footballcritic.com/diego-forlan/player-positions/902 2024年4月13日閲覧。 
  3. ^ a b c Mariann Vaczi Soccer, Culture and Society in Spain: An Ethnography of Basque Fandom (Routledge Critical Studies in Sport) Routledge, 2015, p.45
  4. ^ 元C大阪のフォルランが45歳でプロテニス選手デビューへ 来月男子ダブルスに出場”. 2024年10月24日閲覧。
  5. ^ “歴代最強イレブン ウルグアイ”. 時事ドットコム. https://www.jiji.com/sp/d4?p=uru214-jnasazzi&d=d4_ftbnn 2020年3月17日閲覧。 
  6. ^ フォルラン2発!ウルグアイ20年ぶり勝利 サンスポ、2010年6月18日
  7. ^ 多彩多芸、フォルランの素顔。”. Sports Graphic Number (2006年4月25日). 2014年2月4日閲覧。
  8. ^ A・マドリードのフォルラン、欧州の得点王に ロイター、2009年6月1日
  9. ^ footballista
  10. ^ フォルラン 通算2度目のゴールデン・シュー獲得 AFP BB News、2009年10月2日
  11. ^ Liverpool 2 - 1 Atletico Madrid (agg 2 - 2) BBC Sport、2010年4月29日
  12. ^ Atletico Madrid 2 - 1 Fulham BBC Sport、2010年5月12日
  13. ^ キケ、確執が取りざたされるフォルランを招集外に
  14. ^ エトー退団のインテル、フォルラン獲得で合意?
  15. ^ フォルラン:「アトレティコファンとして退団する」
  16. ^ メルカート:フォルラン、インテルへようこそ!
  17. ^ フォルラン、インテルナシオナウ加入が決定
  18. ^ 本人Twitter投稿
  19. ^ ウルグアイ代表FWフォルラン、C大阪との契約を明らかに…10年W杯MVP SoccerKING 2014年1月22日
  20. ^ フォルラン”. data.j-league. 2020年4月30日閲覧。
  21. ^ セレッソ大阪の10番を背負ってきた名選手5人”. SPAIA. 2021年7月30日閲覧。
  22. ^ C大阪・フォルラン“ボトル蹴り”で厳重注意「深く反省しています」 スポニチ 2014年8月12日
  23. ^ 【C大阪】フォルラン、残留!6か月3億円 スポーツ報知 2015年1月28日
  24. ^ セレッソ大阪J2における ハットトリック一覧”. data.j-league. 2020年4月30日閲覧。
  25. ^ 2015明治安田生命J2リーグ 第14節”. data.j-league. 2020年4月30日閲覧。
  26. ^ 10得点はツエーゲン金沢清原翔平と並んでのランクイン
  27. ^ フォルラン「契約延長なしはチームの判断、しかたない」 NHKweb 2015年6月8日
  28. ^ C大阪フォルラン「クラブに感謝」契約満了を報告 日刊スポーツ 2015年6月9日
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  50. ^ C大阪加入のフォルランが会見…長い日本語の挨拶、関西弁も披露「おおきに」 soccerking 2014年2月12日
  51. ^ a b 元C大阪FWフォルランのキャリアが映画化…スアレスやファーガソンも登場 soccerking 2015年8月21日
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外部リンク

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