ノート:日本列島の旧石器時代
この記事は2005年8月5日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、存続となりました。 |
このページは、分割提案を経て高原山黒曜石原産地遺跡群へ分割されています。分割に関する議論は、このノートをご覧ください。 |
「日本の石器時代」と統合したほうが
[編集]日本の石器時代と内容がほとんど一緒なので統合したほうが良いのではないでしょうか。--sphl 09:29 2003年12月2日 (UTC)
- 削除依頼しています。--Tishitusekki 16:48 2003年12月27日 (UTC)
- 情報 当セクションは「終了した件をクリア」として2004年(平成16年)1月22日に除去されていました(差分/174579)。復元します。記事「日本の石器時代」については「ノート:日本の石器時代」も参照。--Yumoriy(会話) 2024年7月28日 (日) 14:52 (UTC)
「日本史」からの転記
[編集]日本史のスリム化のため旧石器時代の項目をこちらに移動しました。合成するときにいろいろ手を入れています。たぶん一番大きいのは「マンモス」を削ったことです。これは本州にはいなかった生き物ですよね。その辺も含め、詳しい人による訂正・変更をお願いします。--Kinori 13:05 2004年1月22日 (UTC)
- 情報 2004年(平成16年)1月当時の旧記事「日本史」は同年10月3日に「日本の歴史」へ改名移動されています(差分/2185559)。上記投稿に「日本史のスリム化のため旧石器時代の項目をこちらに移動しました」とあるのは、2004年1月22日の当記事「日本の旧石器時代」への転記編集(差分/174601・差分/381650)を指しています。当該の編集については《ノート:日本の歴史/過去ログ1#各時代の単独記事との役割分担》での議論を参照。なお、2009年(平成21年)9月10日に曖昧さ回避ページ「日本史 (曖昧さ回避)」が作成されました。--Yumoriy(会話) 2024年7月28日 (日) 14:52 (UTC) / 補訂--Yumoriy(会話) 2024年7月28日 (日) 15:07 (UTC)
Kinoriさんへ
「...とともにおわる。」としていますが、時代とはそんなものでしょうか?
ある日突然時代が変わったのでしょうか?
もとの文をよく読んで書き直しましょう。
「捏造問題」を個人の問題と理解しているようですけど、とらえ方が貧困です。ただの新聞記事の書き写しです。百科事典には、新聞記事の書き写しは要りません。
ここも、もとの記事をよく読んで書き直しましょう。
見出しに「道具」としていますが、これこそ一番大きな問題で、一つの時代をどのように捉えるかという観点は、微塵も感じられません。見出しを研究史とか住居と慕制とか食料の獲得とか、バラバラの知識の寄せ集めとしかいいようのないとらえ方です。人びとが生活してきた様子を伝えようとする考え方をしていません。
こんなことを書くのがイヤになってきました。Kinoriさんの石器時代のとらえ方が、間違っているのではないですか?
「...スリム化」の為だけの目的とは思えません。何かもとの文に「嫉妬・恨み・憎悪」を感じていたのではありませんか?
他に時代も早くスリム化しなさい。
今後、ものの見方や考え方についての学習に励んで下さい。以上。
--Tishitusekki 17:15 2004年1月25日 (PST)
- 個人攻撃はしないのもルールの一つです。ご自分で執筆されては如何でしょうか? --Johncapistrano 19:04 2004年1月25日 (PST)
- 嫉妬などはありません。そういうことは考えないでください。
- 私には、全体ではなく部分から、という考え方が確かにあります。古い時代の人々の生活は、多分に想像で埋められたものです。ふつうの人の生活全体を知るに足る証拠がそろうのは、近世以降でしょう。全体を想像するのが悪いわけはありませんが、ウィキペディアにはとにかく権威がありません。たとえまったく同じ文章でも、一流の学者の肩書きで書かれたことと、ウィキペディアの記事とでは、読まれ方は違ってきます。ですので、私が書けば、推測部分を圧縮し、一つの全体を伝えることより、いくつもの手がかりを示すような書き方になります。
- ベストの書き方は、学界の動向を概観した上で各説の論拠と確度を説明するものなのでしょう。しかしそれは第一線の研究者もいやがる面倒くさいことです。ウィキペディアが簡単に期待できることではないと思います。
- ただ、Tishitusekkiさんがそれではうまくないと思うなら、自分がうまくいくと思うやり方で書けばよいと思います。「詳しい人による訂正・変更をお願いします」とはそういう意味も含みます。
- 日本史からの移動を早く進めるつもりはありません。反論がありうることだと思ったからノートで提案し、10日待って実行しました。そして次のステップにいくまでにさらに反論を待つつもりで日をあけました。今こうして反論があったわけですから、ゆっくり進めて良かったのだと感じています。--Kinori 20:35 2004年1月25日 (PST)
Kinoriさんへ
旧石器時代の人びとの暮らしをどう捉えていたのでしょうか。旧石器時代の人びとがいなかったように思っているのではありませんか。項目の変更の仕方が、旧石器時代を人びとがこの列島で活躍しなかったように変えているとしか思えません。旧石器時代にも人びとは厳しい自然環境の中で生き抜いてきたのです。その歴史をここに表すべきです。あなたの訂正や修正を訂正・修正してください。--Tishitusekki 01:34 2004年2月1日 (UTC)
Kinoriさんへ
石器時代の人びとの活躍をどう捉えているのでしょうか? 項目の変更は、これでいいのでしょうか? これでは石器時代の人びとの様子が見えません。血の通った人びとの活躍がなかったのでしょうか? 歴史とは、人びとの様子や活躍を書く事であって、どんな道具があったとばかり書くのではないと思いますが。どうなんでしょうか? --以上の署名のないコメントは、Tishitusekki(会話・投稿記録)さんが 2004-02-08 02:36:02 (UTC) に投稿したものです。
論点の整理
[編集]こんにちは。議論が収束しないようなので、余計なお世話かとも思いますが参加させていただくことにします。 TishitusekkiさんがKinoriさんの編集に対し問題だとお感じになったのは次のようなことでしょうか。
- 遺跡・遺物中心の記述であり、人の生活が見えない。
- 各時代が遷移したからといって、人の暮らしががらりと変わったわけではない。
- 捏造問題はF氏一人の行為のみが問題だったのではない
最初の議論ですが、一応「歴史学」は一次資料として文字資料の得られる時代を扱い、「考古学」は遺跡・遺物が唯一のものである時代を扱う学問ですから、記述の仕方は変わってくるのではないかと思います。実際、遺跡の復元展示や想像図を見て、そういう建物や服装だったのかと思っているとそうでもなく、多分に想像の産物であったりもします。また、後述の捏造問題の影響を受けて回収・再版を余儀なくされた講談社の「縄文の生活史」では、旧石器時代の人の暮らしがかなり具体的、物語風に語られていましたが、捏造問題との関連もあってか、そういう書き方に批判的な人がいたのを覚えています。 学問的にスタンダードな叙述方法を良く知っているわけではありませんが、遺物の形式的変遷などを軸に書くのは普通ではないでしょうか。
但し、当時の人類の暮らしについて書く場合は2番目のことも考慮して、文化史のような項目をたてて、そこで語る手もあるかなと思いましたが、如何でしょう。
2番目は、確かにその通りです。歴史時代にしても鎌倉時代になったからといって1192年を境に人がすっかり変化するわけでもありませんし。しかし、それなりの時代区分が今現在用いられていますので、連続性のある主題は地域史や文化史などとして記述しても良いのではないかと考えます。
3番目ですが、実際個人の責任だけではないという意見は幾人かの研究者からでています。 大変広範囲な影響を持った事件ではありますし、ここであまり詳しく書きこむと現状ではバランスを失しかねませんので、いずれは独立させて徹底的に論ずるというのもありだと思います。
Tishitusekkiさんのお考えを100%理解しているかどうかわかりませんので、検討はずれのことだったら申し訳ありません。--sphl 14:41 2004年2月8日 (UTC)
- 長い間、ご無沙汰致しております。旧石器時代関連記事のリダイレクトについて色々教えて頂きましてありがとうございました。ウィキのリダイレクト関連文も読んで、大体、理解することができたと思っています。しかし、この頃記事を書いていない性もあって、「統合」「移動」を試行する機会がありませんので充分身に付いているかどうか分かりません。ありがとうございました。
- Kinori(以下Kさん)さんの問題に移ります。「日本史(日本の歴史)」の概略に書いた私の文を全部削除してしまいました。その理由として読んでもらうためにはスリム化する必要をあげています。そして、誰か他の人、旧石器時代に詳しい人書いて下さい、と書いています。全文を削除したのであればそれ相応の理由があるはずだのに、削除した理由を何も書いていません。何の理由も無いにもかかわらず、全文を削除したのです。Kさんは、何時から日本史関連の支配人になったのでしょうか。おまえの文はダメだから、他の奴に書かせる、といったどこかの三流新聞社のデスクのような大変横暴で専横な編集態度です。ウィキでは、管理者でもこういう態度はとらないことになっていると思います。また、「日本史」をスリム化しなければならないわけは何でしょうか。「日本史」よりも3~4倍ほどの分量の記事があります。例えば、「宗教」「キリスト教」「情報化社会」などです。特に「情報化社会」は、メインページで優れた記事に指定されています。これらの記事は分量が多くても読まれて「日本史」はスリム化しないと読まれないという理由は何でしょうか。Sph1さんは、Kさんのこのような編集態度をどう考えられますか。--Tishitusekki 15:05 2004年2月15日 (UTC)
Tishitusekkiさんご無沙汰です(なお、編集の都合上、字下げを戻します)。 まず、編集のことからお答えしたいと思います。 Wikipediaではページの編集は大胆に行うことを推奨しています。これは、一般の出版物と異なり、誰か一人が編集責任を負って記述内容を一定の方針に従って調整してから公表するといった手続きを取らず、とにかく書き換えて他の参加者の批判を乞うといった方法で記事の改訂を進めるための知恵だと理解しています。
- 当然、改訂が改良でなく改悪でになる場合も往々にしてあります。その場合他の執筆者が前の版に戻す(差し戻しする)でしょう。ここで改訂を行った人がその差し戻しを気に入らない場合、再び自分の書いた版にもどして以後繰り返し..といったrevert合戦が繰りひろげられることもままありますが、通常はなぜ改訂が必要と思うのか、あるいは改訂版が良くないと思うのかをノートで話し合って、一致点を見つけるということになります。
改訂(削除・書き換え、記事の移動など)自体は各執筆者に与えられた権利であり、特に一部の特権的な編集者がいるわけではありません。たとえ管理者の書いた記事であっても他の参加者が書き換えることは自由です。ベテラン執筆者の書いたものを参加1日目のIPユーザが直したのであっても、それが適切なものであれば誰も非難はしないでしょう(そもそもベテランと呼べる人でもせいぜい1年以下の活動歴しかないのです)。別な一面をいうと、投稿された記事は個人の貢献を履歴で明らかにしつつも共有物であり、それが改稿されることを止めることはできません。
ですから、誰かの記事を大幅に改稿しても、それは特別な権利に依るものではありませんし、以前の版の筆者を否定したり、貶めたりといった意味合いは無いのです。どうぞ御自分の執筆された部分を改稿されても気になさらず、大胆に再編集するなり、ノートで記事内容の改善について話し合いをしてください。
- 現実には内容的に対立のある記事の編集で、「要約」欄に侮蔑的な言葉を書いて改訂する例も見られますが、反面教師と見ていただくほうが良いと思います。これはWikipedia:基本方針とガイドラインにある「他の投稿者に敬意を払うこと」にも反します。
さて、日本史のスリム化の是非についてですが、もともとはノート:日本史にあるように
- 日本史の項目に今書いている分まで詳しく記述するなら、各時代の項目の必要性があまり感じられないのですが。Stanislaus 23:29 2004年1月11日 (UTC)
という提案に対してKinoriさんが
- 同感です。この調子でいくとものすごく大きなページになり、せっかく書いたものが読まれなくなりそうです。各時代の方が手薄になっている部分があるので、そういうのを大胆に移したらいいんじゃないかと思います。Kinori 12:18 2004年1月12日 (UTC)
と反応されたのが契機であるようです。 現在の日本史の記事の長さは限界に達しているというほどでは無いと思いますが、各時代の記事があるので重複すること、あるいは「日本史」の「概略」のほうが各時代の記事より詳しいという逆転現象を防ぐため、概略はあくまで概略にとどめ、詳細は各時代の記事に任せる、というお考えであって、単に日本史という記事そのものが長すぎるので短縮したい、というだけの理由ではないのではないかと読みました。
私は大項目主義のほうが読む時点としては適切だと思っているのですが、記事の構成とその執筆方針がどうあるべきか(ある程度各時代の記事が増えてから分離独立させるのか、最初から分けて執筆を進めるのかなど)は、その記事(あるいは分野)での主な執筆者の方々が話し合って決めれば良いと思いますし、それがWikipediaらしいとも思います。
Tishitusekiさんは、お書きになった石器時代の内容に関してかなり思い入れをお持ちかと思います。それを消去(移動)されたということで不快感を感じられたということはあると推察しますが、Wikipediaではそういう編集を受けることが避けられません。私自身もそういう経験はありますのでお気持ちは理解できますが、大勢の力でより良い記事を作っていくという風に気持ちを切り替えされて記事内容の改良のほうに力をお向けになるほうが良いのではないかと思います。
もしかしたら、Tishitusekkiさんの気持ちを的確に汲みかねているかもしれませんが、とりあえず今晩は以上のような話でご質問の回答とさせていただきます。不足な点がありましたら再度コメントをください。--sphl 16:46 2004年2月15日 (UTC)
- 一週間のご無沙汰です。返事が遅れがちで申し訳ないです。丁寧なコメントをありがとうございます。--Tishitusekki 01:38 2004年2月22日 (UTC)
2万年前の日本の海岸線・高度地図と本文解説の違いについて
[編集]最近の研究では氷河期の最寒期でも日本列島と大陸が陸続きになることはなかったようです。2万年前の日本の海岸線・高度地図(挿絵)と本文解説の間には明らかに違いがあります。どなたかより専門的な知識と文献等引用が可能な方の本文解説修正を希望します。本文では2万年前は陸続きとなっていたと解説されていますが、挿絵では大陸と日本の間に海があります。最近の研究では陸続きになることはなかったが主流のようです。
- リクエストの根拠となる参照リンク
--BehBeh 2009年11月30日 (月) 07:52 (UTC)
- 情報 リンク切れとなっている上記投稿の「リクエストの根拠となる参照リンク」は2024年7月現在、以下のウェブアーカイブで内容を確認できます。
- 高原山遺跡で原石加工 「日本人どこから?」に一石 (2007-04-14) - 文化一般 - 文化・芸能|asahi.com https://web.archive.org/web/20090505164250/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200704140116.html
- 高原山黒曜石産地遺跡群で国内最古の採掘坑 後期旧石器後半と確認 (2008-02-23)|MSN産経ニュース https://web.archive.org/web/20080302102926/https://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tochigi/080223/tcg0802230224002-n1.htm
- 1つ目の2007年(平成19年)4月の朝日新聞記事では矢板市教育委員会による高原山黒曜石原産地遺跡群の調査で高原山黒曜石原産地遺跡群剣ヶ峯地区遺跡調査指導委員会代表をつとめた考古学者の小野昭氏(cf. 国武貞克「栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群の調査」(2010))による解説が、「『日本人の祖先は、舟に乗って日本列島にやってきたということですよ』 黒曜石の石器は、関東地方の3万年以上前の後期旧石器時代の早い時期の遺跡で多く見つかっている。そこには伊豆諸島・神津島産の黒曜石も含まれている。氷河期でも伊豆半島と陸続きになったことはない。」「どうやって人類が日本列島に渡ってきたのかは大きな謎だ。獲物を追いかけ大陸から来たと考え、陸続きだった時期を割り出す研究もあった。しかし、氷河期の最寒期でも対馬、津軽両海峡は干上がることはなかったことが分かってきた。」と紹介されています。--Yumoriy(会話) 2024年7月28日 (日) 14:52 (UTC)
- 情報 リンク切れとなっている上記投稿の「リクエストの根拠となる参照リンク」は2024年7月現在、以下のウェブアーカイブで内容を確認できます。
分割提案
[編集]「高原山黒曜石原産地遺跡群」の節を「高原山黒曜石原産地遺跡群」単独記事に。この項目のみ単独の遺跡について詳細な情報が集められている為。--Peachkiller 2011年6月3日 (金) 02:30 (UTC)
- 分割しました。--Peachkiller 2011年7月6日 (水) 09:01 (UTC)
中期旧石器時代 = 旧人か
[編集]中期旧石器時代の板だとすると「旧人が工作した板ということになる」という記述は2004年1月10日04:36(UTC)の版が初出のようですが、中期旧石器時代には(東アジアに分布していたかどうかは別として)すでに新人が出現していたのではないでしょうか。
なお、記述対象が明石原人と重複しており、ノート:明石原人#「旧人説」でこの疑問を提起させていただいております。議論の集約のため、ご指摘・ご説明・ご意見等はそちらでいただけると幸いです。 --KAWASAKI Hiroyuki(会話) 2012年5月25日 (金) 18:49 (UTC)
「2.1 前・中期旧石器の発掘」の内容に関する感想/質問/意見
[編集]表題部分の記述に、読んでいて分かりづらいと感じる箇所がありました。
- 該当文章(1):しかし、数は少ないものの、近年の考古学研究の発展により、金取遺跡(9~8万年前]から中期旧石器が、砂原遺跡(約12万年前)では前期旧石器などの遺物が発見されている。
- 該当文章(2):2009年現在、日本の旧石器で層位が間違いなく確認でき、最も古いもので、4万年前まで遡るかどうかといった状況である。
(1)では9万年前や12万年前の遺跡が見つかったとありますが、(2)では間違いなく確認できる遺跡は4万年前までのものだとあり、(2)は(1)を否定しているように読み取れます。
実際のところはどうなのでしょうか。
もしくは細かい経緯等がありどちらの記述も間違いではないのでしたら、説明を付け加えるなどして分かりやすい記述にしたほうが読む際に混乱がなくよいと思います。
--Keepsake(会話) 2013年3月31日 (日) 05:13 (UTC)
「石器」捏造事件の記述
[編集]捏造の対象が石器であることは理解していますが、ここに記述する必要はないと思います。
書くならば、別の項目を作成し、そこに移動すべきです。--真田 悠希(会話) 2022年10月16日 (日) 14:54 (UTC)