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「日本列島の旧石器時代」の版間の差分

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'''日本の旧石器時代'''は、3万年前を遡らない考えられてきたが最近て長崎県平戸市入口遺跡で約10万年前を遡る地層その中から石器が発見さた。'''中期旧石器時代'''まで遡る可能性が出てきた
'''日本の旧石器時代'''(にほんのきゅうせっきじだい)は、日本列島への人類居住ともに始まり[[縄文時代]]の到来ととも終わた時代である。遺跡・遺物確認できる開始期は、新しくみて3万年前、古くとれば約10万年前に遡る。


===時代区分===
===研究史===
日本では、縄文時代より前の時代を先土器時代とか無土器時代とかいう。このような名で呼ばれていたのは、日本で土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されなかったも影響してい石器が見つかっていてもれが人類作った石器であることを認識できなかったのであろう。ところ、[[1949年]]([[昭和24年]])の[[群馬県]]新田郡笠懸村岩宿(にったぐんかさがけむらいわじゅく)での相沢忠洋(あいざわただひろ)によって関東ローム層中かの旧石器が発見さた。そのことが日本列島の旧石器時代の調査・研究をめざまし進展させ。北海道から九州にかけ5000カ所を超える遺跡が確認されている。れら遺跡のほとんどが約3万年前から1、2万年前の後期旧石器時代に残されたものである<br>
日本では、縄文時代より前の時代を先土器時代とか無土器時代とかいう。日本で土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられてい。そのため縄文時代以前地層考古学者によって調べられことはな、長きにわてこの学説は覆されなかった。


[[1949年]](昭和24年)に、[[相沢忠洋]]が、[[群馬県]][[新田郡]][[笠懸村]]岩宿で関東ローム層中から旧石器を発見した。日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。現在までに、北海道から九州にかけて5000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1、2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。
===人びとのくらし===
日本列島の旧石器時代の遺跡は、台地・段丘・丘陵・高原などの見晴らしの良い洪積世の台地縁辺にあることが多い。旧石器時代人は、一定の生活領域内を移動しながら'''採集狩猟生活'''をしていたと考えられている。<br>日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などがある。住居跡の出土例は少ない。2万2000年前の木材を組み木にして草や皮で覆っている'''竪穴住居'''が見つかっている。調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉などがあり、熱のために赤色化していたことで'''火'''が使われていたがわかる。土坑の形態は多様で、貯蔵穴か、分かっていない。礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化していて、調理施設に関連したものと考えられている。一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考えられている。<br>そのほか、死者を埋葬する'''土壙墓'''が見つかっている。死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこにベンガラ(<!---黄土を焼いて造る赤い--->顔料、べにがら)が残っているものがある。シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋葬する習俗が遅くとも2万年前にはできていたらしい。呪術的なものとしてつくられたらしい高さ約9センチ、幅2~3センチの「こけし」形の'''石偶'''(せきぐう)が出土している。また、礫に細い線で動物を描いたもの(線刻礫)も見つかっている。旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中している箇所が複数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、土坑、墓坑などで構成されている場合が多い。'''集落の規模と構成'''はまだ分かっていない。<br>旧石器時代にどの程度の'''漁労活動'''が行われていたのだろうか。<br>伊豆諸島の黒曜石が南関東で出土しており、同諸島で細石刃が発見されている。最終氷期の時は、海水面が氷河の発達によって50~150メートルほど低かったことなどを考え合わせれば、旧石器人も何らかの'''航海技術'''や海上交通の手段をもっていたことが想像できる。また、水産資源の利用も行っていたと予測できる。キャンプ地の近辺を流れる河川での漁労も考えられる。日本の旧石器文化がシベリアとの強い関連性があることが分かっている。そのシベリアで石器だけでなく骨製品が多数出土しており、その中に固定式のヤスや離頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。日本は酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、日本でもヤス、銛による刺突漁が行われていたと推測できる。さらに、河川や湖沼での'''原始的な漁法'''が行われていたと考えられる。


[[1980年代]]から、東北地方を中心に、前期旧石器時代・中期旧石器時代が日本に存在したという証拠が次々に発見された。発見の中心人物は藤村新一で、従来の常識を覆す成果を次々にあげた。しかし、[[1999年]]10月に、藤村が発掘現場に石器を埋めるところを[[毎日新聞]]取材班が目撃・撮影し、11月に旧石器発掘捏造を報じた。その後の調査で藤村が関与した遺跡のすべてが疑わしいものとされ、前期旧石器時代・中期旧石器時代の確実な遺跡は日本には存在しなくなった。
===前・中期旧石器文化===
日本列島では、後期旧石器時代を遡る確実な人類化石は知られていない。しかし、最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は各地から報告されており、そうした動物を追って大陸の旧石器人が日本列島へ移動してきた可能性は充分考えられる。つまり、原人段階の人類が残した旧石器文化の存在さえも想像される。この期の遺跡の調査例は少ない。石器や生活道具類が発見される程度である。短期間の移動生活をしていたのではないかと推測される。<br>


[[2003年]]12月に、[[長崎県]][[平戸市]]入口遺跡で約10万年前の地層の中から石器が発見された。これにより、列島最古の居住痕跡は、中期旧石器時代まで遡る可能性が出てきている。
===後期旧文化===
'''①ナイフ形石器文化''' 新人は、石器の素材となる細長い剥片(石刃)を連続的に打ち剥がす石刃(せきじん)技法と呼ばれる剥片剥離技術を取得した。日本列島でも石刃技法を使って、日本に固有なナイフ形石器文化が生まれ。ナイフ形石器は、現在のナイフに形が似ていることから名づけられた。切り出し小刀のような形で鋭い刃を持つ刺突(しとつ)形とナイフのような切載(せっさい)形との二つに分かれる。刺突形のナイフ形石器が'''槍先'''として用いられたのに対して、切載型のナイフ形石器は、'''加工具'''として用いられたと推測されている。後期旧石器時代を特徴づける石刃技法とナイフ形石器が、日本列島に広がりをみせる。石器の種類はナイフ形石器をはじめ、掻器、削器、彫器、錐、楔形石器、台形石器、刃部磨製石斧、敲石、などが認められ、'''生産用具'''の中でも中心的な位置を占めるようになり、'''用途に応じ道具の使い分け'''が確立されていく。刺突具として'''主要な生活用具'''になっていく石器が登場する
この後、地域で特色のある石刃技法が発達し、高度な技法へと発達してゆく。また、石刃技法が遠隔地まで伝播したり、輸入されたり、集団の移動を思わせる現象も見られる。1.5万年前頃に、黒曜石を用いた片面・両面調整の小型尖頭器が現れ、続いて両面調整の木葉型尖頭器が現れる。ナイフ形石器文化終末を迎え<br>
'''②細石刃文化''' 細石刃(さいせきじん)とは長さ2・3センチ、幅5ミリ前後の小型の石刃で、それをいくつか骨や木の軸に掘られた溝に埋め込んで植刃器や尖頭器として用いられたものである。石器としては'''究極の万能石器'''と言われている。細石刃文化は、日本列島に一気に広がった。
日本ではいつ頃から細石刃文化が出現するのか、正確な年代は分かっていない。本州では細石刃文化の最も古い年代は1万4300年前と測定され、1万2000年前頃、細石刃文化は終末を迎えるようである。この時期の遺跡は、北海道から九州まで約500ヵ所ほど知られている。特に遺跡密度が高いのは北海道と九州で、近畿地方では遺跡数が極端に少ない。石材は黒曜石、砂岩、チャート、流紋岩、ガラス質安山岩、硬質頁岩など、その地域で利用できる岩石が用いられている。日本列島の細石刃文化は、巨視的には東日本と西日本という二極構造で展開した。<br>


===木の文化===
===住居と墓制===
石器時代の文化といえば、石器を思い浮かべるが、日本列島の豊かな森林資源を忘れてはならない。これまでに、'''板状の木製品'''と'''木の柱を使った住居跡'''が見つかっている。一つ目は、12~5万年前の砂礫層の中からハリグワという広葉樹用いた板状の製品が出土している。用途はまだ分かっていない。この砂礫層の年代の板だとすと、'''中期旧石器時代'''の板ということなり、[[旧人]]が工作した板ということになるが二つ目は、約2万2000年前の形の整った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴住居が検出された。外周に柱穴をもつもので径10センチぐらいの材を20本近く、斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施している。この住居跡からは、構造がよく分かったうえにサヌカイト性のナイフ形石器や翼状の剥片が約200点も一緒に出土している。<br>
竪穴住居といえば縄文時代や弥生時代の住居形態を想起するが、竪穴住居が旧石器時代に遡っただけでなく旧石器時代人が石器だけでなく木を使っていたことが分かってきた。木に石器を取り付ければ、鍬・斧・槍・矢・スコップなどの生産用具をつくることができ、生産効率を高めることが出来る。径10センチの木材なら、今の建築材料の柱の太さとそうかわらない。それを20本もだから、木の柄の付いた斧で木を倒したのだろうか。木を使った旧石器人の想像はつきない


日本列島の旧石器時代の遺跡は、台地・段丘・丘陵・高原などの見晴らしの良い洪積世の台地縁辺にあることが多い。
===土器の出現===

この細石刃文化の後に、シベリア方面から大型の磨製石斧と大型の槍先尖頭器(石槍)を特徴とする石器群が樺太から北海道という北のルートを渡ってきた。その時期は、日本列島が完全に大陸から離れて島国となる直前、約1万3000年前のことである。これらの石器を「渡来石器」といい、縄文文化成立の契機になったとされている。「渡来石器」に伴って本州で無文土器が出土している。これらの土器も日本列島にもたらされた可能性が高い。発生期の土器の用途については十分解明されているとは言い難いが、北部九州の遺跡から出土した土器の内部に炭化物が付着した例が認められることから、'''煮炊きに使用した'''ことが考えられる。
日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などがある。定住住居跡の出土例が少ないことから、旧石器時代人は、一定の生活領域内を移動しながら採集狩猟生活をしていたと考えられている。。

22000年前の木材組みて草や皮で覆っている竪穴住居が見つかっている。形の整った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴住居である。外周に柱穴をもつもので径10センチぐらいの材を20本近く、斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施している。この住居跡からは、構造がよく分かったうえにサヌカイト性のナイフ形石器や翼状の剥片が約200点も一緒に出土している。

調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉などがあり、熱のために赤色化していたことで火が使われていたがわかる。土坑の形態は多様で、貯蔵穴か、分かっていない。礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化していて、調理施設に関連したものと考えられている。一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考えられている。

そのほか、死者を埋葬する土壙墓が見つかっている。死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこにベンガラ(<!---黄土を焼いて造る赤い--->顔料、べにがら)が残っているものがある。シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋葬する習俗が遅くとも2万年前にはできていたらしい。呪術的なものとしてつくられたらしい高さ約9センチ、幅2~3センチの「こけし」形の石偶(せきぐう)が出土している。また、礫に細い線で動物を描いたもの(線刻礫)も見つかっている。旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中している箇所が複数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、土坑、墓坑などで構成されている場合が多い。集落の規模と構成はまだ分かっていない。

日本列島では、後期旧石器時代を遡る確実な人類化石は知られていない。しかし、最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は各地から報告されており、そうした動物を追って大陸の旧石器人が日本列島へ移動してきた可能性は充分考えられる。つまり、原人段階の人類が残した旧石器文化の存在さえも想像される。この期の遺跡の調査例は少ない。石器や生活道具類が発見される程度である。短期間の移動生活をしていたのではないかと推測される。

===道具===

====ナイフ形石器文化====
後期旧石器時代は、新人の時代である。彼らは、石器の素材となる細長い剥片(石刃)を連続的に打ち剥がす石刃(せきじん)技法と呼ばれる剥片剥離技術を取得した。日本列島でも石刃技法を使って、日本に固有なナイフ形石器文化が生まれ。ナイフ形石器は、現在のナイフに形が似ていることから名づけられた。切り出し小刀のような形で鋭い刃を持つ刺突(しとつ)形とナイフのような切載(せっさい)形との二つに分かれる。刺突形のナイフ形石器が槍先として用いられたのに対して、切載型のナイフ形石器は、加工具として用いられたと推測されている。後期旧石器時代を特徴づける石刃技法とナイフ形石器が、日本列島に広がりをみせた。

石器の種類はナイフ形石器をはじめ、掻器、削器、彫器、錐、楔形石器、台形石器、刃部磨製石斧、敲石、などが認められ、生産用具の中でも中心的な位置を占めるようになり、用途に応じた道具の使い分けが確立されていった。刺突具として主要な生活用具になっていく石器が登場した。

この後、地域で特色のある石刃技法が発達し、高度な技法へと発達してゆく。また、石刃技法が遠隔地まで伝播したり、輸入されたり、集団の移動を思わせる現象も見られる。1万5千年前頃に、黒曜石を用いた片面・両面調整の小型尖頭器が、続いて両面調整の木葉型尖頭器が現れナイフ形石器文化終末を迎え

====細文化====
細石刃(さいせきじん)とは長さ2・3センチ、幅5ミリ前後の小型の石刃で、それをいくつか骨や木の軸に掘られた溝に埋め込んで植刃器や尖頭器として用いられたものである。石器としては究極の万能石器と言われている。細石刃文化は、日本列島に一気に広がった。

日本ではいつ頃から細石刃文化が出現するのか、正確な年代は分かっていない。本州では細石刃文化の最も古い年代は1万4300年前と測定され、1万2000年前頃、細石刃文化は終末を迎えるようである。この時期の遺跡は、北海道から九州まで約500ヵ所ほど知られている。特に遺跡密度が高いのは北海道と九州で、近畿地方では遺跡数が極端に少ない。石材は黒曜石、砂岩、チャート、流紋岩、ガラス質安山岩、硬質頁岩など、その地域で利用できる岩石が用いられている。日本列島の細石刃文化は、巨視的には東日本と西日本という二極構造で展開した。

====土器の出現====
この細石刃文化の後に、シベリア方面から大型の磨製石斧と大型の槍先尖頭器(石槍)を特徴とする石器群が樺太から北海道という北のルートを渡ってきた。その時期は、日本列島が完全に大陸から離れて島国となる直前、約1万3000年前のことである。これらの石器を「渡来石器」といい、縄文文化成立の契機になったとされている。「渡来石器」に伴って本州で無文土器が出土している。これらの土器も日本列島にもたらされた可能性が高い。発生期の土器の用途については十分解明されているとは言い難いが、北部九州の遺跡から出土した土器の内部に炭化物が付着した例が認められることから、煮炊きに使用したことが考えられる。

====木器====
木器は遺物として残りにくいが、約12~5万年前の砂礫層の中からハリグワという広葉樹を用いた板状の木製品が出土している。用途はまだ分かっていない。この砂礫層の年代の板だとすると、中期旧石器時代の板ということなり、[[旧人]]が工作した板ということになる。

木に石器を取り付ければ、鍬・斧・槍・矢・スコップなどの生産用具をつくることができ、生産効率を高めることが出来る。径10センチの木材なら、今の建築材料の柱の太さとそうかわらない。それを20本もだから、木の柄の付いた斧で木を倒したのだろうか。

===食料の獲得===

旧石器時代人は、主として狩猟によって食料を得ていた。当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの大型哺乳動物の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中・小哺乳動物の骨が発見されている。そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・サイトも発見されている。このように、旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩人たちであったと思われる。竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないのは、旧石器時代人がキャンプ生活をしながら移動を繰り返していたからだとも推定されている。

漁労の直接的な証拠は発見されていないが、そのような活動があっただろうとは推測されている。まず、伊豆諸島の黒曜石が南関東で出土しており、同諸島で細石刃が発見されている。ここから、旧石器人も何らかの航海技術や海上交通の手段をもっていたことが想像できる。さらに、日本の旧石器文化がシベリアとの強い関連性があることが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。日本は酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていた可能性がある。

縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中で大きな比重を占めていたが、旧石器時代の人々にはそうではなかったようだ。ナイフ形石器、槍先形尖頭器、細石刃、有茎尖頭器、石槍というような狩猟具狩猟のための道具は発達したが、木や草の実の保存、加工、調理のための用具が見当たらない。

===更新世(洪積世)の人類化石===
日本列島に旧石器時代の動物化石は多く、人類の化石はごく稀である。[[更新世]]人類とされる[[化石]]の産出地が12カ所ほど報告されている。これらの人骨の化石は、約3万年より以前のものとれるが、多くの疑問出されている。国立科学博物館の資料によると、明石・葛生・牛川・三ヶ日・聖岳の各人骨は、かつて言われていたよりもずっと新しい時期のものか、人骨で無いものである可能性が高いという。


===更新世(洪積世)の人類===
[[更新世]]人類とされる[[化石]]の産出地が12カ所ほど報告されている。
これらの人骨の化石は、約3万年より以前のものと思わているが、通説とはなっていない。多くの疑問出されており、'''外部リンク'''で示した国立科学博物館の資料によると、明石・葛生・牛川・三ヶ日・聖岳の各人骨は、かつて言われていたよりもずっと新しい時期のものか、人骨で無いものである可能性が高いという。
#静岡県[[浜北市]]岩水寺(がんすいじ)
#静岡県[[浜北市]]岩水寺(がんすいじ)
#大分県大野郡清川村岩戸遺跡(きよかわむらいわと)
#大分県大野郡清川村岩戸遺跡(きよかわむらいわと)
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#沖縄県島尻郡具志頭村港川(しまじりぐんぐしがみむら)
#沖縄県島尻郡具志頭村港川(しまじりぐんぐしがみむら)
#沖縄県[[那覇市]]山下町洞穴
#沖縄県[[那覇市]]山下町洞穴

===前期中期旧石器時代捏造問題===
[[1980年代]]から、日本にも東北地方を中心に、前期旧石器時代・中期旧石器時代が存在したという証拠遺跡が発見され、歴史教科書にも記載されていたことがあった。しかし[[1999年]][[12月]]、これらの遺跡(石器)は、ある人物が別途採取して事前に埋め込むという捏造であったことが判明し、次々と国や地方自治体の文化財登録が取り消され、また教科書の記述が削除された。その結果、前期旧石器時代・中期旧石器時代の確実な遺跡は日本には存在しない、というのが現時点での考古学の知見である。<br>前・中期旧石器問題調査研究特別委員会委員長は「捏造をチェックできなかったのは、学界が怠慢であり、力不足であったということに尽きるが、これで学問的決着はついた。」と語った。旧石器時代研究会が発足した。





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===外部リンク===
===外部リンク===
[http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/6/index.html 国立科学博物館]
[http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/6/index.html 国立科学博物館]


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2004年1月22日 (木) 12:58時点における版

日本の旧石器時代(にほんのきゅうせっきじだい)は、日本列島への人類居住とともに始まり、縄文時代の到来とともに終わった時代である。遺跡・遺物で確認できる開始期は、新しくみて約3万年前、古くとれば約10万年前に遡る。

研究史

日本では、縄文時代より前の時代を先土器時代とか無土器時代とかいう。日本では土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。そのため縄文時代以前の地層が考古学者によって調べられることはなく、長きにわたってこの学説は覆されなかった。

1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、群馬県新田郡笠懸村岩宿で関東ローム層中から旧石器を発見した。日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。現在までに、北海道から九州にかけて5000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1、2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。

1980年代から、東北地方を中心に、前期旧石器時代・中期旧石器時代が日本に存在したという証拠が次々に発見された。発見の中心人物は藤村新一で、従来の常識を覆す成果を次々にあげた。しかし、1999年10月に、藤村が発掘現場に石器を埋めるところを毎日新聞取材班が目撃・撮影し、11月に旧石器発掘捏造を報じた。その後の調査で藤村が関与した遺跡のすべてが疑わしいものとされ、前期旧石器時代・中期旧石器時代の確実な遺跡は日本には存在しなくなった。

2003年12月に、長崎県平戸市入口遺跡で約10万年前の地層の中から石器が発見された。これにより、列島最古の居住痕跡は、中期旧石器時代まで遡る可能性が出てきている。

住居と墓制

日本列島の旧石器時代の遺跡は、台地・段丘・丘陵・高原などの見晴らしの良い洪積世の台地縁辺にあることが多い。

日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などがある。定住住居跡の出土例が少ないことから、旧石器時代人は、一定の生活領域内を移動しながら採集狩猟生活をしていたと考えられている。。

約2万2000年前の木材を組み木にして草や皮で覆っている竪穴住居が見つかっている。形の整った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴住居である。外周に柱穴をもつもので径10センチぐらいの材を20本近く、斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施している。この住居跡からは、構造がよく分かったうえにサヌカイト性のナイフ形石器や翼状の剥片が約200点も一緒に出土している。

調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉などがあり、熱のために赤色化していたことで火が使われていたがわかる。土坑の形態は多様で、貯蔵穴か、分かっていない。礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化していて、調理施設に関連したものと考えられている。一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考えられている。

そのほか、死者を埋葬する土壙墓が見つかっている。死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこにベンガラ(顔料、べにがら)が残っているものがある。シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋葬する習俗が遅くとも2万年前にはできていたらしい。呪術的なものとしてつくられたらしい高さ約9センチ、幅2~3センチの「こけし」形の石偶(せきぐう)が出土している。また、礫に細い線で動物を描いたもの(線刻礫)も見つかっている。旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中している箇所が複数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、土坑、墓坑などで構成されている場合が多い。集落の規模と構成はまだ分かっていない。

日本列島では、後期旧石器時代を遡る確実な人類化石は知られていない。しかし、最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は各地から報告されており、そうした動物を追って大陸の旧石器人が日本列島へ移動してきた可能性は充分考えられる。つまり、原人段階の人類が残した旧石器文化の存在さえも想像される。この期の遺跡の調査例は少ない。石器や生活道具類が発見される程度である。短期間の移動生活をしていたのではないかと推測される。

道具

ナイフ形石器文化

後期旧石器時代は、新人の時代である。彼らは、石器の素材となる細長い剥片(石刃)を連続的に打ち剥がす石刃(せきじん)技法と呼ばれる剥片剥離技術を取得した。日本列島でも石刃技法を使って、日本に固有なナイフ形石器文化が生まれた。ナイフ形石器は、現在のナイフに形が似ていることから名づけられた。切り出し小刀のような形で鋭い刃を持つ刺突(しとつ)形とナイフのような切載(せっさい)形との二つに分かれる。刺突形のナイフ形石器が槍先として用いられたのに対して、切載型のナイフ形石器は、加工具として用いられたと推測されている。後期旧石器時代を特徴づける石刃技法とナイフ形石器が、日本列島に広がりをみせた。

石器の種類はナイフ形石器をはじめ、掻器、削器、彫器、錐、楔形石器、台形石器、刃部磨製石斧、敲石、などが認められ、生産用具の中でも中心的な位置を占めるようになり、用途に応じた道具の使い分けが確立されていった。刺突具として主要な生活用具になっていく石器が登場した。

この後、地域で特色のある石刃技法が発達し、高度な技法へと発達してゆく。また、石刃技法が遠隔地まで伝播したり、輸入されたり、集団の移動を思わせる現象も見られる。1万5千年前頃に、黒曜石を用いた片面・両面調整の小型尖頭器が、続いて両面調整の木葉型尖頭器が現れ、ナイフ形石器文化は終末を迎えた。

細石刃文化

細石刃(さいせきじん)とは長さ2・3センチ、幅5ミリ前後の小型の石刃で、それをいくつか骨や木の軸に掘られた溝に埋め込んで植刃器や尖頭器として用いられたものである。石器としては究極の万能石器と言われている。細石刃文化は、日本列島に一気に広がった。

日本ではいつ頃から細石刃文化が出現するのか、正確な年代は分かっていない。本州では細石刃文化の最も古い年代は1万4300年前と測定され、1万2000年前頃、細石刃文化は終末を迎えるようである。この時期の遺跡は、北海道から九州まで約500ヵ所ほど知られている。特に遺跡密度が高いのは北海道と九州で、近畿地方では遺跡数が極端に少ない。石材は黒曜石、砂岩、チャート、流紋岩、ガラス質安山岩、硬質頁岩など、その地域で利用できる岩石が用いられている。日本列島の細石刃文化は、巨視的には東日本と西日本という二極構造で展開した。

土器の出現

この細石刃文化の後に、シベリア方面から大型の磨製石斧と大型の槍先尖頭器(石槍)を特徴とする石器群が樺太から北海道という北のルートを渡ってきた。その時期は、日本列島が完全に大陸から離れて島国となる直前、約1万3000年前のことである。これらの石器を「渡来石器」といい、縄文文化成立の契機になったとされている。「渡来石器」に伴って本州で無文土器が出土している。これらの土器も日本列島にもたらされた可能性が高い。発生期の土器の用途については十分解明されているとは言い難いが、北部九州の遺跡から出土した土器の内部に炭化物が付着した例が認められることから、煮炊きに使用したことが考えられる。

木器

木器は遺物として残りにくいが、約12~5万年前の砂礫層の中からハリグワという広葉樹を用いた板状の木製品が出土している。用途はまだ分かっていない。この砂礫層の年代の板だとすると、中期旧石器時代の板ということなり、旧人が工作した板ということになる。

木に石器を取り付ければ、鍬・斧・槍・矢・スコップなどの生産用具をつくることができ、生産効率を高めることが出来る。径10センチの木材なら、今の建築材料の柱の太さとそうかわらない。それを20本もだから、木の柄の付いた斧で木を倒したのだろうか。

食料の獲得

旧石器時代人は、主として狩猟によって食料を得ていた。当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの大型哺乳動物の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中・小哺乳動物の骨が発見されている。そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・サイトも発見されている。このように、旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩人たちであったと思われる。竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないのは、旧石器時代人がキャンプ生活をしながら移動を繰り返していたからだとも推定されている。

漁労の直接的な証拠は発見されていないが、そのような活動があっただろうとは推測されている。まず、伊豆諸島の黒曜石が南関東で出土しており、同諸島で細石刃が発見されている。ここから、旧石器人も何らかの航海技術や海上交通の手段をもっていたことが想像できる。さらに、日本の旧石器文化がシベリアとの強い関連性があることが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。日本は酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていた可能性がある。

縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中で大きな比重を占めていたが、旧石器時代の人々にはそうではなかったようだ。ナイフ形石器、槍先形尖頭器、細石刃、有茎尖頭器、石槍というような狩猟具狩猟のための道具は発達したが、木や草の実の保存、加工、調理のための用具が見当たらない。

更新世(洪積世)の人類化石

日本列島に旧石器時代の動物化石は多く、人類の化石はごく稀である。更新世人類とされる化石の産出地が12カ所ほど報告されている。これらの人骨の化石は、約3万年より以前のものとされるが、多くの疑問も出されている。国立科学博物館の資料によると、明石・葛生・牛川・三ヶ日・聖岳の各人骨は、かつて言われていたよりもずっと新しい時期のものか、人骨で無いものである可能性が高いという。

  1. 静岡県浜北市岩水寺(がんすいじ)
  2. 大分県大野郡清川村岩戸遺跡(きよかわむらいわと)
  3. 沖縄県宜野湾市大山洞穴(ぎのわん)
  4. 沖縄県国頭郡伊江村真謝カタ原洞穴(くにがみぐんいえむらまじゃかたばる)
  5. 沖縄県中頭郡茶谷村桃原洞穴(なかがみぐんちゃたんむらとうばる)
  6. 沖縄県島尻郡具志頭村港川(しまじりぐんぐしがみむら)
  7. 沖縄県那覇市山下町洞穴


関連事項

外部リンク

国立科学博物館