「高原山黒曜石原産地遺跡群」の版間の差分
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2011年7月6日 (水) 08:57時点における版
高原山黒曜石原産地遺跡群
遺跡の発見者である田村隆(千葉県立中央博物館歴史学研究科長)は、当時の人間の知的レベルは低く石材は拾うしかないという通説から、20年もの間、千葉県出土の石器の産地を求め関東地方の河原を探し続けたが手がかりは薄く、国武貞克(当時城西大講師、現奈良文化財研究所)の提案[1][2]により2002年に石器そのものの原産地の探索を始めた。その結果当遺跡群が2005年に発見された[3][4]。
この遺跡は当時の北関東の森林限界を400mも超える標高1,500m近い高地[5]にある。また高原山は黒曜石だけではなく、更新世末期当時の関東地方東部で使用されることの多かった石刃製ナイフの原料となる珪質頁岩を含む緑色凝灰岩の産地でもある。那珂川支流荒川にある高原山の基盤である第三紀中新世の緑色凝灰岩の露頭から採取された石器を旧石器人が古鬼怒川沿いに南は房総半島の嶺岡山地の間約200km以上にも及ぶ長い領域の間を移動しながら使用していたことがわかっている。[5][6][7]==== 高原山黒曜石原産地遺跡群====
遺跡の発見者である田村隆(千葉県立中央博物館歴史学研究科長)は、当時の人間の知的レベルは低く石材は拾うしかないという通説から、20年もの間、千葉県出土の石器の産地を求め関東地方の河原を探し続けたが手がかりは薄く、国武貞克(当時城西大講師、現奈良文化財研究所)の提案[8][9]により2002年に石器そのものの原産地の探索を始めた。その結果当遺跡群が2005年に発見された[10][11]。
この遺跡は当時の北関東の森林限界を400mも超える標高1,500m近い高地[5]にある。また高原山は黒曜石だけではなく、更新世末期当時の関東地方東部で使用されることの多かった石刃製ナイフの原料となる珪質頁岩を含む緑色凝灰岩の産地でもある。那珂川支流荒川にある高原山の基盤である第三紀中新世の緑色凝灰岩の露頭から採取された石器を旧石器人が古鬼怒川沿いに南は房総半島の嶺岡山地の間約200km以上にも及ぶ長い領域の間を移動しながら使用していたことがわかっている。[5][12][13]
- ^ 遺跡発見のきっかけとなった矢板岳友会/大入道コース説明ページ 2000/11/30作成
- ^ 遺跡発見のきっかけとなった矢板岳友会ホームページ
- ^ 栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群の発見とその評価
- ^ 千葉県立中央博物館/出土遺物巡回展・房総発掘ものがたり
- ^ a b c d 季刊・東北学2008年第15号『高原山黒曜石原産地遺跡の発掘』P27-45より、国武貞克著
- ^ 27000年前の黒曜石石器遺跡と高原山←→房総半島移動狩猟記事/千葉県鎌ヶ谷市五本松遺跡出土/千葉県立中央博物館
- ^ 後期旧石器時代の石器石材はどこから運ばれてきたのか/千葉県立中央博物館
- ^ 遺跡発見のきっかけとなった矢板岳友会/大入道コース説明ページ 2000/11/30作成
- ^ 遺跡発見のきっかけとなった矢板岳友会ホームページ
- ^ 栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群の発見とその評価
- ^ 千葉県立中央博物館/出土遺物巡回展・房総発掘ものがたり
- ^ 27000年前の黒曜石石器遺跡と高原山←→房総半島移動狩猟記事/千葉県鎌ヶ谷市五本松遺跡出土/千葉県立中央博物館
- ^ 後期旧石器時代の石器石材はどこから運ばれてきたのか/千葉県立中央博物館