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ノート:中華人民共和国によるチベット併合

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移動提案

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この記事の「統計」と「余波」の節をチベット動乱に移しませんか?

  • 理由その1:この統計はチベット動乱全体の数字を表しており、一方でチベット動乱にこのデータが無い。
  • 理由その2:この統計はほとんどが1952年以降のものと思われます。理由は本記事の参考文献に挙げたユン・チアン、マイケル・ダナム、ペマ・ギャルポ、ロラン・デエのどれか1冊をお読み頂ければ分かると思います。--Freetrashbox 2008年5月21日 (水) 16:55 (UTC)[返信]

元記事を英語版から翻訳した者ですが、その点は確かに気になっていました。特に「統計」についてはまったくおっしゃる通りだと思います。「余波」については、こちらに残した方がよい部分もあるような気もしますが。--studio-rain 2008年5月22日 (木) 04:17 (UTC)[返信]

お返事、ありがとうございます。もう少し待って異論が出なければ「統計」の節だけ移動します。「余波」はこのままここに残しましょう。最初の1文(「2006年には・・・」)だけは「統計」がなくなると意味分からなくなるので、いっしょに連れて行きます。--Freetrashbox 2008年5月25日 (日) 04:46 (UTC)[返信]

移動をしました。--Freetrashbox 2008年5月31日 (土) 05:25 (UTC)[返信]

この記事で扱う範囲について

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ウィキペディア日本語版には近現代のチベット問題に関する記事がいくつかありますので、この記事では1950年~1951年に限定した形で書いた方がいいと思うのですが、どうでしょうか。例えば「反乱開始」の節以降は、チベット動乱か、カム反乱か、1959年のチベット蜂起に書いた方がよいと思います。「この話は1951年で終わりじゃないよ」というのは書いておいたほうがいいと思いますが、あまり詳しく書くと、これらの記事とかぶってしまい、あとの保守が大変です。--Freetrashbox 2008年6月15日 (日) 16:03 (UTC)[返信]

議論対象箇所の執筆者ですが、不要な加筆をしてしまったようで申し訳ありません。ちょっとチベット動乱などの項目を考慮するべきでしたが、あまり意識していませんでした。1951年までとタイトルで限定していることですし、余分な記述は削除するほうがいいかもしれません。もしFreetrashbox様やその他の皆様方が不要と判断したならば、チベットの反乱については以前の記述程度のものにして残りは削除しようと思います。--Kazu 62 2008年6月16日 (月) 02:45 (UTC)[返信]
「不要な加筆」なんてとんでもない。内容もしっかりしているし、よいと思いますよ。ただチベット動乱の方が適しているのではないかと思ったまでです。(チベット動乱は書式的に加筆しづらいですかね・・・。)消すのであれば、ここにでも残しておいたほうがいいと思います。--Freetrashbox 2008年6月16日 (月) 15:08 (UTC)[返信]

定義部の誤りについて

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この記事の冒頭の定義部のうち、  1950年から1951年にかけて、中華人民共和国の中国人民解放軍が、チベットのラサに侵略した戦争 の斜体部は、誤りであり、誤解を生じますので訂正の必要があります。 この記事であつかっている事件について、中国は「西蔵和平解放」と称しています。ご承知のように、雍正のチベット分割(1724-32)以降、チベットの国土のうち、北部アムド地方、東部カム地方の東半部は清朝およびその継承政権の支配下にあり、ガンデンポタンが一貫して掌握しつづけていたのは西蔵部分だけです。中華人民共和国は、青海省の馬氏政権や四川省の劉文輝からアムド地方、カム地方東部の支配権を引き継ぎ、チベットの国土のうち、1950年の段階でまだ支配下におさめていなかったのはガンデンポタン治下の西蔵部分だけとなりました。彼らの「西蔵和平解放」とは、文字通り、チベットの「西蔵」部分を「解放」するための作戦行動です。「ラサ」だけが対象となったのではありません。 以下、最低限の修正案としては、チベットのラサの部分を
 チベットの国土のうち、ガンデンポタンの掌握下にあった中央チベット・ガリ・カム西部など
と改めるべきです。--Dalaibaatur 2009年9月26日 (土) 04:35 (UTC)[返信]

いいんじゃないでしょうか。ただ、このあたりの解釈には異論もありそうなので、しばらく様子を見ましょう。--Freetrashbox 2009年9月26日 (土) 10:27 (UTC)[返信]
しばらく様子を拝見していましたが、具体的な「異論」は提示されないですね。そこで「改定案」を提示し、諸氏からの批評を経たうえで変更にとりかかりたいと思います。--Dalaibaatur 2009年10月14日 (水) 15:10 (UTC)[返信]
とりあえず、「チベットのラサの部分を、チベットの国土のうち、ガンデンポタンの掌握下にあった中央チベット・ガリ・カム西部などと改める」というのは実施していいんじゃないでしょうかね。改訂を慎重に進めるのはよいと思いますが、いつでも再訂正できるのがウィキペディアなので、あまり意味が無いとも言えます。この訂正にしても、より確かな根拠に基づく異論が出てくれば、また修正される可能性があるわけで。--Freetrashbox 2009年10月15日 (木) 02:01 (UTC)[返信]

中立性の問題について

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2009年1月21日 (水) 05:52の編集で、「NPOV」タグを貼付けたIP氏が、この記事の文面のどの箇所を問題にしたのかはわかりませんが、記事の文面、語句などで、中立性に問題のあるものが散見されます。とりあえず中国が使用する用語「西蔵和平解放」、中国が日本語で発進する文章で用いられる用語(日本側マスコミなどでもそのまま使用されている用語でもある)「チベット平和解放」と同じ事件であることを示すため、冒頭定義部でこの用語にも言及すべき。とりあえずリダイレクトさせておきました。--Dalaibaatur 2009年9月26日 (土) 04:35 (UTC)[返信]

中立でないかどうかはともかく、中国側の呼称も必要だと思いますので、とりあえず西蔵和平解放の語を足してみました。(まずいようであれば戻します。)--Freetrashbox

分割の提案

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「反乱開始」および「その後」は記事名(1950-1951)からはずれているので、分割し、内容が重複している「カム反乱」「チベット動乱」と統合することを提案します。--Dalaibaatur 2011年8月30日 (火) 06:56 (UTC)[返信]

「カム反乱」に移動しました。--Dalaibaatur 2011年10月12日 (水) 21:26 (UTC)[返信]
移動によって、カム反乱の記事構成がめちゃくちゃになっていますので、差し戻しさせて頂きました。(参考[1])--HisStory999 2011年10月30日 (日) 08:45 (UTC)[返信]
提案より半年以上たちましたが、分割の提案そのものについてはどなたからも反対がなかったので、実施させていただきます。--Dalaibaatur会話2012年3月15日 (木) 12:34 (UTC)[返信]

この戦役の犠牲者数についての誤り

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Chichiiiさんによるこの編集は、(1)事実として誤りであり、(2)典拠として提示されている酒井信彦氏の文章を誤読している、の2点の理由で、削除いたしました。Chichiiiさんが投稿した上記文面が正しいとお考えの方は、まったく同じ文面の削除についてノート:チベット動乱でご意見を求めていますので、ことらまでよろしくお願いします。--Dalaibaatur会話2012年3月15日 (木) 12:31 (UTC)[返信]

中国の主張を書く場合でも

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中華人民共和国の主張では、1950年のチャムド戦役、翌年の「十七ヶ条協定」と中央チベットの制圧をさして「西蔵和平解放(チベット平和解放)」と呼んでいます。「解放」とは「共産党の手で抑圧されていた人民を救い出すこと」という含みを持つ共産党用語で、共産党の支配下に組み込んだことを指します。中国共産党は、この戦役では、「チベット人民」を「帝国主義および国民党反動勢力」から解放することを謳っておりました。したがって中国政府自身がつくった「十七ヶ条協定」の第四条でも「西蔵の現行の政治制度は維持される」「中央は改革をおしつけない」とさだめられています。

いいかえると、「封建農奴制度からの解放」は、この「解放」にはふくまれておりません。したがって、この記事で中国政府の主張を書く場合には、「帝国主義」や「国民党反動勢力」による「チベット人民」への抑圧が記述される必要があります。しかし現在の記事の文面には、中国共産党が、『「帝国主義」や「国民党反動勢力」による「チベット人民」への抑圧』についてどのような主張をおこなっていたのか、ほとんど記述がありません。この記事は、「西蔵和平解放(チベット平和解放)」についての記事でもあるのですから、この側面をもっと充実させる必要がある、という点について問題を提起しておきます。

以下の記述は、この記事であつかうべき中国政府の主張には該当しませんので、本文からこのノートに移動しました。「中国共産党によるチベット人民の封建農奴制からの解放」を扱った別の記事(チベット問題#「封建農奴からの解放」)あたりで扱うのが適当かと思います。。--Dalaibaatur会話2012年3月16日 (金) 02:50 (UTC)[返信]

チベットの人口の一部は、昔から農奴であり[1][2]、チベットの裕福な僧院や貴族が所有する土地に縛りつけられている者が多かった。しかし亡命チベット人は、「農奴はチベット社会のごく一部であって、チベットは最終的には中国の干渉を受けることなく近代化を達成できたはずだ」と主張した[要出典]。一方、中華人民共和国政府は、「1951年の時点ではまだほとんどのチベット人が農奴であり、また、1913年から1959年の自治の間、チベット政府はチベット発展の阻止を宣言しており、中華人民共和国政府の提案した『近代化努力』のすべてに反対した」と主張している[3]
移動しました。--Dalaibaatur会話2012年3月18日 (日) 05:22 (UTC)[返信]

シッキムとラダック

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シッキム王国はダライラマ政権が成立した翌年の1643年に成立、ダライラマ政権のチベットとは友好的な関係を持ち続けた。ラダック王国はグシ・ハンのチベット征服の対象とならず、グシ・ハンの孫ダライ・ハンの時代にチベットと戦争するも自立をまもる。滅亡はカシミール王国の制服により、ダライラマ政権は救援するも果たせなかった、という経緯があります。現状の文面は不正確なので、ノートに移動します。

19世紀になってシッキムラダックなども失っていた[4]

毛里1998を典拠とする誤った記述

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下記の記述は、研究者の記述を典拠としていますが、誤りであるので削除し、検討のためノートにうつしました。--Dalaibaatur会話2012年4月2日 (月) 22:39 (UTC)[返信]

当時のチベット地域は、ダライ・ラマとチベット政府の管轄下にある中央チベット地域、パンチェン・ラマ管轄のシガツェ地区チャムド地区行政長官アポ・アワン・ジグメの管轄にあるカム地区の、三つの地域に分かれていた[5]

毛里氏の文章は次のような文面です。

当時チベットはひとつでなかった。ダライラマ、チベット地方政府の管轄下にある中央チベット、ダライラマとの関係で中央チベットを追われていたパンチェン・ラマが管轄するシガツェ地区、そしてチャムド地区行政長官であるアボ・アワン・ジグメの勢力が強いカム地域の三つに分断されていた。

誤りその1「チーキャプ」:

当時のガンデンポタンは、中央政府より各地にゾン知事(ゾンポン)を派遣していますが、とくに重要な地域には総督が派遣されました。総督(チーキャプ)には、毛里氏があげた「ド・チー」(チャムド総督)以外にも、「チャン・チー」や「ト・ガルプン」「ロ・チー」などがいます。

誤りその2「パンチェンラマ領」:

ガンデンポタン領の内部では、中央貴族200の他に地方貴族が600家ほどあり、世襲で所領を安堵されていました。パンチェンラマは化身ラマ(活仏)なので「世襲」とはいえませんが、タシルンポ寺を拠点とするパンチェンラマの教団はシガツェの町を領する単なる地方領主。似たような宗教領主としては、サキャの町を領有していたサキャ派教団があります。ガンデンポタン中央政府からみたら、有象無象の地方領主のひとつにしかすぎません。

毛里氏の記述は、江戸時代の日本をさして、「当時の日本はひとつではなかった。徳川将軍・江戸幕府の統治する関東地方、甲府勤番領、知恩院化粧料の三つに分かれていた」と言っているようなものです。  青木文教『秘密の国西蔵遊記』(中央公論社)に、簡潔ですがより正確な地方行政制度についての記述があります。--Dalaibaatur会話2012年4月2日 (月) 22:39 (UTC)[返信]

毛里氏の記述が「誤り」かどうかは、Dalaibaaturさんの説明でも納得できませんし、青木文教の記述に依拠されておられるのであれば、それを加筆するといいのではないでしょうか?毛里氏の記述の削除には反対します。少なくとも「毛里によれば、…」という表現で残すべきでしょう。--西方会話2012年4月16日 (月) 02:48 (UTC)[返信]
問題は、私の「間違い」という評価に西方さんが「納得でき」るかどうかではなく、複数存在した総督のなかで、「ド・チー」だけをなぜチベット中央政府とともに「当時のチベット地域を三分していた」と持ち上げるかについて、西方さんが私を「納得」させられるかどうか、です。
 青木文教の記述は、中央公論社により文庫化されていて、どなたでも、書店で購入または都道府県・市町村の図書館などで閲覧するのが容易な本であるので、このノートをご覧になった方々が、みずから問題の記述を検証してみようという場合に、手始めとして適切であろうと思い、まずご紹介しました。
>少なくとも「毛里によれば、…」という表現で残すべきでしょう。
【「毛里によれば、…」という表現で残すべき】価値があるのは、学説が対立しているような場合です。問題の記述は「学説」といえるようなものではなく、ただの毛里氏の誤りです。
(1)毛里氏は、「総督府」が複数あるなかで、チャムド総督府だけを「中央チベット」や「パンチェンラマ領」とならんで「当時のチベット地域を三分していた」と持ち上げていますが、毛里1998(『周縁からの中国』)では、チャムド総督府だけをそのように持ち上げる根拠はなんら記されていません。
(2)毛里氏は、「パンチェン・ラマ管轄のシガツェ地区」といっていますが、この時期のパンチェンラマ領は、シガツェの町とその周辺のみであり、シガツェ地区全体を「管轄」などしていません。この部分でそもそも毛里氏の理解は誤っています。さらに、チャムド総督の場合と同様、この当時、地方領主が数百あるなかで、パンチェンラマ領だけを「中央チベット」とならび「当時のチベット地域を三分していた」と持ち上げる根拠が、毛里1998には何ら記されていません。
(3)「チャムド総督府」が他の総督府とは異なる特別の総督府、「パンチェンラマ領」が他の地方領主とは異なる特別の地方領主で、、ガンデンポタン中央政府とならんで「当時のチベット地域を三分していた」と主張する根拠は、毛里氏によっては示されていないし、西方さんも、いまのところはお示しになっていない。「チャムド総督府」や「パンチェンラマ領」がガンデンポタン中央政府とならんで「当時のチベット地域を三分していた」といえる典拠なり資料・史料なりを、このノートでお示しくださるのであれば、問題の記述を記事の文面に復活させることに異存はありません。
(4)私は、「明らかな誤りは記事に載せるべきではない」という立場です。ただし西方さんにより【。「チャムド総督府」や「パンチェンラマ領」がガンデンポタン中央政府とならんで「当時のチベット地域を三分していた」といえる典拠なり資料・史料なり】が提示された場合には、問題の記述を「誤り」と考えることが間違いということになり、当然ながら、問題の記述を記事の文面として復活することに反対いたしません。
以上、よろしくお願いします。--Dalaibaatur会話2012年4月16日 (月) 17:20 (UTC)[返信]
Dalaibaaturさんは根本的にウィキペディアを誤解されておられるようですが、編集者間で「真実」を確定することなど、究極的にではできません。信頼性の高い刊行物に基づくものであれば、それに対してどれほど異議があろうとも、その見解が出典に基づかない限りは独自研究としてみなされます。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないを御覧ください。毛里氏の見解、青木氏の見解、いずれも記載されるべきでしょう。つまり、「毛里氏の見解が間違っている」と明記された出典を探すしかないのです。--西方会話2012年4月17日 (火) 02:39 (UTC)[返信]
それと、青木氏を出典としたものであれば、それを先に加筆すべきでしょう。加筆もしないで、ここで議論のための議論をしても、はじまりません。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありませんを御覧ください。--西方会話2012年4月17日 (火) 02:43 (UTC)[返信]
[2]でrvされておられますが、出典のある記述を一方的に削除することは不当です。ノートでの合意なしに、このような削除は今後一切おやめください。--西方会話2012年4月17日 (火) 02:47 (UTC)[返信]
(1)上記の毛里説には、ダライラマ政権の行政制度について記述する記事のなかでなら「特筆性」があります。諸説の一つとして。そこで「ガンデンポタン」記事の、「1750-1959年の制度」のところに、上記の毛里説を記入しておきました。二十世紀なかばのチベットの中央・地方制度について記述したり、諸説を列挙紹介するのにふさわしい場所はこちらであると思います。
(2)西方さんは、問題の記述をこの「チベット侵攻」と「チベット問題」にご投稿になられましたが、あなたが問題の記述を記入したこの場所この場所は「チベットの中央と地方の関係についての諸説を列挙紹介するべき場所ではありません。西方さんは、以前、チベットの領域に関する認識と主張で、「チベット亡命政府の「チベットの領域に関する認識と主張」が述べられるべき箇所で、[「チベット人の飢餓に関する認識と主張」についての記述]をご投稿なさっていますね?出典つきではありましたが、記事の主旨にあわないので削除させていただきました。
(3)西方さんが、「チベット侵攻」と「チベット問題」の両記事で、前後の記述となんの脈絡もなく毛里氏の「チベット三分説」を叙述なさる、叙述なさりたがっている理由がわかりません。
(4)「チベット侵攻」と「チベット問題」の記事は、西方さんが提案する、チベットの中央・地方行政関係についての諸説を列挙提示する場所にはふさわしくないと思います。
(5)毛里説の提示は、この記事の主旨には合わないので、削除してもなんら問題ないと思います。
(6)毛里氏の問題の文面は、「ガンデンポタン」記事の「1750-1959年の制度」の部分で、諸説のひとつとしてとりあげるのであれば、特筆性を有していると考えます。--Dalaibaatur会話2012年4月17日 (火) 07:01 (UTC)[返信]
私はどちらかというと西方さんの意見に賛成ですね。中国を専門とする早稲田大学教授(執筆当時の肩書は違うかもしれませんけど)が、東京大学出版会から出している本ですから、他の文献と合わないからといって簡単に退けるべきでは無いように思います。まあ、無理にパンチェンラマの権力範囲を書かずとも、ここの箇所のポイントは、チベットが必ずしも一枚岩ではなくそれが事件に影響しているという点にあるのですから、その旨を議論にならない範囲であっさり書けばよいという気がします。「三つの地域に分かれていた」という表現さえ落とせば、折り合いが付くのでは。--Freetrashbox会話2012年4月17日 (火) 11:30 (UTC)[返信]
>他の文献と合わないからといって簡単に退けるべきでは無いように思います。

どんな珍説であっても、研究者が学術書に発表した説ですから、「20世紀中葉のチベットにおける中央・地方の行政機構」を扱う記事のなかでなら、私も別に「特筆性」を否定してはおりません。現にガンデンポタンの該当する節に、問題の一節を収録しております。

>ここの箇所のポイントは、チベットが必ずしも一枚岩ではなくそれが事件に影響しているという点にあるのです
西方さんにとっての「ポイント」もその点にあるのであれば、毛里1998の問題記述を使用しない代案を提案することも可能になってくるのですが、はたしてどうなんでしょう。。Freetrashboxさんのいうチベットが必ずしも一枚岩ではないことを示したいのであれば、たとえばパンチェンラマが9、10世の2代にわたり中国の庇護を受けていたことなど、さまざまな文献に記述がありますし、毛里1998自体にも、多数の史料を綿密に用いて叙述してある箇所があります。なにも毛里1998の中でごく僅かある欠陥文章を引っぱりださないでも、と思います。いまのところ、なぜ西方さんが、この「チベット侵攻」とチベット問題の記事で、問題の一節を、あの位置にいれたがるのか、まだご本人は語ってくれていません。
>「三つの地域に分かれていた」という表現さえ落とせば、折り合いが付くのでは。
その部分は、なにか西方さんにとって、とっても大事な表現のようです。西方さんご自身に検証していただこうと、青木文教を紹介したり、中国の「社会歴史調査報告」シリーズの記述を原文引用・翻訳したりしているのですが、いまのところご自分が投稿した文面を、検証することそのものを拒んでおられる印象です。--Dalaibaatur会話2012年4月17日 (火) 13:18 (UTC)[返信]
私がいっているのは、どうぞ加筆してくださいということです。青木文教なり、中国の「社会歴史調査報告」シリーズなり、Dalaibaaturさんが必要と思うのであれば、それを加筆すればいいでしょう。私が問題の文章を加筆したのは、Freetrashboxさんも指摘されましたように、当時のチベットの状況についての情報はやはり、チベット侵攻を理解するうえでも必要でしょう。検証可能性については、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」を御覧ください。--西方会話2012年4月17日 (火) 13:54 (UTC)[返信]
どうも、読んでくださいといっても、読んでもらえないようなので、転載します。
(前略)この文脈における「検証可能性」とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。なぜならウィキペディアでは独自研究(オリジナル・リサーチ)を発表してはならないからです。記事は信頼できる情報源が公開している題材だけを含むべきです。それは個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません。直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。

検証可能であることと真実であることの違いは、次の例で見ればよくわかるでしょう。あなたは、ある著名な物理学者の「X理論」についてウィキペディアの記事を書いているとします。X理論は査読審査を経て学術誌に掲載されており、したがってウィキペディアの記事として適しています。ところが、執筆中にあなたがその学者に連絡をとったところ「実を言うと、今ではX理論は完全に誤りだと考えています。」と言われてしまいます。あなたが原著者本人からこれを聴いたとしても、彼がそう言ったという事実をウィキペディアに書いてはいけません。
なぜいけないのでしょう。それは「ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから」です。読者は、あなたが誰なのかを知りません。世界中の閲覧者があなたに連絡して確認を取れるように、あなたの連絡先を載せるというわけにはゆきません。たとえあなたに連絡がとれるようになっていたとしても、閲覧者があなたを信じる理由がどこにあるでしょう。
その情報をウィキペディアに載せてよいものにするには、まず、広く信頼されている報道機関を説得してあなたの話を発表してもらわなければなりません。それは、査読を受けるのと同様の過程を経ることになります。つまり、まず記者、次に編集者、そしておそらくは事実調査員にチェックされるでしょう。もし問題があれば、さらに弁護士、そして編集長にチェックされるかもしれません。このような事実確認とその評価のしくみがあるのは、新聞に正確で公正な記事を載せるためです。この事実関係を確認するという過程は、ウィキペディアでは提供できません。それゆえに、独自研究は載せないという方針と検証可能なことのみ載せるという方針が大変重要となるのです。(注:要するに、査読に相当する機能はウィキペディアの外部に求めよということ)
もしもその新聞があなたの話を載せてくれたならば、ようやくその情報をウィキペディアの記事に書き込んで、その新聞を情報源として示すことができます。

分かり易く言えば、検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。---Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」より。

--西方会話2012年4月17日 (火) 14:00 (UTC)[返信]

なお、「特筆性」についてですが、これについては、私が加筆したものについては、特筆性ありと考えますので、これ以上はもはや平行線でしょう。私からすれば、なぜDalaibaaturさんがそこまで削除を主張し、また「検証」と称して様々な出典を下に「反証」をされるのは、私個人としてはその内容を興味深く思いますが、しかしそれをまた加筆されない、その理由がわかりません。なお、問題となっている文章ですが、脚注などをうまく使って、短縮するなり、そういう作業を否定はしませんが、しかし、現時点の議論では、そういう作業に移れる段階ではないでしょう。--西方会話) 2012年4月17日 (火) 14:06 (UTC) 調整。--西方会話2012年4月17日 (火) 14:23 (UTC)[返信]
Dalaibaaturさんに敬意を表して、建設的な提案をいたしますと、ガンデンポタンでもチベットの歴史でもあるいは本記事でも、どこでもよいですが、まずは:Dalaibaaturさんの問題とされていることを出典をつけて、本文に組み込んでください。そのうえで、私があらためて検討し、文章を調整します。とはいえ、:Dalaibaaturさんの希望通りの文案になるかは、わかりませんし、またそこで、あらためて議論したく思います。現時点では上に転載しました検証可能性の件で、これ以上いうことはありません。--西方会話2012年4月17日 (火) 15:02 (UTC)[返信]
なぜ「この記事で」「あの場所に」「あの一節が必要か」をご教示いただいていませんが、とりあえず西方さんがすでに同意している「毛里和子は・・・と述べている」を付加して記事を修正しました。--Dalaibaatur会話2012年4月17日 (火) 18:34 (UTC)[返信]
問題の記事が、「この記事で」「あの場所に」「あの一節が必要か」についてお答えいただけると、上でお求めの加筆を実行するにあたり、西方さんが、あの文面をあの場所におくことで示したい主旨を損なう確率が低くなると思うのですが。そこで、改めて確認をお願います。西方さんとしては、Freetrashboxさんの「ここの箇所のポイントは、チベットが必ずしも一枚岩ではなくそれが事件に影響しているという点にある」という指摘は、西方さんのお考えには合っていないですか?やはり、
(1)当時パンチェンラマが「シガツェ地区を管轄していた」
(2)「チベット」が「ひとつではなく」、「三つに分断されていた」

という記述が記事の文面上に存在することは、西方さんとしては必須なのですか?(1)(2)のうち、こっとは省いてもよい、ただしそれを入れたのは○○という狙いがあるから、その主旨をふまえた別の表現をいれてもらいたい、ということがあれば、教えてください。そうでなく、あくまでも(1)(2)のどっちの記述も必須である、ということでしたら、現状どおり、毛里の文面をそのままおいた加筆をします。--Dalaibaatur会話2012年4月18日 (水) 17:55 (UTC)[返信]

Dalaibaatur氏の加筆および編集について

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Dalaibaaturさん。 あなたの加筆部分は、出典を明記されない限りは、独自研究にあたるでしょう。私の加筆した文章については、出典を明記しておりますし、すで本文に占める特筆性についても説明しております。当時のチベットの状況についての情報を示す、というものです。それに対して、あなたは他人にはやたらと説明を求めるくせに、ご自身の主張については出典さえも明記されない(別項目へのリンクだと、あなたの加筆部分の出典としては無効です)。まったくよくわからない編集です。あなたの編集履歴を見るに、中国共産党によるチベット併合を正当化されたいのかもしれませんが、なお、そのような個人的な見解を持つことは自由ではありますが、ウィキペディアの記事を執筆する手続きはきちんと踏んでください。現時点でのあなたの加筆ですと、まったく合意できないどころか、独自研究をはりつけていく点で、荒らしとしてみなされるえるものです。--西方会話2012年4月18日 (水) 16:12 (UTC)[返信]

また、過去の編集のうち、たとえば2012年3月11日 (日) 07:23時点の編集[3]なども、せっかくのHarv脚注をもとに戻したり、よくわからない編集をなさっておいでです。あなたの本記事における過去の編集についてまだ全面的に検討しておりませんが、複数の方からあなたは要約欄などでも注意されておいでです。何度も繰り返しになりますが、ウィキペディアのガイドラインおよび方針を熟読なさったうえで今後は編集なさってください。--西方会話2012年4月18日 (水) 16:19 (UTC)[返信]


また、下の節「「チャムド地区行政長官」とその他のチーキャプの差について」に書こうか悩みましたが、以下、あなたの提示する出典について述べます。
結局、 2012年4月16日 (月) 21:47 (UTC)までに書かれたあなたが「反証」するとして提示される出典は、中国社会科学院による研究のみではないですか。同院は中国政府のシンクタンクで、中華人民共和国国務院直属事業組織ですが、そこが発刊した資料のみを出典としたうえで、それ以外の出典を「誤り」として断定していく編集傾向は、Wikipedia:中立的な観点からも非常に問題があります。あなたからすればチベット側の見解は「主張」なのでしょうが、チベット側からすれば、中国側の見解もまた「主張」なのですよ! WP:NPOVからして、中国社会科学院]]による研究も無論掲載は可能ですが、一見、詳細な議論をしているようで、結局はあなたの政治的主張に基づいた政治的に偏向ある編集態度は、もはやコメント依頼するしかないようですね。議論相手である私に対してやたらとあたかも疲弊されるかのような対応で議論をされるのも、そういうことでしたら、納得がいきます。--西方会話2012年4月18日 (水) 16:49 (UTC)[返信]
ひとさまの編集姿勢を云々することや、議論の拡散をすることは建設的ではないので、とりあえず「毛里の問題の一節」をめぐる典拠についての話題のみ、お答えします(私の記述へのご不満には、こちらが一区切りついた段階で必ずお答えしますね)。
まず中国がチベットで行った「社会歴史調査」という事業について、西方さんはご存じないようなので、ご紹介します。1950年代の中期、中国政府がチベットの実情を把握し、より実情に則した政策の策定に資することを目的として、大量のフィールドワーカーたちを送り込み、現地調査を行いました。1959年以前、ガンデンポタンと中国の支配機構の間に、まだかろうじて均衡が保たれていた時期のことです。ゾン知事や荘官、その統治下の一般農牧民たちへの聞き取り調査です。それらの報告書が1980年代の半ばになって、自治区の「西蔵社会歴史調査」、自治区に属さない地域の「蔵族社会歴史調査」として部分的に出版されました。それらは、ダライラマ政府がまだ実際にチベットを統治していた時期の、統治者と被統治者からの直接のききとりです。で、西方さんがケチをつけている「山南」総督府と「蔵北」総督府の2著ですが、1990年代の学者たちが、40年まえの社会歴史調査報告書を土台に、史書や、公文書などの記述をもとにまとめたものです。
とてつもなくトンチンカンな難癖をおつけになっているので、どうご返事してよいやら、ちょっと困っているのですが、中公文庫にも入っている青木文教の『秘密の国 西蔵遊記』は、結局まだごらんいただいていないのでしょうか。とりあえず、ますこの本だけでもごらんいただけないでしょうか。著者は、明治末から大正期にかけてみずからチベット入りし、日本のチベット学を切り開いた学者のひとりで、大正期から昭和中期まで、日本人のチベット理解の基礎・土台となっていた書物です(あとは多田等観、河口慧海などです)。大正時代の日本人が観察したチベットの中央・地方の行政機構と、1950年代に中国のフィールドワーカーが観察したチベットの中央・地方の行政機構についての記述は、非常によく一致しています。実物を直接みて、その観察結果を記録したのだから、当然のことです。それに対して、私が問題にしている毛里の問題の一節は、日本・中国で実物をみた人々の記述とはまったく合わない。
西方さんは、中国の記録を信じたくないのならそれでもいいですが、せめて日本人のチベット理解の古典である青木文教をみていただけないでしょうか。--Dalaibaatur会話2012年4月18日 (水) 17:55 (UTC)[返信]
あなたの知識には敬意を表します。しかしあなたの加筆されたものは、青木文教(たしか、いま絶版でしょう?)のものも出典として付記されておりませんし、あるいはまた、中国の調査にしても、このノートでは出典として出されていますが、本文に加筆されたものについては出典も、またページ数なども表記されていません。私が問題にしているのは、あくまで「本文をどう書くか」についてです。Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:信頼できる情報源などの観点からすれば、一次資料の情報をもとにしたものでも、その合成の仕方では、独自研究になるのです。つまり、「当時、ガンデンポタンはチベット全域を支配していたわけではない」という文を本文として記述する場合、その文の重要性からいっても、そのようにどこかの本に書いてあり、それを出典として明記されているのであれば、むろん、私も問題にはしません。あなたの現地調査についての思い、それは私とて個人的にもいいとは思っています。しかし、ウィキペディアの記事を執筆するうえでは、独自のルールがあるのですから、それに則ってくださいということをいっているのです。なお、私は中国政府の記録でも、もちろんスタイルマニュアルに沿ったものであればもちろんいいですし、そもそも、毛里氏の本にしても、中国の調査を多用されているのは存じています。ですので、あなたがちゃんと出典を明記し、スタイルマニュアルに沿って編集さえしてくれればいいだけの話です。--西方会話2012年4月19日 (木) 02:49 (UTC)[返信]
青木の著作は「チャムド地区行政長官であるアボ・アワン・ジグメ」を、チベットを分断する三つの勢力として描写する毛里1998に対する反証としてのみ取り上げています。西方さんが「典拠がないと」と主張する私の文面」については、こちらの話題が終了したのちにお相手いたします。
「ウィキペディアの記事を執筆する上での独自のルール」はともかくとして、記事のある記述を「取り除きたいと思う者」がその理由を記事のノートなり会話ノートなりに書き、「その記述を書いた人」の同意がとれた場合には、「合意が形成された」ということになります。
西方さんに読むようにお願いした青木には、地方長官として53ゾンの知事のほか「遠隔の辺境に四州を置く」「四州には総督を置く」とあり、私の記憶では、「ドメー・チーキャプ」がその総督のひとつとして言及されていると記憶していましたが、いま見てみると、「支那の四川省に併合」されて「総督は中止されている」二州の記述はあるだけで、「ドメー・チーキャプ」は取り上げられていません。青木が滞在していた時期、しっかりと健在だったはずですが。この点については、私の記憶違いでした。代わりに、ダライラマや、1940年代にチベットに潜入していた西川一三の記述を、下記で紹介させていただきました。
上の方でお尋ねしたのにお答えがないので、あらためて確認させていただきますが、
(1)当時パンチェンラマが「シガツェ地区を管轄していた」
(2)「チベット」が「ひとつではなく」、「三つに分断されていた」
という記述が記事の文面上に存在することは、西方さんとしては必須なのですか?別の表現で代替することはできませんか?青木は「扎什喇嘛の領地」「後蔵タシルンポにある扎什喇嘛の直轄せる地域」としては「数県」と述べています。
パンチェンラマ領を「シガツェ地区」とまで誇大に表記しているのは、毛里1998の問題の一節以外に、みたことがない。西方さんのお手元にも毛里1998はあるでしょうから、ぜひ確認していただきたいのですが、毛里は、問題の一節に典拠を示していない。
以上、お答えとお尋ねです。--Dalaibaatur会話2012年4月19日 (木) 03:52 (UTC)[返信]
あのですね。
>「ウィキペディアの記事を執筆する上での独自のルール」はともかくとして、
という発言は非常に問題ですよ!あなたは「反証」とか「誤り」とかおっしゃるのですが、あなたの解釈自体が独自研究とみなされえる、ということについては、早急に対処していただきたいです。それで、毛里の引用については、あなたのきちんとした当時のチベットの状況についての説明が記載されれば、文章の改変、または圧縮などの改変に応じるとはできます、と以前もいっています。それから、青木の本は所持していませんし、読んでくださいといわれても、すぐには対応できるわけないじゃないですか。この件については、あなたの方が私より詳しいのは確かですし、あなたの解釈についてもあらためて私も検討したく思いますが、何よりも、出典を明記されたうえで、あなたの提示なさっていることが本文に組み込まれないと、私としても現時点では対処できません。それから、ここは学会ではありませんし、真偽をウィキペディアの編集者間で決定することはできません。この件については、もうリンクしませんが、上記しましたようにウィキペディアの方針・ガイドラインに準じてください。なお、この件について、本記事でない項目で、より十全に記述なさるのであれば、それはそれで私としても対応できます。むろん、あなたの加筆についての検討は、なによりも加筆が済んでからにしますけれども。とにかく、チベット関係のどの記事でもいいですから、とにかく出典を明記されたうえでの加筆をお願いします。--西方会話2012年4月19日 (木) 15:58 (UTC)[返信]
「この部分は削除したい」と思った者が、「なぜそう思うか」を述べて、「書いた人」が「同意した」場合は、「合意が形成された」ことになります。「編集をめぐり意見の対立が生じた場合」に、「合意の形成」を「目指す」のも、「ルールにのっとった編集姿勢」の一種です。ということで「非常に問題です」という評価には同意しません。ただし西方さんが強く「納得していない」点については、一連のご返事で、よく理解しております。「中国共産党による“西蔵和平解放の準備”」「この時期のガンデンポタンの内情(とくにドチーの交代の状況など)」を焦点に大幅加筆を準備中です。
お答えいただけないので、1項目ふやしてあらためて確認させていただきますが、
(1)当時パンチェンラマが「シガツェ地区を管轄していた」
(2)「チャムド地区行政長官であるアボ・アワン・ジグメの勢力が強いカム地域」
(3)「チベット」が「ひとつではなく」、「三つに分断されていた」
という記述が記事の文面上に存在することは、西方さんとしては必須なのですか?別の表現で代替することはできませんか?たとえば(1)「シガツェ地区」→「タシルンポ寺領」、(2)「勢力が強い」→「管轄する」など。--2012年4月19日 (木) 17:58 (UTC)

(インデント戻し)誤解されておられるかもしれませんが、あなたの加筆部分が、もし出典が明記されてあれば(そしてそれが正確な引用・参照であれば)、それはそれで私としても同意できるのです。むろん、その記述について出典を検討してから、あらたに議論することもありえますが。1)2)については、出典が明記されてあれば反対はしません。3)ですが、あなたの当時のチベット情勢への理解をいまだ共有できてませんし、あなたの出典にしても確認できていませんので、判断できません。私としては、毛里氏の記述については、出典もあるし、削除には同意できません。「シガツェ地区」→「タシルンポ寺領」という件については、毛里氏の本のなかにそういう箇所があればいいのですが、そうでなければ、やはりそれはあなたの解釈でありますので、やはり同意しかねます。ただし、あなたの加筆されたものを私が検討したあと、毛里氏の記述が不要だと判断した場合は、脚注に収めるなり、あるいは当該箇所を加筆したものとして削除する可能性もゼロではないですが、現時点でのあなたの説明では、下の節でFreetrashboxさんも指摘なさっておられるように、あなたの個人的な解釈という側面が強く思います。なお、誤植というか、文字の消しわすれがありましたので、消しました。--西方会話2012年4月20日 (金) 16:12 (UTC)[返信]

また、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」の件でもありますが、あなたの解釈、および毛里氏の解釈への批判などは、論文なり書評を一定程度の査読システムを持つ雑誌等に掲載されればいいと思いますよ。そうすれば、私が加筆された毛里氏の引用についても、そのあとに「しかし、毛里の解釈については、当時の状況についての誤解があり…という批判もある<脚注であなたの論文>」とか加筆できるわけですから。--西方会話2012年4月20日 (金) 16:18 (UTC)[返信]

コメント 文章を書く上で一般的に非推奨とされていることは、ウィキペディアでも推奨されません。毛利氏の書籍を典拠にして、毛利氏の主張と食い違う解説を書くのは避けるべきでしょう。毛利氏が「パンチェン・ラマが管轄するシガツェ地区」と書いているのであれば、これを「タシルンポ寺領」と書き換えると文意がかなり変わってしまうので、好ましくないと思います。もし、毛利氏の主張が正確性や中立性を欠くのだとすれば、毛利氏の主張そのものを書き換えるのではなく、別の文献を使って解説を書き加えるべきでしょう。--Freetrashbox会話2012年4月21日 (土) 01:40 (UTC)[返信]

提案 Dalaibaaturさんはガンデンポタンの2012年4月16日 (月) 21:04時の編集[4]で、毛里氏の記述を「カシャク制(1751年 - 1959年)時期」の説明として記載されておられますが、これもやはりよくわからない編集ですねえ。転記することで本記事からの削除をお考えになったのかもしれませんが、それにしてもこの節名でこの記述は不十分でしょう。 もうこの件については、あなたの加筆を待つしかないのですが、あなたが提示された出典やそれに基づく見解を、十分な形でガンデンポタンの該当節に記載されることを提案します。本記事でもいいのですが、あなたが言及したものすべてを記載すると、やはりどうしても、記事全体のバランスが悪くなると思います。もし、ガンデンポタンへの加筆に同意されるのであれば、ひとまずは、この件は、ノート:ガンデンポタンで一旦、議論を移動させる方がいいと思いますが。そのあとで、本記事の議論に移る、というのはいかがでしょうか。とはいえ、毛里氏の件については、上に書いたとおり、無闇な削除、または改変などにも応じられませんが。しかし、Freetrashboxさんも、また私も再三いっておりますように、あなたの出典つきの記述との関係のなかで、毛里氏の引用箇所を再構成する余地はあるとは思っています。--西方会話2012年4月22日 (日) 09:52 (UTC)[返信]
一連のやりとりを拝見して、毛里氏のあの「誤った」記述に、何がなんでもこだわっておられるわけではないとお見受けしました。(1)西方さんが毛里1998に基づいてお書きになった文章をもとのままの形で記事中にもどしました。(2)とりあえず典拠を明示しながらすきなように加筆します。(その際、西方さんの文章は手を付けずにそのまま残します。(3)自分なりの加筆を終えたら改めて「これいないのでは?」と提案します。--Dalaibaatur会話2012年4月22日 (日) 22:23 (UTC)[返信]

「チャムド地区行政長官」とその他のチーキャプの差について

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西方さん,およびそれ以外の方で、「チャムド地区行政長官」が、他の総督とはことなり、「当時のチベット地域を三分していた」地位だと主張する方は、この節に、その典拠をご提示ください。私は、そういう主張に対する反証を提示します。--Dalaibaatur会話2012年4月16日 (月) 21:40 (UTC)[返信]

ドメー・チーキャプと、その他のチーキャプに関する典拠

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中国蔵学研究中心・西蔵社会科学院・中国社会科学院民族研究所「西蔵封建農奴制社会」課題組『西蔵山南基巧和乃東瓊結社会歴史調査資料』中国蔵学出版社,1992,ISBN7-80057-058-4より達瓦次仁、王家風「山南基巧概況調査」(pp.5-24)

西藏地方政府先後在各地設有直属機構――基巧。在昌都地区設有多麦基巧(簡称多基),;:, 管理20個宗;後藏設有藏基巧,由両名堪 (四品官)管理22個宗谿。阿里設有堆基(阿里噶本),設噶本両名。羌塘(黒河)設有羌基,工布一帯設有塔工基巧。
西蔵地方政府はあいついで各地に直属機関のチーキャプ(基巧)を設置した。チャムドにはドメー・チーキャプ(略称ド・チー)が置かれ、カロン1名(三品官)が配置され、20ヶゾンを管理した。ツァン地方にはツァン・チーキャプが置かれ、二人のケン●(四品官)によって22ヶ所のゾンとシカ(=荘園)が管理された。ガリにはト・チー(ガリ・ガルプン)がおかれ、ガルプン2名が配置された。チャンタン(黒河)にはチャン・チーがおかれ、コンポ一帯にはタクコン・チーキャプが置かれた。

格勒,劉一民,張建世,安才丹編著『蔵北北民 西蔵那曲地区社会歴史調査』中国蔵学出版社,1993,ISBN 7- 80057-069-Xより、「第七章 絳基、宗谿与部落」(pp217-265)

絳基是1942年至民改前噶厦派駐蔵北高原的最高行政機構、其下属行政機構為為宗。
チャン・チーは、1942年から「民主改革」までの間、カシャク (内閣)が蔵北高原に配置した最高行政機構で、その下に属する行政機構はゾンである。

以上の記述のうち、「ドメー・チーキャプ(ド・チー)」が、毛里のいう「チャムド地区行政長官」である。西方氏が「納得」するかどうかに関係なく、ドメー・チーキャプは、5つあるチーキャプのひとつにしかすぎない。--Dalaibaatur会話2012年4月16日 (月) 21:47 (UTC)[返信]

上にお答えしました。重複になるような仕方で無闇な節分けをしないでください。--西方会話2012年4月17日 (火) 02:51 (UTC)[返信]
「上」のご投稿を熟読しましたが、「ドメー・チーキャプ」が他のチーキャプとは異なることを示す典拠をひとつもお示しになっておられないようですが。--Dalaibaatur会話2012年4月17日 (火) 07:04 (UTC)[返信]
上記節「Dalaibaatur氏の加筆および編集について」でお答えしました。--西方会話2012年4月18日 (水) 16:50 (UTC)[返信]
チーキャプが5人いるなかで、なぜドメー・チーキャプだけ特別なのかについて、まったくお答えいただいていないのですが。--Dalaibaatur会話2012年4月18日 (水) 18:00 (UTC)[返信]

ドメー・チーキャプが、ガンデンポタン中央政府から派遣されるたんなる地方長官であることに関する典拠

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毛里1998では、ドメー・チーキャプについてこんな主張をしています。

当時チベットはひとつでなかった。ダライラマ、チベット地方政府の管轄下にある中央チベット、(中略)、そしてチャムド地区行政長官であるアボ・アワン・ジグメの勢力が強いカム地域の三つに分断されていた。

毛里さんは、ダライラマないしはガンデンポタンに任命されて派遣されてくるただの地方官を、どうしてチベットを「三つに分断」する勢力の一つだと思ったんでしょうね。以下、典拠です。

  1. 西川一三『秘境西域八年の潜行』下巻,中公文庫,1991(ISBN 4-12201773-4)の記述。「【11 西康の首都チャンドウ】ラサからはるか三千キロ、シナ国境に近いこの地方は、他の地方とことなり、特に辺境大臣ともいうべき四大臣のひとりが、三年交代に多数の腹心の官吏、四、五百名の軍隊とともに中央から派遣され、政治にあたっている。(p.319)」。西川氏は戦中にスパイの使命をおびてチベットに潜入し、日本の敗戦後は、冒険野郎としてチベット各地を自らの眼で見て回った人です。「他の地方とことなり、特に辺境大臣ともいうべき四大臣のひとりが」という部分は、中国の「御用研究所」が「設一名噶倫(三品官)」と述べているのと一致します。「カロン」とは、「カシャク」(内閣)を構成するガンデンポタンの指導部の構成メンバーです。西川氏が「四大臣のひとりが」といっているのはあやまりで、ラサ中央政府に(この時期は)4人と、チャムドに一人です。上に引用した、西方さんのいう「中国の御用研究所」の記述でも、他のチーキャプが四品官以下であるのにたいし、ドメー・チーキャプは「カロン(三品官)」と述べています。
  2. ダライ・ラマ(木村肥佐男訳)『チベットわが祖国』中公文庫,1989(ISBN 4-12-201649-5)の記述。「【たまたま東チベット州知事ラル(Lhaku)の任期が満了したので、このきわめて重大な時期ではあったが、彼を他の高官アボ・アワン・ジグメ(Ngabo Ngwang Jigme)と交代させねばならなかった。アボはラサを出発して東チベットに向かったが、情勢は非常に微妙であったので、内閣はラルに、持ち場にどどまり、後任者を助け、彼と責任を分かち合うよう通達した。しかし間もなく、アボは全責任を負う用意があるといってきたので、ラルはラサに呼び戻された。その直後だった。何ら正式の警告もなく、共産中国の軍隊がチベットに侵入してきたのである。(p.126)」。著者の「ダライ・ラマ」は説明不要ですね?訳者の木村氏は、上の西川一三氏とくっついたり離れたりしながら西川氏と同時期にチベットを旅していた人です。ダライラマは、ドメー・チーキャプを、ダライラマまたは内閣によって「任命されたり、交代したり、持ち場にとどまったりラサに引きあげてくる」よう命令をうける、毛里のいう「ダライラマ、チベット地方政府の管轄下」の、ただの地方長官として描写しています。--Dalaibaatur会話2012年4月19日 (木) 04:13 (UTC)[返信]
コメント さすがにそれは、無理筋じゃないですかね。毛利氏自身が「チャムド地区行政長官であるアボ・アワン・ジグメ」と書いているわけで(私はまだ毛利氏のこの著書を読んでいませんが)、カムが少なくとも形式上はチベット中央政府の管轄だったことは気づいているはずです。Dalaibaaturさんの示した文献は、毛利氏の主張と矛盾しません。なお、Dalaibaaturさんはチベットのことに詳しいのですから、あまり自説だけを強く主張せず、御存じの範囲でDalaibaaturさんの主張と矛盾するような説についても紹介すべきだと思いますよ。「Wikipedia:中立的な観点#ひとつの帰結:敵のために書く」という方針は、そういう意味ではないでしょうか。--Freetrashbox会話2012年4月19日 (木) 12:06 (UTC)[返信]
  1. ジョン・F・アベドン『雪の国からの亡命』(地湧社,1991)の記述。1950年の記事。「夏の間、ラル・シャぺーは任務に忠実にカムパ族の兵士を募り、防衛を強化した。しかし八月末、ラルの総督としての任期が切れた。冬が来る前に中国軍が攻撃してくることを知っていながら、ラサの内閣は、信じがたいことにそれまでのやり方を踏襲して、ラルの後任に二番目の内閣閣僚を任命した。ンガプー・ンガワン・ジグメはチャムドが侵攻されるほんの数週間前にこの地に着任し、慣れぬ環境で指揮をとることになった。(p.56)」。

毛里さんは、チベットを三分する勢力の一つとして「チャムド地区行政長官であるアボ・アワン・ジグメの勢力が強いカム地域」と主張しています。中央政府から大臣が総督として着任する地域を「三つに分断されていた」一つと称する毛里さん。ほんの二週間前に着任してきた不慣れな総督「アボ」さんの「勢力が強い」地域だと主張する毛里さん。毛里さんの「チベット三分説」は、当時のチベットの当事者が語る記述とあわないんですね。だから「間違い」だと申し上げています。--Dalaibaatur会話2012年4月22日 (日) 22:40 (UTC)[返信]

改名の提案

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現在、この記事は「チベット侵攻(1950-1951)」となっていますが、中国の名付ける「西藏和平解放(チベット平和解放)」という記事ならともかく、この記事名で、時期を「1950ー1951」と限定されると、1948年-1949年に「西藏」に先だって行われたチベット各地に対する「侵攻」に言及しにくいので、記事名を  「チベット侵攻(1950-1951)」→「チベット侵攻」 と変更するよう提案します。--Dalaibaatur会話2012年8月18日 (土) 12:18 (UTC)[返信]

賛成 元々曖昧さ回避とする必要がないので、()を付けない記事名への改名に賛成します。なお、改名先のリダイレクトには履歴があるので、単純な移動はできません。合意が取れたら移動依頼してください。--アルビレオ会話2012年8月19日 (日) 00:31 (UTC)[返信]
賛成 賛成します。年代を特定するには、40年代末の侵攻について記事が相当増大した場合だと妥当だと思いますが、現状ではそうではないので。--西方会話2012年8月25日 (土) 06:19 (UTC)[返信]
改名を行っていいなら改名しときましょうか?--Remington会話2012年10月20日 (土) 17:14 (UTC)[返信]
どこにも提案されていない「チベット侵攻(1949-1951)」に改名したのは何故ですか? --アルビレオ会話2012年11月19日 (月) 12:18 (UTC)[返信]

改名の提案

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上記の提案で「チベット侵攻(1950-1951)」から「チベット侵攻」への改名が合意されているのに、なぜか、合意事項と違って「チベット侵攻(1950-1951)」→「チベット侵攻(1949-1951)」→「チベット征服」と改名されています。そこで、改めて、上記合意と同様に「チベット侵攻」への改名を提案します。なお、現在チベット侵攻チャムドの戦いへのリダイレクトになっているので、改名の合意ができたら「リダイレクトの削除依頼」を行った上で改名Wikipedia:移動依頼(2013年11月26日 (火) 10:12 (UTC)訂正)をします。デイナイスホテル東京会話2013年11月26日 (火) 09:59 (UTC)[返信]

  • コメント 失礼ながら、そういう考え方ではなく、この出来事の信頼できる情報源における用例を調査した上で決めた方がいいでしょう。ノート:紀州征伐/Log1のような例もありますので、慎重にすべきです。しかし、今の記事名はデイナイスホテル東京さんのおっしゃる通りの経緯で改名されているので、とりあえず一度合意のなされた「チベット侵攻」に改名しておくことには反対しません。--立花左近会話2013年11月26日 (火) 14:07 (UTC)[返信]

脚注

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  1. ^ Goldstein, Melvyn, An Anthropological Study of the Tibetan Political System, 1968, p. 40
  2. ^ Rahul, Ram, The Structure of the Government of Tibet, 1644–1911, 1962, pp. 263–98
  3. ^ Jiawei, Wang, "The Historical Status of China's Tibet", 2000, pp. 194–7
  4. ^ ロラン・デエ p.211
  5. ^ 毛利和子 1998, p. 257.

「チベット侵攻」および実態不明の「チベットおよび西側諸国」

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まず、この項目名の「チベット侵攻」自体、一方的な歴史認識に基づくものですから、より偏りのない表現に改めるべきだと思います。

また、

チベットおよび西側諸国では、この侵攻を侵略としているが[1]、中国共産党は「西蔵人民」の「帝国主義侵略勢力および国民党反動勢力」からの解放と位置づけている。

いったいどこの「西側諸国」が「侵略」などと呼んでいるのでしょうか?また「チベット」とはチベットの具体的に誰でしょうか?電脳風俗嬢会話2015年8月13日 (木) 18:57 (UTC)[返信]

私は「侵攻」に悪い意味は無いと思います。電脳風俗嬢さんは、それぞれの言葉を、どのように直すのが良いと思いますか?--Freetrashbox会話2015年8月20日 (木) 11:55 (UTC)[返信]

「チベット侵攻」と「チベット問題」

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特別:差分/75920914で大量に追加された部分は、チベット問題にすでに存在するようで、完全なコピペではないものの、ほぼコピペだと思います。西方さん、Dalaibaaturさん、Freetrashboxさんなど、アクティヴになったときに確認してみてください。私も時間があれば精査してみます。--Takabeg会話2020年1月28日 (火) 15:29 (UTC)[返信]

改名の提案

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名称に関してですが、中国側はこの出来事のことを「西藏和平解放」と名付けていて、一方ガンデンポタン側(チベット亡命政府)は「チべット侵攻」と名付けています。ウィキペディアの他の言語版は記事名の中立性を守るために両側の名付けをいずれも採用していません。例えばフランス語版の記事名はfr:Incorporation du Tibet à la république populaire de Chine(チベットの中華人民共和国への編入)であり、英語版もen:Annexation of Tibet by the People's Republic of China(中華人民共和国によるチベット併合)であるように、日本語版以外の言語版は偏りのない記事名のバリエーションを採用しています。日本語版の中でも例を挙げてみると、ロシアによるクリミアの併合という記事名があります。これを受け、「チベット侵攻」→「中華人民共和国によるチベット併合」 と変更するよう提案します。--暁海会話) 2020年10月26日 (月) 4:36 (UTC)

二週間経っても返事がなかった為、一旦ページの移動を行いたいと思います。名称について議論の余地があると思う場合、話題を立て直して下さい。暁海会話2020年11月9日 (月) 20:14 (UTC)[返信]