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「中華人民共和国によるチベット併合」の版間の差分

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当時のチベットの指導者は[[ダライ・ラマ14世|第14代ダライ・ラマ]]であった。第二次世界大戦が[[1945年]]に終結すると、インドと中華民国に代表団を派遣してチベットの主権を確立しようと試みたが、[[中国国民党]]内の強硬派の抵抗にあって失敗し、さらに主権確立、つまり完全独立への画策は同年に勃発した[[国共内戦]]で先送りにされた。<ref>ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)384項-385項</ref>
当時のチベットの指導者は[[ダライ・ラマ14世|第14代ダライ・ラマ]]であった。第二次世界大戦が[[1945年]]に終結すると、インドと中華民国に代表団を派遣してチベットの主権を確立しようと試みたが、[[中国国民党]]内の強硬派の抵抗にあって失敗し、さらに主権確立、つまり完全独立への画策は同年に勃発した[[国共内戦]]で先送りにされた。<ref>ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)384項-385項</ref>


== 戦争経過(第2段階) ==
{{main|チャムドの戦い}}
{{main|チャムドの戦い}}
=== 中国共産党、「チベット侵攻」を発動 ===
=== 中国共産党、「チベット侵攻」を発動 ===
[[毛沢東]]率いる[[中国共産党]]は国共内戦に勝利し、[[1949年]][[10月1日]]に中華人民共和国の建国を宣言した。その6週間後に、中国人民解放軍が、[[ガンデンポタン]]の勢力圏の東部境界付近に集結しているという報告があった。ついで中は、ガンデンポタンの勢力圏に対する侵攻に着手する。[[1950年]][[1月1日]]に、[[中国国際放送]](ラジオ北京)は「[[パンチェン・ラマ10世]]の要請により、中国人民解放軍はチベットを解放する用意がある」と放送した<ref>ロラン・デエ p.313</ref>。[[ロブサン・テンジン|サムドン・リンポチェ]]および[[ダライ・ラマ14世]]はこれを「中華人民共和国側の一方的な『約束』である」、と主張している。さらに1月7日に中国人民解放軍は「チベットの同胞の解放を開始する」ことを宣言し、中国の侵攻は避けられないものとなった<ref>ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)386項</ref>。
[[毛沢東]]率いる[[中国共産党]]は国共内戦に勝利し、[[1949年]][[10月1日]]に中華人民共和国の建国を宣言した。その6週間後に、中国人民解放軍が、[[ガンデンポタン]]の勢力圏の東部境界付近に集結しているという報告があった。ついで中国政府は、ガンデンポタンの勢力圏に対するチベット併合に着手する。[[1950年]][[1月1日]]に、[[中国国際放送]](ラジオ北京)は「[[パンチェン・ラマ10世]]の要請により、中国人民解放軍はチベットを解放する用意がある」と放送した<ref>ロラン・デエ p.313</ref>。[[ロブサン・テンジン|サムドン・リンポチェ]]および[[ダライ・ラマ14世]]はこれを「中華人民共和国側の一方的な『約束』である」、と主張している。さらに1月7日に中国人民解放軍は「チベットの同胞の解放を開始する」ことを宣言する。ref>ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)386項</ref>。

=== 当時の国際社会の動向 ===
=== 当時の国際社会の動向 ===
1949年の時点でチベットおよび西側の情報源では、この侵攻を一般に侵略と呼んでいた<ref name="Rin" />。例えば亡命チベット人の[[ペマ・ギャルポ]]は「チベットは歴史が始まってからずっと独立国家であった」と主張する<ref>ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.173</ref>。一方、中華人民共和国内では、この事件は、一般に「チベットの平和的な解放」と呼ばれている<ref>Xinhuanet.com. "[http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/mil/2007-07/12/content_6363380.htm Xinhuanet.com]." ''人民解放軍解放西藏.'' Retrieved on 2008-03-18.</ref><ref>Scholar.ilib.cn. "[http://scholar.ilib.cn/Abstract.aspx?A=xzmzxyxb-zxshkx200102001 Scholar.ilib.cn]." ''1950 tibet.'' Retrieved on 2008-03-18.</ref>。
1949年の時点でチベットおよび西側のメディアでは、この侵攻を一般に侵略と呼んでいた<ref name="Rin" />。例えば亡命チベット人の[[ペマ・ギャルポ]]は「チベットは歴史が始まってからずっと独立国家であった」と主張する<ref>ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.173</ref>。一方、中華人民共和国内では、この事件は、一般に「チベットの平和的な解放」と呼ばれている<ref>Xinhuanet.com. "[http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/mil/2007-07/12/content_6363380.htm Xinhuanet.com]." ''人民解放軍解放西藏.'' Retrieved on 2008-03-18.</ref><ref>Scholar.ilib.cn. "[http://scholar.ilib.cn/Abstract.aspx?A=xzmzxyxb-zxshkx200102001 Scholar.ilib.cn]." ''1950 tibet.'' Retrieved on 2008-03-18.</ref>。

この中華人民共和国によるチベット侵攻の動きに、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]政府では[[イギリス]]の代表団も出席して国務省にて会議が行われ、中華人民共和国による侵攻に対するチベット抵抗運動を促進して支援するかどうかについて討議され、「チベットに対する小規模な軍事支援が中国人民解放軍に損害を与え、従って侵略を阻止することができるだろう」と結論された。そしてアメリカはイギリスに、インドがチベットへの支援に参加するように、インドに対して説得することを提案した。
この中華人民共和国によるチベット侵攻の動きに、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]政府では[[イギリス]]の代表団も出席して国務省にて会議が行われ、中華人民共和国による侵攻に対するチベット抵抗運動を促進して支援するかどうかについて討議され、「チベットに対する小規模な軍事支援が中国人民解放軍に損害を与え、従って侵略を阻止することができるだろう」と結論された。そしてアメリカはイギリスに、インドがチベットへの支援に参加するように、インドに対して説得することを提案した。
1950年3月、中国人民解放軍はチベット国境で訓練を積み、まずは[[カム (チベット)|カム]]の[[康定県|ダルツェド]]で足を止めた。ダルツェドは中国(漢族)人が仕切ってきた町であり、抵抗はなかった。4月中ごろまでに3万人以上の軍隊が町を通り抜けていった。彼らの任務はダルツェドから[[甘孜県|カンゼ]]までの自動車道建設と地形情報収集であった

しかしアメリカは、[[朝鮮半島]]における状況が緊迫していたこともあり、自国の利権にあまり関係のない[[南アジア]]における紛争に深く関係することに積極的ではなかった。結果的にアメリカは8月にはチベットにインドを経由した極秘援助を伝え、チベット政府はこれを承諾した。<ref>ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)387項</ref>
1950年6月、中国人民解放軍は、カンゼの先にあるデンゴのチベット軍基地に600人の調査隊を送った。中国人民解放軍は「本体」としたチベット軍がいなかったため、さしたる抵抗も無く町は占拠された。チベット人が殺害されたとの情報に、土地の有力部族長が300人の僧を含む800人の武装勢力を持って反撃し、600人の中国人民解放軍は1人残らず殺された。(ただし、解放軍にとって兵士の人命はさほど重要ではなく、占拠に際して十分な情報収集が済んでいたため、この作戦は必ずしも失敗ではなかったとする見解もある。

=== ダルツェドとカンゼの占領 ===
1950年3月、中国人民解放軍はチベット国境で訓練を積み、まずは[[カム (チベット)|カム]]の[[康定県|ダルツェド]]で足を止めた。ダルツェドは中国(漢族)人が仕切ってきた町であり、抵抗はなかった。4月中ごろまでに3万人以上の軍隊が町を通り抜けていった。彼らの任務はダルツェドから[[甘孜県|カンゼ]]までの自動車道建設と地形情報収集であった<ref name="MikelDunham55">『中国はいかにチベットを侵略したか』p.55</ref>。

1950年6月、中国人民解放軍は、カンゼの先にあるデンゴのチベット軍基地に600人の調査隊を送った。チベット人たちが殺されたが、チベット軍本体がいなかったため、さしたる抵抗も無く町は占拠された。チベット人が殺害されたとの情報に、土地の有力部族長が300人の僧を含む800人の武装勢力を持って反撃し、600人の中国人民解放軍は1人残らず殺された。ただし、解放軍にとって兵士の人命はさほど重要ではなく、占拠に際して十分な情報収集が済んでいたため、この作戦は必ずしも失敗ではなかった<ref>『中国はいかにチベットを侵略したか』p.60</ref>。

1950年8月までにカンゼまでの自動車道が完成し、チベット商人はこれを歓迎した。中国人民解放軍はカンゼを占領し、カンゼに拠点を置いた<ref name="MikelDunham55"/>。
1950年8月までにカンゼまでの自動車道が完成し、チベット商人はこれを歓迎した。中国人民解放軍はカンゼを占領し、カンゼに拠点を置いた<ref name="MikelDunham55"/>。

=== 侵攻開始 ===
[[チャムド地区]]へは1950年秋から、第一書記の[[鄧小平]]の西南局傘下の十八軍が侵攻を開始した{{Sfn|毛利和子|1998|p=256}}。
[[チャムド地区]]へは1950年秋から、第一書記の[[鄧小平]]の西南局傘下の十八軍が侵攻を開始した{{Sfn|毛利和子|1998|p=256}}。

[[1950年]][[10月7日]]深夜、中国人民解放軍は、[[張国華]][[将軍]]を指揮官として、「中華人民共和国側が中央チベットとの境界である」と主張するようになった、ラサの東方100kmの位置まで侵攻した<ref name="Rin"/>。人民解放軍の兵力は2万人<ref>ユン・チアン『マオ』下巻p.216</ref>もしくは4万人<ref name="LaurentDeshayes314">ロラン・デエ p.314</ref>であったという。人民解放軍は東チベットに3方から同時に進軍した<ref>『中国はいかにチベットを侵略したか』p.65</ref>
[[1950年]][[10月7日]]深夜、中国人民解放軍は、[[張国華]][[将軍]]を指揮官として、「中華人民共和国側が中央チベットとの境界である」と主張するようになった、ラサの東方100kmの位置まで進軍した<ref name="Rin"/>。人民解放軍の兵力は2万人<ref>ユン・チアン『マオ』下巻p.216</ref>もしくは4万人<ref name="LaurentDeshayes314">ロラン・デエ p.314</ref>であったという。人民解放軍は東チベットに3方から同時に進軍した。

この進攻に対して、チベットに与した「[[義勇兵]]」を含め8000人のチベット軍が阻止を試みた。磴口では[[ムジャ・ダポン]]が率いる部隊が最大の火力であった[[ブレン303軽機関銃]]で応戦した。そこから100キロ南では中国人民解放軍が揚子江の渡河に成功してチベット軍の部隊50名を全滅させてランサムのチベット軍駐屯地に向かい前進した。そこからさらに200キロ南では中国人民解放軍は揚子江を渡河してマーカム・ガートク駐屯地を攻撃し、250名のチベット部隊を全滅させた。
この進攻に対して、チベットに与した「[[義勇兵]]」を含め8000人のチベット軍が阻止を試み発動した。磴口では[[ムジャ・ダポン]]が率いる部隊が最大の火力であった[[ブレン303軽機関銃]]で応戦した。そこから100キロ南では中国人民解放軍が揚子江の渡河に成功してチベット軍の部隊50名を全滅させてランサムのチベット軍駐屯地に向かい前進した。そこからさらに200キロ南では中国人民解放軍は揚子江を渡河してマーカム・ガートク駐屯地を攻撃し、250名のチベット部隊を全滅させた。

翌10月7日にチベット北部でムジャ・ダポンの指揮下にあった小部隊は中国人民解放軍を揚子江で阻止していたが、ランサムの部隊はチャムドに向けて後退を開始しており、孤立しつつあった。10月8日にも中国人民解放軍の波状攻撃を阻止することに成功したが、作戦不可能なまでに戦力を失い、その夜間に指揮官は部隊を解散した。このことで中国人民解放軍はチベット北部で揚子江を渡河したために、磴口のムジャ・ダポンもチャムドまで後退を決意せざるをえなかった。
[[10月]][[7日]]にチベット北部でムジャ・ダポンの指揮下にあった小部隊は中国人民解放軍を揚子江で阻止していたが、ランサムの部隊はチャムドに向けて後退を開始しており、孤立しつつあった。[[10月]][[8日]]にも中国人民解放軍の波状攻撃を阻止することに成功したが、作戦不可能なまでに戦力を失い、その夜間に指揮官は部隊を解散した。このことで中国人民解放軍はチベット北部で揚子江を渡河したために、磴口のムジャ・ダポンもチャムドまで後退を決意せざるをえなかった。

=== チャムド制圧 ===
=== チャムド制圧 ===
10月16日にチャムドで行方不明だった知事[[ンガプー・ンガワン・ジクメ]](アボ)を捜索し、ラサへの交通路が中国人民解放軍に遮断されたために潜伏していたチャムド付近の寺院で発見した。ダポンはンガプーに対して戦力を集中してラサへの交通路を確保することを主張したが、ンガプーは反対して翌日の10月17日に中国人民解放軍に投降した。10日間の抵抗の後にチベットは敗北した。<ref>ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)388項-390項</ref>。中共軍は、一月あまりの戦闘を経て、同年10月24日、東チベットの軍に勝利し、チャムドを占領した{{Sfn|毛利和子|1998|p=256}}。これらの戦争は、「チャムドの戦い」ともいわれる{{Sfn|毛利和子|1998|p=256}}。
[[10月]][[16日]]にチャムドで行方不明だった知事[[ンガプー・ンガワン・ジクメ]](アボ)を捜索し、ラサへの交通路が中国人民解放軍に遮断されたために潜伏していたチャムド付近の寺院で発見した。ダポンはンガプーに対して戦力を集中してラサへの交通路を確保することを主張したが、ンガプーは反対して翌日の10月17日に中国人民解放軍に投降した。10日間の抵抗の後にチベットは敗北した。<ref>ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)388項-390項</ref>。中共軍は、一月あまりの戦闘を経て、同年10月24日、東チベットの軍に勝利し、チャムドを占領した{{Sfn|毛利和子|1998|p=256}}。これらの戦争は、「チャムドの戦い」ともいわれる{{Sfn|毛利和子|1998|p=256}}。

===被害===
===被害===
チベットの首都ラサから派遣された兵士は時としてカムの義勇兵を見捨てたこともあた<ref name="LaurentDeshayes314"/>。
チベットの首都ラサから派遣された兵士は時としてカムの義勇兵を見捨てたこともあり、中国を支持する住民や商人を殺害しとされる<ref name="LaurentDeshayes314"/>。

この時の[[チャムドの戦い]]でチベット軍4500人、兵士3500人の内、6000人を“殲滅”したといわれる{{Sfn|毛利和子|1998|p=256}}<ref>A・T・グルンフェルド『現代チベットの歩み』東方書店,1994年,152頁</ref>。[[ダライ・ラマ14世]]側も、この戦闘におけるチベット軍の戦死者を4000人以上としている<ref>[http://www.tibethouse.jp/history/19491001.html ダライ・ラマ法王日本代表部事務所]。</ref>
この時の[[チャムドの戦い]]でチベット軍4500人、兵士3500人の内、6000人を“殲滅”したといわれる{{Sfn|毛利和子|1998|p=256}}<ref>A・T・グルンフェルド『現代チベットの歩み』東方書店,1994年,152頁</ref>。[[ダライ・ラマ14世]]側も、この戦闘におけるチベット軍の戦死者を4000人以上としている。

===チャムドの戦いに関するラサ政府の対応===
===チャムドの戦いに関するラサ政府の対応===
チャムドから緊急の無線がラサ政府に向けて発せられていたが、彼らはたまたま実施中のピクニックを中断することもなく、インドその他に事態を知らせることもなく、いわば黙殺した。ラサ政府はあくまでも中央チベットさえ守られればよく、事態が中央チベット国内に伝わることでの混乱を恐れていたとも考えられる。たまたまインドにいたチベット代表団に対してインドの[[メディア]]が中華人民共和国による侵攻について質問すると、「そんな事実は無い」とそっけなく否定し、中華人民共和国の行動を黙認しているかのような態度を取った。一方中国人民解放軍は、「僧から歓迎される様子」や「降伏文書調印の様子」を写真に収め、メディアに提供するとう[[プロパガンダ]]活動を忘れなかっ<ref name="MikelDunham66"/>
チャムドから緊急の無線がラサ政府に向けて発せられていたが、彼らはたまたま実施中のピクニックを中断することもなく、インドその他に事態を知らせることもなく、いわば黙殺した。ラサ政府はあくまでも中央チベットさえ守られればよく、事態が中央チベット国内に伝わることでの混乱を恐れていたとも考えられる。たまたまインドにいたチベット代表団に対してインドの[[メディア]]が中華人民共和国による侵攻について質問すると、「そんな事実は無い」とそっけなく否定し、中華人民共和国の行動を黙認しているかのような態度を取っいた。

===中国による進駐宣言と印英政府の対応===
===中国による進駐宣言と印英政府の対応===
[[1950年]][[10月25日]]、中華人民共和国政府は中国人民解放軍のチベットへの進駐を宣言した。これはチャムド侵攻から17日も経ってからのことだった。
== 占領後 ==
翌10月26日、インド政府はこれを「侵略行為」として非難の政府声明を発表し、イギリス政府もこれを支持したが、両国はチベットへの軍事支援については触れず、実際に軍事支援を差し伸べることは無かった<ref>ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.120</ref>。
占領の初期において首都ラサを中心に大量の難民が発生。その多くがインドに逃れた。このとき中国人民解放軍の一部が過剰に反抗してくる住民を殺害したりしたために後に問題として扱われている。これらの衝突や紛争の結果、100万人のチベット人が死亡し、6000の僧院が破壊されたとの見方がある。また、当時中央チベットと中国をむすぶ幹線道路建設事業などにおいて一部の現場でチベット人労働者に賃金が支払われず、強制労働化していたとして問題定義された。中国政府はこれらを「極左翼の誤り」とする声明を発表、政府職員の一部は謝罪しているが、人民解放軍については特にこれに対した動きが確認されていない。
[[1950年]][[11月7日]]<ref name="LaurentDeshayes315">ロラン・デエ p.315</ref>(あるいは10月17日<ref name="PemaGyalpo119">ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.119</ref>)、摂政タクタ・リンポチェ・ガワン・スンラプは引退し、テンジン・ギャムツォは成人とされていた18歳に達しておらず(16歳)、本人は望まなかったが、国王としての親政を開始した。そしてラサ議会の示唆に従い、インド国境のヤトンに避難した<ref name="PemaGyalpo119"/>。
===ラサ政府と国際連合・中華民国の対応===
同[[1950年]][[11月7日]]、チベットのラサ政府は[[国際連合]]に対して中華人民共和国による侵攻を訴えたが、国際連合の国連総会運営委員会は、「チベットと中国、インドに平和をもたらすためにも国連の場で討議することはふさわしくない」として、介入に対する審議の延期を決定した<ref>ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.121</ref>。またこれについては[[国連軍]]を組織してまで関与していた[[朝鮮戦争]]への対応が精一杯で、チベットに介入する余裕は無かったためとする見方もある<ref name="LaurentDeshayes315"/>。
なおチベット政府は、国際連合の[[常任理事国]]であった[[中華民国]]が独立国として認めておらず、自国領土として扱っていたため、正式な独立国として扱われていない上、文書がチベット政府から直接でなくインドから発送されていたため、本物かどうか確認できなかったからでもある。
この事態に対し、サラエヴォ<ref name="LaurentDeshayes315"/>と[[エルサルバドル]]<ref name="MikelDunham78"/>がチベット擁護を主張したが効果は無かった。
また中華民国政府はあくまでもチベットを「自国領土」とする立場だったため、結果として、自らの敵国である中華人民共和国によるチベットへの侵攻を弁護する形になった<ref name="LaurentDeshayes315"/>。
===中央チベット攻略作戦===
1950年11月9日、中国政府(中国共産党中央政府)は、中央チベット攻略作戦(「'''チベット全域解放作戦'''」と呼称)を準備しつつ、チベット政府との交渉を続けた{{Sfn|毛利和子|1998|p=257}}。
===自治政府の設置===
[[清朝]]末期以来、中国・[[四川省]]の地方政権との間で争奪の対象となっていた東チベット地方では、[[1950年]][[12月15日]]、[[西康省蔵族自治区]]、青海省人民政府等が設置された。戦後のチャムドでは反目しあっていた部族間で略奪や殺戮が激化してしまい、町は地獄と化した。
===チャムド人民解放委員会設立===
==十七か条協定==
{{See|十七か条協定}}
1951年、中国政府側は、東トルキスタン([[新疆]])、青海、チャムドの3方面から人民解放軍を投入し、チベット軍を撃破しながらチベットの首都[[ラサ]]に侵攻した(しかし、首都ラサへの侵攻について包囲作戦は用いられなかった)。
十七ヶ条協定が締結される際、チベット政府([[ガンデンポタン]])の元首である[[ダライ・ラマ14世]]は出席せず、代わりとしてチベット側の代表として、[[ンガプー・ンガワン・ジクメ|アボ・アワン・ジグメ]]がこれに署名した。チベット政府は、[[ンガプー・ンガワン・ジクメ|アボ・アワン・ジグメ]]は協定締結時に使用した[[国璽]]はチベット政府の正式な国璽ではなくアボが事前に偽造した国璽であり協定締結はされていないと主張した(チベット政府側の資料では、チベット政府の元首である[[ダライ・ラマ14世]]はアボがチベット政府側の許可がないままに独断により協定を締結したりなどをしないように配慮し、チベット政府の正式な
国璽はダライ・ラマ14世の手元に厳重に保管しておいたとされていた)。その一方で中国政府はアボの持参した国璽はチベットの正式なものであるとした見解の上、協定は締結されたと主張した(中国政府側の資料ではアボの持参したチベット政府のものとされる国璽はチベット政府の資料から製作した資料のものと一致し、チベット側からも正式な国璽であると話されていたとされていた)。このため、チベット議会がこれを認めなかったため、当時チベット議会で中国への併合について意見が分かれていたとされる内中国併合賛成派のアボは[[ダライ・ラマ14世]]に対して離反を行い中国側につき、以降彼らはチベット議会に参加しなくなった。
この[[十七か条協定]]では、[[ガンデンポタン]]を「[[西蔵地方政府]]」と規定し、チベットを「中華人民共和国祖国大家庭」に「復帰させる」こと等を定めたり、人民解放軍による蛮行を制限する内容となっていた。協定の第四条では「西蔵の現行の政治制度には、中央は変更を加えない<ref>對於西藏的現行政治制度,中央不予變更</ref>」と定められていたが、中国政府のいう「[[西蔵]]」にはアムドやカムの東部は含まれていなかった。また、チベット軍を中国人民解放軍へ編入するとも定められていた。
この[[十七か条協定]]では、[[ガンデンポタン]]を「[[西蔵地方政府]]」と規定し、チベットを「中華人民共和国祖国大家庭」に「復帰させる」こと等を定めたり、人民解放軍による蛮行を制限する内容となっていた。協定の第四条では「西蔵の現行の政治制度には、中央は変更を加えない<ref>對於西藏的現行政治制度,中央不予變更</ref>」と定められていたが、中国政府のいう「[[西蔵]]」にはアムドやカムの東部は含まれていなかった。また、チベット軍を中国人民解放軍へ編入するとも定められていた。
===「協定」の放送===
[[1951年]][[5月]][[26日]]には、中華人民共和国の国営放送局である中国国際放送を通じてチベット政府により十七ヶ条協定が締結されたと放送されている。この放送により、中国政府は中華人民共和国国民、支持を中国を指導する立場にある中国共産党へおおいに集めたとされている
=== 十七ヶ条協定の消滅 ===
この後、中国の[[中国人民解放軍]]はチベットの[[首都]][[ラサ]]に侵攻、チベット軍と交戦状態に陥る。これによりダライ・ラマ14世に十七か条協定を承認した(この際、一部の中国併合反対派の者は逃亡したとされこの時からダライ・ラマ14世の亡命先インドでの亡命政府規律の準備や手続きが既に行われていたとする見方もある)。ただしその十七ヶ条協定は一番最初にアボが国璽を押したものとは異なりチベット政府単独による自治を認めていなかった。協定締結後、それに伴って、同協定第八条によりチベット軍は中国人民解放軍に編入された。以降元チベット軍兵士や兵器は、暫くの間チベット地域内に配属されていたとされるが、年々中国人民解放軍内に分散されていき、元チベット軍の施設も、博物館や展示物などに改装されているもの以外は近代化に伴い建て替えなどが進んでいるため現在はチベット地域に残るチベット軍の遺構は極めて少ない。
[[1959年]]、ダライ・ラマ14世はラサを脱出、[[インド]]へ亡命した。その途上、国境の手前でダライ・ラマ14世はチベット臨時政府の発足と十七か条協定の正式破棄を宣言した。これにより、中国政府側も「西藏政府(チベット政府)は廃止された」と公表し、これより十七か条協定は消滅している。
[[1951年]][[9月]][[6日]]、ダライ・ラマ14世は9ヶ月ぶりにチベットの首都ラサに戻り、これによりその3日後に3000人の中国人民解放軍がラサに進駐した。チベット政府内で協定を認めるかどうかが話し合われたが、ラサの三大僧院長の強い意向もあり[[1951年]][[10月]][[24日]]、ダライ・ラマ14世は、「協定を承認し中国人民解放軍の進駐を支持する」とした内容の手紙を中国共産党の毛沢東に送った{{Sfn|毛利和子|1998|p=259}}。
[[ユン・チアン]]によれば、「十七か条協定」は、中華人民共和国側にとっても時間稼ぎの意味があったと主張している。高地に慣れていない中国人民解放軍の兵士にとって、大軍を送り込む幹線道路のない中央チベットは難攻の地であったためである。しかし、中国人民解放軍共和国側の移動の為の幹線道路や施設は次第に建設されて行き、これにより中国華人民解放軍共和国内からチベットによる侵攻が用意になったとしている(幹線道路の他にも中国人民解放軍は戦車などを、チベットの砂漠でも活動が容易なように防塵仕様に改造したり、兵士についてもそのような訓練が導入された。
==その後のチベット側の動向==
===人民会議事件===
1952年3月には、17ヶ条協定の撤回と「中国人民解放軍」のチベットからの撤退を要求する[[人民会議事件]]が発生し、中国政府はチベット政府の首都ラサで抵抗に遭っている。また、中国人民解放共軍の長期駐留は、地元との対立の引き金となる事があり、この対立によって、[[1952年]]には、中国人民解放軍撤退を求める武装団体などと中国人民解放軍が衝突し、は1952年にチベット東部の町である[[ジェクンド]]が甚大な被害を受けている。
===「中央のチベット工作についての指示」===
[[1952年]][[4月6日]]、[[毛沢東]]は「[[中央のチベット工作についての指示]]」を出し、漢族が数十万いる[[新疆]]地区(ウイグル地域)とは異なり、チベット地域には漢族がほとんどいないということを、指摘したうえで、中央チベットなどでの土地改革は延期された。
なお、毛沢東は人民会議事件を受けて、チベット併合の困難さを認識し、以後、チベット政策を重大な問題のひとつとして、[[1959年]]の反乱の処理にいたるまで政治的決定を主導していった。
===チベット住民の武器押収===
東チベットでは放牧が盛んであり、仕事柄銃を持つ住民が多く<ref name="yun2-216">ユン・チアン 下p.216</ref>、とりわけカムの住民は、古来、好戦的なことで知られており、漢族などが古来治めていた地域などを中心として悪評がたっていたことなどから{{Sfn|ロラン・デエ|2005|p=323}}、中国政府は東チベットの治安に当たって、住民から武器を没収した。中国側はチベットの近代化を進める上での当然の処置と考えていたが、カムの住民は抵抗の意を示した。
===「積極分子」「闘争集会」工作===
そこで中国当局は、チベット人を対象に中国政府側への募集をかけて、それに集まった人々を、「積極分子(フルツン・チェンポ)」と認定し、銃回収に当たらせ、また[[タムジン]](闘争集会)という会合を開かせ、中国の統治に不満を持つものを一種の私的裁判にかけた。とりわけ名家の人間には一般の人間より厳しく裁判が行われていた。
また、当時、中国政府は、中央チベットと中国などとを結ぶ幹線道路建設を盛んに行っていたが、チベット人労働者に対して当初から賃金が支払われていたが、[[1954年]]頃からは一部が強制労働に変わっていたことが問題として定義されている。
===「民主改革」からカム反乱へ===
一方、漢人の東チベット地域への入植が進められると、{{Sfn|ペマ・ギャルポ|1988|p=127}}、[[1954年]]に農業改革、[[1955年]]7月に土地共有化の促進が「[[民主改革]]」として着手された。この「民主改革」とは[[共産主義]]思想にもとづいて領主や寺院や富裕層からの土地財産が再分配を目的としたうえで中国政府に没収されるものである。寺院財産の没収を契機とし、翌[[1956年]]から、アムドとカム東部の全域で大規模な蜂起が勃発する。
このような中国による東チベット地域の支配に対して、東チベットの住民の多くは中国政府の政策に対して反抗的となっていった。中国政府はその報復として次々に厳しい政策を打ち出していった。中国に不満を持つ東チベット人の一部は、[[テンスン・ランタン・マガル]](国民防衛義勇軍)を作って反抗しようとした{{Sfn|ロラン・デエ|2005|p=323}}。
これ以降の経緯については、[[カム反乱]]を参照。


== 占領後 ==
== 占領後 ==

2020年1月25日 (土) 15:11時点における版

チベット紛争
1948年 - 1950年
場所チベット
結果 中華人民共和国の勝利
衝突した勢力
チベットの旗 チベット 中華人民共和国
中国による平和解放記念碑
2001年チベット征服50周記念年に設立された。

チベット侵攻(チベットしんこう)とは、中国人民解放軍中国共産党の軍隊)によるチベットへの侵攻をいう。侵攻は、

  1. チベットの東北部・東部に対して(1948 - 1949)
  2. 中央チベットに対して(1950 - 1951)

の2段階にわかれる。

中国では18世紀の雍正のチベット分割以来、後者の領域を「西藏」と名付けており、中華人民共和国は、後者を指して、特に中國侵略西藏/བོད་ཞི་བས་བཅིངས་འགྲོལ」(シーザンフーピンチァファン/プーシーウェーチンドゥル)と名付けている[1]

「第一段階」では、中華民国青海省馬歩芳西康省劉文輝らを降してアムド地方やカム地方の北部・東部・南部を制圧[2]、ついで「第二段階」でチベット政府ガンデンポタンを屈服させ、カム地方の西部やウー・ツァン地方、ガリ地方を制圧[3]、これにより、中華人民共和国は、チベットの全域を制圧することとなった。

チベットおよび西側諸国では、この侵攻を侵略としているが[1]中国共産党は「西蔵人民」の「帝国主義侵略勢力および国民党反動勢力」からの「解放」と位置づけている。

これを契機として、中国政府とチベット政府ガンデンポタンの間で「十七か条協定」が「締結」され、チベット軍は中国人民解放軍に編入され(同協定第八条)、チベットの全域が中華人民共和国の支配下に入った[4]

背景

本節では、中華人民共和国によるチベット侵攻に先立つチベット各地の状況を概観する。

雍正のチベット侵攻(1723 - 1724)・分割(1724 - 1732)以降、チベットは西藏[5]青海と、隣接する中国の各省(甘粛四川雲南)に組み込まれた地域とに3分されていた。

青海地方の状況

1860年代の回民の大叛乱ののち、中国西北の寧夏甘粛陝西等の各地方、および青海はイスラム教徒馬一族の支配下に入り、辛亥革命により清朝が倒れたのちもこの状況はつづいた。中華民国北京政府青海を「将来省制を施行すべき」特別地区と位置づけ、国民政府により、東隣の河西回廊の一部とあわせて1928年に「青海省」が発足した。この間、馬一族からは馬領翼青海弁事長官(1913-14)、馬麟甘辺寧海鎮守使青海蒙蕃宣慰使(1915-28)、青海省委員(1929-38)、青海省主席(1931−33)等、馬歩芳青海省主席(1938-1949)に就任している[6]

清国が滅亡したのち、ガンデンポタンはチベット全土の再統一をめざし、1933年には青海地方の南部(カム地方北部)の玉樹地方でチベット軍と青海軍が衝突したが、現状維持におわった。

激動のカム地方東部:「四川省の西部」から「西康省」へ

清朝の東部チベット支配

雍正のチベット分割(1724年 - 1732年)の際に、西藏青海のいずれにも組み込まれなかった各地の諸侯たちは、甘粛四川雲南など隣接する中国の各省に分属し、兵部を通じて土司の称号を与えられ、所領の安堵をうけることとなった。

19世紀なかば、ニャロン地方の領主グンポナムギャルが急速に勃興し、四川省に所属する諸侯を制圧し、清朝に対し册封と、征服地に対する支配権の確認を求めた。清の朝廷はグンポナムギャルを阻止し、清を宗主として仰ぐ諸侯を救援せねばならない立場にあるためこれを拒否したが、太平天国の乱や英仏とのトラブルをかかえており、グンポナムギャルをとがめて諸侯を旧領に復帰させる力はなく、解決をガンデンポタンに委ねた。

ガンデンポタン軍はディチュ河を東に越えてカム地方東部に侵攻、数年をかけてグンポナムギャルを追いつめ、1863年にグンポナムギャルの本拠ニャロンを攻略、グンポナムギャルに追われていた諸侯を旧領に復帰させた。清朝は、「四川省内の戦乱」を鎮圧したガンデンポタンに戦費を支払う余裕もなかったため、その代償として、ガンデンポタンによるニャロンの領有と近隣諸侯に対する支配権をみとめた。ガンデンポタンはニャロン・チーキャプ(総督府)を設置し、チーキャプ(総督)を派遣してこれを統治することとなった[7]

清国は、中国における諸反乱をほぼ収束させると、清末新制に着手した。「清末新制」は、清国における国家体制の近代化であるが、チベット、モンゴルなどに対しては、従来中国とは別個の法制・行政制度のもと、の長や土司職にある諸侯たち、ガンデンポタンなど、その民族自身による統治に委ねてきた体制を根本的に覆し、を設けて中国に組み込むことを目指す、というものであった(東トルキスタンでは、すでに1878年制が施行され、行政機構の中国化が達成されていた)。

四川総督趙爾豊は、1905年、蜀軍(四川軍)を率いてカム地方の東部に侵攻、諸侯を軍事制圧したのち取り潰しを宣言しつつ西進、ニャロン・チーキャプを転覆してガンデンポタンの管轄領域の奥深くまで侵入し、1910年にはラサを占領するにいたった。ガンデンポタンの長ダライ・ラマ13世はインドへ逃れた。趙はカム地方の諸侯やガンデンポタンによる支配を排し、従来ガンデンポタンの統治下にあったカム地方西部とカム地方の東部をあわせた領域に「西康省」を、中央チベットには「西蔵省」を設けようと試みた。しかしながら1911年、中国で辛亥革命が勃発、趙は成都に戻ったところを革命派に殺害され、カム地方の東端からラサにいたるまでのチベット各地に趙が配置した軍事・行政機構は、チベット側の反撃により徐々に切り崩されていくこととなる。

「西康省」をめぐるチベット政府ガンデンポタンと中華民国歴代政府の抗争

チベット政府ガンデンポタンは、清国の滅亡にともなう中国側の混乱に乗じて反攻を開始、1913年にラサを奪還して独立を宣言するとともに、1917年 - 1918年1931年 - 1933年にかけて、中華民国と戦火を交え、ディチュ河(金沙江)に至るまでのカム地方の西部に対する支配権を徐々に回復していった。

チベットと中国は、それぞれカム地方の全域が自国の管轄下にあるという建前の地方行政単位をもうけた。チベットは、カム地方西部の中心都市チャムドに「ドカム総督府」を置き、閣僚級のアムド・カム総督(ドメーチーキャプ)を配して統治にあたらせた。一方、中華民国は、発足以来、カム地方に対して趙爾豊が構想した西康省を設置することができず、ガンデンポタンが実効支配する地域もふくめて、名義の上で川辺特別区と称していたが、国民政府時代の1939年、実効支配の及ぼばないディチュ河以西をも名目上の範囲として、西康省を設置した。川辺地区もしくは西康省の歴代長官は四川省に縁故のあるものたちが就任し、南京国民政府西康建省委員会委員長(任1934-39)や初代の西康建省政府主席(1939-49)は、四川省政府主席から転じた劉文輝がつとめた。

中央チベット(西藏)の状況

1637年より42年にかけて、ダライ・ラマを信仰するグシ・ハン[8]がチベットを征服、ヤルンツァンポ河流域が当時のダライラマ五世(1618-83,位1622−96)[9]寄進され、ダライラマの財務監(チャンズーパ)ソナム・ラプテンデシーに任じられてその統治・管理にあたった。ガンデンポタンはこの寄進により、ダライラマ領の統治機関となった。ダライラマは、自身の財務監(チャンズーパ)であるデシーの任命権を保有したほか、チベット各地の諸侯に対してグシハン一族とともに所領の安堵を行い、ゲルク派寺院の人事権、その他の宗派の管長の地位の認定などをおこない、政治・宗教の権力・権威の頂点に立つようになった[10][11]。さらにはハルハオイラト本国、ダライラマ政権の樹立に貢献した青海ホショトをはじめとする青海オイラトなどチベット内外のモンゴル王公たちにハンホンタイジタイジ等の称号を授与し、清朝もダライラマ五世が彼らに授与した称号をそのまま使用するなど、チベットの枠をこえ、チベット仏教圏諸国の権威の頂点に位置するようになった[12]

雍正のチベット分割ののち、清朝はタンラ山脈ディチュ河を結ぶ線の南方に位置する諸侯の支配権をあらたに「ダライラマに賞給」する一方で、この線の北方に位置するチベット人諸侯に対する領主権の認定権や青海オイラト人王公に対する称号の授与権などの制限をはかった[13]が、ダライラマの宗教的権威はその後もおとろえず、チベット・モンゴルにまたがるチベット仏教界の頂点に位置しつづけた[14]

1642年のダライラマ政権の発足以来、ダライラマ政権の3種の首脳であるダライラマチベット=ハンデシーの地位の認定は、チベットの内部[15]で決定されており、清朝による関与は、これらの地位についた有力人物の地位を追認する形で称号や印章をおくるにとどまっていた[16]

清朝は、1706年-20年の「ダライラマ五世の後継者をめぐるグシ・ハン一族の内紛」、1727年-28年の「ウー・ツァンの内戦」、1750年-51年の「ダライバートルの」、1788 年-89年,1791年-92年の 「清・ネパール戦争」など、チベットで内乱や外患が生ずるごとに介入してそのプレゼンスを強めていった。しかし19世紀にはいると、一転してチベットを支援する余裕をなくし、1840年のドーグラー戦争、1855年−56年のチベット・ネパール戦争は、チベット単独でカシミールネパールなどの外敵と戦って不利な講和を余儀なくされ、清朝皇帝の「転輪聖王たる文殊皇帝」としての権威は失墜していった。

1903年-04年の、英領インド軍を率いたフランシス・ヤングハズバンド武装使節団の侵攻の際、当時のダライラマ十三世は北京におもむいて清朝に支援を求めたが思うような助力は得られず、逆に趙爾豊率いる蜀軍の侵攻、ラサ制圧(1905-1910)をみるにいたり、チベットは従来清朝との間に存在した「チョユンの関係(施主と福田の関係)」は完全に終焉を迎えたと判断し、「清朝からの独立」を模索するようになる。

20世紀前半のチベット情勢

チベットはユーラシア大陸の中央部に位置する険しいチベット高原に存在し、独自の文化圏を築いていた。しかし、清朝の時代の一時期に、清国軍の駐屯を受け入れて保護国となった。また19世紀にはイギリスの勢力下にあり、1904年イギリス軍はラサに駐屯していた。辛亥革命後にチベットは自立し、第二次世界大戦においては中立政策を保持していた[17]。ただし第二次世界大戦におけるチベットは、中立政策を掲げながらもイギリス軍やアメリカ軍などの連合国軍へ、中華民国への兵站線を提供していた。

当時のチベットの指導者は第14代ダライ・ラマであった。第二次世界大戦が1945年に終結すると、インドと中華民国に代表団を派遣してチベットの主権を確立しようと試みたが、中国国民党内の強硬派の抵抗にあって失敗し、さらに主権確立、つまり完全独立への画策は同年に勃発した国共内戦で先送りにされた。[18]

中国共産党、「チベット侵攻」を発動

毛沢東率いる中国共産党は国共内戦に勝利し、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言した。その6週間後に、中国人民解放軍が、ガンデンポタンの勢力圏の東部境界付近に集結しているという報告があった。ついで中国政府は、ガンデンポタンの勢力圏に対するチベット併合に着手する。1950年1月1日に、中国国際放送(ラジオ北京)は「パンチェン・ラマ10世の要請により、中国人民解放軍はチベットを解放する用意がある」と放送した[19]サムドン・リンポチェおよびダライ・ラマ14世はこれを「中華人民共和国側の一方的な『約束』である」、と主張している。さらに1月7日に中国人民解放軍は「チベットの同胞の解放を開始する」ことを宣言する。ref>ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)386項</ref>。

当時の国際社会の動向

1949年の時点でチベットおよび西側のメディアでは、この侵攻を一般に侵略と呼んでいた[1]。例えば亡命チベット人のペマ・ギャルポは「チベットは歴史が始まってからずっと独立国家であった」と主張する[20]。一方、中華人民共和国内では、この事件は、一般に「チベットの平和的な解放」と呼ばれている[21][22]

この中華人民共和国によるチベット侵攻の動きに、アメリカ政府ではイギリスの代表団も出席して国務省にて会議が行われ、中華人民共和国による侵攻に対するチベット抵抗運動を促進して支援するかどうかについて討議され、「チベットに対する小規模な軍事支援が中国人民解放軍に損害を与え、従って侵略を阻止することができるだろう」と結論された。そしてアメリカはイギリスに、インドがチベットへの支援に参加するように、インドに対して説得することを提案した。 1950年3月、中国人民解放軍はチベット国境で訓練を積み、まずはカムダルツェドで足を止めた。ダルツェドは中国(漢族)人が仕切ってきた町であり、抵抗はなかった。4月中ごろまでに3万人以上の軍隊が町を通り抜けていった。彼らの任務はダルツェドからカンゼまでの自動車道建設と地形情報収集であった

1950年6月、中国人民解放軍は、カンゼの先にあるデンゴのチベット軍基地に600人の調査隊を送った。中国人民解放軍は「本体」としたチベット軍がいなかったため、さしたる抵抗も無く町は占拠された。チベット人が殺害されたとの情報に、土地の有力部族長が300人の僧を含む800人の武装勢力を持って反撃し、600人の中国人民解放軍は1人残らず殺された。(ただし、解放軍にとって兵士の人命はさほど重要ではなく、占拠に際して十分な情報収集が済んでいたため、この作戦は必ずしも失敗ではなかったとする見解もある。

1950年8月までにカンゼまでの自動車道が完成し、チベット商人はこれを歓迎した。中国人民解放軍はカンゼを占領し、カンゼに拠点を置いた[23]チャムド地区へは1950年秋から、第一書記の鄧小平の西南局傘下の十八軍が侵攻を開始した[24]

1950年10月7日深夜、中国人民解放軍は、張国華将軍を指揮官として、「中華人民共和国側が中央チベットとの境界である」と主張するようになった、ラサの東方100kmの位置まで進軍した[1]。人民解放軍の兵力は2万人[25]もしくは4万人[26]であったという。人民解放軍は東チベットに3方から同時に進軍した。

この進攻に対して、チベットに与した「義勇兵」を含め8000人のチベット軍が阻止を試み発動した。磴口ではムジャ・ダポンが率いる部隊が最大の火力であったブレン303軽機関銃で応戦した。そこから100キロ南では中国人民解放軍が揚子江の渡河に成功してチベット軍の部隊50名を全滅させてランサムのチベット軍駐屯地に向かい前進した。そこからさらに200キロ南では中国人民解放軍は揚子江を渡河してマーカム・ガートク駐屯地を攻撃し、250名のチベット部隊を全滅させた。

10月7日にチベット北部でムジャ・ダポンの指揮下にあった小部隊は中国人民解放軍を揚子江で阻止していたが、ランサムの部隊はチャムドに向けて後退を開始しており、孤立しつつあった。10月8日にも中国人民解放軍の波状攻撃を阻止することに成功したが、作戦不可能なまでに戦力を失い、その夜間に指揮官は部隊を解散した。このことで中国人民解放軍はチベット北部で揚子江を渡河したために、磴口のムジャ・ダポンもチャムドまで後退を決意せざるをえなかった。

チャムド制圧

10月16日にチャムドで行方不明だった知事ンガプー・ンガワン・ジクメ(アボ)を捜索し、ラサへの交通路が中国人民解放軍に遮断されたために潜伏していたチャムド付近の寺院で発見した。ダポンはンガプーに対して戦力を集中してラサへの交通路を確保することを主張したが、ンガプーは反対して翌日の10月17日に中国人民解放軍に投降した。10日間の抵抗の後にチベットは敗北した。[27]。中共軍は、一月あまりの戦闘を経て、同年10月24日、東チベットの軍に勝利し、チャムドを占領した[24]。これらの戦争は、「チャムドの戦い」ともいわれる[24]

被害

チベットの首都ラサから派遣された兵士は時としてカムの義勇兵を見捨てたこともあり、中国を支持する住民や商人を殺害したとされる[26]

この時のチャムドの戦いでチベット軍4500人、兵士3500人の内、6000人を“殲滅”したといわれる[24][28]ダライ・ラマ14世側も、この戦闘におけるチベット軍の戦死者を4000人以上としている。

チャムドの戦いに関するラサ政府の対応

チャムドから緊急の無線がラサ政府に向けて発せられていたが、彼らはたまたま実施中のピクニックを中断することもなく、インドその他に事態を知らせることもなく、いわば黙殺した。ラサ政府はあくまでも中央チベットさえ守られればよく、事態が中央チベット国内に伝わることでの混乱を恐れていたとも考えられる。たまたまインドにいたチベット代表団に対してインドのメディアが中華人民共和国による侵攻について質問すると、「そんな事実は無い」とそっけなく否定し、中華人民共和国の行動を黙認しているかのような態度を取っていた。

中国による進駐宣言と印英政府の対応

占領後

占領の初期において首都ラサを中心に大量の難民が発生。その多くがインドに逃れた。このとき中国人民解放軍の一部が過剰に反抗してくる住民を殺害したりしたために後に問題として扱われている。これらの衝突や紛争の結果、100万人のチベット人が死亡し、6000の僧院が破壊されたとの見方がある。また、当時中央チベットと中国をむすぶ幹線道路建設事業などにおいて一部の現場でチベット人労働者に賃金が支払われず、強制労働化していたとして問題定義された。中国政府はこれらを「極左翼の誤り」とする声明を発表、政府職員の一部は謝罪しているが、人民解放軍については特にこれに対した動きが確認されていない。

1950年11月7日[29](あるいは10月17日[30])、摂政タクタ・リンポチェ・ガワン・スンラプは引退し、テンジン・ギャムツォは成人とされていた18歳に達しておらず(16歳)、本人は望まなかったが、国王としての親政を開始した。そしてラサ議会の示唆に従い、インド国境のヤトンに避難した[30]

ラサ政府と国際連合・中華民国の対応

1950年11月7日、チベットのラサ政府は国際連合に対して中華人民共和国による侵攻を訴えたが、国際連合の国連総会運営委員会は、「チベットと中国、インドに平和をもたらすためにも国連の場で討議することはふさわしくない」として、介入に対する審議の延期を決定した[31]。またこれについては国連軍を組織してまで関与していた朝鮮戦争への対応が精一杯で、チベットに介入する余裕は無かったためとする見方もある[29]

なおチベット政府は、国際連合の常任理事国であった中華民国が独立国として認めておらず、自国領土として扱っていたため、正式な独立国として扱われていない上、文書がチベット政府から直接でなくインドから発送されていたため、本物かどうか確認できなかったからでもある。

この事態に対し、サラエヴォ[29]エルサルバドル[32]がチベット擁護を主張したが効果は無かった。

また中華民国政府はあくまでもチベットを「自国領土」とする立場だったため、結果として、自らの敵国である中華人民共和国によるチベットへの侵攻を弁護する形になった[29]

中央チベット攻略作戦

1950年11月9日、中国政府(中国共産党中央政府)は、中央チベット攻略作戦(「チベット全域解放作戦」と呼称)を準備しつつ、チベット政府との交渉を続けた[33]

自治政府の設置

清朝末期以来、中国・四川省の地方政権との間で争奪の対象となっていた東チベット地方では、1950年12月15日西康省蔵族自治区、青海省人民政府等が設置された。戦後のチャムドでは反目しあっていた部族間で略奪や殺戮が激化してしまい、町は地獄と化した。

チャムド人民解放委員会設立

十七か条協定

1951年、中国政府側は、東トルキスタン(新疆)、青海、チャムドの3方面から人民解放軍を投入し、チベット軍を撃破しながらチベットの首都ラサに侵攻した(しかし、首都ラサへの侵攻について包囲作戦は用いられなかった)。

十七ヶ条協定が締結される際、チベット政府(ガンデンポタン)の元首であるダライ・ラマ14世は出席せず、代わりとしてチベット側の代表として、アボ・アワン・ジグメがこれに署名した。チベット政府は、アボ・アワン・ジグメは協定締結時に使用した国璽はチベット政府の正式な国璽ではなくアボが事前に偽造した国璽であり協定締結はされていないと主張した(チベット政府側の資料では、チベット政府の元首であるダライ・ラマ14世はアボがチベット政府側の許可がないままに独断により協定を締結したりなどをしないように配慮し、チベット政府の正式な 国璽はダライ・ラマ14世の手元に厳重に保管しておいたとされていた)。その一方で中国政府はアボの持参した国璽はチベットの正式なものであるとした見解の上、協定は締結されたと主張した(中国政府側の資料ではアボの持参したチベット政府のものとされる国璽はチベット政府の資料から製作した資料のものと一致し、チベット側からも正式な国璽であると話されていたとされていた)。このため、チベット議会がこれを認めなかったため、当時チベット議会で中国への併合について意見が分かれていたとされる内中国併合賛成派のアボはダライ・ラマ14世に対して離反を行い中国側につき、以降彼らはチベット議会に参加しなくなった。

この十七か条協定では、ガンデンポタンを「西蔵地方政府」と規定し、チベットを「中華人民共和国祖国大家庭」に「復帰させる」こと等を定めたり、人民解放軍による蛮行を制限する内容となっていた。協定の第四条では「西蔵の現行の政治制度には、中央は変更を加えない[34]」と定められていたが、中国政府のいう「西蔵」にはアムドやカムの東部は含まれていなかった。また、チベット軍を中国人民解放軍へ編入するとも定められていた。

この十七か条協定では、ガンデンポタンを「西蔵地方政府」と規定し、チベットを「中華人民共和国祖国大家庭」に「復帰させる」こと等を定めたり、人民解放軍による蛮行を制限する内容となっていた。協定の第四条では「西蔵の現行の政治制度には、中央は変更を加えない[35]」と定められていたが、中国政府のいう「西蔵」にはアムドやカムの東部は含まれていなかった。また、チベット軍を中国人民解放軍へ編入するとも定められていた。

「協定」の放送

1951年5月26日には、中華人民共和国の国営放送局である中国国際放送を通じてチベット政府により十七ヶ条協定が締結されたと放送されている。この放送により、中国政府は中華人民共和国国民、支持を中国を指導する立場にある中国共産党へおおいに集めたとされている

十七ヶ条協定の消滅

この後、中国の中国人民解放軍はチベットの首都ラサに侵攻、チベット軍と交戦状態に陥る。これによりダライ・ラマ14世に十七か条協定を承認した(この際、一部の中国併合反対派の者は逃亡したとされこの時からダライ・ラマ14世の亡命先インドでの亡命政府規律の準備や手続きが既に行われていたとする見方もある)。ただしその十七ヶ条協定は一番最初にアボが国璽を押したものとは異なりチベット政府単独による自治を認めていなかった。協定締結後、それに伴って、同協定第八条によりチベット軍は中国人民解放軍に編入された。以降元チベット軍兵士や兵器は、暫くの間チベット地域内に配属されていたとされるが、年々中国人民解放軍内に分散されていき、元チベット軍の施設も、博物館や展示物などに改装されているもの以外は近代化に伴い建て替えなどが進んでいるため現在はチベット地域に残るチベット軍の遺構は極めて少ない。

1959年、ダライ・ラマ14世はラサを脱出、インドへ亡命した。その途上、国境の手前でダライ・ラマ14世はチベット臨時政府の発足と十七か条協定の正式破棄を宣言した。これにより、中国政府側も「西藏政府(チベット政府)は廃止された」と公表し、これより十七か条協定は消滅している。

1951年9月6日、ダライ・ラマ14世は9ヶ月ぶりにチベットの首都ラサに戻り、これによりその3日後に3000人の中国人民解放軍がラサに進駐した。チベット政府内で協定を認めるかどうかが話し合われたが、ラサの三大僧院長の強い意向もあり1951年10月24日、ダライ・ラマ14世は、「協定を承認し中国人民解放軍の進駐を支持する」とした内容の手紙を中国共産党の毛沢東に送った[36]

ユン・チアンによれば、「十七か条協定」は、中華人民共和国側にとっても時間稼ぎの意味があったと主張している。高地に慣れていない中国人民解放軍の兵士にとって、大軍を送り込む幹線道路のない中央チベットは難攻の地であったためである。しかし、中国人民解放軍共和国側の移動の為の幹線道路や施設は次第に建設されて行き、これにより中国華人民解放軍共和国内からチベットによる侵攻が用意になったとしている(幹線道路の他にも中国人民解放軍は戦車などを、チベットの砂漠でも活動が容易なように防塵仕様に改造したり、兵士についてもそのような訓練が導入された。

その後のチベット側の動向

人民会議事件

1952年3月には、17ヶ条協定の撤回と「中国人民解放軍」のチベットからの撤退を要求する人民会議事件が発生し、中国政府はチベット政府の首都ラサで抵抗に遭っている。また、中国人民解放共軍の長期駐留は、地元との対立の引き金となる事があり、この対立によって、1952年には、中国人民解放軍撤退を求める武装団体などと中国人民解放軍が衝突し、は1952年にチベット東部の町であるジェクンドが甚大な被害を受けている。

「中央のチベット工作についての指示」

1952年4月6日毛沢東は「中央のチベット工作についての指示」を出し、漢族が数十万いる新疆地区(ウイグル地域)とは異なり、チベット地域には漢族がほとんどいないということを、指摘したうえで、中央チベットなどでの土地改革は延期された。

なお、毛沢東は人民会議事件を受けて、チベット併合の困難さを認識し、以後、チベット政策を重大な問題のひとつとして、1959年の反乱の処理にいたるまで政治的決定を主導していった。

チベット住民の武器押収

東チベットでは放牧が盛んであり、仕事柄銃を持つ住民が多く[37]、とりわけカムの住民は、古来、好戦的なことで知られており、漢族などが古来治めていた地域などを中心として悪評がたっていたことなどから[38]、中国政府は東チベットの治安に当たって、住民から武器を没収した。中国側はチベットの近代化を進める上での当然の処置と考えていたが、カムの住民は抵抗の意を示した。

「積極分子」「闘争集会」工作

そこで中国当局は、チベット人を対象に中国政府側への募集をかけて、それに集まった人々を、「積極分子(フルツン・チェンポ)」と認定し、銃回収に当たらせ、またタムジン(闘争集会)という会合を開かせ、中国の統治に不満を持つものを一種の私的裁判にかけた。とりわけ名家の人間には一般の人間より厳しく裁判が行われていた。

また、当時、中国政府は、中央チベットと中国などとを結ぶ幹線道路建設を盛んに行っていたが、チベット人労働者に対して当初から賃金が支払われていたが、1954年頃からは一部が強制労働に変わっていたことが問題として定義されている。

「民主改革」からカム反乱へ

一方、漢人の東チベット地域への入植が進められると、[39]1954年に農業改革、1955年7月に土地共有化の促進が「民主改革」として着手された。この「民主改革」とは共産主義思想にもとづいて領主や寺院や富裕層からの土地財産が再分配を目的としたうえで中国政府に没収されるものである。寺院財産の没収を契機とし、翌1956年から、アムドとカム東部の全域で大規模な蜂起が勃発する。

このような中国による東チベット地域の支配に対して、東チベットの住民の多くは中国政府の政策に対して反抗的となっていった。中国政府はその報復として次々に厳しい政策を打ち出していった。中国に不満を持つ東チベット人の一部は、テンスン・ランタン・マガル(国民防衛義勇軍)を作って反抗しようとした[38]

これ以降の経緯については、カム反乱を参照。

占領後

侵攻の初期において大量の難民が発生。その多くがインドに逃れた。人民解放軍に捕まったチベット民間人の多くが虐殺され、多くの女性が強姦された。捕縛された者は収容所送りになり殺害された。中国軍の侵攻で、100万人のチベット人が死亡し、6000の僧院が破壊された。労働力を確保するために強制的に道路工事を実行。チベット人を駆り出し数千人が死亡した。

1950年11月7日[29](あるいは10月17日[30])、摂政タクタ・リンポチェ・ガワン・スンラプは引退し、テンジン・ギャムツォは成人の18歳に達しておらず(16歳)、本人は望まなかったが、国王としての親政を開始した。そしてラサ議会の示唆に従い、インド国境のヤトンに避難した[30]

ラサ政府と国際連合・中華民国の対応

1950年11月7日、チベットのラサ政府は国際連合に対して中華人民共和国による侵略を訴えたが、国際連合は、国連軍を組織してまで関与していた朝鮮戦争への対応が精一杯で、チベットに介入する余裕は無かった[29]

なおチベットは、国際連合の常任理事国である中華民国が独立国として認めておらず、自国領土として扱っていたため、正式な独立国として扱われていない上、文書がチベット政府から直接でなくインドから発送されていたため、本物かどうか確認できなかったからでもあった[32]

この事態に対し、サラエヴォ[29]エルサルバドル[32]がチベット擁護を訴えたが効果は無かった。

また中華民国政府はあくまでもチベットを「自国領土」とする立場だったため、結果として、自らの敵国である中華人民共和国によるチベットへの侵攻を弁護する形になった[29]。なお、国連総会運営委員会は「チベットと中国、インドに平和をもたらすためにも国連の場で討議することはふさわしくない」として、審議の延期を決めた[40]

中央チベット攻略作戦

1950年11月9日、中国共産党中央は、中央チベット攻略作戦(「チベット全域解放作戦」と呼称)を準備しつつ、チベット政府との交渉を続けた[33]

自治政府の設置

清朝末期以来、中国・四川省の地方政権との間で争奪の対象となっていた東チベット地方では、1950年12月15日西康省蔵族自治区、青海省人民政府等が設置された。戦後のチャムドでは反目しあっていた部族間で略奪や殺戮が始まり、町は地獄と化した[41]

チャムド人民解放委員会設立

中共軍は、中央チベットへの軍事侵攻の拠点として1951年1月1日、チャムドに人民解放委員会を設立した[33][42]。主任は王其梅、副主任にンガプー・ンガワン・ジクメが就任した[33]

十七か条協定

1951年、中共は、東トルキスタン(新疆)、青海、チャムドの3方面から人民解放軍をラサに進め、その武力を背景にダライ・ラマ政権に十七か条協定を強引に認めさせた。

中国共産党政府は、チベット政府代表としてンガプー・ンガワン・ジクメらに「人民解放軍のチャムドからの撤退を交渉する権限」を与えて北京に派遣させた。中国政府はこの使節団にチベット政府との接触を禁じた。

1951年、ダライ・ラマはンガプー・ンガワン・ジクメ他数名を、中華人民共和国側に「チャムドを占領した人民解放軍の撤退を交渉させる権限」を与えて同国の首都北京に派遣した。ただし、あくまでチベット側の言うべきことを相手に伝えて交渉を始めるために派遣したのであり、ンガプーらが絶対に勝手に中華人民共和国側と協定類を結んだりしないようにと、ダライ・ラマは国璽を手元に念入りに保管しておいて派遣した[43]

ところが、中華人民共和国側は北京にやってきたンガプーらを脅迫・恫喝して、協定というよりも、最後通牒の形で、あらかじめ中華人民共和国側が作成しておいた「十七か条協定」なるものを一方的に提示し、全権委任されておらず、条約を結ぶ権限を与えられてもいないンガプーに強引に署名させようとした。ンガプーらが国璽どころか各自の判すら所持していないことが判明すると、中華人民共和国側では、ウチェン体で掘られた粗末な各自の判を急遽作成し、代表団にチベット政府との連絡を一切とらせないまま1951年5月23日、強引に署名・押印させた。

この十七か条協定では、ガンデンポタンを「西蔵地方政府」と規定し、チベットを「中華人民共和国祖国大家庭」に「復帰させる」こと等を定めたり[44]、協定の第四条では「西蔵の現行の政治制度には、中央は変更を加えない[45]」と定められていたが、中国政府のいう「西蔵」にはアムドやカムの東部は含まれていなかった。

「協定」の放送

1951年5月26日には、中華人民共和国の国営放送局である中国国際放送を通じてンガプーにより協定署名の件が放送された[46]。なお、この合意について国連は、1959年の「チベットの地位に関する法律会議」で無効としている[47]

ダライ・ラマ14世はチベット南部のヤトンに避難していたが、持っていたラジオで中華人民共和国側が流しているンガプーによるチベット語放送を聞いて、驚愕した。そもそもンガプーらにはチベット独立の主張を取り下げたり、中国への併合を取り決める協定を結ぶような権限を与えていなかったし、協定を結ぶのに必要な国璽は持たせていなかったから、そんなことはそもそも不可能なはずだったからである[48]

ダライ・ラマ14世は協定締結のニュースを聞き、ンガプーの越権行為に衝撃を受けるが、パンチェン・ラマは同1951年5月30日にダライラマに対して「中国政府の指導の下、チベット政府に協力する」と表明した[36]。なお、ンガプーはその後のチベットにおける中国共産党の忠実な代弁者となった。

1951年7月、協定に調印したチベット外交団(ンガプーを除く)と中国人民解放軍ラサ駐留司令官の張経武将軍がヤトンを訪れ、ダライ・ラマ14世に条約の有効性を認めるよう求めた。アメリカはダライ・ラマ14世に対し、亡命して協定の無効を訴えるよう呼びかけていたが、多くの僧侶がダライ・ラマ14世のラサ帰還を望んだため、結局ラサに戻って協定に基づいた改革をはじめることとなった[49]

1951年9月6日、ダライ・ラマ14世は9ヶ月ぶりにラサに戻り、その3日後に3000人の中国人民解放軍がラサに進駐した。チベット政府内で協定を認めるかどうかが話し合われたが、ラサの三大僧院長の強い意向もあり[50]、9月末には議会で承認された[51][4]。1951年10月24日、ダライ・ラマ14世は、「協定を承認し中国人民解放軍の進駐を支持する」旨の手紙を毛沢東に送った[36]。この手紙はその後中華人民共和国の中国共産党政府が正当性を主張するのに大いに利用された[50]

ユン・チアンによれば、「十七か条協定」は、中華人民共和国側にとっても時間稼ぎの意味があった。高地に慣れていない中国人民解放軍の兵士にとって、大軍を送り込む道路のない中央チベットは難攻の地であったためである。中華人民共和国側はチベットに実質上の自治を与えるかのような態度を見せ、「ダライ・ラマをチベットの『元首』と認め」、チベット代表達を安心させる発言を繰り返した。しかし1956年初旬に中華人民共和国内からチベットにつながる幹線道路が完成すると、直ちに中国人民解放軍による攻撃が再開され、チベットの反乱を呼ぶこととなった[52]

その後のチベット側の動向

人民会議事件

しかし1952年3月には、17条条約の撤回と「解放軍」のチベット撤退を要求する人民会議事件が発生し、はやくも中共はラサで抵抗にあう[53]。中共軍の長期駐留は、地元との軋轢の原因となり[54]、人民解放軍は1952年には東チベット東部の町ジェクンドを破壊している[55]

「中央のチベット工作についての指示」

1952年4月6日毛沢東は「中央のチベット工作についての指示」を出し、漢族が数十万いる新疆地区と違ってチベット地域には漢族がほとんどいないということを指摘したうえで、中央チベットでの土地改革は延期された[56]

なお、毛沢東は人民会議事件を受けて、チベット併合の困難さを認識し、以後、チベット政策を重大な問題のひとつとして、1959年の反乱の処理にいたるまで政治的決定を主導していった[57][58]

住民の武器押収

東チベットでは放牧が盛んであり、仕事柄銃を持つ住民が多く[37]、とりわけカムの住民は、古来、好戦的なことで知られていた[38]。中国は東チベットの治安に当たって、住民から武器を没収した。中国側は反乱を防ぐための当然の処置と考えていたが、カムの住民は抵抗を示した。

「積極分子」「闘争集会」工作

そこで中国当局は、チベット人の一部を中国側に取り込んで、「積極分子(フルツン・チェンポ)」と認定し、銃回収に当たらせ、またタムジン(闘争集会)という会合を開かせ、中国の統治に不満を持つものを一種の私的裁判にかけた。とりわけ名家の人間には「罪」の自白を強要し、内容によっては処刑された。他の住民はタムジンにかけられている被告を罵倒しなければならず、それを行わない者は次のタムジンにかけられることになった[59]

また、当時、中国政府は、中央チベットと中国とを結ぶ道路建設を盛んに行っていたが、チベット人労働者に対して当初は賃金が支払われていたが、1954年頃からは強制労働に変わっていた。チベット人労働者達は強制労働の後の夜、タムジンで共産主義教育を受けねばならなかった[60]

「民主改革」からカム反乱へ

一方、漢人の東チベット地域への入植が進められ[39]1954年に農業改革、1955年7月に土地共有化の促進が「民主改革」として着手された。この「民主改革」とは共産主義思想にもとづいて領主や寺院や富裕層からの土地財産が再分配を目的としたうえうで、共産党に没収された。寺院財産の没収を契機とし、翌1956年から、アムドとカム東部の全域で大規模な蜂起が勃発する。

このような中国による東チベット地域の支配に対して、東チベットの住民の多くは中国の政策に対して反抗的となった。中国はその報復として次々に厳しい政策を打ち出していった。中国に不満を持つ東チベット人の一部は、テンスン・ランタン・マガル(国民防衛義勇軍)を作って反抗しようとした[38]

これ以降の経緯については、カム反乱を参照。

脚注

  1. ^ a b c d Rinpoche, Samdhong. Roebert, Donovan. The en:14th Dalai Lama. [2006] (2006). Samdhong Rinpoche: Uncompromising Truth for a Compromised World : Tibetan Buddhism and Today's World. World Wisdom, Inc. ISBN 1933316209. pg 116-117
  2. ^ 趙海峰,1991,pp.37-50。楊超,1991,pp.40-42。
  3. ^ 丹増・張向明,1991,pp.121-186。
  4. ^ a b Goldstein, M.C., "A History of Modern Tibet", p812-813
  5. ^ 1642年に発足したガンデンポタンが統治。グシ・ハンダライラマ五世に寄進したヤルンツァンポ河流域に加え、雍正のチベット分割の際に、タンラ山脈ディチュ河(金沙江)を結ぶ線の南西側に位置する地域があらたにガンデンポタンの管轄下に加えられ、西藏という地域的枠組みが成立。典拠・詳細は雍正のチベット分割および青海を参照。
  6. ^ 郭卿友,1990,pp.153,793
  7. ^ 小林亮介,2004、Teichman,1922
  8. ^ この当時、オイラトの内乱により早逝した兄バイバガスにかわりホショト部の首長となり、オイラト部族連合の盟主もつとめていた。宮脇, 1995
  9. ^ 在位年が没後にもかかっているのは、ダライラマ五世の死は、後事を託されたデシー・三ギェギャムツォにより十数年秘匿されたことによる。
  10. ^ 山口,1987,1992
  11. ^ 石濱,2001
  12. ^ 石濱,2001
  13. ^ 石濱,2001
  14. ^ 多田等観,1942,pp.41-45
  15. ^ ダライラマ位はグシハン一族とゲルク派教団による認定、チベット=ハン位はグシ・ハン一族の長子相続でダライラマによる認定、デシー位はダライラマによる任命(山口,1987,1992、石濱,2001)
  16. ^ 石濱,2001
  17. ^ 佐島直子編『現代安全保障用語辞典』(信山社出版、2004年)464項-465項のチベットの反乱の項目
  18. ^ ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)384項-385項
  19. ^ ロラン・デエ p.313
  20. ^ ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.173
  21. ^ Xinhuanet.com. "Xinhuanet.com." 人民解放軍解放西藏. Retrieved on 2008-03-18.
  22. ^ Scholar.ilib.cn. "Scholar.ilib.cn." 1950 tibet. Retrieved on 2008-03-18.
  23. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「MikelDunham55」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  24. ^ a b c d 毛利和子 1998, p. 256.
  25. ^ ユン・チアン『マオ』下巻p.216
  26. ^ a b ロラン・デエ p.314
  27. ^ ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)388項-390項
  28. ^ A・T・グルンフェルド『現代チベットの歩み』東方書店,1994年,152頁
  29. ^ a b c d e f g h ロラン・デエ p.315
  30. ^ a b c d ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.119
  31. ^ ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.121
  32. ^ a b c 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.78
  33. ^ a b c d 毛利和子 1998, p. 257.
  34. ^ 對於西藏的現行政治制度,中央不予變更
  35. ^ 對於西藏的現行政治制度,中央不予變更
  36. ^ a b c 毛利和子 1998, p. 259.
  37. ^ a b ユン・チアン 下p.216
  38. ^ a b c d ロラン・デエ 2005, p. 323.
  39. ^ a b ペマ・ギャルポ 1988, p. 127.
  40. ^ ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.121
  41. ^ 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.66
  42. ^ ロラン・デエ p.320。
  43. ^ 『中国はいかにチベットを侵略したか』
  44. ^ 毛利和子 1998, pp. 257–258.
  45. ^ 對於西藏的現行政治制度,中央不予變更
  46. ^ 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.81
  47. ^ ロラン・デエ p.318
  48. ^ 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.82
  49. ^ 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.84
  50. ^ a b 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.86
  51. ^ Gyatso, Tenzin, Dalai Lama XIV, interview, 25 July 1981.
  52. ^ ユン・チアン『マオ』下巻p.218
  53. ^ 毛利和子 1998, p. 260.
  54. ^ マイケル・ダナム 2006, p. 101.
  55. ^ マイケル・ダナム 2006, p. 146.
  56. ^ 毛利和子 1998, p. 262.
  57. ^ 毛利和子 1998, p. 263.
  58. ^ マッシモ・イントロヴィーニャ (2018年12月13日). “1959年のラサの戦いはどのようにして起きたのか - 特集”. Bitter Winter (日本語). 2019年4月26日閲覧。
  59. ^ ジョン・F・アドベン 1991, p. 66.
  60. ^ マイケル・ダナム 2006, p. 118.

参考文献

関連項目