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ノート:紀州征伐/Log1

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改名提案

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国語辞典によれば、「征伐」とは、

  • 「罪のある者や反逆者などを攻め討つこと。征討」(『大辞泉』)
  • 「罪ある者や反逆する者を攻め討つこと。征討。討伐。退治」(『日本国語大辞典』)
  • 「反逆者や悪者を攻め討つこと。征討」(『明鏡国語辞典』)
  • 「攻めて行って反逆者や悪者などを討つこと」(『大辞林』)

とあります。しかし、言うまでもなく、雑賀や根来の勢力が一義的に「罪ある者」「悪い者」ではありません。記事名も記事の一部であるとすれば、中立性の観点から問題があると考えます。また、信長・秀吉による侵攻戦の結果、紀州は織豊政権に従属したのであって、もともと従属していたものが「反逆」したのではありません。その点では、「事実に反する記事名」ということになりかねません。そこで、「紀州攻め」への改名を提案します。ちなみに、戦国・織豊時代の泰斗でいらっしゃる小和田哲男先生も、『秀吉の天下統一戦争』のなかで「紀州攻め」「四国攻め」「九州攻め」「小田原攻め」の用語を用いていらっしゃいます。どうか、活発な御意見をお寄せ下さいますよう、お願い申し上げます。--Chokorin 2011年1月29日 (土) 06:18 (UTC)[返信]

以下にコメント欄を設けます。--Chokorin 2011年1月29日 (土) 06:18 (UTC)[返信]

コメント受付期間

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  • 1月29日 (土)00:00(UTC) - 2月6日 (日)23:59(UTC)
コメント受付期間を設定しました。--Chokorin 2011年2月1日 (火) 00:59 (UTC) [返信]

賛否およびコメント

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申し訳ないです。九州征伐の話はノート:九州の役でやってくださいますよう、お願いします。--Chokorin 2011年1月30日 (日) 06:59 (UTC)[返信]

コメント上記ご指摘にある紀州征伐が「事実に反する記事名」とまでは私自身は言えないと思います。「もともと従属していたものが「反逆」したのではありません」という部分に関しても、疑問符があります。私も以前は誤った認識をしていましたが、文献をいろいろ読んでいるうちに根来衆雑賀衆は決して一枚岩ではなく、当初は織田方に属していた根来衆、雑賀衆が反抗し、また寝返るという複雑なパターンもあります。政治状況などによって変化した根来衆、雑賀衆もいてたかと思われます。そのような歴史論ではなくWikipedia:記事名の付け方の指針としては、

  1. 認知度が高い
  2. 見つけやすい
  3. 曖昧でない
  4. 簡潔
  5. 首尾一貫している

が記載されております。この中で認知度が高い、例えば「紀州征伐」より「紀州攻め」の方がより多くの文献で紹介されているという理由ならば良いかと思いますが、「事実に反する記事名」、「もともと従属していたものが「反逆」したのではありません」という理由は、どうしても改名しなければならない緊急性が乏しいのではないかと思います。私が今たまたま持っています資料『秀吉の城』P.112によりますと「雑賀攻め」「四国征伐」とありました。「紀州征伐」と「紀州攻め」に大差があるようには今のところ思えません。現時点では賛否は明確にせず、コメントのみとさせていただきます。--ブレイズマン 2011年2月1日 (火) 19:20 (UTC)[返信]


チェック 上記コメント期間内にWikipedia:ページの改名の指針にある「反対意見が出たときは、議論を行って合意形成を図ってください。」の新しい合意が形成されませんでしたので、今回の改名は見送りにしたいと思います。改名の必要性がある場合は、改めまして議論を立ち上げて頂けますようお願いいたします。--ブレイズマン 2011年2月7日 (月) 07:35 (UTC)[返信]

コメントを受けて

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コメント受付期間を終了しました。以後、議論にうつりたいと思います。--Chokorin 2011年2月7日 (月) 10:10 (UTC)[返信]

議論は済んでいないので、「済」に訂正線を引かせていただきました。一応、簡単にではありますが、文献調査をおこないましたので、その結果を紹介します。
  • 1983年・岩沢愿彦「紀州征伐」(吉川弘文館『国史大辞典 第3巻』pp.78-79)
  • 1995年・池享ほか「紀伊攻め」(小学館『クロニック戦国全史』p.485)
  • 1997年・「紀州攻め」(山川出版社『日本史広辞典』)
  • 2000年・熱田公「紀州攻め」(小学館『日本歴史大事典』p.839)
  • 2002年・池上裕子「紀州攻め」(講談社『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』p.143)
  • 2006年・小和田哲男「紀州攻め」(吉川弘文館『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』p.152)
少なくとも、最近20年をみた場合「紀州征伐」の用語よりはずっと「紀州攻め」の用語が用いられているようです。おっしゃる通り「根来」「雑賀」は一枚岩ではないからこそ、「征伐」という結果から逆算したような雑ぱくで不適切な表現は避けられるべきです。今後、田中義成や渡辺世祐、岩沢愿彦で歴史を勉強する人がどれだけ増えるのか、そういうことも合わせ考えていけば、改名した方が後顧の憂いなく記事執筆に専念できると思います。いかがでしょうか。--Chokorin 2011年2月7日 (月) 11:02 (UTC)[返信]
コメントWikipedia:ページの改名の指針では、コメントと議論を分けて実施するとはなっておりませんので、以後は同次元で実施して頂けますようお願いします。私は、紀州征伐が「事実に反する記事名」とまでは言えないと思えますし、「征伐」という記事名が「不適切な表現」とまでは言えないと思います。ただ、一方で文献調査をして頂いた限りにおいては、5冊が「紀州攻め」で1冊が「紀州征伐」でWikipedia:記事名の付け方の「1.認知度が高い」に該当する、という理由での改名提案ならば、積極的な賛成ではないものの、私自身は反対意見を表明しません。但し、紀州征伐との文献数も一定数あり著しく「紀州攻め」の方が認知度が高いとまでは言えない、という指摘があれば 反対 に変更する場合もあります。--ブレイズマン 2011年2月7日 (月) 11:56 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。厳密にいえば、「紀州征伐」1、「紀伊攻め」1、「紀州攻め」4です。もとより「1.認知度が高い」という理由もありますが、字義に照らせば「反逆者を攻める」=「征伐」ということですので、本来的に「征伐」の語は安易には使えないところです。文献調査は継続しておこないたいと思います。--Chokorin 2011年2月7日 (月) 12:14 (UTC)[返信]
コメントご指摘いただきまして有難うございます。勘違いしていました。ただ、「紀伊攻め」「紀州攻め」私が調べた「雑賀攻め」も紀伊攻めに含めても良いのではないかと思われます。繰り返しになりますが、「征伐」という字義での改名提案理由ならば私自身は 反対 です。Wikipedia:記事名の付け方の5つの指針に該当しないのが理由です。但し「1.認知度が高い」に該当するならば、改名の緊急性はあると思います。文献調査は大変な作業であると思われますが、可能であるならばよろしくお願いします。--ブレイズマン 2011年2月7日 (月) 12:45 (UTC)[返信]

(インデント戻します)追加で調べた分を御紹介します。

  • 1996年・加来耕三「紀州平定」(新人物往来社『豊臣秀吉大事典』)
  • 2004年・笠原正夫「紀州攻め」(山川出版社『和歌山県の歴史』pp.170-171)
  • 2005年・岩沢愿彦「紀州攻め」(吉川弘文館『戦国武将・合戦事典』pp.853-855)
  • 2008年・渡邊浩史「根来・雑賀一揆」(朝倉書店『日本中世史事典』p.762)
  • 2008年・山田邦明「紀伊攻略」(小学館『日本の歴史八 戦国の活力』p.309)

2点、指摘しておきます。まず、新版県史シリーズ『和歌山県の歴史』においては「紀州攻め」の用語が用いられており、地方史分野においても「紀州征伐」よりも「紀州攻め」の方が認知度が高いと見なされること。もうひとつは、『戦国武将・合戦事典』において、『国史大辞典』では同じ岩沢愿彦による見出しが「紀州征伐」だったものが「紀州攻め」へと変わっていたことです。調べてみたら

  • 木村忠夫「中国攻め」(『戦国武将・合戦事典』pp.837-840)
  • 山本大「四国攻め」(同事典pp.855-856)
  • 今井林太郎「九州攻め」(同事典pp.857-860)
  • 福田以久生「小田原攻め」(同事典pp.860-863)

ということでしたので、1983年の『国史大辞典』で「~征伐」という見出しだったものが、2005年には全て「~攻め」に転換しているようです。こうしてみると、ブレイズマンさんの掲げた、 1.認知度が高い という点だけをみても、「紀州征伐」よりは「紀州攻め」の方がはるかに優位性があると判断できると考えます。いかがでしょうか。--Chokorin 2011年2月19日 (土) 15:30 (UTC)[返信]

  • コメント 「征伐」という字義からの改名についてですが、織豊政権に対する従属とは別に、その政権の正当性を権威面から担保する幕府、そして朝廷の承認・追認や被侵攻側への従属の奨めや働きかけの有無で「反逆者」の意味が出てくることも有り得ると思うのですが、その辺りの出典における研究・検証・論考・見解はどうなっているのでしょうか。--ジャムリン 2011年2月19日 (土) 15:55 (UTC)[返信]
ごめんなさい。何をおっしゃりたいのかがよくわからないので返答に困るのですが、ある勢力を「反逆者」「逆徒」というふうに一義的に決めつけるのは不穏当だという意見は当然あるでしょうし、そういう認識がひろがれば、「征伐→攻め」の語の転換は進むということでしょう。少なくとも、ここ20年くらいに関しては圧倒的に「紀州攻め」などが多く、「紀州征伐」はほとんど見かけませんでした。秋田城之介さんが掲げた田中義成『豊臣時代史』は1925年渡辺世祐『安土桃山時代史』は1926年の著作であり、いささか古すぎるのではないかと感じます。 『豊臣秀吉大事典』に関しては、加来耕三は「紀州平定」ほか「九州平定」「関東平定」「東北平定」など全部「平定」で固めています。--Chokorin 2011年2月19日 (土) 17:28 (UTC)[返信]
攻め手の側(この場合は信長や秀吉)に、当該事象を起すに当たって便宜上でも短期的でも、いわゆる「錦の御旗」があった、あるいはあったと思われる史料や見解があるのかということです。有った場合には、Chokorinさんのおっしゃるところの「征伐」の字義は、解釈によっては活きてしまうことになります。この時代、戦を起すにあたっては、大儀名分をもって成されることがほとんどであったわけですが、実質的な政権能力はなくても、その正当性を与える権威として活きていた幕府や朝廷が攻め手(結果的に勝者となった場合における追認の意志の表明を含め)にその大儀を与えることを承知していたのなら「征伐」と称しても字義としてはおかしくはないことになります。
どちらにしても字義によった改名理由は除外したと思ってよろしいのでしょうか?--ジャムリン 2011年2月19日 (土) 18:40 (UTC)[返信]
なるほど。足利義昭が反信長側・一揆側にあったことは確かなようですね。朝廷の関与は聞きません。ときどきの局面やさまざまな立場によって、見ようによって双方とも反逆者と言えるんじゃないでしょうか。それを、一方のみ反逆者で塗りつぶすのが正しいとは思いません。もちろん、これは政治的な正しさを言っているんじゃなくて学問的な正しさのことを申し上げています。後段については、そうとらえていただいて結構です。--Chokorin 2011年2月20日 (日) 00:50 (UTC)[返信]
特にこの件についてコメントなければ、下記にあらためて改名提案をおこないますので、ここまでは過去ログ化したいと思います。コメントのある方は2月23日(水)00:00(UTC)までお願いします。--Chokorin 2011年2月20日 (日) 01:43 (UTC)[返信]
コメント上記議論とは直接関係ありませんが、過去ログ化に関してはHelp:過去ログの指針によりますと「議論の最中はそれまでの議論を見渡せることが大切ですので、可能であれば議論が落ち着いている頃合いを見て過去ログ化することが推奨されます。」とあります。ここに記載されている「落ち着いている頃合い」というのは、私自身は1カ月程度と思われます。過去ログ化に関しましては、1カ月以上コメントが記載されなくなった節に関してはログ化を実施して頂ければと思います。--ブレイズマン 2011年2月20日 (日) 15:23 (UTC)[返信]
了解しました。そのようにいたします。御教示ありがとうございました。--Chokorin 2011年2月20日 (日) 21:45 (UTC)[返信]

「紀州攻め」への改名提案

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あらためて「紀州攻め」への改名提案をおこないます。文献調査の結果は以下のとおりです。

  • 1983年・岩沢愿彦「紀州征伐」(吉川弘文館『国史大辞典 第3巻』pp.78-79)
  • 1995年・池享ほか「紀伊攻め」(小学館『クロニック戦国全史』p.485)
  • 1996年・加来耕三「紀州平定」(新人物往来社『豊臣秀吉大事典』)
  • 1997年・「紀州攻め」(山川出版社『日本史広辞典』)
  • 2000年・熱田公「紀州攻め」(小学館『日本歴史大事典』p.839)
  • 2002年・池上裕子「紀州攻め」(講談社『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』p.143)
  • 2004年・笠原正夫「紀州攻め」(山川出版社『和歌山県の歴史』pp.170-171)
  • 2005年・岩沢愿彦「紀州攻め」(吉川弘文館『戦国武将・合戦事典』pp.853-855)
  • 2006年・小和田哲男「紀州攻め」(吉川弘文館『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』p.152)
  • 2008年・渡邊浩史「根来・雑賀一揆」(朝倉書店『日本中世史事典』p.762)
  • 2008年・山田邦明「紀伊攻略」(小学館『日本の歴史八 戦国の活力』p.309)

Wikipedia:記事名の付け方の指針としては、

  1. 認知度が高い
  2. 見つけやすい
  3. 曖昧でない
  4. 簡潔
  5. 首尾一貫している

の5点があるようです。この中で <1.認知度が高い> のは、「紀州征伐」ではなくて「紀州攻め」です。特に21世紀に入ってからはその傾向が顕著であり、1983年に『国史大辞典』で「紀州征伐」の見出しで当該事象を説明した岩沢愿彦氏も2005年には「紀州攻め」の見出しを採用しています。ここから、「紀州征伐」→「紀州攻め」の用語転換の傾向もうかがえると思います。また、地元和歌山県でも「紀州攻め」の表記が確認できました。いかがでしょうか。みなさまの御意見をお待ちします。以下にコメント受付期間を通知し、コメント欄を付します。Chokorin 2011年2月20日 (日) 01:43 (UTC)(若干補筆)--Chokorin 2011年2月20日 (日) 02:47 (UTC)[返信]

コメント受付期間

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コメント

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コメント文献調査御苦労さまでした。大変な作業であったかと推察します。文献調査を行った結果Wikipedia:記事名の付け方の指針の「1.認知度が高い」に該当する可能性が更に高まったと言える、という事ですね。私自身は「紀伊攻め」も「紀州征伐」も大差は無く、改名の緊急性は低いと思われましたが、これだけ文献量となると「紀伊攻め」の方が認知度が高いと言えるかと思われます。従来通り、積極的な賛成ではありませんが、 反対 は表明しません。現時点では1週間後改名することに、私自身問題はないものと思えます。--ブレイズマン 2011年2月20日 (日) 15:10 (UTC)[返信]

コメントときの正親町天皇は信長と義昭が揉めたときも、他勢力と戦ったときも、公的にというか表立っては信長・秀吉の権威的後ろ盾であったようですね。大方は信長・秀吉の要請に沿って、敵対勢力側に講和の勧告をしているようです。学問的な正しさからいっても、当時の政治的情勢や意義を研究することは重要であるとは思われますし、「征伐」の項目にもありますが、歴史学としても当時の状況や感覚を解説するときに現代の政治的感覚を持ち込むべきではないとする研究者もおられます。ですが、そのことが現在の大勢として定着している見解や指針や共通の了解というわけではないようですし、簡単な調査ですが、「紀州征伐」を採っているのは

  • 1960年:奈良本辰也『日本歴史大辞典 第17巻』河出書房。
  • 1974年:藤木久志『織豊政権』有精堂出版。
  • 1989年:『日本大百科 第24巻』小学館。

といった具合でChokorinさんの調査にあるように比較的古いものになるようですので、Wikipedia:記事名の付け方によった改名にはブレイズマンさんと同じく反対はしませんが、さりとて「征伐」が不適であるという学問的な公式指針や申し合わせが確認できず、改名せねばならぬという必要性も感じませんので、積極的に賛成もしません。

但し、改名となったとしても、自治体の公史でも「兵庫県史」のように、紀州・四国・九州・小田原を「征伐」にしているところも存在していることですし、事象の地元にかかるところでは『印南町史: 通史編 第2巻』(1990年、町史編集室、第一法規出版)も「紀州征伐」としているようですので、「紀州征伐」と呼ばれていることは記事中で記載すべきではあると思います。--ジャムリン 2011年2月20日 (日) 23:45 (UTC)[返信]

ブレイズマンさん、ジャムリンさん、御意見は最大限尊重したいと思います。コメントありがとうございました。--Chokorin 2011年2月21日 (月) 03:02 (UTC)[返信]

コメント文献調査で選ばれている文献の選択基準が明らかになっていませんが、どういう基準で選ばれているのでしょうか。自説に都合のいいように文献を取捨選択していないか、上記の記述だけでは分かりませんので。

あと、前回の改名提案から一ヶ月も経ていませんが、この点も疑問です。通常、最低でも数ヶ月程度は期間をおくべきではないでしょうか。あまり頻繁に改名提案を行うようですと、自説の都合のいい結果が出るまで提案し続けていると見なされます。これはWP:POINT の「いつまでも「納得」しない」に抵触する恐れがあります。--薔薇騎士団 2011年2月21日 (月) 02:18 (UTC)[返信]

コメント一応コメントしておきますが、「前回の改名提案から一ヶ月も経ていません」という指摘ですが、節は分断されていますが継続中の議論です。あえて「前回の改名提案」というならば、前回の改名提案もなんらかのWikipedia:合意形成が出来たわけではありません。文献調査中でした。誤解を招く可能性もありますので、私自身は同一の節で議論すべきではないかと思われます。
上記に私がコメントしておりますが、「紀州征伐との文献数も一定数あり著しく「紀州攻め」の方が認知度が高いとまでは言えない、という指摘があれば 反対 に変更する場合もあります」と、「紀州征伐」との文献数も一定数あるならば、前言を撤回し 反対 を表明する場合もあります。もし、他の文献も調査される予定であるならば、1週間後の改名はもう少し期間をおくべくと思われます。--ブレイズマン 2011年2月21日 (月) 09:29 (UTC)[返信]
文献については特に選択していません。わたしが個人的に入手ないし閲覧できたものを全て網羅しています。「紀州征伐」という表記があることについても掲げていますね。提案に関しては「最低でも数ヶ月期間をおくべき」というルールはどこにもありませんので、そういうことをおっしゃるのは「いつまでも「納得」しない」に該当するのはむしろ薔薇騎士団さんの方になりませんか。わたしの提案にもし反対だというのであれば、出典をもとに、必ず、理由を添えて反対意見をお寄せくださいますようお願いします。--Chokorin 2011年2月21日 (月) 02:53 (UTC)[返信]
わたしはこの提案については、今日はじめてコメントしましたので、「いつまでも「納得」しない」などと言われる覚えはありませんが、まあChokorin氏のご性格はよく存じていますので、その程度では一々反応しません。ところで、前回の提案で挙げた出典11冊から一冊も増えていないようですから、やはり再提案するには不十分ではないでしょうか。もう少し新たな提案材料として調査が必要だと思います。裁判の再審請求でも新証拠がなければ却下されますので。学会でも査読でケチのついた論文を加筆なしに再提出する研究者はおりません。--薔薇騎士団 2011年2月21日 (月) 04:44 (UTC)[返信]
提案自体を却下する権限は薔薇騎士団さんにはないのではないでしょうか。あるとすれば、その根拠をお示しください。--Chokorin 2011年2月21日 (月) 04:57 (UTC)[返信]

(インデント戻す)ブレイズマンさんのおっしゃることに理があると感じました。文献調査にたっぷり時間をかけることには意味があります。8日間コメント受付期間を延長することに同意いたします。3月7日 (月)23:59(UTC)までコメントを受け付けることといたしましょう。これならば休日を2回またぐことになるので、文献調査の進展が期待できるでしょう。--Chokorin 2011年2月21日 (月) 10:04 (UTC)[返信]

コメント 現時点では賛成できません。紀州征伐の表記も相当数あります。薔薇騎士団さんと全く同じ意見ではありませんが、Chokorinさんの提起方法には疑問があります。コメント受付期限を設けたり、それを一々延長したりするのはなぜでしょうか?--秋田城之介 2011年2月22日 (火) 04:08 (UTC)[返信]

コメント私もコメント受付期限を特定の人が定めるのは問題ではないかと思います。ただ、一方でWikipedia:ページの改名には「提案から実際に改名するまでは、1週間の告知期間をおいてください。ひょっとしたらその間に反対意見が出るかもしれません」とありますように、明確な反対意見がなければ改名が実施できますので、その期間は提示しておいた方が明確になると思います。いずれにしましても、 反対 意見があり、後の議論によってWikipedia:合意形成が無ければ改名される事はありません。
話を本論に戻しますが、「紀州征伐の表記も相当数あります」という部分を、出来ましたら明確にして頂ければ説得力が増します。例えば、Wikipedia:出典を明記するでも示されているように、
(例)村上春樹 『ノルウェイの森(上)』 講談社〈講談社文庫〉、1991年、200頁。
という形式にのっとりまして、今一度「相当数あります」としています部分を、説明して頂ければと思います。文献調査の作業は大変だと思いますが、可能であるならばよろしくお願いします。--ブレイズマン 2011年2月22日 (火) 05:01 (UTC)[返信]
もし、「紀州征伐」の表記が相当数あるというのならば、提示なさればよいのではないでしょうか。調べた限りでは、少なくとも1990年以降、日本史学者の著述したもので「紀州征伐」の用語を使用した例はひとつもありませんでしたが。秋田城之介さんでも薔薇騎士団さんでも文献調査の結果をもとに反論なさればよいのです。コメントに関して期限を設けるのは当然のことでしょう。延長したのはブレイズマンさんの御意見を尊重したからです。では、反論をお待ちしております。--Chokorin 2011年2月22日 (火) 04:37 (UTC)[返信]
文献の選択基準が示されず、Chokorin氏自身、コメント者に文献調査への協力を依頼するようでしたら、期限は区切らずにじっくり調査を進めた方が良さそうですね。私も図書館に行ったときに関連文献を調べてみます。別に改名を急ぐような提案とも思えませんし、もっと議論を重ねた方がよろしいかと思います。あと、1990年以降はとか、2005年以降はとか、そのつど恣意的に期間を区切っているのも気になります。要するにご自分の調べた範囲内で、自分の都合のいい調査結果がでるような期間を選んでいるのではないか、という気もします。そうした点もコンセンサスを図るべきだと思います。--薔薇騎士団 2011年2月22日 (火) 05:20 (UTC)[返信]
コメント「私も図書館に行ったときに関連文献を調べてみます」という事で、私も文献調査を何回かやった事がありますが、拘束時間も長く手間のかかる作業なのですが、改名を提案されている方は根拠を提示されておりますので、可能であるならば、調査の件よろしくお願いします。ただ、一方で文献調査に思った以上に時間がかかり、1年以上も改名タグが放置されっぱなしというのも問題があると思いますので、常識的に文献調査は1カ月程度が適当かと思われます。それ以上時間がかかる場合は、一旦改名し、後に根拠が明確になった後にWikipedia:改名提案するのが望ましいのではないかと思います。文献調査作業は大変だと思いますが、よろしくお願いします。--ブレイズマン 2011年2月22日 (火) 05:53 (UTC)[返信]
2年前に改名された九州の役のその後の論議のグダグダさを見ると、拙速に結論を出す必要はないと思います。もちろん明確な文献選択の基準を提示していただければ、それに即してこちらも図書館で速やかに調査することができるかもしれませんが、それが提示されていない以上、ある程度調査に時間がかかる場合もあるかもしれません。それにChokorin氏のこれまでの行動を見ますと、急いで投票等で決着をつけても、自分の望み通りの結論が出るまで何度でも改名提案を出す可能性がありますので、そうなると結果的に労力が増えるだけの気もいたします。--薔薇騎士団 2011年2月22日 (火) 08:33 (UTC)[返信]
コメント私自身は、文献調査に1カ月程度かける事が「拙速な結論」とは思えません。ただ、人にはいろいろな理由で時間がかかる場合もあるかと思いますので、その場合は、理由と更にどの程度調査に時間がかかりそうか、提示するとコンセンサスは得やすくなると思えます。
で、「紀州征伐の表記も相当数あります」との部分ですが、上記調査では11冊中1冊に「紀州征伐」。利用者:ジャムリン氏調査ですが、可能であるならばページ数を入れて頂ければWikipedia:検証可能性が高まると思います。仮に利用者:ジャムリン氏調査分を入れると15冊中、4冊に「紀州征伐」との記載があります。ここからは、私の個人的な見解ですが「相当数」というのは全体の40%程度、15冊で申しますと、6冊以上の文献に記載されていましたら、圧倒的に「紀州攻め」の方が認知度が高いとまでは言えない、改名に 反対 を表明をする可能性はあります。--ブレイズマン 2011年2月22日 (火) 09:37 (UTC)[返信]
コメント(薔薇騎士団さんへ)「明確な文献選択」ということですが、基本的には「日本史学者が織豊政権による紀州制圧戦争についてどの用語を用いているか」ということであり、すでに調査対象は明確なわけです。かみくだいて申し上げるならば、国語辞典の見出しや作家の書いたものなどは対象外になるでしょう。歴史群像シリーズとか青春出版社などによる通俗的な読み物は、根拠としては弱く、あまり適切とは言えないでしょう。年代的には、ここ10年くらいに出版されたものが一番望ましいでしょう。つまり、閲覧者・加筆者ともに入手しやすいということですから。専門家によるものでも、せいぜい20年前あるいは25年前くらいが限度になるでしょう。1920年代の書籍を持ち出されても、それは検証が難しいわけです。そのあたりは常識で御判断ください。要するに「良質な情報源」ということと「検証可能性」ということを念頭に置いていただければよろしいと思います。期限に関しては、1週間の告知期間を設ければよいということですので、2週間もあれば充分でしょう。「九州の役」のグダグダさ(?)を批判するのであれば、期限を守って速やかに文献調査の結果を御発表ください。いずれにせよ、文献調査の意思表示については歓迎いたしますし、また、そのことに心からの感謝を申し上げます。ありがとうございました。--Chokorin 2011年2月22日 (火) 09:52 (UTC)[返信]
コメント(ブレイズマンさんへ)「相当数」が40パーセント程度というのは、きわめて穏当で常識的なラインだとは思いますが、30年以上前のものも現代に著されたものも等しく1冊というふうにカウントするのは、いかがなものかと思います。30年前といえば、一世代ちがうわけですよね。それから、藤木久志先生などは、現在も戦国・織豊時代について多数著作されていますが、1970年代ならばともかく、いまでも「紀州征伐」の用語を使っているとは到底考えられないんですね。そのあたりは私も追調査いたしますけれども。少なくとも、1983年に吉川弘文館『国史大辞典』に「紀州征伐」と書いていた岩沢愿彦氏が2005年の吉川弘文館『戦国武将・合戦事典』では「紀州攻め」の用語を採用しているわけです。これを「征伐」「攻め」双方に1票づつカウントすることには何ら合理性を感じませんが、いかがでしょうか。そういう場合は、新しい年代のみをカウントすべきなのではないかと思います。わたしとしては、同じ筆者のもの(たとえば熱田公氏のもの)は「紀州攻め」が2冊あったとしても、上には1冊しか掲げませんでした。岩沢愿彦氏に関しては「紀州征伐」だけかと思っていたところが、最近は「紀州攻め」の用語を採用していることが判明したので、参考のために掲載したのであり、個人的には、数年前に書かれたものと30年近く前に書かれたものが文献調査で同等の価値をもつとは思えません。いかがでしょうか。--Chokorin 2011年2月24日 (木) 11:45 (UTC)(言い回し微修正)--Chokorin 2011年2月24日 (木) 22:46 (UTC)[返信]
コメント「30年以上前のものも現代に著されたものも等しく1冊というふうにカウントするのは、いかがなものかと思います。」という事ですが、Wikipedia:検証可能性の指針によりますと、問題ある情報源として3つほど提示されています。
  1. 信頼性に乏しい情報源
  2. 自主公表された情報源
  3. 自主公表された情報源:公式サイト
が上げられていますが、出版年代が古い著作物は情報源に問題があるとはなっておりません。但し以下の点は注意を要します。以前は定説として扱われていたが、発掘調査などによって定説が覆ったケースがあります。その場合は出版年代に留意する必要がありますが、今回のケース場合、なにかによって「紀州征伐」という言葉が使われにくくなったという文献でもあれば別ですが、一概に出版年代が古いというだけでカウントしないというのは、Wikipedia:独自研究は載せないにも抵触する可能性があります。私はWikipedia:検証可能性の指針に従い、出版年代が古い著作物も同等に扱うべきだと思われます。--ブレイズマン 2011年2月25日 (金) 17:36 (UTC)[返信]
コメントそれと出版年代の議論とは直接関係ありませんが、「「紀州攻め」が2冊あったとしても、上には1冊しか掲げませんでした」という事ですが、今回はの改名提案理由は「紀州攻めが「認知度が高い」に該当する可能性が高い」ということですので、同一の著作者であったとしても複数の文献に掲載されているのならば、それだけ幅広く認知されている、それら複数の文献によって認知された、と言えますので私自身は2カウントとして問題ないと思われます。--ブレイズマン 2011年2月25日 (金) 18:30 (UTC)[返信]

(インデント戻す) コメントそこのところは見解が分かれるようですね。単に史実を叙述するという際には、古い著作物を利用することは問題ないでしょう。そして、新しい著作物によって新発見の事実が紹介されたり、定説がくつがえって新しい定説が立てられたりした場合は、その都度、加筆したり修正したりすることが望ましいわけですが、いまおこなおうというのは、記事名(用語名)についての文献調査ですし、目的は「認知度が高い」か否かということの検証なわけです。当然、現代の読み手や書き手にとっての「認知度」なわけですので、新しいものと古いものが同等の重みをもつはずがありません。たとえば、あるひとりの学者がある事象を"A"と呼んでいたのに20年後には"B"と呼んでいるというのであれば、(その学者に"A"と呼ぶのは適切ではないという判断が生じたというふうに考えられるわけですので)"B"と呼ぶべきでしょう。その20年の研究の積み重なりを無視してよいはずがありません。たとえば、30年前だったら古墳時代のはじまりは4世紀と考えられていて、それが「大和朝廷」のはじまりだというふうに誰しも習ったのであり、どの著作にも「大和時代」や「大和朝廷」の記述があります。しかし、現在では「古墳時代の政権=大和朝廷」という認識はありません(言葉はあっても指し示すものが違います)。古墳時代の政権という意味合いでは、だいたいは「ヤマト王権」ほかの用語が用いられています。これは、好むと好まざるとに関係なく、研究の積み重なりを反映したものです。本件についても、信長や秀吉が御所の修築をおこなったとか、朝廷の権威を持ち出したということで、戦前の価値観からすれば「紀州征伐」と呼ぶことこそが、むしろ政治的に正しかったわけです。それはいったん熟語として定着していますから、1970年代くらいまでは圧倒的に「紀州征伐」が多いでしょう。これは調べるまでもないことです。そしてまた、出版物のレベル、しかも(論文ではなく)一般書や通史、事典などのレベルでは、新しい語を採用するということについては概して消極的・保守的なわけで、そういうことを勘案すれば、ここ30年の傾向がわかれば充分と考えます。調査対象はせいぜい1980年代以降でよいと考えますし、それ以前の文献は参考程度ということでよいのではないでしょうか。--Chokorin 2011年2月25日 (金) 20:52 (UTC)[返信]

コメント「そこのところは見解が分かれるようですね」という部分に関しましては、私も同じように思えます。ただ「朝廷の権威を持ち出したということで、戦前の価値観からすれば「紀州征伐」と呼ぶことこそが、むしろ政治的に正しかったわけです」が独自研究ではなく、私の上記コメントにありますように「なにかによって「紀州征伐」という言葉が使われにくくなったという文献でもあれば別」としていますように、その事が文献によって説明されている記述がありましたら、1980年代以降でも良いかと思います。今の時点では、一概に出版年代が古いというだけでカウントしないというのは私は 反対 です。Wikipedia:検証可能性の指針に提示されていないが主な理由です。幅広い文献を精査し、本当に「紀州攻め」が認知度が高いと言えるかどうか、検証する事に注力すべきではないかと思われます。今の時点では「紀州攻め」の方が認知度が高い印象を持ちます。--ブレイズマン 2011年2月26日 (土) 07:37 (UTC)[返信]

コメント ジャムリン氏の挙げた文献以外にも、「紀州征伐」を採っているものは以下のようなものがあります。賛否表明でも一部述べましたが、形式に則り記載しますと

  • 中村徳五郎 戦国時代本願寺 哲学書院(1898年)※ 章題に「信長の紀州征伐」有り
  • 田中義成 豊臣時代史 早稲田大学出版部(1925年)P73 章題 「秀吉の紀州征伐」
  • 渡辺世祐 日本時代史、安土桃山時代史 早稲田大学出版部(1916-1926年)P300~ 章題「紀州征伐」
  • 織田武雄他 日本の文化地理11巻 奈良・和歌山・三重  講談社(1969年) P141 「秀吉の紀州征伐」

いずれも、年代的には古いものですが、これらの用例が時代的背景を受けたものとは言いがたく、十分に信頼できるものであると考えます。--秋田城之介 2011年3月3日 (木) 03:45 (UTC) 修正・追記--秋田城之介 2011年3月14日 (月) 05:28 (UTC)[返信]

コメント確認ですが、「「九州征伐」を採っているものは以下のようなものがあります」とありますが、「紀州征伐」ではなく「九州征伐」でしょうか?後、可能であるならばWikipedia:検証可能性を容易にするため掲載ページ数、もしくは本題に記述がある場合はその旨追加記載をお願いいたします。--ブレイズマン 2011年3月3日 (木) 04:28 (UTC)[返信]
コメント上記修正内容を確認しました。文献調査並びにページ数の記載、ご苦労様でした。--ブレイズマン 2011年3月14日 (月) 07:13 (UTC)[返信]
コメント(秋田城之介さんへ)「紀州」なのか「九州」なのかハッキリさせてくださいますよう、また、掲載ページなどの情報もお示しくださいますようお願いします。それから「これらの用例が時代的背景を受けたものとは言いがたく…」ということですが、「用例」そのものを何ら示されないで、そうおっしゃるのはナンセンスではないでしょうか。歴史を学ぶものにとっては、むしろ「何ごとであれ、時代的背景を受けないものはない」というのが常識であろうかと思いますので、紀州征伐に限って「時代的背景を受けたものではない」とおっしゃるのであれば、そのことを立証しなければなりません。いかがでしょうか。さらに申せば、年代的に古いものばかりを掲げてそうおっしゃるのは矛盾していませんか。--Chokorin 2011年3月6日 (日) 01:34 (UTC)[返信]
歴史学が時代背景の影響を受けることはありますが、全てその前提に立って議論する必要はありません。「紀州征伐」が「何によって」影響を受けた名称だというのでしょうか?--秋田城之介 2011年3月14日 (月) 05:28 (UTC)[返信]
何はともあれページを掲げてくださったことに感謝します。「これらの用例が時代的背景を受けたものとは言いがたい」とおっしゃった根拠は何でしょうか。これは、おっしゃった側が立証しなくてはならない問題ではないかと思いますが、いかがでしょうか。--Chokorin 2011年3月16日 (水) 19:46 (UTC)[返信]
歴史学が時代背景の影響を受けることはありますが、全てその前提に立って議論する必要はありませんから、用例が時代的背景を受けたという確かな出典がない限りは、そう捉えるのが普通です。もし『用例が時代的背景を受ける』のであれば、その境界年を明らかにする必要もありますが、それは不可能に思えます。--秋田城之介 2011年3月17日 (木) 07:18 (UTC)[返信]
この御発言は、仮に「『征伐』が適切でない」というような出典があればそれにしたがうことができるという意味でしょうか? --Chokorin 2011年3月17日 (木) 09:39 (UTC)[返信]

コメント おじゃまします。今までの議論には一応目を通させていただきました。やはり「紀州征伐」やそれに類する用語は様々な呼ばれ方があり、難しい問題だと思います。『豊臣一族』(川口素生著、新紀元社)では紀伊征伐、『秀吉記』(小和田哲男著、新人物往来社)では雑賀根来攻め、『戦国合戦史事典』(小和田泰経著、新紀元社)では紀伊平定という用語が使われており、私としては「紀州攻め」が最適かどうかはわかりませんし、それ以前に「紀州征伐」や「紀州攻め」以外の候補が挙がらないという点で意外でした。いずれにせよ、改名へは慎重な検討を要すると思います。--貫鉄 2011年3月6日 (日) 06:11 (UTC)[返信]

コメント御意見ありがとうございます。それぞれの文献について、年代を掲げてくださると助かりますね。--Chokorin 2011年3月6日 (日) 06:28 (UTC)[返信]
コメント(追記)とくに小和田哲男氏に関していうと、上に掲げた
  • 2006年・小和田哲男「紀州攻め」(吉川弘文館『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』p.152)
のほかに、
  • 2007年・小和田哲男「紀州攻め」(新潮社『名城と合戦の日本史』p.116)
でも、やはり「紀州攻め」の用語が使われていますので、「雑賀根来攻め」とした場合とどう違うのかも検討すべきかもしれません。--Chokorin 2011年3月6日 (日) 06:39 (UTC)[返信]
コメントさて、コメント受付期間が終わろうとしていますが、いかがいたしましょうか。貫鉄さんおっしゃるように慎重な検討をおこなうことにはもちろん賛成ですが、かといって、いつまでも結論を出さないわけにもいきません。ブレイズマンさんは1か月くらいお待ちした方がよいという御意見のようなので、わたしとしても2月20日から数えて1か月待つことには反対しません。ただし、薔薇騎士団さん御本人は文献調査を1か月以内におこなうともハッキリおっしゃっていないので、いつまでも待つわけにもいかないと思います。薔薇騎士団さんはじめ皆さんの文献調査を3月20日まではお待ちしますがそれ以上は待たない、また、その間、関連する議論は継続するということでよろしいでしょうか。--Chokorin 2011年3月7日 (月) 12:53 (UTC)[返信]
コメントさしあたってコメント受付期間を再延長しておきました。秋田城之介さんは2011年3月3日 (木) 04:28 (UTC)のブレイズマンさんの御質問・御要望にお答えください。それから、年代の古い出典については、みなさんはいかがお考えなのでしょうか。よもや19世紀の文献が登場するとは思いませんでした。これはこれで、過去にどう呼称されるケースが多かったかという資料としては貴重なものかもしれませんが、改名提案反対の根拠たりうるものかはおおいに疑問です。ブレイズマンさんおっしゃるように「出版年代が古い著作物は情報源に問題があるとはなっておりません」というのは、確かに、記事執筆にあたってはそう言えると思うのですが、いま文献調査で調べようとしているのは「現在(こんにち)、どの用語が最も一般的に用いられているか」ということではないでしょうか。これは、決してわたしが事を自分の有利なように進めようとして申し上げているのではありません。わたしは、自分の示した基準(日本史学者、1980年代以降、1人1用法、1人の学者に複数の著作があって用法に異同ある場合は年代の新しいもの)によって「紀州征伐」が「紀州攻め」を上まわる、あるいは両者が伯仲するという場合には無論、改名提案を取り下げてかまいません。その基準を緩和することについては、あるいは話し合う余地はあるかもしれませんが、戦前まで含めてよいとか1人何冊でもよいとかというのは無理があると思います。いかがでしょうか。--Chokorin 2011年3月8日 (火) 14:05 (UTC)[返信]
コメント「こんにち的用語」の定義が1980年以降の文献を中心に行われるべき、というウキペディアとしての統一的な見解が示されれば別ですが、現在ではそのような指針はありませんので、一概に出版年代が古いというだけでカウントしないというのは私は 反対 です。「戦前まで含めてよいとか1人何冊でもよいとかというのは無理があると思います」ということですが、私自身は無理は無いと考えております。基本的に上記私のコメントと大きな変化はありません。--ブレイズマン 2011年3月9日 (水) 17:16 (UTC)[返信]
コメントこの件については、「四国征伐」から「四国攻め」への改名提案が出されたとき、中立的な立場の方からこのような意見が出されたことを一応踏まえています。先行する議論として参照にしていただければ幸いです。--Chokorin 2011年3月9日 (水) 20:40 (UTC)[返信]
コメント上記議論は参考にすべき点は確かにあります。ただ、私としましては「ウキペディアとしての統一的な見解」が大事ではないかと思います。例えばWikipedia‐ノート:ページの改名等で議論し、多数の賛同者を得る事ができましたら、1980年以降の文献を中心に議論することに反対しません。--ブレイズマン 2011年3月10日 (木) 17:15 (UTC)[返信]
コメントもちろん「1980年以降の文献を中心に行われるべき」という類のウィキペディアとしての統一的見解があるわけではありません。先端技術分野の用語や現在進行中の事象に関することであるならば、数ヶ月前の呼称ですら古くなってしまうことはあるでしょうし、その事項について出版物で言及されるのが十年間でたった1,2度という頻度の項目名であるなら半世紀以上前の呼称でもおおいに参照にすべきでしょう。自然科学の場合などは、分野ごと、対象ごとに特殊な事情をもつケースの方がむしろ多いでしょう。ですから、統一見解は成り立ちにくいでしょうし、強いて統一見解を求めることが適切とも言えません。ただ、裏返せば、明治時代や大正時代の文献も現代の文献も同等に扱うべしとの統一見解があるというのでもないのです。当方は神田の古書街を頻繁にまわれるようなところに住んでいるわけでもないので、入手や閲覧のいちじるしく困難なものをズラリと並べられても困るわけです。ここでの調査が「こんにち的用語」に限定される話であるならば、たとえば「2001年以降」今までの約10年間でも充分と考えます。なお、この意見に対しては、当時、その場にいた秋田城之介さんからも特に表立った異論がなかったことを付言しておきます。--Chokorin 2011年3月11日 (金) 00:33 (UTC)[返信]
コメント「「2001年以降」今までの約10年間でも充分と考えます」というご意見は、独自研究の可能性が強いのではないかと思われ、私は10年間は充分ではないと思います。私の意見は、「「こんにち的用語」の定義が1980年以降の文献を中心に行われるべき」という統一的な見解が無いのであるならば、Wikipedia:検証可能性の要件を満たす情報源はカウントすべきであると思いますし、一概に出版年代が古いというだけでカウントしないというのは私は 反対 です。上記コメントに変更は無いというのが、私の意見となっております。--ブレイズマン 2011年3月11日 (金) 05:46 (UTC)[返信]
コメント「統一的見解」がない以上、明治期や大正期の文献を「こんにち的用語」に含めるというのも独自研究なんじゃありませんか。ここで話し合って合意を形成しようというのならわかりますが。「「2001年以降」今までの約10年間でも充分」というのは、むろん、ひとつの考え方であり、現状で合意は形成されていないわけですが、とはいえ、2001年以降に刊行されたものが1点や2点というわけではありません。すでに10点近く上がっているわけですから、おおよその傾向はわかるでしょうし、「2011年以降の10年」を予測するに充分資するでしょう。また、調査してくださるという人にとっても、調査しやすいと思います。これを、無制限に過去に引き伸ばしていくなら、どんどん分母が大きくなっていってしまい、結果として文献調査が不正確なものになってしまう怖れがあると思います。いかがですか。--Chokorin 2011年3月12日 (土) 12:13 (UTC)[返信]
コメント合意形成を行う事に反対はしません。ただ、Wikipedia:検証可能性の要件を満たす情報源はカウントすべきであると私は思っております。例外として「「こんにち的用語」の定義が1980年以降の文献を中心に行われるべき」という統一的な見解がなされれば別です。「結果として文献調査が不正確なものになってしまう怖れがあると思います」というご意見ですが、私は幅広く文献を調査する事が不正確になるとは思えません。むしろ正確性が増すのではないかと考えます。「そこのところは見解が分かれるようですね」との最初の御意見に私も同意しております。上記コメントに現時点では変更はございません。--ブレイズマン 2011年3月12日 (土) 15:47 (UTC)[返信]
コメント確認したいのですが、いま文献調査で明らかにしようとしているのは「現在(こんにち)、どの用語が最も一般的に用いられているか」ということでいいんでしょうか。繰り返しになるかもしれませんが、念のため。--Chokorin 2011年3月13日 (日) 13:15 (UTC)[返信]
コメント今どのような思いで皆様方が文献調査を行っているか、私が代表してお答えできませが、私の認識では、改名提案理由にある「1.認知度が高い」に該当するか、しないかでの文献調査が行われているのではないかと思われます。「現在(こんにち)、どの用語が最も一般的に用いられているか」で文献調査が行われているわけではないと私は考えています。「紀州攻め」の方が認知度が高いとなれば、改名が成立すると思われます。これも上記コメントに変更はないと思います。--ブレイズマン 2011年3月13日 (日) 18:20 (UTC)[返信]
コメント 和歌山県史編さん委員会『和歌山県史 中世』1994年に「信長の紀州攻め」・「高野攻め」、「秀吉の紀州攻め」・「大田城水攻め」などの小節がある。また、和歌山市史編纂委員会『和歌山市史 第一巻』1991年には「第三説 信長の紀州攻め」・「第四節 秀吉の紀州攻め」などの節名がある。なお「和歌山県史編さん委員会」は(ママ)です。
ところで秀吉の全国統一事業が「…役」や「…攻め」など違った呼称でいいのでしょうか、疑問に思っています。--Jomon 2011年3月9日 (水) 05:04 (UTC)[返信]
コメントJomonさん、ありがとうございます。さしあたって、ジャムリンさん、貫鉄さん、Jomonさんの掲げたものを、以下に年代順に並べて整理しておきます。
  • 1960年・奈良本辰也「紀州征伐」(河出書房『日本歴史大辞典 第17巻』)
  • 1974年・藤木久志「紀州征伐」(有精堂出版『織豊政権』)
  • 1975年・「紀州征伐」(『兵庫県史』)
  • 1989年・「紀州征伐」(小学館『日本大百科 第24巻』)
  • 1990年・「紀州征伐」(印南町史編集室『印南町史: 通史編 第2巻』、第一法規出版)
  • 1991年・「紀州攻め」(和歌山市史編纂委員会『和歌山市史 第一巻』)
  • 1994年・「紀州攻め」(和歌山県史編さん委員会『和歌山県史 中世』)
  • 2009年・川口素生「紀伊征伐」(『豊臣一族』新紀元社、ISBN 4775307754
  • 2010年・小和田哲男「雑賀根来攻め」(『詳細図説 秀吉記』新人物往来社、ISBN 4404038186
  • 2010年・小和田泰経「紀伊平定」(『戦国合戦史事典』新紀元社、ISBN 4775308017
以上です。みなさまの御協力に感謝いたします。--Chokorin 2011年3月9日 (水) 10:58 (UTC)[返信]
コメント一応3月20日を目途に一旦文献調査は中断し、調べて頂いたすべての分を合算し、最終的にどの程度になるか集計しましょう。私が調べた分も記載しておきます。
  • 1996年・西ヶ谷恭弘編集「雑賀攻め」(世界文化社『秀吉の城』112頁)
最終的に合算し「紀伊征伐」が全体の40%以上ある場合や、「紀州攻め」の方が認知度が高いとまでは言えない場合は、前言を撤回し改名に 反対 を入れる場合があります。--ブレイズマン 2011年3月9日 (水) 16:58 (UTC)[返信]
「紀伊征伐」も「紀州征伐」の用例として看做すということでしょうか?--秋田城之介 2011年3月14日 (月) 05:28 (UTC)[返信]
コメント追加の文献調査、大変ご苦労様でした。上記コメントを確認したところ、「4冊に「紀州征伐」との記載があります」ですので、「紀伊征伐」ではなく「「紀州征伐」が全体の40%以上ある場合」が正しいコメントでした。失礼しました。いずれにしましても、3月20日を目処に、調べて頂いたすべての文献を合算しどの程度になるか集計しましょう。「紀伊征伐」も「紀州征伐」の用例として看做す事が適当かどうか集計結果を見て再度考えたいと思います。--ブレイズマン 2011年3月14日 (月) 07:13 (UTC)[返信]
「年代的に古いものばかりを掲げてそうおっしゃるのは矛盾」との指摘を受けたので、比較的最近の文献も調べましたので報告します。
  • 「紀州平定」 岩波日本史事典 (1999年)
  • 「紀伊根来寺・雑賀一揆攻撃」日本史総合年表第二版 吉川弘文館 P334(2005年)
  • 「紀州征伐」 豊臣秀吉 カラー版徹底図解 新星出版社 (2011年)
--秋田城之介 2011年3月14日 (月) 05:28 (UTC)[返信]

集計

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どのようにカウントするかという点については未だ決着がついていませんが、とりあえず今まで出てきた分について、重複するものも含めて掲げておきます。

紀州征伐もしくは紀伊征伐

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  • 1898年・中村徳五郎「紀州征伐」(『戦国時代本願寺』哲学書院)
  • 1925年・田中義成「紀州征伐」(『豊臣時代史』早稲田大学出版部)
  • 1916-1926年・渡辺世祐「紀州征伐」(『日本時代史-安土桃山時代史』早稲田大学出版部P300)
  • 1960年・奈良本辰也「紀州征伐」(河出書房『日本歴史大辞典 第17巻』)
  • 1969年・織田武雄他「紀州征伐」(『日本の文化地理11巻 奈良・和歌山・三重』講談社)
  • 1974年・藤木久志「紀州征伐」(有精堂出版『織豊政権』)
  • 1975年・「紀州征伐」(『兵庫県史』)
  • 1983年・岩沢愿彦「紀州征伐」(吉川弘文館『国史大辞典 第3巻』pp.78-79)
  • 1989年・「紀州征伐」(小学館『日本大百科 第24巻』)
  • 1990年・「紀州征伐」(印南町史編集室『印南町史: 通史編 第2巻』、第一法規出版)
  • 2009年・川口素生「紀伊征伐」(『豊臣一族』新紀元社、ISBN 4775307754
  • 2011年・「紀州征伐」(『豊臣秀吉 カラー版徹底図解』新星出版社)

紀州攻めもしくは紀伊攻め

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  • 1991年・「紀州攻め」(和歌山市史編纂委員会『和歌山市史 第一巻』)
  • 1992年・熱田公「紀州攻め」(集英社『日本の歴史11 天下一統』p.224)
  • 1994年・「紀州攻め」(和歌山県史編さん委員会『和歌山県史 中世』)
  • 1995年・池享ほか「紀伊攻め」(小学館『クロニック戦国全史』p.485)
  • 1997年・「紀州攻め」(山川出版社『日本史広辞典』)
  • 2000年・熱田公「紀州攻め」(小学館『日本歴史大事典』p.839)
  • 2002年・池上裕子「紀州攻め」(講談社『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』p.143)
  • 2004年・笠原正夫「紀州攻め」(山川出版社『和歌山県の歴史』pp.170-171)
  • 2005年・岩沢愿彦「紀州攻め」(吉川弘文館『戦国武将・合戦事典』pp.853-855)
  • 2006年・小和田哲男「紀州攻め」(吉川弘文館『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』p.152)
  • 2007年・小和田哲男「紀州攻め」(新潮社『名城と合戦の日本史』p.116)

紀州平定もしくは紀伊平定

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  • 1996年・加来耕三「紀州平定」(新人物往来社『豊臣秀吉大事典』)
  • 1999年・「紀州平定」(『岩波日本史事典』)
  • 2010年・小和田泰経「紀伊平定」(『戦国合戦史事典』新紀元社、ISBN 4775308017

その他

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  • 1996年・西ヶ谷恭弘編集「雑賀攻め」(世界文化社『秀吉の城』112頁)
  • 2005年・「紀伊根来寺・雑賀一揆攻撃」(『日本史総合年表第二版』吉川弘文館)
  • 2005年・藤木久志「紀伊雑賀攻め」(講談社学術文庫『天下統一と朝鮮侵略』巻末年表pp.456-467)
  • 2008年・渡邊浩史「根来・雑賀一揆」(朝倉書店『日本中世史事典』p.762)
  • 2008年・山田邦明「紀伊攻略」(小学館『日本の歴史八 戦国の活力』p.309)
  • 2010年・小和田哲男「雑賀根来攻め」(『詳細図説 秀吉記』新人物往来社、ISBN 4404038186
  • 2010年・堀新「雑賀攻め」(吉川弘文館『日本中世の歴史7 天下統一から鎖国へ』p.88)

上記の通りです。--Chokorin 2011年3月17日 (木) 18:50 (UTC)[返信]

項目別に集計しなおしました。もし誤りがございましたら、変更してください。今後文献調査行った場合は、上記 コメントした後にこちらにも付け加えて頂ければと思います。--ブレイズマン 2011年3月18日 (金) 06:04 (UTC)[返信]
集計ありがとうございました。用語の時代性を考えるか考えないか、カウントについて出典の年代を考慮するか考慮しないか、重複分をカウントするかどうか等の点では結論が出ていないのですが、それ以外の部分で合意できる部分については話し合っておいてもよいのではないかと思います。本記事は「良質な記事」となっており、本来であれば、それに対し最も功績の大きかったArawodasさんの御意見をうかがいたいところです。それはさておき、
  1. 仮に「紀州攻め」への改名が合意された場合、書き出しは、現状では「紀州征伐または紀州攻めとは、戦国時代(安土桃山時代)における織田信長・羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである」という文になっていますが、冒頭を「紀州攻めまたは紀州征伐とは、…」というふうに、さしあたっては引っ繰り返すだけにしたいと思いますが、いかがでしょうか。これは、もちろん、もしも「紀州攻め」への改名が合意されたら、ということに限っての話です。
  2. 「その他」5件についてですが、2008年の渡邊浩史「根来・雑賀一揆」以外については「攻め」「攻撃」「攻略」いずれも「攻め」と同義語であり、また、「紀州攻め」と称した場合は、「雑賀攻め」・「根来雑賀攻め」を中心にして「高野攻め」も含んだ総称ですので、「紀州攻め」のグループに加えるのが妥当と考えますが、いかがでしょうか。--Chokorin 2011年3月18日 (金) 11:13 (UTC)[返信]
コメント1.に関しましては、改名が実施できたか、出来なかったか、どちらになるかは解りませんが、後に改めて議論すればよいのではないかと思われます。2.に関しましては、「雑賀攻め」「根来雑賀攻め」に関しては、「紀州攻め」のグループに含めてもよいと私は思われます。「高野攻め」に関しては、紀州征伐#高野攻め紀州征伐#高野山降伏の限定された戦いとなり、「紀州攻め」=「高野攻め」には違和感があります。2.に関しては微妙で、「紀州攻め」=「根来雑賀攻め」で問題ないのか、他者からのご指摘も聞いてみたいとも思います。ただ仮に、「紀州攻め」に2,3冊プラスになったとしても、「「紀州征伐」との文献数も一定数あり著しく「紀州攻め」の方が認知度が高いとまでは言えない」ということになるかも知れませんので、2.に関しては集計結果をみて改めて考えたいと思います。--ブレイズマン 2011年3月18日 (金) 18:48 (UTC)[返信]
コメント まず、冒頭文を逆にしてすむような緊急度や妥当性では改名の必要性自体が感じられません。--ジャムリン 2011年3月18日 (金) 11:17 (UTC)[返信]
コメントそれは違うと思いますよ。Arawodasさんの加筆内容をみれば、本記事の名称としては、節構成その他をみても、むしろ「紀州攻め」とするのが妥当であり、「紀州征伐」の語は冒頭に1か所出たっきり、ついに最後まで出てきません。内容としては、すでに「紀州攻め」の内容になっています。そうであるなら、記事名を「紀州攻め」にしていただいた方が、どなたでも安心して加筆できるということです。確かに、「紀州征伐」というのも「紀州の勢力を攻める」ということに変わりあるわけではありません。ただ、「征伐」の語を用いることは、語の意味からして、根来・雑賀の勢力を「反逆者」「悪者」とみなすという立場に立ってしまうわけですから、もはや「信頼できる情報源」において「紀州攻め」の方が多用される状況であるというのなら、「紀州攻め」を採用した方が長い目でみたら記事の充実に資するでしょう。いかがですか。--Chokorin 2011年3月18日 (金) 11:56 (UTC)[返信]
コメント 藤木久志氏の近年著について若干ですが調べてみたところ、
  • 藤木久志『天下統一と朝鮮侵略』講談社学術文庫、2005年発行の巻末年表(456~467頁)
  • 「中国征討」「(四国平定)」「紀伊雑賀攻め」「九州動員」「朝鮮出兵」と、()着きのもの以外は文章の中で使われていてバラバラです。
当該事項ではなく近似事項としてですが、藤木氏のスタンスについての疑問がありましたので、ご参考までに
  • 藤木久志『城と隠物の戦国誌』朝日新聞出版社、2009年発行、p132~。 では章題と文中で「九州征伐」(2.「九州征伐」の前後では)とあります。藤木氏の記述もそうですが「攻め」は「~攻めた」という文脈で使われることも多いですよね。「××戦争」という記事の文中で「戦争した」というよりは「戦った」と使われることが多いようなものだと思います。--ジャムリン 2011年3月18日 (金) 12:26 (UTC)[返信]
コメントそうですか。藤木久志先生の『飢餓と戦争の戦国を行く』(朝日選書・2001年)では、「豊臣秀吉の九州制圧(『九州征伐』)」という表記があって、以下「九州征伐」は、すべて括弧書きで示したうえで、「なぜ、秀吉がこの実力行使を『征伐』と称したのか」ということに対する説明というか推論が書かれています。これは比較的一般向けの本です。それから、1994年の『中世内乱史研究15』所収の「戦場の奴隷狩り・奴隷売買」という論文では「九州攻め」の語が用いられていますが、藤木先生は、こちらは括弧づきにはしておらず、「…また同年の豊臣の九州攻めを主題とする『九州御動座記』は、…」という書き方をしておられますね。わたしは、それを存じていましたので、1970年代ならともかく「紀州征伐」の語を今も使っているかどうかとても疑問だったのです。2009年段階で「九州征伐」の用語が括弧なしで使われているとしたら、意外ではあります。御教示ありがとうございました。学術文庫「紀伊雑賀攻め」の方は、もしかしたら初出は2005年ではなく、もっとさかのぼるかもしれません。御確認ください。--Chokorin 2011年3月18日 (金) 13:01 (UTC)[返信]

集計結果

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報告文献調査終了に伴い、集計をしました。

  • 紀州征伐もしくは紀伊征伐 37%
  • 紀州攻めもしくは紀伊攻め 33%
  • 紀州平定もしくは紀伊平定 9%
  • その他 21%

(「雑賀攻め」・「根来雑賀攻め」を「紀州攻めもしくは紀伊攻め」に含めた場合)

  • 紀州征伐もしくは紀伊征伐 36%
  • 紀州攻めもしくは紀伊攻め 46%
  • 紀州平定もしくは紀伊平定 9%
  • その他 9%

という結果になりました。もし計算間違いがございましたら、訂正して頂けますようお願いします。文献調査して頂け方々は大変ご苦労様でした。ざっと見た感じ「雑賀攻め」・「根来雑賀攻め」を「紀州攻めもしくは紀伊攻め」に含めたとしても、「「紀州征伐」との文献数も一定数あり著しく「紀州攻め」の方が認知度が高いとまでは言えない」状態ではないかと思われます。私のコメントは、もう一度この結果や他者の指摘もありましたら、それらを参照し、今一度よく再考した後に述べたいと思います。--ブレイズマン 2011年3月21日 (月) 07:04 (UTC)[返信]

調査結果を受けてのコメント

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文献調査に御協力くださいました皆様、ありがとうございました。私自身は、この地震の影響で燃料不足その他の事情により図書館での文献調査はまったくできませんでした。その点は残念ですが、集計結果でだいたいの傾向はうかがえるのではないかとも思います。次の点についてコメントくださいますようお願いします。

  1. 調査結果を受けて(カウント方法、用語の時代性を考慮するかどうかも含む)
  2. 本文の記載内容と記事名称の整合性その他(「調査結果を受けて」以外についてのお考え)
  3. 改名の是非

以上3点です。以下にコメント欄を設けます。なお、「コメントに対するコメント」はお控えください。--Chokorin 2011年3月22日 (火) 11:04 (UTC)(微加筆)--Chokorin 2011年3月22日 (火) 11:16 (UTC)[返信]

コメント私は改名の議論よりChokorin氏が地震の影響を受けていないか、心配しておりましたが、上記コメント内容を見る限り、直接的な地震の影響は大きくなかったのではないかと推察しております。どうかご自愛くださいませ。話を改名の議論に戻しますが、私の意見表明は他者からの指摘が無くても1週間後3月27日前後に行いたいと思います。--ブレイズマン 2011年3月25日 (金) 10:20 (UTC)[返信]
御心配をおかけして申し訳ありませんでした。停電が2日つづいて不便な生活を経験しましたが、私も家族も無事です。あたたかいお言葉ありがとうございました。--Chokorin 2011年3月25日 (金) 21:53 (UTC)[返信]

コメント欄

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コメント みなさんお疲れさまです。まず、今回調査で出てきた用法については、最低限併記しても良いのではないかと思います。また、古い時代の文献についても参考になるのではないかと。記事改名については、調査結果を踏まえて「現状維持」が妥当ではないかと思います。雑賀攻め・根来雑賀攻めを紀州攻めに加えるというカウント方法で集計しそれに基づいて改名する場合、結局どの記事名にするのか、という問題も生じると思われます。--貫鉄 2011年3月27日 (日) 05:46 (UTC)[返信]

コメント 意見に至らず、ここまでの議論を読んでの個人的感想です。「紀州征伐」よりは「紀州攻め」方が良いかな、との感触を得ました。負荷が掛からぬ程度で下記の使用例を見掛けましたので、一応報告まで。
紀州征伐
  • 1978年・桑田忠親「紀州征伐」(『日本の合戦6 豊臣秀吉』新人物往来社) 「紀州征伐を企てた。」「元親は紀州征伐のあと、」:
紀州攻め
  • 1984年・播磨良紀「(コラム)桑山重晴について」(『和歌山市史研究12』和歌山市史編さん委員会) 「羽柴秀吉の紀州攻め、即ち、根来寺の焼討ち・太田城水攻めなどは有名であるが、」
  • 1985年・立花秀治「山地一揆について」(『和歌山県史研究13』和歌山県史編さん委員会) 「羽柴秀吉の紀州攻めの際、」「羽柴秀吉の紀州攻め後、」
  • 1987年・播磨良紀「(コラム)再び桑山重晴について」(『和歌山市史研究15』和歌山市史編さん委員会) 「紀州攻めの終わってまもないころの」「紀州攻め後、」
  • 1987年・播磨良紀「秀長執政期の紀州支配について」(『和歌山地方史の研究』宇治書店) 「紀州攻めによって、」「紀州攻めと旧在地領主の動向」「紀州攻めの後四国攻めを行うが、」「紀州攻め以前から」「秀吉が紀州攻めをした時」「紀州攻めの功により、」
  • 1994年・鵜殿村村史編さん委員会『鵜殿村史 通史編』 節題「豊臣秀吉の紀州攻めと紀州支配」
  • 2000年・播磨良紀「豊臣政権と豊臣秀長」(『織豊期の政治構造』吉川弘文館) 「紀州攻めでは」「紀州攻め後」
  • 2001年・播磨良紀「堀内氏と那智 -戦国・織豊期の紀南支配を通じて-」(『和歌山地方史研究41』和歌山県地方史研究会)「羽柴秀吉は紀州攻めを敢行し、」「紀州攻め時には秀長は、」
紀州平定
  • 1963年・徳富猪一郎「紀州平定」(『近世日本国民史4 豊臣氏時代甲篇』近世日本国民史刊行会) 節題「紀州平定」
その他
  • 1987年・遊佐教寛「秀吉の属人支配から秀長の属地支配へ」( 『和歌山県史研究15』和歌山県史編さん委員会) (一番多いのが「紀州攻撃」)「根来衆・雑賀衆討滅後の措置」「紀州攻撃後、」「紀州攻撃で秀吉の味方」「紀州北部での雑賀衆・根来衆との戦いは」「秀吉が紀州攻撃をするにあたって」「秀吉が紀州を武力平定した前後、」・・・
  • 2001年藤田達生「豊臣国分論(二)-北国国分-」(『日本近世国家成立史の研究』校倉書房) 「紀伊雑賀攻撃」「秀吉の和泉・紀伊両国への攻撃は、」
--Yasumi 2011年3月27日 (日) 10:58 (UTC)[返信]

報告文献調査はすでに終了しておりますが、折角多数の文献を調査して頂いており、これを考慮に入れないのはかえって問題があるように思えますので、仮に上記追加調査を加えると、

  • 紀州征伐もしくは紀伊征伐 36%
  • 紀州攻めもしくは紀伊攻め 46%
  • 紀州平定もしくは紀伊平定 9%
  • その他 20%

という結果になりました。もし計算間違いがございましたら、訂正して頂けますようお願いします。この内容に基づき再考したいと思います。私のコメントは1週間後4月3日前後にさせて頂きます。--ブレイズマン 2011年3月30日 (水) 05:51 (UTC)[返信]

反対 私は改名に反対させていただきます。従来私は「積極的な賛成ではありませんが、 反対は表明しません」としておりました。この理由は、当初11冊中1冊しか「紀州征伐」がなく、改名理由にある「1.認知度が高い」に該当する可能性が高まったと思え、積極的な賛成ではないものの、反対は表明していませんでした。しかし、その後の追加調査で上記のような結果になりました。「紀州攻め」が多くの文献で使用されておりますが、「紀州征伐」も一定数の文献が使用されており、「紀州攻め」が圧倒的に認知度が高いとまでは言えない状態だと思います。私は上記コメントで「圧倒的に「紀州攻め」の方が認知度が高いとまでは言えない、改名に 反対を表明をする可能性はあります」としておりました。「紀州攻め」が圧倒的に認知度が高いとまではいえず、紀州攻めは当ページWikipedia:リダイレクトされており、改名しなければならないほど緊急性が高いとまでは言えないと思われます。そこで、前言を撤回し、改名には反対を表明させていただきます。--ブレイズマン 2011年4月5日 (火) 09:04 (UTC)[返信]

コメント「緊急性」に関しては判断が難しいんじゃないでしょうか。たとえば1990年代以降の出典をもとに加筆する場合、「紀州征伐」はきわめてマイナーで、圧倒的に「紀州攻め」が多いことは調査結果からも充分にうかがえることです。これら新しい資料をもとに加筆したいという人にとっては、緊急性はむしろ「きわめて高い」わけです。--Chokorin 2011年4月5日 (火) 12:33 (UTC)[返信]
コメント「1990年代以降の出典をもとに加筆する場合」ということですが、1989年以前の文献を基に加筆してはならないとはウキペディアの指針はなっておりません。上記コメントでもありますように、Wikipedia:検証可能性の要件を満たす情報源はカウントすべきであると私は思っております。従いまして「紀州攻め」が圧倒的に「1.認知度が高い」とまではいえず、緊急性も高いとは言えない、と私は思っております。今後議論の進行によっては意見が変化する可能性はありますが、現時点の私自身の意見としましては、「改名には 反対 」を継続させていただきます。--ブレイズマン 2011年4月6日 (水) 01:54 (UTC)[返信]
緊急性とは「でなくではならない」理由が発生したということであると思いますが、そこまでの根拠のある理由はないと思います。--ジャムリン 2011年4月7日 (木) 20:08 (UTC)[返信]
コメント「1990年代以降の出典をもとに加筆する場合」というのは、もとより「たとえば」の話です。たとえば、1990年代以降の新しい資料にもとづいて加筆したいという人が当分のあいだ現れる可能性がないというのであれば、「紀州征伐」のままにしておくべきでしょう。もし、1990年代以降の新しい資料にもとづいて加筆したいという人が現れる可能性があるとすれば(わたしは現れる可能性は高いと思いますが)、そういう人にとっては緊急性は高いでしょう。人によって「緊急性」の高い低いは違いますから、それを一概に「高くない」とは言えないということです(ブレイズマンさん個人がどう思うかは別にして)。--Chokorin 2011年4月6日 (水) 09:51 (UTC)[返信]
コメント私の意見としましては、特定の年代で区別する指針はウキペディアでは現時点で示されておりません。そのような指針が示されないのであるならば、Wikipedia:検証可能性の要件を満たす情報源はカウントすべきであると私は思っております。時系列的に用語がどのように使われたのかについては、面白い研究テーマであると思われますが、上記にもコメントしています通り、その研究結果で改名の基準を作るのはWikipedia:独自研究は載せないに抵触する可能性があり問題があると私は思います。但し一度集計・分析してみる事に問題があるとは思えません。いろいろと集計・分析してみることは大変よい事だと思います。いずれにしましても、現時点の意見としましては、「改名には 反対 」を継続させていただきます。--ブレイズマン 2011年4月6日 (水) 14:55 (UTC)[返信]
コメント「指針が示されていない」ということは、必ずしも「新しい指針を立てること」を妨げません。有力な2候補「紀州征伐」と「紀州攻め」はともに「見つけやすい」「曖昧でない」「簡潔」という基準を満たしており、そこに差はありません。「認知度が高い」ということに関して言えば、1970年代まで支配的であった「紀州征伐」もそれなりに定着しており、1990年代以降優位である「紀州攻め」もそれなりに認知度が高いわけです。このようなケースも含め、あらゆる場合を想定した「指針」ではないことはあらかじめ了解しておく必要があります。--Chokorin 2011年4月6日 (水) 20:56 (UTC)[返信]
コメント「「指針が示されていない」ということは、必ずしも「新しい指針を立てること」を妨げません」という部分に関しましては、異論は全くありません。新たな指針を作り、本改名に適応するという事であれば、私自身は反対意見を撤回する可能性があります。その場合、上記の私のコメントと繰り返しになりますが、あらたに指針を作成するには2つほどあるかと思います。
  1. 例えばWikipedia‐ノート:ページの改名等で議論し、多数の賛同者を得る事ができWikipedia:ページの改名にその指針が提示出来た場合
  2. なにかの理由によって「紀州征伐」という言葉が使われにくくなったという、文献もしくは信頼できる情報源からの提示があった場合
が考えられると思われます。その辺を明確にし広域的に適応できる指針を立てることは全く問題ないかと思われます。このページのみに適応する指針については私は反対です。--ブレイズマン 2011年4月7日 (木) 04:15 (UTC)[返信]
コメントそれについては、ノート:九州の役/過去ログ4#記事名称についてで問題提起をおこなっています。また、ノート:四国攻め/Log1における「四国征伐」から「四国攻め」への改名提案における文献調査でも時系列的な調査は重視されていますので、「かつて指針となった」ということは少なくとも言えそうです。--Chokorin 2011年4月7日 (木) 10:36 (UTC)[返信]
四国攻めでの議論はwikipediaの方針に無い条項を指針にされていたようですが、残念ながら、前例が有るから指針として有効であるとは言いづらいと思います。--貫鉄 2011年4月8日 (金) 06:15 (UTC)[返信]
コメント両議論は参照すべき点はありますが、広域的な指針もしくは本ページの改名の議論の指針とはなり得ません。今のところ本ページ改名の議論の指針もしくは広域的な指針なるのは、Wikipedia:検証可能性#情報源/ソースWikipedia:信頼できる情報源が有効と思われます。--ブレイズマン 2011年4月8日 (金) 07:04 (UTC)[返信]
コメント「有効であるとは言いづらい」としても「無効である」とも言いづらいのではないですか。微妙な判断が迫られる場合、先行する議論を踏まえるのは常識であり、しかも、四国の改名議論に関して言えば、時系列的分析をおこなうことに対して何の異論もなかったわけです。四国の改名議論をやり直すおつもりがあるのなら話は別ですが、そうでないなら、先行する議論を最大限尊重すべきでしょう。そもそも調査結果では、「紀州征伐」よりも「紀州攻め」の方が認知度が高かったわけですよね。それでもなお「紀州征伐」を良しとする理由は何ですか? --Chokorin 2011年4月8日 (金) 09:21 (UTC)[返信]
コメント個別ページの議論を参照することは有効であったとしても、本改名の議論の指針にはなりえません。むしろ、Wikipedia:検証可能性#情報源/ソースWikipedia:信頼できる情報源の指針が有効であると思われます。「「紀州征伐」よりも「紀州攻め」の方が認知度が高かったわけですよね」とのご指摘でありますが、私は上記コメントでもありますように「「紀州攻め」が圧倒的に「1.認知度が高い」とまではいえず」という認識であります。「新しい指針を立てること」については、異論はありません。2つの議論の結論をもってWikipediaの全体の指針とするのではなく、まずはその新しい指針を立てることが大事ではないかと思います。現時点では改名に 反対 を継続させていただきます。--ブレイズマン 2011年4月8日 (金) 09:59 (UTC)[返信]
コメントWikipedia:検証可能性#情報源/ソースWikipedia:信頼できる情報源の指針はもとより有効なわけです。その点からすれば、
  • 2009年・川口素生『豊臣一族』新紀元社、ISBN 4775307754
  • 2011年・『豊臣秀吉 カラー版徹底図解』新星出版社
の2つは情報源として良質かといえば疑問符がつきます。そのあたりは精査なさっていますか。--Chokorin 2011年4月8日 (金) 10:30 (UTC)[返信]
(追記)単なるパーセンテージの集計だけで議論を進めることに対する批判が下で出ていますが、少なくとも「紀州征伐もしくは紀伊征伐 36%」「紀州攻めもしくは紀伊攻め 46%」というパーセンテージを掲げたのは、他ならぬブレイズマンさんですね。それならば、なぜパーセンテージの少ない「紀州征伐もしくは紀伊征伐」の方を良しとするわけですか。そのあたり、論理的な説明をお願いします。--Chokorin 2011年4月8日 (金) 10:44 (UTC)[返信]
コメント検証につきましては、下記に議論を移しましたのでご覧になってください。当初、改名に反対しなかった理由は、11冊中1冊ならば紀州攻めが「1.認知度が高い」に該当し、積極的な賛成ではないものの、改名の緊急性は十分にあると思われました。上記結果は確かに数が一番多かったのですが、「紀伊征伐」と「紀州攻め」は大きな開きはなく、紀州攻めが圧倒的に「1.認知度が高い」とは言えません。つまり、Wikipedia:記事名の付け方の「1.認知度が高い」の指針に示されている「信頼できる情報源において最も一般的に使われており、その記事の内容を表すのに最も著名であると考えられるもの」とあり、「紀州攻め」がこの「最も一般的」「最も著名」とまでは言えないと判断しました。紀州攻めは当ページにすでにWikipedia:リダイレクトされており、改名しなければならない緊急性は少ない、というのが私が判断した理由となっております。--ブレイズマン 2011年4月8日 (金) 11:21 (UTC)[返信]
コメント調査結果からは、「紀州攻め」が「最も一般的」「最も著名」だったのではないですか。「緊急性」に関しては、前にも申し上げましたが、加筆する気のまったくない人にとっては緊急性は低いでしょうが、加筆したい人にとっては緊急性は高いでしょう。ブレイズマンさんが「緊急性が低い」とお考えになるのは自由ですが、「緊急性が高い」と感じる人に「待て」というだけの根拠が果たしてあるかという問題です。そもそも、「大きな開きがない」というのだったら、賛否のコメントは付けられないんじゃないんですか。--Chokorin 2011年4月8日 (金) 12:02 (UTC)[返信]
コメント調査結果からは「紀州攻め」も「紀伊征伐」も同じような認知度があるということです。単なるパーセンテージの集計だけで議論しているわけでもなく、どちらに優劣があるというわけでもありません。本改名の議論は「紀州攻め」と「紀伊征伐」のどちらが相応しいという議論ではなく、「紀伊征伐」が「紀州攻め」に改名する妥当性があるかという議論だと思われ、私はその妥当性はないと 反対 を表明させていただいております。--ブレイズマン 2011年4月8日 (金) 12:45 (UTC)[返信]

(インデント戻す)「同じような認知度」ということに異論はないですが、文献調査でも、下にジャムリンさんが掲げてくださったネット検索の調査でも、「紀州攻め」の方が「紀州征伐」よりは若干優位にあるようです。本改名議論が、改名に妥当性があるか否かの議論のはずであるということは筋論としてはよく理解できますし、また、おっしゃる通りだとも思うのですが、どちらが相応しいかの議論になることもまた不可避であろうと思います。その場合、

  1. どちらが相応しいかの議論をはじめることについては反対ですか、それとも、了承できますか。
  2. (改名議論を横に置いたとして)ブレイズマンさんが現段階で最も相応しいと思うのは「紀州征伐」ですか、それとも、「紀州攻め」ですか。

お答えいただければ幸いです。--Chokorin 2011年4月9日 (土) 05:41 (UTC)[返信]

コメント1.「どちらが相応しいか」という点に関しては、結局「1.認知度が高い」という点が争点になり、「紀州征伐」「紀州攻め」とも大体同じような認知度が伺え知れますので、「現状維持が妥当である」と思えます。2.「現段階で最も相応しいと思うのは」という点は「(改名議論を横に置いたとして)」という前提条件が付きますので、本議論に影響を与えるものではありませんが、上記コメントでは「私自身は「紀伊攻め」も「紀州征伐」も大差は無く」としておりました。その後、若干の気持ちの変化はありましたが、結局一周して「私自身は「紀伊攻め」も「紀州征伐」も大差は無く」に落ち着いたと思っております。このページはもともと利用者:61.116.117.84氏が雑賀城より分割し分割名を「紀州征伐」としそうですが、仮に当初は「紀伊攻め」となったいたとし、上記議論をほぼ同じような形をとり「紀州征伐」に改名を提案しましたら私自身は反対を表明すると思います。--ブレイズマン 2011年4月16日 (土) 04:54 (UTC)[返信]
コメントコメントありがとうございました。もしかしたら、改名論議にエネルギーと時間を費やすのはムダであり、その分執筆に力を注ぐべきであるとのお考えかとお見受けしました。もし、そうであるなら、基本的には自分も同じ考えです。ただ、この議論は記事の成長を左右するとも思っています。--Chokorin 2011年4月18日 (月) 20:12 (UTC)[返信]

(追記)もうひとつ。これは「改名の妥当性」そのものにかかわることです。ブレイズマンさんが以前「新しい指針」として2つ掲げてくださったこと、それはそれでいいと思います。そのうちの「なにかの理由によって「紀州征伐」という言葉が使われにくくなったという、文献もしくは信頼できる情報源」は、今のところ、確認できません。ただし、「九州征伐」の語については、文中でカギ括弧付きで示すような用例を4例(大賀郁夫、池上裕子、朝尾直弘、藤木久志)確認しており、複数の専門家のあいだに「征伐」の語をそのまま用いることに躊躇があることは確認されています。九州の時点で躊躇があるのなら、関白任官以前の紀州攻めの段階で「征伐」の語を用いるのはいっそう慎重であるべきではないのかとも考えられるのですが、それについては、いかがお考えでしょうか。また、「紀州征伐」という言葉が使われにくくなったという「文献もしくは信頼できる情報源」がなくても、大多数の人によって「現実に使われなくなってきているという事実」ないし「用語転換がおこっているという事実」が確認できるとすれば、それは「新しい指針」の3番目として加えられないでしょうか。--Chokorin 2011年4月9日 (土) 06:11 (UTC)[返信]

(コメント)特に異論もないようですので、改名提案と並行して「紀州攻め」と「紀伊征伐」のどちらが記事名として相応しいのかという議論もおこないましょう。--Chokorin 2011年4月12日 (火) 10:32 (UTC)[返信]
コメントこの点に関しては細かな情報提供を求めます。「複数の専門家のあいだに「征伐」の語をそのまま用いることに躊躇があることは確認されています」とはどのような研究成果でそのような記述がされているのかが重要です。「九州征伐」だから「紀伊征伐」にまったく適応できないというわけではありませんが、本記事は、織田信長時代と豊臣秀吉時代の戦いが一括りにされている内容となっております。九州征伐に関しては私はほとんど知識はありませんが、紀伊征伐に関しては一定の知識があります。この本文にも記載されおりますが、紀伊国は有力な守護大名がおらず、根来衆雑賀衆が実質支配していた紀伊国一揆衆、民衆合議制によって支配していた国となっております。「大多数の人によって「現実に使われなくなってきているという事実」ないし「用語転換がおこっているという事実」が確認できるとすれば、それは「新しい指針」の3番目として加えられないでしょうか」ということですが、私とのみの議論ではありませんが、私自身は基本的に可能と思います。また「九州征伐」だから「紀伊征伐」に適応できないということでもありません。しかし、本当に適応する場合は、「征伐」という言葉のみに言われている研究なのか、「九州征伐」という言葉に言われている研究なのかよく見極める必要はあるかと思います。--ブレイズマン 2011年4月16日 (土) 04:54 (UTC)[返信]
コメント紀州の諸勢力はさまざまなかたちで不服従・抵抗を繰り返したのですから、信長や秀吉からみれば間違いなく「反逆者」なのでしょう。したがって、信長や秀吉の立場からは「紀州征伐」の語は100パーセント正しいとは言えると思います。しかし、それとは別の次元で、第三者として紀州の勢力が当時置かれていた立場や状況をふくめ、歴史的事実を公平に把握・追究すべき立場にある研究者が、完全に信長・秀吉側の視点に立ってしまうことは、研究姿勢としては間違いだということではないかと思います。
「九州征伐」に関していうと、朝尾直弘『大系日本の歴史8 天下一統』(1988)では、本文に「九州征伐」の語はありますがカギ括弧付きであり、索引では「九州平定」の語が採用されています。大賀郁夫は、山川出版社県史シリーズ『宮崎県の歴史』(1999)で節タイトルとしては「豊臣秀吉の九州侵攻」の語を用い、「…このため秀吉は、同年7月島津氏を『逆徒』と決め、…羽柴秀長・秀次の指揮のもとに西国軍勢を派兵して、世にいう『島津征伐』が開始された。」(p.180)と叙述しており、島津が本当に「逆徒」であるかどうかについては疑義が付されています。池上裕子も、講談社『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』(2002)のなかで「九州出兵」の語を用い、「…このため秀吉は7月、停戦令に違反した『逆徒』島津の『征伐』令を発して中国勢・四国勢を派遣したが、島津はそれらと戦い、かえって豊後を占領した。」(p.154)とあり、ここでもわざわざカギ括弧が使用されています。大賀・池上の両氏に共通するのは、「征伐」の語と「逆徒」の語をセットで考えていることです。これは、「征伐」のもともとの意味が「反逆者を攻める」であることを踏まえたものであると言えそうです。藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』(1985)や『飢餓と戦争の戦国を行く』(2001)でも、「いわゆる九州征伐」ないし括弧付きで「九州征伐」と表記されており、『飢餓と戦争の戦国を行く』(2001)の方では、「九州征伐」はあくまでも「秀吉から見たら」の語であることが説明されています。なお、藤木久志「戦場の奴隷狩り・奴隷売買」『展望日本歴史12』東京堂出版、2001(『中世内乱史研究15』1994所収)では「九州攻め」の語が括弧なしで採用されています。また、わたし自身は確認していませんが、秀吉による秀吉配下の大名の九州動員について、藤田達生『日本近世国家成立史の研究』(2001)は、「藤木氏は九州征伐令とよぶが、「征伐」はあくまでも豊臣政権側からのものであることから、ここでは九州攻撃令と記した」と註釈しているそうです。紀州攻めに関する話題ではありませんが、踏まえるべき事柄ではないかと考えます。
用語転換についてのお考えをお示しいただき、ありがとうございました。議論が進展して嬉しく思います。--Chokorin 2011年4月18日 (月) 21:47 (UTC)[返信]
コメント 一点申し上げますと、反逆者だと一方的にみなされるから征伐が不適切である、という学問上の見解・見識は疑問なところです。大賀・池上両氏が逆徒と征伐をセットで考え、それらが本来不適切であるとするならば、なぜそのような文体を取ったのか、著者による理由の開陳を以って明らかになるところだと思いますが。--貫鉄 2011年4月24日 (日) 06:10 (UTC)[返信]

情報源の検証

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Wikipedia:検証可能性#情報源/ソースWikipedia:信頼できる情報源の指針はもとより有効なわけです。その点からすれば、

  • 2009年・川口素生『豊臣一族』新紀元社、ISBN 4775307754
  • 2011年・『豊臣秀吉 カラー版徹底図解』新星出版社

の2つは情報源として良質かといえば疑問符がつきます。そのあたりは精査なさっていますか。--Chokorin 2011年4月8日 (金) 10:30 (UTC)[返信]

コメント上記情報源の検証につきましては、節を分けた方がよいかと思います。その上で「2つは情報源として良質かといえば疑問符がつきます」という点ですが、具体的に疑問符とはなにか、かつWikipedia:検証可能性#情報源/ソースWikipedia:信頼できる情報源のどの指針に照らして問題があるのか、その根拠を明確にしていただけますようお願いします。--ブレイズマン 2011年4月8日 (金) 11:21 (UTC)[返信]
コメント節を分けることに反対しませんが、全体の可読性というものがありますから、場所を移動することは慎んでください。私は「精査しているかどうか」をうかがっているのですから、まずはそれにお答えください。ブレイズマンさんが文献調査を行おうという人に対し、出典に必ず記載ページを付けるよう要請したのは、その精査のためではないのですか。--Chokorin 2011年4月8日 (金) 12:02 (UTC)[返信]
コメント「まずはそれにお答えください」という点に関しましては、失念しておりました。大変失礼しました。「そのあたりは精査なさっていますか」というご質問には「No」となっております。次に「出典に必ず記載ページを付けるよう要請したのは、その精査のためではないのですか」ということに関しましては、そうではありません。上記コメントを読んでいただけば解りますように、「「紀州征伐の表記も相当数あります」という部分を、出来ましたら明確にして頂ければ説得力が増します」としていますように、Wikipedia:出典を明記するの指針に準じた方が説得力が増すと考えたからです。--ブレイズマン 2011年4月8日 (金) 12:45 (UTC)[返信]

時系列的な用語変化の分析

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コメント 集計方法に関するコメントのみにとどめますが、上のパーセンテージの集計だけで議論を進めるのはいかがなものかと思われます。時系列的な用語変化などの集計・分析もあって然るべきでしょう。少なくとも時系列的な用語変化も分析に加えて議論する方がより客観的な議論にできると思います。--かげろん 2011年4月6日 (水) 07:29 (UTC)[返信]

コメントコメントありがとうございます。至極妥当な御指摘だと思います。時系列順に並べると、以下のような結果になりました。ただし、単純な合算であり、同じ執筆者による重複分について、また情報源として良質かどうかなどについては考慮していません。
候補 1970年まで 1971-1980 1981-1990 1991-2000 2001年以降 サンプル数
全候補 6 3 8 11 15 43
紀州征伐・紀伊征伐 5(83.3) 3(100.0) 3(37.5) 0(0.0) 2(13.3) 13(30.2%)
紀州攻め・紀伊攻め 0(0.0) 0(0.0) 4(50.0) 8(72.7) 6(40.0) 18(41.9%)
紀州平定・紀伊平定 1(16.7) 0(0.0) 0(0.0) 2(18.2) 1(6.7) 4(9.3%)
~攻撃 0(0.0) 0(0.0) 1(12.5) 0(0.0) 2(13.3) 3(7.0%)
~攻め 0(0.0) 0(0.0) 0(0.0) 1(9.1) 3(20.0) 4(9.3%)
~攻略 0(0,0) 0(0.0) 0(0.0) 0(0.0) 1(6.7) 1(2,3%)
これをみると、少なくとも「平定」は候補から外れそうです。「紀州合戦」「紀州の役」「紀州戦役」などは抽出されておらず、これらも候補から外れそうです。「征伐」については、全体からみても比較優位にはあらず、また、4割にも達していません。「紀州攻め・紀伊攻め」は比較優位にあり、「雑賀攻め」などを含むと5割を越えます。さらに申せば、「攻撃」「攻略」いずれも「攻めること」で同じ意味であり、これらを合算すると6割を越えます。
時系列的にみれば、1970年代までは圧倒的に「紀州征伐」優位にあります。しかし、「紀州征伐」は1980年代に入ると「紀州攻め」と互いに拮抗するようになり、1991年以降はむしろ「雑賀攻め」などと比較しても、より少数の使用しかありません。もとより悉皆調査ではありませんし、発行部数を乗じたものでもありませんから、「認知度」の調査としては不充分なものでしかありませんが、ただ、傾向としては、「征伐」系の用語から「攻め」系の用語への用語転換が進んでいるということは、全体から読み取ることが可能でしょう。したがって、調査を踏まえるのならば、論点はむしろ「『紀州攻め』への改名が時期尚早かどうか」ということではないかと思います。なぜならば、これからも永久に「『紀州征伐』のままにしておくべき理由がない」と私は考えるからです。--Chokorin 2011年4月6日 (水) 11:41 (UTC)(微調整)--Chokorin 2011年4月6日 (水) 11:57 (UTC)[返信]
コメントさて、全体からみれば、1980年代を境にして「紀州征伐」等「征伐」系から「紀州攻め」等「攻め」系への用語転換が進行しているようにみえますが、みなさんはいかがお感じになるでしょうか。--Chokorin 2011年4月7日 (木) 10:18 (UTC)[返信]
コメント最近の動向としての参考にすぎませんが、「""」で絞り込んでwikipediaをマイナスにしてネット検索を行った場合は「"紀州征伐"」[1]、「"紀州攻め"」[2]というHIT数となっており、少なくとも1980年から30年以上にわたる書籍上の割合からすれば、一般における用語の変換が反映されているとは言いがたい状況にあるかと感じます。--ジャムリン 2011年4月7日 (木) 20:08 (UTC)[返信]
コメントジャムリンさんの掲げてくださった資料からわかるのは、「ネット検索でも紀州攻めの方が紀州征伐よりは認知度が高い」ということだけですよね。「用語変換のわからない資料」を掲げて「用語変換はない」という結論を下すのはナンセンスというものです。--Chokorin 2011年4月8日 (金) 09:26 (UTC)[返信]
コメント 用語変換は無いなどと申していませんよ?どう感じると問われたので、有るとは言いがたいと感じたと申し上げたのです。認知度=検索数でもないと考えますし、大体何パーセント高かったら用語変換があったと見做すのか、ナンセンスでない「信頼性の高い」根拠でもあるなら提示していただけると判りやすいと思います。--ジャムリン 2011年4月8日 (金) 12:11 (UTC)[返信]
コメント「有るとは言いがたい」と「無い」は、前者が語尾を濁しただけの話で同じことじゃないですか。「わからない」のなら「わからない」と率直に言うべきなのであって、「用語変換の様相のわからない資料」を掲げて「用語変換が有るとは言いがたい」という結論を出すのはペテンというものです。違いますか。--Chokorin 2011年4月8日 (金) 12:23 (UTC)[返信]
コメント老婆心ながら一言。議論している相手に対して「ペテン」という言葉を使うのはいかがなものかと思われます。Wikipedia:礼儀を忘れないによりますと、深刻な例に示されております「相手をあざけったり馬鹿にすること」が問題行動として指摘されております。建設的な議論をしているのであるならば、「ペテン」という言葉を使わなくても問題点を指摘できるのではないでしょうか。これ以上この件に関する指摘は行いませんが、ご留意いただき、一呼吸おいて冷静に議論していただけますようお願いいたします。--ブレイズマン 2011年4月8日 (金) 13:06 (UTC)[返信]

コメントじゃあ「論点のすり替え」と申し上げましょう。上の表をみれば、「征伐」系から「攻め」系への用語転換が進んでいることは明らかなんじゃないですか。1990年代以降、まともな日本史学者の書いたもので「紀州征伐」の用語を用いている例が果たしてあるんでしょうか。数字としては確かに2点ありますが、これはおよそ通俗的な読み物というべきものではないかと思います。--Chokorin 2011年4月8日 (金) 13:28 (UTC)[返信]

コメントつまりはオール・オア・ナッシングしか認めない、及び根拠も示さずご自分の主張に会わない資料は信用のおけないという独自研究的なものしかか認めないお立場と思って良いのでしょうか。ではハッキリ言います。パーセンテージについても顕著な差がない以上、用語変換が有ったとは認められないと思います。それとは別にハッキリと言えと他者に向かって主張なさるのなら、まずご自身が判りやすく根拠のある基準を示して下さい。それからその基準が妥当か否かの検討すべきではないでしょうか。ご自身が都合のあわない曖昧な基準ばかりを示しておきながら、他者には悪意的な態度表明をしろと主張なされることだけは判りました。--ジャムリン 2011年4月8日 (金) 13:38 (UTC)[返信]
コメント別に自分の都合のことなんか何も言っちゃいないんですけれどね。それはさておき、上の表をみて「顕著な差がない」とどうして言えるんでしょうか。1980年代を境にして明らかに顕著な差があると思うんですがねぇ。ほかのみなさんは、どうお考えですか。「用語転換があるかどうか」は結構重要な話なので、ぜひ、コメントをいただきたいところです。それから、
  • 2009年・川口素生『豊臣一族』新紀元社、ISBN 4775307754
  • 2011年・『豊臣秀吉 カラー版徹底図解』新星出版社
この2つは、熱田公、池上裕子、小和田哲男などの著作と並べて「良質」だとか「信頼できる」とか評価される(評価してよい)著作なんでしょうか。--Chokorin 2011年4月8日 (金) 14:07 (UTC)[返信]
コメント 評価基準無しに出典の軽重を論じるのはやや独自研究の向きがあり、恣意的になる可能性があります。また『複数の専門家のあいだに「征伐」の語をそのまま用いることに躊躇があることは確認されています』とのことですが、それもあくまでChokorin氏の一解釈であることを改めて指摘しておきます。--秋田城之介 2011年4月10日 (日) 07:29 (UTC)[返信]
コメントでは、評価基準を設けましょうか。川口素生が発表した学術論文と2001年以降「紀州攻め」と表記している学者(播磨良紀、池上裕子、笠原正夫、小和田哲男)が発表した学術論文の数ではどうですか。「複数の専門家のあいだに『征伐』の語をそのまま用いることに躊躇がある」というのは、もとより「九州征伐」に関することであり、「紀州征伐」の話ではありません。わたしの一解釈にすぎないかどうかは出典の前後をお読みいただくほかありません。何なら説明申し上げても構いませんが。それはそうと、ジャムリンさんは上の表をみて「用語転換はない」とおっしゃっていますが、あなたも同じ考えですか。--Chokorin 2011年4月10日 (日) 11:41 (UTC)[返信]
コメント「九州征伐」に関する話でよければ上で説明いたしましたので、お読みください。上の表をみて「用語転換」がみられるか、みられないか。それについてもお考えをお示しいただければ幸いです。--Chokorin 2011年4月18日 (月) 22:43 (UTC)[返信]
用語転換なるものは専門家による検証が無いと断言できないものであると考えています。また、学術論文の数で執筆者の優位性を評価するのもWikipediaの方針から外れているものだと感じます。--秋田城之介 2011年4月22日 (金) 02:44 (UTC)[返信]
コメント「専門家による検証が無いと断言できない」というのは、ここに専門家を連れてこなければならないという意味でしょうか。
  • 2009年・川口素生『豊臣一族』新紀元社、ISBN 4775307754
  • 2011年・『豊臣秀吉 カラー版徹底図解』新星出版社
この2つは、検索で調べた限りでは通俗的な読み物という印象しかありませんし、タイトルをみただけでも、秀吉側の視点に立っているのは明らかなんじゃないでしょうか。学問の世界で、根来や雑賀など紀州側の立場も公平に叙述するなかで「紀州征伐」の語が多用されているのならともかく、表をみる限りは「紀州征伐」のままにしておく理由がないように思われますが、いかがでしょうか。--Chokorin 2011年4月22日 (金) 23:30 (UTC)[返信]
> 「専門家による検証が無いと断言できない」というのは、ここに専門家を連れてこなければならないという意味でしょうか - 違います。独自研究を以って用語転換を是認することを問題としています。
> タイトルをみただけでも、秀吉側の視点に立っているのは明らかなんじゃないでしょうか - 天下人・為政者となりつつあった秀吉視点で天下統一までの歴史が語られることは往々にして有り、それが公平な記述に反するというのは同意できません。果たしてそういった視点が歴史学の中で「公平な記述に反する」と評されているのでしょうか?--秋田城之介 2011年4月23日 (土) 16:21 (UTC)[返信]

(インデント戻す)後段については、やや混乱なさっているようにお見受けします。秀吉視点に立って歴史が語られることは当然あるでしょうし、別に「秀吉視点に立つな」などという見解があるわけではありません。そうではなく、学問の世界で、紀州側の立場を無視したり断罪したりしないで公平に扱おうとした場合の話をしています。そういう場合、「紀州征伐」の語が使われているかというと1980年代までならともかく、今日では使われていないでしょう。それは、あなたも加わった文献調査の結果から明らかなのではないですか。

前段について。用語転換があるかどうかは、表を素直に読めば言えることです。「Wikipedia:独自研究は載せない」は、議論の際、「客観的なデータをもとに自分の意見を表明するな」というような意味ではありませんので、よくお確かめください。用語転換の有無については、たとえば、

  • 1983年・岩沢愿彦「紀州征伐」(吉川弘文館『国史大辞典 第3巻』pp.78-79)
  • 2005年・岩沢愿彦「紀州攻め」(吉川弘文館『戦国武将・合戦事典』pp.853-855)

を比較すると、前者(「紀州征伐」)の冒頭は「天正13年(1585)羽柴秀吉が紀州雑賀・根来を中心に行った征伐。…」となっているのに対し、同じ岩沢愿彦による後者(「紀州攻め」)は「天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州雑賀・根来を中心に攻撃した合戦。…」となっていて、後者の説明で「征伐」の語が回避されている以外は、説明文は分量・内容ともほとんどまったく同じです。両方とも同じ出版社、同じ執筆者による事典の記事なわけですが、要するに、最近では「紀州征伐」ではなく「紀州攻め」が見出しとして採用されているのです。さて、これでも「用語転換はない」と言えましょうか。--Chokorin 2011年4月23日 (土) 21:03 (UTC)[返信]

コメント無いと考えます。Chokorin氏が指摘された「藤田達生『日本近世国家成立史の研究』(2001)は、「藤木氏は九州征伐令とよぶが、「征伐」はあくまでも豊臣政権側からのものであることから、ここでは九州攻撃令と記した」と註釈しているそうです。紀州攻めに関する話題ではありませんが、踏まえるべき事柄ではないかと考えます。」にもありますように、そのような注釈があるということ自体が、使用に関する見解は多数あり、用語変換が完了していないという何よりの表れでしょう。注釈なしに「~攻め」が使われるようになって初めて用語変換といえると思います。--ジャムリン 2011年4月24日 (日) 06:38 (UTC)[返信]
コメントその藤木氏も2001年の朝日選書『飢餓と戦争の戦国を行く』では、カギ括弧付きで「九州征伐」と表記して、この用語はあくまでも「秀吉視点に立った用語である」と説明しているんですけどね。同じく2001年の東京堂出版『展望日本歴史12』東京堂出版では「九州攻め」の語が括弧なしで用いられていますから、あなたの論法だと用語変換が完了していることになりますね。--Chokorin 2011年4月24日 (日) 13:27 (UTC)[返信]
コメント先に出しました藤木氏の2009年の著作では解説なしで「九州征伐」なんですけどね。章題からして「九州征伐」ですませております。こちらの方があとなので一時期だけ解説しなければならない風潮だったのでしょうか。まるで用語変換どころか戻っているかのようです。--ジャムリン 2011年4月24日 (日) 13:41 (UTC)[返信]
コメントなるほど。藤木氏に関しては、そうなんですね。わかりました。では、岩沢愿彦についてはどう考えますか。これは、用語転換が起こっている事例とは考えられませんか。--Chokorin 2011年4月24日 (日) 14:44 (UTC)[返信]
コメント岩沢氏はそうなんでしょうとしか考えられませんね。どれくらいになれば用語変換という学術的な指針や方針の根拠が示されていない以上、変換の有る無しで判断することに無理があるようにも思えます。--ジャムリン 2011年4月24日 (日) 14:54 (UTC)[返信]

紀州征伐が相応しいのか、紀州攻めが相応しいのか

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さて、なかなか決着が付かないようなので、「紀州征伐」と「紀州攻め」のどちらがこの記事の記事名として相応しいかについて、双方の意見を出し合うことにしませんか。わたしとしては、この記事に対し、「紀州征伐」という記事名のままでは加筆したくとも加筆できないわけです。というのも、根来や雑賀を一方的に「逆徒」と見なすことに反対だからです。少なくともそういう意味では、手前味噌ではありますが、「紀州征伐」のままにしておくことには一定のデメリットがある、それに対し、「紀州攻め」に改名することには、ささやかながらメリットがあるわけです。ただし、「紀州征伐」のままにしておくことにメリットなりしかるべき理由なりがあって、それが改名することのメリットや理由を上まわるというのであれば、改名は断念せざるを得ないでしょう。その場合、当然のことながら改名提案は取り下げます。しかしながら、現状では、改名を断念せざるを得ないほどのメリットや理由は何一つ出てきておりません。そこで、

  1. 紀州攻めが相応しい理由
  2. 紀州征伐が相応しい理由
  3. 紀州攻めが相応しくない理由
  4. 紀州征伐が相応しくない理由

の4点について、それぞれが思うところをリストアップしませんか。まずはわたしから申し上げます。

1. 紀州攻めが相応しい理由

  • 記事名の付け方5基準のうち、「認知度が高い」「見つけやすい」「曖昧でない」「簡潔」の4基準を満たす。
  • 「認知度が高い」に関しては、文献調査でもネット検索でも「紀州攻め」の方が「紀州征伐」よりも優位に立っている。当代の専門家による使用頻度も多い。
  • 事典の見出しでは「紀州征伐」から「紀州攻め」への転換が確認できる。
  • 「征伐(=反逆者を討つ)」の語を回避することによって、雑賀・根来の立場も信長・秀吉の立場も公平に叙述できる。
  • 実際の記事内容と一致する。
  • 時系列的な用語分析の結果、およその傾向として「紀州征伐」から「紀州攻め」へ用語転換が認められる。ただし、これには異論もある。

2. 紀州征伐が相応しい理由

  • 記事名の付け方5基準のうち、「見つけやすい」「曖昧でない」「簡潔」の3基準を満たす。

4. 紀州征伐が相応しくない理由

  • 「認知度」に関しては、文献調査でもネット検索でも「紀州攻め」の方が優位に立っている。時系列的用語分析の結果から、少なくともこんにち「紀州征伐」の用語は学問の世界で使われる語としては決して主流ではないことが知られる。
  • 実際の記事内容は、むしろ「紀州攻め」の内容となっていて、項目名と内容との不一致がみられる。
  • 「征伐(=反逆者を討つ)」の語を用いていることによって公平な叙述を妨げる、また、公平な立場からの加筆を妨げる虞れがある。

「3. 紀州攻めが相応しくない理由」については、思いつきませんでした(もし、ございましたら御指摘ください)。みなさまの御意見をお待ちします。--Chokorin 2011年4月24日 (日) 17:52 (UTC)[返信]

コメント 「根来や雑賀を一方的に「逆徒」と見なすことに反対だからです」というのはChokorin氏の都合であって、Wikipediaの中立性を損なうものでは無い。また、調査においても用語転換があると断言できるような情勢にないので、「紀州征伐が相応しくない理由」は薄いと考えます。--秋田城之介 2011年4月27日 (水) 00:16 (UTC)[返信]

コメント秋田城之介さんが、この合戦を「紀州征伐」と呼ぶべきであるとお考えなのは、よくわかりました。それならば、「2.紀州征伐が相応しい理由」「3.紀州攻めが相応しくない理由」を掲げてください。掲げられないのであれば「紀州攻めが項目名として相応しい」ということになるでしょう。--Chokorin 2011年4月27日 (水) 04:28 (UTC)[返信]
項目名と内容との不一致というのは全く賛同できないです。「認知度」は明治以降の年代を通じては五分五分でしょう。公平な叙述を妨げる、というのも前述の通りChokorin氏ご自身の都合であってWikipediaの方針には何ら反していない。そのような状況で改名すべき理由は無いと判断します。--秋田城之介 2011年4月27日 (水) 15:35 (UTC)[返信]
「賛同できるかどうか」ではなく、「2.紀州征伐が相応しい理由」「3.紀州攻めが相応しくない理由」を掲げてください。掲げられないのですか。--Chokorin 2011年4月27日 (水) 19:06 (UTC)[返信]
コメント当時のより強い権力の体制の大儀の理のもとに、いかなる名分をもって遂行された事例であることが名称によって明瞭なっているところが相応しいでしょう。その体制によって一方的に逆徒扱いされたという理も、その中で充分解説可能であると思われます。「攻め」であっても攻撃側に主体を置いた表現であることには代わりがありません。--ジャムリン 2011年4月27日 (水) 19:13 (UTC)[返信]
「当時のより強い権力の体制の大儀の理」とは何ですか。--Chokorin 2011年4月27日 (水) 19:24 (UTC)[返信]
(追記)ジャムリンさんの御意見は、紀州の諸勢力は「一方的に逆徒扱いされて」いるから「紀州征伐」が相応しいという御意見と見なしてよいですか。--Chokorin 2011年4月27日 (水) 19:29 (UTC)[返信]
コメント朝廷が施政権力の裏づけをしている側ということです。一方的に逆徒扱いされた事情も含んで示しているので相応しいのでは?ということです。そのような恣意的な読解力をもとに今の名称では記事が書けないと訴えられても、説得力があると思えません。--ジャムリン 2011年4月28日 (木) 02:39 (UTC)[返信]
さらに議論を見ていますとChokorinさんの改名した方が良いとされる理由は、改名の提案をされてから、ひとつひとつの意見に不同意を示されるたびに変わっているので、理由より先に「改名」したいという希望だけが見えすぎて、その姿勢がそもそも改名しなければならない理由としては相応しくないと思います。--ジャムリン 2011年4月28日 (木) 02:39 (UTC)[返信]
コメント恣意的な解釈を避けるために「それでよいか」と尋ねているのです。「当時のより強い権力の体制の大儀の理」というのは朝廷のことだったのですか。「信長・秀吉に反抗することは朝廷に対する反逆だから紀州征伐が相応しい」ということなんでしょうか。もう一つ。「当時のより強い権力の体制の大儀の理のもとに、いかなる名分をもって遂行された事例であることが名称によって明瞭なっている」という主張の根拠となる出典は何ですか。--Chokorin 2011年4月28日 (木) 14:02 (UTC)[返信]
コメント 征伐という言葉の中に、上下関係と政治情勢が反映されていることは自明でしょう。また、Chokorin氏の「紀州攻めが相応しい理由」などに出典の裏づけがないにも関わらず、ジャムリン氏にのみ出典を要求するというのもおかしな話です。--秋田城之介 2011年5月1日 (日) 07:56 (UTC)[返信]
コメント「紀州攻めが相応しい理由」の出典はすべて前節、あるいはそれ以前の節に掲げられていますよ。確認なさってください。それに対してジャムリンさんのおっしゃっていることには何ら出典がないわけですから、出典を求めているわけです。それとも、秋田城之介さんは「信長・秀吉に反抗することは朝廷に対する反逆だから紀州征伐が相応しい」という立場に立つわけですか。--Chokorin 2011年5月1日 (日) 08:37 (UTC)[返信]
「認知度が高い」「見つけやすい」「曖昧でない」「簡潔」これらの長所とされている部分に裏づけは無いし、用語転換というのも前節で否定されました。実際の記事内容と一致するというのも、私には誤りのように見えるし、そんなことに出典も付け様が無い。出典は無いでしょう。「信長・秀吉に反抗することは朝廷に対する反逆だから紀州征伐が相応しい」という固まった主張ではありません。当代の権力者側によるもので、それが読んで字のごとく顕されているため、「曖昧でない」という長所があります。--秋田城之介 2011年5月6日 (金) 03:07 (UTC)[返信]
少なくとも「認知度が高い」に関しては、文献調査という裏づけがあったはずですし、文献調査には秋田城之介さんも参加されたはずですね。「見つけやすい」「曖昧でない」「簡潔」に関しては、「紀州攻め」も「紀州征伐」も差がないでしょう。わたしとしては自説から離れて公平に扱ったつもりです。「紀州征伐」が「曖昧でない」という長所をもつことは、すでに私の掲げた表のなかに記載されておりますので、もう一度御確認ください。--Chokorin 2011年5月8日 (日) 11:18 (UTC)[返信]

(インデント戻します)「今の名称では記事が書けない」というのは割と切実な問題であり、たとえば紀州惣国一揆に関する文献を入手して、それをもとに加筆しようという場合、「紀州征伐」すなわち紀州の勢力を一方的に「逆徒」とみなす立場に立って加筆するのは事実上無理だと思うのですね。それならば、よほど「加筆を断念しろ」と言われた方が私としてはありがたいわけです。逆に、「紀州攻め」であっても信長・秀吉の立場からの加筆を何ら妨げるものではないですし、「織田信長」や「豊臣秀吉」の記事のなかで「紀州征伐」の語を使うのは一向に構わないと考えます。ただ、この記事の場合は、双方の立場からの加筆が期待されているのではないでしょうか。もし、「お前だけは加筆を断念しろ」ということがジャムリンさんのみならずコミュニティの総意であるならば、それに従いましょう。--Chokorin 2011年4月28日 (木) 16:03 (UTC)[返信]

「今の名称では記事が書けない」というのはChokorin氏の都合であって、それにあわせて記事名を改称する必要は無いです。--秋田城之介 2011年5月1日 (日) 07:56 (UTC)[返信]
御意見ありがとうございます。紀州惣国一揆の立場から加筆を考えている方は私以外にも多数いると思いますので、他の方のコメントもいただきたいところです。よろしくお願いいたします。--Chokorin 2011年5月1日 (日) 08:46 (UTC)[返信]
(質問)1、2点確認しておきます。秋田城之介さんの御意見、ジャムリンさんの御意見は「紀州側からの加筆は歓迎しない」「一揆側からの加筆は断念しろ」というふうに見なしてよいでしょうか。もう1点、紀州一揆側から加筆したい場合、どうしたらいいですか(どこに書いたらいいですか)。お答え願います。--Chokorin 2011年5月19日 (木) 09:45 (UTC)[返信]
「紀州側からの加筆は歓迎しない」「一揆側からの加筆は断念しろ」とは一言も言っていません。現在の名称が、加筆に支障をきたすと考えていないだけです。--秋田城之介 2011年5月20日 (金) 02:20 (UTC)[返信]
加筆者が「加筆に支障をきたす」というふうに考えた場合は、どうしたらいいですか。--Chokorin 2011年5月20日 (金) 05:35 (UTC)[返信]
現行の名称で「加筆に支障をきたす」と思う人、思わない人それぞれ居るでしょう。なぜ支障をきたすのか?ということが問題ではないでしょうか。記事名が一方からの理屈であるからといっても、歴史的な意義は変わらないはずです。--秋田城之介 2011年5月21日 (土) 11:57 (UTC)[返信]
「記事名が一方的である」ということをお認めならば、加筆に支障をきたす理由は明白ではないでしょうか。今まで述べてきたように、紀州側の立場は顧慮されず、「逆徒」として一方的に断罪されてしまうからです。「歴史的な意義」も変わってきてしまうでしょう。--Chokorin 2011年5月21日 (土) 13:32 (UTC)[返信]
「記事名が一方からの理屈である」であっても、歴史学上での使用状況の中で一方的でなければ問題ありません。--秋田城之介 2011年5月27日 (金) 02:34 (UTC)[返信]

投票で解決するなら

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ノート:九州の役ノート:小田原の役ノート:武田征伐で改名が提案されています。もし、いずれかの項目が投票によって解決フェーズに移った場合は同じ方法で紀州征伐の改名問題について解決することを提案します。議論が長引くより良さそうな提案ですよね。征伐などに項目を統一したい人にも向いている解決法です。Tenseki 2012年1月24日 (火) 06:39 (UTC)[返信]

先の議論に関しては、半年以上の間が空いており、議論停止として提案も告知タグも除去されています。新たに提案される場合は決められた手順で正しく進行して下さい。--ジャムリン 2012年1月24日 (火) 09:51 (UTC)[返信]
条件付反対 投票に向けての議論が皆無です。また、同様に見えるものでもそれぞれ異なった事情があり、機械的に項目を統一する意味はありません。現時点では投票開始すべきではありません。現状、投票条件も全てTensekiさんの独断(その内容が良いか悪いかは別にして)です。--秋田城之介 2012年1月27日 (金) 08:10 (UTC)[返信]
反対 Wikipedia:投票#投票の告知にあるような「投票は入念な準備を行うことが強く推奨されます。」には当たらないため、Wikipedia:投票/リストから除去しました。提案者におかれましては、投票実施について、投票方法、投票結果の適用について十分合意を形成してください。--Tiyoringo 2012年1月27日 (金) 12:46 (UTC)[返信]
報告 Template:意見募集中に掲載された投票リストからも除去しました。--Henares 2012年1月27日 (金) 13:28 (UTC)[返信]
投票に賛成です。一週間後の合意からリスタートすることを提案します。あっちにも書きましたが、反対理由のない反対は無効じゃないですか?常識に従った百科事典を作るために早く投票をしましょう。--多賀城佐 2012年1月29日 (日) 04:24 (UTC)[返信]
投票するかどうかもそうですが、投票のやり方、取扱いについても十分な議論がなされておりません。全員が一致する必要は必ずしもありませんが一人でルールを決めて投票するようなやり方は適切ではありません。--Tiyoringo 2012年1月29日 (日) 04:42 (UTC)[返信]
調査投票でユーザーの声を聞く権利は誰にでもあるはずです。九州や小田原の議決投票と違ってこれは議論を始めるか始めないかの情勢判断のための純然たる調査投票ですのに。何に反対なのですか?それと私は項目名を統一したいと思っていないしそんなことを言ったこともないのになんで批判されなくてはいけないのですか?投票の入念な準備はしました。投票の反対理由に投票の問題点がひとつも指摘されていないのですから、投票の始まるまでの一週間で合意可能でしょう。できないような要素があるのですか?Tenseki 2012年1月30日 (月) 01:38 (UTC)[返信]
Tensekiさんの提案ですが、Wikipedia:調査投票の方法に沿ったやり方で提案されているとはいえません。そこの冒頭にあるように、ウィキペディアは多数決主義ではありませんWikipedia:調査投票の方法#調査投票の手順の1にある「どんなに苦労を伴うものであっても合意に至る努力をすることが非常に強く推奨されます」にあたる努力は提案者であるTensekiさんによって行われていません。2の投票の性質についての合意形成に一週間程度かけてくださいとありますが、こちらもなされておりません。3では実情調査のために行われてはなりません。とありますがTensekiさんの提案理由には「改名提案に先立って情勢把握」とあり、これに反しています。--Tiyoringo 2012年1月30日 (月) 12:13 (UTC)[返信]
Wikipediaは勝ち負けを競う場ではありません。とはそのとおりでしょう。でも管理者選出や記事選考で日常茶飯事で投票は行われていますよね。選択問題では有効な解決方法のひとつでしょう。それに議論をする切欠にも優れた方法だとおもいます。僕もなんでもかんでも議決投票をやるべきだとは言っていません。合意のためにも投票を先行するべきだと思います。
Tiyoringoさんの指摘した三項目は拘束力がない条項のようですが、1.努力の有無はTiyoringoさんが独断で決めるのなら別ですが、私は努力された結果だと認識しました。2.一週間の合意期間は準備されています。私も改めて確認を取りつつありますので合意しましょう。3.語尾だけ引用して「投票が実情調査のために行われてはなりません。」を投票不可の理由にするなら、むしろ議決投票をしようとしているノート:小田原の役ノート:九州の役は投票ができないはずです。しかしそうではないでしょう?調査投票ですから問題ないはずです。
それにノート:九州の役ではTiyoringoさんの参加しているところで小判キングさんが調査投票を実施していますが容認していましたよね?なぜ人によってルールや態度を変えるのでしょうか?Tiyoringoさんにとって不足している何を取り除けば投票に賛成してもらえるのか教えてください。ウィキペディアは多数決主義ではありませんから議決投票でなく調査投票になっているのではないでしょぅか。--多賀城佐 2012年1月31日 (火) 11:50 (UTC)[返信]
投票方式を考える努力はされているかもしれませんが、投票方式について他の利用者と協議する努力は全く取られておりません。--Tiyoringo 2012年1月31日 (火) 11:54 (UTC)[返信]
協議が必要なら必要と思った人が協議すべきでしょう。具体的な反対でないなら協議のしようもないでしょう。Tensekiさんが調査投票を掲げていたとしても対話拒否をしているわけではありません。むしろ対話を求めているように思います。どちらにしろ一週間以上の合意期間をめどに下項で合意形成を試みていますのでよろしくお願いします。--多賀城佐 2012年1月31日 (火) 22:08 (UTC)[返信]

合意形成

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合意がないと指摘がありましたのでルールどおりに動向調査のための調査投票をすることを提案します。既に提示された条件から反対意見の方は投票の障害となる理由(取り除けば合意できる条件)を付けてください。。(なお、期間については合意形成後からの繰り延べとします多賀城佐 2012年1月31日 (火) 22:16 (UTC)追記)[返信]

賛成 提案票--多賀城佐 2012年1月30日 (月) 11:15 (UTC)[返信]

反対 現時点では反対です。織田軍によるものと羽柴軍によるもので分割すべきかどうかという視点もあるかと思います。また、分割しないのであれば、記事の主眼を織田時代のものと羽柴時代のもののどちらに置くべきかという問題もあります。議論停止から長期間経っており、再度議論するのであれば合意形成の努力をすべきでしょう。Tensekiさんも多賀城佐さんも新たに議論に加わって頂いた以上、まず議論して合意形成の可能性をまず考えるべきでしょう。そうしなければ投票の争点や投票項目に関しても合意を得られないでしょう。--秋田城之介 2012年2月1日 (水) 01:50 (UTC)[返信]

反対 投票で議論に終止符をうとうという合意さえできておらず、障害を除けば容易に合意できる状況にはなっていないように見えます。--Tiyoringo 2012年2月1日 (水) 11:55 (UTC)[返信]

反対 調査投票をする前に、この記事の主題を峻別する必要があるように思います。本文にある通り、この記事は複数主題を持っているようです。1.天正5年(1577年)の信長による雑賀攻め、、2.天正13年(1585年)の秀吉による紀伊平定、3.付属して天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻め、これらを内包しているようですが、改名の主体がハッキリしないのでは投票先がぼやけてしまいます。--Yasumi 2012年2月2日 (木) 11:49 (UTC)[返信]

僕は議論を始めるにも投票結果を見てからのほうが良いとゆう考えです。それにしても一存で提出された投票準備の告知を握りつぶして良いのでしょうか?コメントを付けた人で投票に反対なら不足しているものが何かを指摘して投票を推進するか?それとも投票自体に変わる問題解決の別案を具体的に示す必要があるでしょう?ただ単に投票が阻止できればなんでもいいのですか?--多賀城佐 2012年2月5日 (日) 10:13 (UTC)[返信]
投票実施もそうですし、投票方法、それの利用について他の利用者との協議の努力が見られません。もともと投票で決着しようという合意がなされたわけではありませんので、少し修正しただけで投票が実施できるものではありません。--Tiyoringo 2012年2月5日 (日) 10:24 (UTC)[返信]
投票で決着しようなんて提案はしていませんのでそれは不当な批判です。私の提案はあくまでも拘束力を伴わない調査投票なのに。対話の努力はあるのですが、問題を解決する方向で対話してくれないではありませんか?
記事の主題を整理する必要はありそうですね。それも盛り込んだ投票にすればいいのではないかと思います。議論を始める上で調査投票以上に良い具体的な提案があればお願いします。Tenseki 2012年2月6日 (月) 05:56 (UTC)[返信]

賛成 あくまで調査投票ですので。--Yayoinokoe 2012年2月8日 (水) 08:04 (UTC)[返信]

提案時点でアカウントなし。--hyolee2/H.L.LEE 2012年2月8日 (水) 08:28 (UTC)[返信]
投票を呼びかけたり、投票準備の告知をしたことが私のブロックの要因とされているので、今回の投票提案は取り下げます。却下された方々においては、私にかわって、今回以上の良い方法で改名議論が解決することを祈ります。Tenseki 2012年2月9日 (木) 07:12 (UTC)[返信]
投票による情勢調査が議論解決のきっかけになると思っていただけに残念でなりません。仕方がないのでで投票に反対された方の議論による解決に期待します。--多賀城佐 2012年2月10日 (金) 11:08 (UTC)[返信]

情勢投票に反対した方は代案の提出をお願いします。反対のための反対でないのなら。このままでよしとしているなら何も申しません。--多賀城佐 2012年2月11日 (土) 04:31 (UTC)[返信]

改名提案前の調査投票

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記事名支持の調査投票

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改名提案に先立って情勢把握のための調査投票を行います。なおこれは議決投票ではありません。

記事名候補比較

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投票予定者は投票開始までに下の比較表に支持候補の追加、支持候補の肯定的意見の追記、非支持候補の否定的意見の追記をまとめて編集してください。(投票開始後の編集は行わないこと)

改名候補比較表  (p=:肯定的意見、n=批判的意見)
番号 評価要素 A.紀州征伐 B.紀州攻め C.その他、候補追加用
01 記事主題の確認と
定義等の変更点
(改名の対象は?)
11 日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの[1] (→他項へ統合)
12 その記事へのリンクを作成しやすいもの[2] (→下22項へ統合)
21 認知度が高い[3]
(出典で最も一般的か)
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
22 見つけやすい[4]
(リンクしやすい)
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
23 曖昧でない[5]
(的確である)
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
24 簡潔[6]
(短く要点を突いている)
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
25 首尾一貫している[7]
(類似記事の傾向)
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
31 信頼できる情報源における慣例[8] (→他項へ統合)
32 正式な名称を使うこと[9]
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
41 出来る限り一般的に知られており通用しやすい(歴史的事件の慣例)[10] (→他項へ統合)
51 中立的な用語[11]
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
番号 出典、その他 A.紀州征伐 B.紀州攻め C.その他、候補追加用
61 主題の専門書名
  • 1.
  • 2.
  • 3.
  • 1.
  • 2.
  • 3.
  • 1.
  • 2.
  • 3.
62 主題の論文・専門書小題
  • 1.
  • 2.
  • 3.
  • 1.
  • 2.
  • 3.
  • 1.
  • 2.
  • 3.
63 主題の辞典類項目
71 その他1
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  1. ^ Wikipedia:記事名の付け方
  2. ^ Wikipedia:記事名の付け方
  3. ^ Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには
  4. ^ Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには
  5. ^ Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには
  6. ^ Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには
  7. ^ Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには
  8. ^ Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには
  9. ^ Wikipedia:記事名の付け方#一般的な指針
  10. ^ Wikipedia:記事名の付け方#歴史的事件
  11. ^ Wikipedia:ウィキプロジェクト 軍事史#記事名
  12. ^ 『』、年月
  13. ^ 『』、年月
  14. ^ 『』、年月


紀州征伐の改名候補に対する調査投票

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投票の主題 現「紀州征伐」の記事名により良いタイトルの支持状況
投票場所 ノート:紀州征伐#改名提案前の調査投票
投票に先立つ議論
投票者の資格 2012年1月27日 (金) 05:01 (UTC)の時点(調査投票の提案日時)で初投稿から1ヶ月以上経過、かつ全名前空間の編集回数が50回以上のログインユーザー。なおこの投票の提案者は投票に参加できないものとします。
投票期間 2012年02月06日 (月) 00:00 (UTC) から2012年02月13日 (月) 00:00 (UTC) までの1週間。
投票のルール
  • この投票は、改名候補に対する支持状況を把握するために行う。
  • 1人1票とし支持候補に投票する。多重アカウントによる投票は無効とします。
  • 投票予定者は投票開始までにノート:紀州征伐#改名候補比較の支持候補の追加、支持候補の肯定的意見の追記、非支持候補の否定的意見の追記を編集することができる。
特記事項 この調査投票は、改名提案に先立って情勢把握のための調査投票です。議決投票ではなく、多数決によって直接記事の内容を決めるものではありません。ただし少数派となった意見の支持者には、自説が自明の理としては受け止められていないことを念頭に、より強い論拠を求めるものとし、また多数意見の支持者に対しても少数意見が無視できない程度に集まった際には、少数意見を納得させるための努力を求めるものとします。

投票所

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投票要綱を確認の上、支持する記事名候補の下に一行ずつ署名を入れてください。

  • 紀州征伐を支持
  1. (署名)
  • 紀州攻めを支持
  1. (署名)
  • (候補追加用)
  1. (署名)

投票結果

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  投票はしないで紀州征伐でいいことになりました。ありがとうございます。--Gamlin会話2012年3月17日 (土) 07:02 (UTC)[返信]

過去ログ化の提案

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議論が停止して4ヶ月以上経過し、容量が160,000バイトを超えていることから、「初版から2012年3月17日 (土) 07:02時点までの過去ログ化」を提案します。--秋田城之介会話2012年7月25日 (水) 15:37 (UTC)[返信]