ノート:エホバの証人/archive1
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contents 1
[編集]>米国に特徴的な原理主義的新興宗教の性格を削除(キリスト教原理主義と混同か) 本来、原理主義はキリスト教内各派を類別するための語であると認識しています。 米国の宗教事情をふまえ「キリスト教の原理主義」としました。 >また、キリスト教系単一宗派で最大も誤り(反例:カトリック45万人)) 公称以外のソースを参考していました、事典として不適切でした。 >教団運営の費用は、信者や文書を受け取った人がする自発的な寄付によって賄われている。 会計上、文書を受け取った人(非信者)による寄付の科目は存在しません。 >輸血拒否事件に関しては、聖書の中に「他者の血を食べるな」という文言を見いだして、 >それに従った結果というが、これは宗教的戒律ではなく単に「保存手段のない昔に、 >血の腐敗した生肉を食べて体を壊す事の無いように」という、 >生活上の注意でしかないという見解がキリスト教関係者から提示された。 「キリスト教関係者」という表現は正確性を欠くのでペンディングします --snufkin 2004年1月9日 (金) 22:51 (UTC)
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[編集]- 社会的側面でプチ編集合戦っぽくなっていますね。
- 「何人もの医師から共感を得ている。」という表現には抵抗を覚えるのですが
- これは事実なのでしょうか?
- おが 02:18 2004年2月10日 (UTC)
- エホバの証人は「医療機関連絡委員会(HLC)」、「ホスピタル・インフォメーション・サービス(Hospital Information Service)」という機関を持っています。現在、日本でも多くの医療機関が無輸血治療を行っており、エホバの証人はそのことに感謝しています。
- 利用者:K.M. 2004年2月10日 (火) 03:21 (UTC)
- K.M.さまの回答の趣旨が理解できません(私の質問に答えられていないように思います)。「多くの」とか「何人もの」と飾り立てずに、中立的な記事を書かれた方がいいように思いますがいかがでしょうか。 - おが 03:36 2004年2月10日 (UTC)
- 「保険医療内での無血治療の要求は、医療現場に多く負担がかかる」とは無輸血治療を受け入れない医師の弁解かエホバの証人に反対する人の言い訳であり、事実ではありません。無輸血治療より、輸血を用いた治療の方が、コストの面でも、安全面でも良いとはいえません。無輸血治療の外部リンクをご覧になっても分かるとおり、輸血には合併症やエイズなどの感染症など多くの問題を抱えています。無輸血治療は低コストな上、こういった問題を解消できます。このことは患者のみならず、すべての医師にとって有益です。 - 利用者:K.M. 2004年2月10日 (火) 07:22 (UTC)
- 私は無輸血治療については詳しくないのですが、この方法が現在の医療界の通常の方法なのでしょうか?
- 受け入れない医師かエホバの証人に反対する人の言い訳と書かれていますが、どうして言い訳と捉えられているのでしょうか?受け入れない医師やエホバの証人に反対する方の立場も書かれておいた方がより中立的な記事になるように思います。
- おが 07:52 2004年2月10日 (UTC)
- おが様へ:無輸血治療は今のところ日本では医療界の標準とはいえません。しかし、輸血によってエイズに感染されたという昨今の報道や、2001年にエホバの証人が医療機関・国を相手取って起こした裁判で、証人側が勝訴し、裁判所が、輸血をする前に患者の意思を確認するよう、国・医療機関に命じたという事実を考えれば、今後この治療が日本でも標準化する可能性はあります。米国ではすでに医療界の標準となっています。
- また、「無血治療の要求は、医療現場に多く負担がかかる」とは事実というより、エホバの証人に対する非難・攻撃のように聞こえます。こういうことを百科事典に記載するのはどうかと思います。―K.M. 2004年2月10日 (火) 09:09 (UTC)
- 無輸血治療が米国で標準というのは残念ながらダウトです。
- 輸血を必要とする病態は千差万別ですし、その中には輸血を回避できるものとできないものがあるのは事実ですから。
- そして、その輸血を必要とする病態のときに輸血をしないという選択は、少なくともまともな医師の支持はまったく得ていません。
- では、「医療現場に負担がかかる」かというと必ずしもそう言うわけでないのは確かですね。負担がかかるのは患者さんの生命です。患者さん自身が信念を理由に輸血を拒んで死亡するなら、これは医療者側としては仕方がありません。(良心が痛むとともに、そのような信念を持たせる教義を恨めしく思うことでしょうが)
- 問題は、信者の子供について親が輸血拒否する場合ですよね。記事に書いてある患者の自己決定権とは正反対の状況になるのです。この場合、輸血を強行するか見合わせるか、どちらにしろ医療者側には重い責任が生じるわけで、これは大きな負担であると言えます。Sampo 11:31 2004年2月10日 (UTC)
- 元信者の意見だけで、エホバの証人のよるしつけを体罰と決め付けるのはいかがかと思います。彼らのサイトは教団を誹謗することを目的としており、100%真実を語っていないことも考慮されるべきです。また、民法818条―833条では親の親権が認められており、818条などでは成年に達しない子は親の親権に服すべきと規定されています。また820条では、親権を行う者は子供の教育をする権利を有すると規定されています。ですから、エホバの証人である親がそうでない子供に宗教教育を行ったからといって何の問題もありません。
:また、信者である親が子供に輸血拒否をさせることは、子供の権利も関係してきますので難しい問題です。しかし、エホバの証人では一年に一度集会を用いて、事前に輸血を拒否する旨を記した「医療上の指示」証書の作成がなされます。そのとき子供たちにも『身元証明書』を作成しますので、親は子供に輸血を拒否するか否かの意思確認を行います。もし、子供が血に関するエホバの証人の信条に同意できないのであれば、この時親にその旨を伝えることができます。ですから、親が子供の意思を確認せずに輸血拒否をすることは絶対ありません。K.M. 2004年2月10日 (火) 12:52 (UTC)
- > もし、子供が血に関するエホバの証人の信条に同意できないのであれば、この時親にその旨を伝えることができます。ですから、親が子供の意思を確認せずに輸血拒否をすることは絶対ありません
- 判断力が十分とは限らない子供に教義を教え込んで、その上で証書を作成させて、それを意志であるとあくまで言い張るのならそれまでですが。結局、そこが問題視されてるわけですよね。Sampo 13:16 2004年2月10日 (UTC)
本物かどうかわかりませんが、こんな資料があるようです[1]。Kozawa 04:26 2004年2月17日 (UTC)
このページは著作権を無視した無断転載に近いですね。エホバの証人が輸血拒否解禁にするというのは事実ではありません。K.M. 09:44 2004年2月19日 (UTC)
いったい何を持って「攻撃的」とするのか理由が示されていないので?を付けました。わたしたちの宣教活動(布教活動)を「攻撃」とみなすのはとんだ被害妄想です。わたしたちはイエス・キリストの命令に従っているに過ぎません。(マタイ24:14; 28:19,20; マルコ 13:10)むしろ、エホバの証人の方がキリスト教世界から攻撃され、フランスやロシアなどでは活動が制限下にあり、シンガポールでは禁令下にあります。K.M. 14:52 2004年2月20日 (UTC)
文中にホロコースト記念館内のページへのリンクがありますが、これには、「その例として、____が知られている」という類の付記があった方がよさそうに思いませんか? リンク先には記事内の主張を直接裏付ける資料などがあるわけではないようなので。Tomos 16:27 2004年2月20日 (UTC)
反対者はうそを書くのがお上手ですね。K.M. 10:05 2004年2月23日 (UTC)
- 余り上手な嘘とも思えませんが。。^^;) 前回見た時にはただ男性の紹介があるだけかと思ったのでそういう風に書いたのですが、よく見たらその下に長い説明がありました。どうも失礼しました。Tomos 15:53 2004年2月25日 (UTC)
王国会館と会堂とどういう関係があるのでしょうか。K.M. 14:47 2004年2月23日 (UTC)
以前にエホバの証人の方と話をしましたら、王国会館とは言わずに会堂と言いました。間違いなら削除してください。ただし、一般にキリスト教の聖堂や礼拝堂は、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)に由来します。Haruka
「集会場」と言うことはありますが、「会堂」とは言いません。K.M. 00:08 2004年2月24日 (UTC)
エホバの証人の信者である保護者が、子どもの輸血を拒否する権利は全くありません。民法で定められた親権を盾に正当性を主張されている方がいますが、民法第1条には「権利の濫用はこれを許さず」とあります。これが民法の大前提です。宗教上の理由から、子どもの生命を絶つ行為は、権利の濫用に当たります。輸血拒否によって子どもが死亡したら、信者である保護者が刑事処分されることはあっても、信教の自由を声高に主張できる立場にはありません。
また、「子どもの意思は確認してある」と仰いますが、人生観に関わる問題に小学校5年生がどの程度的確な判断を下せますか。保護者が注入した人生観を受け売りするしかないのではありませんか。未成年者に参政権を付与できない理由として、未成年者の投票行動が保護者の意思に左右される恐れがあることも指摘されています。また、未成年者に対する性行為が一律に禁止されるのも、未成年者は性行為の意味を理解していないからだと説明されています。輸血拒否についても同じであって、「子どもの意思」は法的には無効であると解釈するべきです。
- 判断能力の低さで子供が決められないなら、親以外にだれが決められるんでしょうか。だれに患者側として決める権利があるのでしょうか。親が決めることは、けして権利の濫用とはいえません。
editing
[編集]ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人の法人名称)からのredirectをK.M.氏は削除されていますが、どのような理由からでしょうか。とりあえず revert しておきました。 KIZU
その記事はすでに削除依頼しております。K.M. 06:48 2004年2月24日 (UTC)
記事の保護について
[編集]同一箇所、または類似の変更が複数回繰り返されているのでページの保護をしました。同一ユーザーによる連続投稿の記録及び、緩慢な編集合戦の履歴は異常なものと思われます。これ単独ならばそれほど大きく問題とはしないのですが、これまでに同様に保護してきた基督教関連(とひとくくりにするのはかなりいたたまれないのですが、あまり詳しくないのでご容赦ください)と編集しているユーザーがほとんど同じことが保護に踏み切った大きな理由です。誰か一人ではなく、お互いに問題があるのではないでしょうか。
- 記事の保護を行わないと対話をしていただけないのでしょうか?
- 既に何度もお願いしたことでも場所が変わると同様に繰り返すのでしょうか?
また、これまでのノートで展開されている議論では記事をどう書くか、といった内容についてではなく、お互いの主張をしている様子も少なからず見受けられると私は感じました。これは一連の記事を編集されているいずれのユーザーにも当てはまることだと私は認識しています。また、いずれの方も中立的な観点を理解されていないように感じています。Wikipediaは主張すする場所ではありません。どなたの主張が正しい、誤っているといった判断はせず、中立的な観点をご理解いただいて、記事の編集を行って下さるようお願いします。Suisui 03:42 2004年2月27日 (UTC)
要するに、エホバの証人の見方と他のキリスト教の方の見方とで意見の一致がない(というか、正反対)なのです。K.M. 07:21 2004年2月27日 (UTC)
意見の一致が無いことと、中立的な観点は相反する考え方ではありません。中立的な観点は執筆の姿勢に関する考え方であり、相手と意見が合う、合わないとはほとんど関係ありません。K.M.さんのご意見は中立的な観点をまだ理解されていないことがよくわかる発言と思いました。K.M.さんはウィキペディアの基本的考え方である中立的な観点を読まれたでしょうか?他の方も同様です。他所も含みますが、Harukaさん、KIZUさんはどうでしょうか?ご意見をお待ちしております。Suisui 11:32 2004年2月27日 (UTC)
また、言葉不足でした。だれかがこの記事を「エホバの証人」を中傷する記事に書き換えようとしました。それで、こちらでそれを阻止させていただきました。わたしは基本的に今は英語の記事の和訳のみを行っておりますので、中立的な立場に立っていていると思います。K.M. 12:27 2004年2月27日 (UTC)
中立的な観点に関する声明にこうあります。
百科事典の記事では、執筆者にそういう確信があったとしても、営利企業は犯罪集団である、というような議論を展開するべきではありません。そのかわり、一部の人々はそのように信じている、という事実を報告し、その理由が何故かを説明し、それに反対する側の意見がどのようなものであるかを紹介するべきです。
エホバの証人は営利団体ではありませんが、仮に営利団体であるとしても、エホバの証人が「犯罪集団である、というような議論を展開するべきではありません」。また、「一部の人々はそのように信じている、という事実を報告し、その理由が何故かを説明……するべきです」ともあります。反対者たちはエホバの証人が攻撃的である、と主張しておきながら、その理由を何も説明せず、エホバの証人の宗教法人がものみの塔だ、と主張して、記事を書き換えておきながら、その理由を何も示していません。これは不当だと思います。K.M. 00:33 2004年2月28日 (UTC)
ここで提案ですが、エホバの証人の項目をエホバの証人の立場の記事で、ものみの塔聖書冊子協会の項目を中立というか、多少の批判も含めた記事にすればいかがでしょうか。Haruka
Wikipediaはすべての記事を中立的に書かなければなりません。Haruka氏の主張だと、今のエホバの証人の記事は中立的ではない、という意味に取れますが、その根拠は何でしょうか。K.M. 05:28 2004年2月28日 (UTC)
- 同一のトピックを別々の記事にわけるのは合理的ではありませんし、まして記事の内容をどちらかの立場に沿ったものにするのはウィキペディアの理念に反するものでしょう。
- エホバの証人の中立性に現状で疑問が残っているのは確かですが、編集合戦の履歴を見るに、歩み寄りはまだまだ可能とお見受けします。Sampo 05:35 2004年2月28日 (UTC)
- 井戸端の方に呼びかけがあったので見に来ました。中立性について考えつつノートのやりとりと、現在の文面を読んだので感想を書きます。
- 中立的、というのは、この場合には、エホバの証人に対する批判と、エホバの証人の主張と、両方を紹介するけれども、記事自体は読者にどちらの立場を押し付けることもない、ということだろうと思います。
- Harukaさんが提案されている分割案ですが、それぞれの記事名が適切であるかはちょっとわかりませんが、分割自体は可能だろうと思います。ただ、分担関係としては、「一方では、エホバの証人の主張を中立的に紹介する」「もう一方では、エホバの証人の主張と、それに対する批判とを、共に中立的に紹介する」というように、いずれもが中立的であるべきであって、一方はエホバの証人の主張に好意的に、他方は批判的に、というような分担関係ではないべきだろうと思います。これはK.M.さん、Sampoさんとおおよそ同じような意見ということになるでしょうか。
- 一般に、記事が中立かどうかを判断するためには、主題に関連して存在する様々な意見を知っていること、様々な読者へ記事がどういう印象を与えるか想像できること、の2つが重要ではないかと思うのですが、この記事については、僕の判断能力は相当限られていると思います。
- 起源と歴史の部分では、ナチスドイツに受けた迫害が説明されていますが、これは微妙にエホバの証人の宣伝として機能することがあるような感じもします。
- 逆に社会問題の部分では、教団の問題を指摘する文のみで、教団側(あるいは外部の擁護論者)の言い分を汲み取れていないように思います。
- 冒頭部分、エホバの証人が「キリスト教系の教団」なのか「キリスト教の教団」なのかは意見が分かれているようですが、これについては、複数の対立する見方が存在するのなら、その説明があってよいと思います。
- 「キリスト教の教団、あるいは、キリスト教系の教団(____など、エホバの証人をキリスト教の一種と認めない立場があるため、そのような立場からは、その亜種、傍系と分類されることになる)。」などという類の記述にすると、多少中立的になるでしょうか?
- 具体的に誰のどの編集が特に問題か、は探していないのですが、もし挙げて頂ければ見てみます。上記の通り、僕の判断力はかなり限られているように思いますが。Tomos 07:31 2004年2月28日 (UTC)
- それじゃかえってまずいのでは? (^^;) 「系」がつくのは、たとえば神社本庁だって「神道“系”」なわけで、百科事典の項目としては当然の表現のはずなのに、それを拒否するのはあんまりいただけませんね。第三者の目にはカルトに見えてしまいかねませんよ。少なくとも反対者なら、「ここの履歴を見て御覧なさい」と言うでしょうね。自分が反対者だったら絶対そうすると思います (^^;;)。リンク先も教団関係のところばかりの状態で保護状態になっているのでは、やはり同様の目で見られかねないのではないでしょうか。どこでも特定の集団内にいると外からの目を理解しにくくなってしまう傾向があるのは、ある程度やむをえないことですが、もう少しお考えになった方が良くはありませんか? Kadzuwo 05:12 2004年3月11日 (UTC)
ナチスドイツに受けた迫害に関しては、英語版では特集記事も出されています。en:Jehovah's Witnesses and the Holocaustをご覧ください。K.M. 08:10 2004年2月28日 (UTC)
- 英語版の記事、読んでみました。日本語版と違って独立ページなので、比較も難しいですが、例えば、日本語版には、ナチがエホバの証人を脅威だと解釈したという旨の記述がありますよね? これは、読み方によっては、「あの巨悪のナチスにさえもエホバの証人は屈することがなかったばかりか、彼らを恐れさせさえもしたのか」というような形で感心させるものになっているような気がして、ちょっと中立性が気になりました。ホロコースト・ミュージアム (以前はとんだ勘違いをして、失礼しました。)の方にも、英語版の方にも、そういう記述はなかったように思いますし。(もちろん、外部になくても、事実であれば紹介すること自体に問題ないと思いますが、何かもう少しいい扱い方ができないだろうか、と思っても参考例はありません。)
- また、英語版には、エホバの証人が、ユダヤ人に対する差別のような思想をナチスに対して公式に表明し、政治的中立を証明しようとしたくだりなども紹介されています。この紹介があるとないとでは、大戦中のエホバの証人の姿勢に対する評価はだいぶ違って来そうです。ただ、日本語版では、この件はあくまでも起源と歴史の一部なので、紹介されていないこともうなづける面があるのですが。
- 一般論として、事実を事実として紹介するのはもちろんとして、紹介する事実が偏っていたり、紹介の仕方が偏っていたりするとやはり中立性が保てなくなるので、そこに工夫のしどころがある、というようなことを感じます。どうでしょうか。Tomos 08:32 2004年2月28日 (UTC)
- ナチスは当時カトリック教会と政教条約を結んでいました。(カトリック教会参照)また、エホバの証人(当時は聖書研究者[ビーベル・フォルシェル]と呼ばれていた)は当初から「ヒトラー・万歳」を唱えたり、兵役に就くのを拒んだりしました。投獄された時、棄教する署名さえすれば釈放されたのですが、実際に棄教した人はわずかでした。それで、宗教的・政治的に脅威に感じたのかもしれません。いずれにしてもわたしとしては事実を誇張する意図はありませんでした。en:Jehovah's Witnesses and the Holocaustについては、いつか日本語に訳そうと思います。K.M. 09:34 2004年2月28日 (UTC)
>ナチスは当時カトリック教会と政教条約を結んでいました。(カトリック教会参照)
ナチスとではなく、ナチス政権下ドイツとの締結です。それも、参照箇所は私が書いた記事です。何度言えばわかって貰えるんでしょうね。ホント、K.M.さんには疲れます。
>当初から「ヒトラー・万歳」を唱えたり、兵役に就くのを拒んだりしました。
それは大して自慢にはならないと思います。ドイツ・カトリック教会にも大勢いましたし、だからこそ教会内の思想介入・規制が著しくなったのです。Haruka 11:25 2004年2月28日 (UTC)
それは失礼しました。別にエホバの証人のことを自慢しようという意図はありませんでした。ただ、 Tomos氏が詳しく知りたがっているご様子だったので、少し付け加えました。確かに、おっしゃるとおり、ヒトラー万歳を言わなかったカトリックの方もたくさんおられました。しかし、エホバの証人は他のキリスト教とは違い「グループとして」投獄され、迫害されました。エホバの証人は他の収容者と異なり、宗教犯罪者のしるしである紫の三角印の名札(パープル・トライアングル)を付けていました。実際、強制収容所でなくなった方もおられるようです。詳しくはエホバの証人#関連サイトにある米国ホロコースト記念博物館のページをご参照ください。(この資料によると、250人ほどのエホバの証人が処刑されたそうです。)K.M. 11:51 2004年2月28日 (UTC)
- いろいろとご説明頂いてありがとうございます。そういう説明を読むにつけても、僕が口出しするのがはばかられるのですが、このナチスとの関係を説明した部分、何かより中立な形に書き換えることができるでしょうか? これは、特にK.M.さんの執筆の意図を取り沙汰したいというわけではなくて、どなたがどういう意図で書かれたものであれ、それが中立でないように見えるなら、中立化の方法を考えてみるのがいいのではないか、という発想です。
- また、僕が見落とした点もあるかと思うのですが、中立的な記述のためにはこの部分を直すのがよいのではないか、という箇所は他にもありますでしょうか? Tomos 21:06 2004年2月28日 (UTC)
- Tomas氏へ:自由に口出しされて結構です。わたしももっと良い記事にしたいと考えております。K.M. 12:01 2004年2月29日 (UTC)
エホバの証人とホロコースト日本語版が完成しました。K.M. 07:11 2004年3月2日 (UTC)
現役エホバの証人からの考察
[編集]利用者:宮原崇です。すこし混乱気味のところを修正できますと幸いです。
法人名の表記
- アメリカにはものみの塔聖書冊子協会が二つあります。世界本部はペンシルバニア州ではなくニューヨーク州ですので修正が必要です。宮原崇 16:18 2004年3月10日 (UTC)
- これは修正するということで異論はありませんでしょうか。宮原崇 07:53 2004年3月12日 (UTC)
名称の由来
- 「ものみの塔」の由来聖句が示されているのでしたら、それより先に「エホバの証人」の聖句を示すべきでしょう(あとのほうに記されていますが。)し、「目ざめよ!」の由来も併記するのが自然に思えます。宮原崇 16:18 2004年3月10日 (UTC)
- これは、名称の由来という項目を作ることでいかがでしょうか。宮原崇 07:53 2004年3月12日 (UTC)
歴史
- エホバの証人の歴史の始まりは「ものみの塔」誌発行の1879年ではなく、アレゲーニの聖書研究会が設立された1870年にしたほうがよいかもしれません。宮原崇 16:18 2004年3月10日 (UTC)
- これはすこし文章を直して、1870年もしくは1879年としてよいでしょうか。宮原崇 07:53 2004年3月12日 (UTC)
- 歴史についての記述が少なすぎると感じます。宮原崇 16:18 2004年3月10日 (UTC)
- これについては、「歴史」を「起源」とする代案があるかと思いますが、いかがでしょうか。宮原崇 07:53 2004年3月12日 (UTC)
- ナチス関連は、「良心的兵役拒否ならびに戦時下抵抗」という項でもつくって移動させるのがよいと思います。ただし、他教派と比べられるような統計情報をつけるべきでしょう。宮原崇 16:18 2004年3月10日 (UTC)
財源
- 「米国政府から宗教法人としての活動を超えた商業的頒布に当たるという判断が出され」のくだり、デンマークにて1950年代に無償頒布をはじめるに至った事件から経緯の説明をするほうが適切なように思いますが。宮原崇 16:18 2004年3月10日 (UTC)
教義
- 統治体と奴隷級に関する説明が不適切です。統治体は奴隷級の一部と解されていますが、同一視するのは正しい認識とは言えません。宮原崇 16:18 2004年3月10日 (UTC)
- これは修正するということで異論はありませんでしょうか。宮原崇 07:53 2004年3月12日 (UTC)
文献
- ここだけ見ると反対者がリストを作ったみたいに見えます。『無慈悲な牧者たち―エホバの証人十年間の報告』は攻撃的資料のようですのでここにはいらないでしょう。かわりに「エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々」と「エホバの証人の年鑑」を入れますと、各立場のバランスが取れてくるかと思いました。宮原崇 16:18 2004年3月10日 (UTC)
宮原崇氏へ:貴殿の意見にほぼ同意いたします。文献はエホバの証人の反対者が作ったんですよ。一応、このサイトは賛同意見と反対意見を併記するとの方針がありますから、この文献を削除するのは難しいでしょう。統治体のところを書いたのは私です。よく見ると、事実と違うようです。ナチス関連についてはエホバの証人とホロコーストで詳しく論じております。K.M. 03:01 2004年3月11日 (UTC)
- 両論併記といっても、誹謗中傷の類は省くべきですので、その点検討が必要と思います。別に反対者文献を全部消すように言っているわけではありません。
- 文献リストを入れたのは自分です。もう少し教団寄りのものも入れたかったのですが、見つかりませんでした。というより、いろいろな書籍データベースで「エホバの証人」とか「ものみの塔」とかで検索すると、批判書ばかりがヒットしてしまうんです (つ_;)。
- そこでその中から、教義的批判というか宗論的なものを除いた結果があれなんです。
- もし可能なら、削るのではなくて、もっと教団寄りのものを加えていただけるとありがたいです。
- また、「誹謗中傷」と言われるのでしたら、せっかくの機会ですから、具体的にたとえばここが、といったことをこちらに書き込まれてから削除されてはいかがでしょう。
- ご教示どうかよろしくお願い申し上げます <m(_ _)m>。
- あ、自分はそちらのメンバーではありませんが、特に反対者というわけでもありませんよ。『聖書から論じる』が座右の書となっているくらいですから。もし反対者ならもっとエグいリストにしていたと思います。もっとも、そちらでは教団所属者以外はすべて反対者ということになっているのなら仕方がありませんが。 Kadzuwo 04:48 2004年3月11日 (UTC)
- ここでの具体的問題は、題名です。エホバの証人の牧者(長老)たちが無慈悲であることの記録と言っていますが、私が問題と考えるのはその一点です。ちくいち反対本の内容を確認するわけにもいきませんので、題を見て判断するのが適切と思いました。宮原崇 05:07 2004年3月11日 (UTC)
ノート (これは参考に)
- エホバの証人は公的に自分たちは原理主義ではないと主張しています。事実、原理主義者とエホバの証人は神学面で徹底して対立しています。「原理主義的傾向を持つが原理主義ではない」くらいがよい表現と思いました。宮原崇 05:07 2004年3月11日 (UTC)
- エホバの証人は信徒数で見るなら国内2位、伝道者数で見るなら1位になるでしょう。宮原崇 05:07 2004年3月11日 (UTC)
- 寄付ですが、一般の方と信者とではルールが異なります。一般の方は、エホバの証人から文書等を得たときに、望むなら自発的に対価と思う額を支払います。つまり、文書と引き換えに寄付します。しかし、信者はそうしてはならないことになっています。これは実質的な販売を極力避けているためです。外部の方には寄付をする機会が限られていますので、引換えはやむなしとなります。外部の方の引換による寄付では少額の寄付のみを受けとることになっています。日本では「少額」とだけ規定されていますが、国によっては額が決まっていて、それ以上の寄付があった場合は返金します。宮原崇 05:07 2004年3月11日 (UTC)
- 追加。2000年1月にすべての国で完全寄付制が導入されました。(『エホバの証人の2001年鑑』18ページ)宮原氏の主張は昔のお話です。K.M. 05:23 2004年3月11日 (UTC)
- ちょっと表現など間違っていたかもしれません。お詫びいたします。宮原崇 05:30 2004年3月11日 (UTC)
- 「輸血拒否事件に関しては、聖書の中に「他者の血を食べるな」という文言を見いだして、それに従った結果というが、これは宗教的戒律ではなく単に「保存手段のない昔に、血の腐敗した生肉を食べて体を壊す事の無いように」という、生活上の注意でしかないという見解がキリスト教関係者から提示された。」(引用)
- これは話になりません。反論にはいろいろなものがあり、とんでもないものもあります。ひとつの目安として、カトリック教会の広報がエホバの証人への反論として認めるようなものであるか、ということを考えることが必要でしょう。
- 正しい指摘はこうです。聖書が「食べるな」とか「触れるな」とか教えているものは、大半は儀式上の汚れを根拠にするものです。そのうちのあるものには生活上の汚れとの関連が見いだせますが、それらはみな儀式上の汚れを根拠にしているのであって、生活上の汚れを根拠にしているものはひとつもありません。キリスト教の精神は規則ではなく霊(心)にあります。たとえば、聖書は「食べ過ぎと飲み過ぎ」を禁じていますが、それは食べ過ぎや飲み過ぎが体に不健康だからではありません。キリスト教徒が持つべき心の貞潔さに反するからです。ですから、聖書に健康上の規則なるものは存在しません。ただ関連性が見いだされるだけです。それは血についても同様です。しかも、血には例外があります。聖書の中で食べてはならないとされるものは、血を除いたすべての場合、汚れを根拠としています。しかし、血の場合は、汚れているからではなく、神聖だから食べてはならないとされます。血は命を表しており神聖だから食べてはならないというのが聖書の崇高な教えであり、先のご意見は聖書の持つ精神面での崇高さを冒涜するものです。宮原崇 05:07 2004年3月11日 (UTC)
- 中立的な記述ではありませんね。「…と信仰する」でないと。あと、文体は「である/だ」と統一することになっていますのでよろしく。KIZU 07:38 2004年3月11日 (UTC)
- 表現の補足ありがとうございます。しかしこの一文はある反論の妥当性についてのノートですので、中立的でなくて当然と思います。神学的に質の低すぎる教会側の反論とそれに対するエホバの証人の反論の紹介などというのは、両論併記以前の問題と思います。宮原崇 07:57 2004年3月11日 (UTC)
- 教義面についてはノート:エホバの証人の教義でやっていただきたいと思います。K.M.
論点
[編集]話がエホバの証人の教義の方に飛んでしまっているので、元の議論に戻します。そもそも、この記事がページ保護になったきっかけとなったのは
- 1.エホバの証人がキリスト教であるか、それとも、キリスト教系の団体か
- 2.この記事とは別にものみの塔聖書冊子協会の記事が必要か、否か
という点です。そのことについて関係者各位の意見を伺いたいと思います。
K.M.の意見を述べます:1.に関しては、エホバの証人はキリスト教の団体であると思います。「キリスト教」について『広辞苑』はこう定義しています。
イエスをキリストと認め、その人格と教えとを中心とする宗教。……正義と慈愛とに満ちた父なる神、人類の罪、キリストによる贖罪を説く。
この定義が正しければ、エホバの証人はキリスト教の団体ということになります。
2.に関してはものみの塔聖書冊子協会の記事は必要ないと思います。そもそも、それはエホバの証人全体の宗教法人名ではないし、東京都法人のことなのか、ニューヨーク法人のことなのか、ペンシルバニア法人のことなのか、さっぱり分からないからです。K.M. 03:19 2004年3月12日 (UTC)
- ウィキペディアが広辞苑の定義に従う必要があるとは思いませんが、エホバの証人が自身をキリスト教と考えている以上は、一方的にローマカトリックなどの見解を採用したりせずに「キリスト教の団体」であると定義し、その上で主流派は「キリスト教系の団体」ないし「非キリスト教」と考えているという事実も添えるのが中立である気がします。
- 2.について、リダイレクトでよろしいのではないでしょうか。ノート:ものみの塔聖書冊子協会にあるKIZUさんの指摘など、事実がどのようであるのか私には良く分かりませんが、いずれにせよエホバの証人と協会の関係についての事実をエホバの証人の記事に書けばよいことだと思います。独立した記事にしてみても内容に乏しく誤解を誘導しかねないものになってしまうのではないでしょうか。Yugui 03:48 2004年3月12日 (UTC)
- ほとんどの……教会は非キリスト教・異端的宗派と扱うとすでに記載されてますが。なぜ二度繰り返す必要があるのでしょうか。KIZU氏の指摘は、事実の部分もありますが、残りは事実ではありません。K.M. 04:25 2004年3月12日 (UTC)
- これは「エホバの証人とは何か」という根本的な問題にかかわるものであって、記事の要点として冒頭部にあるべきだと思うからです。二度繰り返すことのは確かに冗長ですし、あるいは誘導的でもあるかもしれません。今の箇所にある記述を冒頭に移動させるという形でよいと思います。Yugui 05:20 2004年3月12日 (UTC)
- 根本的な問題だけに両意見を冒頭に記述するのはどうかと思います。英語版などではエホバの証人がキリスト教の教派だ、ということに異論はないようですが。キリスト教系だ、とする根拠は何なのでしょうか。これはエホバの証人の記事だけでなく、末日聖徒イエス・キリスト教会などの記事もそうなっていますが。K.M. 05:47 2004年3月12日 (UTC)
- 英語版はやや歴史も長く様々な議論がなされているので、どうにも判断に苦しむ場合にとりあえず英語版に従ってみるのもありだと思いますが、無条件に従うほどの権威があるものとは思いません。
- 根本的な問題、つまりその対象を理解する上では欠かせない問題について、多様な意見があるという事実を分かりやすく提示することが適当でないという理由が良く分かりませんでした。
- 「キリスト教系」という表現は、一部の宗派がエホバの証人を「非キリスト教」と見なしているのでその立場においては「キリスト教である」とは書けないが、少なくとも信仰の形態としてキリスト教派生の宗派であることは疑う余地がないという意味なのではないかと思っていました。Yugui 06:00 2004年3月12日 (UTC)
「系」がつくかつかないかをキリスト教であるかどうかと言う問題に帰着させてしまった上での議論のようですが、ここは切り離して考えた方が決着しやすいのではないですか? 私はエホバの証人がキリスト教に含まれるのかどうかは知りませんので、こちらの問題には何とも言及しようがないのですが、「系」を付けるべきかどうかはまた別、という記がします。
教団の教義そのものはキリスト教なのでしょう。これについては「系」は不要。ただ、数ある新宗教のなかでこの教団がどれに分類されるかというと、キリスト教系に分類される、こういうことではないのですか?
その意味では「キリスト教」「キリスト教系」それぞれ、文脈によって使い分ければどちらも妥当な表現のように思われます。Sampo 06:00 2004年3月12日 (UTC)
- 只今、履歴をよく見返しましたら、最初に「キリスト教系の新興宗教団体」と書いたNixonさんの意図はどうやらSampoさんの仰るようなものだったように読めました。[2]
- ただ、キリスト教であるか否かという問題はおそらくエホバの証人の方にとってはとても重要な問題なのだと思いますし、「系」をつけることで私やK.M.さんのような誤読を誘導する虞があるということが判明した以上は、冒頭部での「系」という表現は避けてはどうかと思います。現在の主流派から見たエホバの証人への言及はそもそも「系」含んでいないので、これをそのまま活かせばよいでしょう。
- K.M.さんの論点提示から何も考えずにそのまま「系」を引っ張ってきて提案したことで議論を混乱させてしまったことをお詫びします。
- 繰り返しますが、エホバの証人が自身をキリスト教と考えている以上はまず最初の定義としては「キリスト教の宗派」とするのが適切であると思います。Yugui 06:21 2004年3月12日 (UTC)
- Sampoさんの指摘についてですが、三位一体を信じている方々にとってはキリスト教という信仰に置いて三位一体は非常に重要なものであるようです。エホバの証人の教義そのものはキリスト教であると但し書き抜きに断言してしまうのは、彼らに対してフェアでないように思います。Yugui 06:30 2004年3月12日 (UTC)
- そこらへんは、よしなに。Sampo 06:35 2004年3月12日 (UTC)
- 自分はキリストの復活を信じているか否かがキリスト教で最も重要なことだと思いますが、三位一体はカトリック及びプロテスタント系の大同団結である日本基督教団とかで信じられていますよね。たしか信仰告白にも含まれているはずです。逆に三位一体を認めていないところとしては、他にセブンスデー、統一教会、モルモン教、神の幕屋、といったところが挙げられるかと思います。以上、ご参考までに m(_ _)m。Kadzuwo 07:28 2004年3月12日 (UTC)
- 「系」をつけたのが悪い意図ではなかったことは分かりました。2.(エホバの証人か、ものみの塔か)の方についてはいかがでしょうか。K.M. 07:09 2004年3月12日 (UTC)
- ノート:ものみの塔聖書冊子協会に書いたとおりです。ここは正式名称ルールをある程度無視しても構わない事例になるのではないでしょうか。Sampo 07:14 2004年3月12日 (UTC)
- 私の知る限りでは、近年はエホバの証人のことを「キリスト教ではない」扱いすることに対する異論がプロテスタントなどから少数ですがでています。出典忘れましたが、ある本では、「そろそろプロテスタントに含めてはどうか」という書き方になっていたと覚えています。三位一体論についてのエホバの証人の立場を根拠にエホバの証人を排除しようとする見方は依然根強いですが、この点については、エホバの証人以外にプロテスタントにリベラル教派が存在していますし、すでに主要教派のカトリックも神学的にはリベラル化が進んでおり、だんだん無意味になってきているという認識があると思います。エホバの証人がキリスト教でないとする意見を記すなら、さらにエホバの証人をプロテスタントに含める動向もあることを示すべきでしょう。宮原崇 08:01 2004年3月12日 (UTC)
- そうすと、そのことに対する反論もあることを重ねて記すことになるかと思います。ただ、すでに私が発言した内容で十分議論の質が下がっているように思いますから、その点も配慮する必要があるようです。宮原崇 17:08 2004年3月12日 (UTC)