ノート:エホバの証人/archive2
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文案
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19世紀末に米国で興ったキリスト教非伝統教派の教派名
法人
名称の由来
日本での宗教学的立場
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最初の部分、これでどうでしょうか。宮原崇 08:47 2004年3月12日 (UTC)
- 日本の支部事務所の宗教法人名はものみの塔聖書冊子協会 日本 東京都ですよ。それに「エホバの証人」の名は神学用語ではなく聖書用語です。会衆、ものみの塔、目ざめよ!についてはその記事で説明しているので改めて説明する必要はないのでは。K.M. 14:58 2004年3月12日 (UTC)
- 法人登録に関する日本の事情はアメリカのものとは異なりますので、単にものみの塔聖書冊子協会としてまとめて扱っても許容範囲内と思いますが、そうでないとお考えでしたら、是非代案を示してください。単に間違いを示すより、そのほうが効果的ですし、私としても勉強になります。宮原崇 17:18 2004年3月12日 (UTC)
- 神学用語でも聖書用語でもどちらでも構いませんが、神学用語と言う方が適切でしょう。というのは、「エホバの証人」という語は聖書にあるというだけの表現ではないからです。これは「命の木」や「新しい契約」といった語のように、神学的意味合いのある語であり、語を定義したうえで応用的に用いることができます。K.M.さんの指摘はかえって不自然と感じました。宮原崇 17:18 2004年3月12日 (UTC)
- エホバの証人は哲学を受け入れてはいませんが、神学は受け入れているでしょう。哲学的な神学というものがあった場合には否定的ですが、それは神学の一側面であって、全体ではありません。
- たとえば、このような言い方をすることについてはどうでしょうか。エホバの証人は高等批評は受け入れませんが、下等批評は重んじています。この事実からすると、このように言うことができます。「エホバの証人は下等批評を受け入れているので、神学と聖書批評学を受けて入れていると言うことができる。神学は哲学の一種のようなので、エホバの証人は哲学も受け入れていると言うことができるし、聖書批評学は無神論のようなものなので、エホバの証人は無神論を受け入れていると言うことができる」。ばかばかしい発想だとは思われないでしょうか。
- それに次のことも考えてください。K.M.さんは最初、「これは神学用語ではなく聖書用語だ」と言われました。ところが、それに反論があると、今度は「神学とは哲学のようなものだ」などと言っています。これはどういうことでしょうか。
- 率直に言わせていただきますと、これは、自分の言っていることがコロコロと変わっているのにそのことに気づかない人の典型的な言動です。つまり、結論は同じで、結論を証明する議論が絶えず変わるという人がいて、本人としては、あくまで同じ結論を唱え続けているので、話をコロコロ変えているなどと言われるのは心外と思います。これは悲しむべき症状です。あなたは私よりWikipediaで長く活動し、多く発言しておられますが、そのいろいろなところで、すでに十分にこのことを実証しておられます。しかも、この症状を持つ人に特有の末期症状も呈しておられます。つまり、自分の考えを支持する主張をあれやこれやと言っているうちに、だんだん感覚が麻痺してきて、ついにはだれが聞いてもばかばかしく滑稽でしかない論法に傾倒していくという症状です。哀れです。
- 私としては悲しくなるばかりです。というのも、あなたは今、「神学は哲学の一種のようですから、「エホバの証人」という語を神学に求めるのは間違いでしょう。」と私に言ったのです。このことの意味をよく考えてください。そして、自分の頭で考えて、自分の頭で理解してください。そしてこれがいかに悲劇的なことであるかを理解して、立ち返ってください。
- つまり、結論を述べるとこういうことです。あなたの話はめちゃくちゃで、返答する以前の問題です。あなたの発言を嫌がらせのように思う人も多いでしょう。ただ、あなたという人が、「あなたの話は支離滅裂だ」とひとこと言っただけでは決して理解しない人であることはよく分かっていることなので、私はここまで言葉を尽くしてそれを言うのです。私としてはやはり、とても悲しいと思います。あなたは私の兄弟ではないですか。そうであれば、私はあなたのために、さらに言葉を尽くさなければならないのでしょうか。宮原崇 14:28 2004年3月14日 (UTC)
- 重複や順不同の問題はあとで解決しましょう。どうせあとから記事の順番など直さなければならないでしょうから。宮原崇 17:21 2004年3月12日 (UTC)
- それもそうですね。K.M. 12:45 2004年3月14日 (UTC)
内容以前の問題として
- 警告: このページのサイズは 55 キロバイトです。ブラウザの中には 32 キロバイト以上のページを編集すると問題が起きるものがあります。詳しくは、ページサイズを参照してください。
ですので
- 保護を解除していただく
- 内容は記事をみながら互いに編集する
- 自分の書いたものが改変された場合、コメントなしで revert せず、ノートに議論を残して細部を詰める
ことを提案します。KIZU 10:45 2004年3月15日 (UTC)
- 管理者の一人です。ノート:聖霊の方で関連の議論をやっていますので、もしよかったらご参照下さい。前例も少なく、管理者間でも特に意見の統一が図れていないように思いますが、ここで議論されている方々が、解除しても編集合戦にならないと判断されるようなら、保護しておく理由はないように思います。
- 何がどの程度論争を招きやすい問題なのかは、当然ながらこの分野に通じていない者にはわかりにくい面があるので、積極的にご意見を頂ければと思います。なお、Wikipedia:管理者にもある通り、ウィキペディアでは管理者は裁量権、決定権などを特に独占しているわけではなく、利用者一般の合意を反映して行動する役目を負っている、ということになっています。ので、その意味でもご意見は歓迎だとお考え頂いてよいかと思います。
- (解除する理由としては、とりあえず重要な争点についてあらかた議論に片がついた、とか、当事者が冷静さを取り戻しそもそも議論が白熱するほどの重要な案件も実は存在していない、などなど、いろいろな理由があると思います。)
- そうでなければ、KIZUさんが上に提示されたような諸点について合意を形成して頂いて、不毛な対立や編集が繰り返されず、議論を重ねた上で記事を改稿していくことになる、という見通しが立てばよいかと思います。Tomos 21:19 2004年3月17日 (UTC)
著作権違反を繰り返す投稿者が関与する記事に、関わるのはご遠慮申し上げます。私はこれ以上こうした低次元の争いに巻き込まれたくはございません。KIZU 2004年3月25日 (木) 10:57 (UTC)