聖書翻訳の研究など
エホバの証人の行動を決定する一連の概念は、これまでほとんど社会に紹介されてきませんでした。宗教学者のような立場にある人たちは、“エホバの証人は社会をサタン視する”とか“輸血や国旗崇拝を拒否する”などといったあまりに表面的な要素でもってエホバの証人を説明しています。しかし、みなさんがエホバの証人一人一人を理解し、よりよく接するために、こういった説明はどれほど役に立ってきたでしょうか。エホバの証人自身、宗教学者による評価には屈辱を感じます。なぜなら、そういった説明はほとんど例外なく、自分たちエホバの証人の人格的特徴を誤り伝えているからです。彼らが伝えるエホバの証人のイメージといえば、カルトであり、排他的であり、協調性がなく、攻撃的ですらあるというイメージです。しかし、実際にいろいろなエホバの証人と接するようになって、そのイメージが全く当てはまらないことに気づかれる方も多くおられます。そういった人は、エホバの証人特有の穏やかさ、優しさ、まじめさ、礼儀正しさ、さらに協調性といったものはどこから来るのだろうかと考えます。そういったことを、みなさんにすこしでも説明できればと思います。
エホバの証人の考え方や行動を説明するうえで特に重要なのは「原則」の概念です。キリスト教は戒律主義から自由にされ、原則によって導かれる宗教になったとエホバの証人は考えます。原則とは何でしょうか? たとえば「愛」は原則のひとつです。「信仰」も原則のひとつです。原則を理解し、それによって生きることは、戒律主義の代わりとなります。たとえば、エホバの証人が賭け事をしないのは、「不正な利得を愛してはならない」という言葉が聖書にあり、そこに愛の原則の意味するところを見ることができるからです。聖書は愛という原則が尊いものであることを示す一方で、愛が誤導されうるものであることを示しています。エホバの証人は、その原則を正しく理解することによって、一見して戒律主義的にも見える「賭け事をしてはならない」という結論に至ります。
キリスト教は戒律主義ではありませんが、だからといって善悪の基準を無視する宗教ではありません。エホバの証人は“戒律主義的ではないキリスト教において善悪の基準を確立する”という難しい命題を「原則」という概念の導入によって達成しようとしています。
エホバの証人は、聖書の原則にしたがって考え、判断し、行動することを、具体的かつ実践的な方法で繰り返し教えられます。しかも、ひとつの原則を動機としただけでは誤導される恐れがあるので、多くの原則を考慮するよう求められます。円熟したエホバの証人はそうでないエホバの証人よりも多くの原則を同時に考慮するとされています。
そのことを、信仰の原則を題材にして学んでみましょう。信仰は尊いものですが、それだけを動機としていたのでは人は誤導されます。たとえば、人々は信仰を根拠に戦争を起こしてきました。聖書を信じると唱えるキリスト教世界でさえもその例外ではありません。しかし、聖書はそのことをよく理解していました。信仰だけではむしろ害になるということを知っていた聖書はこう教えています。
「真剣な努力をつくして答え応じ、あなた方の信仰に徳を、徳に知識を、知識に自制を、自制に忍耐を、忍耐に敬虔な専心を、敬虔な専心に兄弟の愛情を、兄弟の愛情に愛を加えなさい。これらのものがあなた方のうちに在ってあふれるなら、それはあなた方が、わたしたちの主イエス・キリストについての正確な知識に関して無活動になったり、実を結ばなくなったりするのを阻んでくれるのです。」(『新世界訳聖書』)
信仰に徳が加わるだけでどれほど変化が生じるかを考えてください。それは大きな変化ではないでしょうか。さらに、知識、自制、忍耐、敬虔さ、愛が加わるならどうでしょう。信仰を根拠にした戦争はもはや起こらないにちがいありません。それどころか、その人は日常生活においても穏やかで心優しくなり、信仰や立場の異なる人たちに対しても謙遜に振る舞うことができるようになります。
ですから、エホバの証人に限らずすべての人にとって、原則をわきまえることは重要なことです。エホバの証人はクリスチャンとして、正しい原則の源である神に依り頼み、その御言葉聖書を注意深く研究します。そして、祈りを込めつつその教えに従って生きる時、神と人との両方からの豊かな祝福があると信じます。
聖書の原則によって生きるエホバの証人にとって重要なのは、原則の適用が「道理にかなっている」かどうかです。『新世界訳聖書』において「道理にかなう」と訳されているギリシャ語には、“自分が正しく相手が間違っていることが分かっている場合でも、ただちに、自分から、喜んで相手に譲歩できる”というニュアンスがあり、他の翻訳では「心が広い」、「寛容である」などと訳されます。
自分が正しいと思うからといって、それを人に押しつけたり、かたくなに実践したりするのは正しいことではありません。譲れないところがあるとしても、多少は譲歩することを覚えるべきです。
聖書の神エホバはこの点で偉大な模範者となられました。たとえば、エホバは人間が動物を殺して肉を食べることをお許しになられました。完全に正しい方であるエホバですから、「肉を食べることは一切禁止する」と人に命じて譲らないこともできましたが、そうはされませんでした。もし、神がこのような譲歩を行われなかったら、人類は動物殺しの罪によって厳しく裁かれることになるでしょう。エホバの証人はエホバがこれほどまでの譲歩を示してくださったことに感謝し、譲歩の代償としてエホバが命じられた「ただし血は食べてはならない」という命令をよく守ります。
さらにエホバは、私たちがまだ罪人であった時にイエス・キリストを遣わして私たちを救ってくださいました。人類にはさまざまな罪があります。神としては、「自分の問題は自分で解決しなさい」とか「責任は自分で取りなさい」と言うこともできましたが、そうは言いませんでした。神は「あなた方のところに私の息子を遣わして、私の息子が問題を解決し、責任をとるようにしてあげましょう」と言いました。神は自分から喜んでそうされたのです。エホバの証人はそのことに心から感謝し、救い主であるイエス・キリストの教えによく従い、命令をよく守ります。
ですから聖書が「上からの知恵は道理にかなっている」と述べたのはもっともなことです。そして、聖書は私たちに「あなた方が道理をわきまえていることがすべての人に知られるようにしなさい」と命じました。(『新世界訳聖書』)
ですから、エホバの証人であるかどうかにかかわらず、道理にかなっていることは重要なことです。エホバの証人はクリスチャンとして、聖書の原則を堅く守りつつも道理にかなった者となるよう努力します。そうする時、ちょうど神とキリストの寛大さが私たちの心を大きく動かしたように、私たちも人々の心を動かせる者となると信じます。
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