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ジロンド派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジロンド党から転送)
ジロンド派
Girondins
指導者 ジャック・ピエール・ブリッソー[1][2][3]
ピエール・ヴェルニヨ[3]
ニコラ・ド・コンドルセ[3]
アルマン・ジャンソネ[3]
マルグリット=エリ・ガデ[3]
マクシマン・イスナール[3]
ジャン=マリー・ロラン[3]
創立 1791年10月1日[注 1][4]
解散 1793年6月[1][5][6]
前身政党 憲法の友の会[7]
後継政党 テルミドール派[5]
本部所在地 フランス王国の国旗 フランス共和国
ジロンド県 ボルドー[8][9][10]
機関誌 Patriote français
Le Courrier de Provence
La chronique de Paris
政治的思想 自由主義[5]
穏健な共和主義[11][12]
共和主義[13]
アボリショニズム[14]
政治的立場 左翼・左派立法議会時)[1][3][5][6]
右翼・右派国民公会時)[3][6]
公式カラー    
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ジロンド派(ジロンドは、フランス語: Girondins[1][3][6][11], IPA: [ʒiʁɔ̃dɛ̃] [15])は、フランス革命期の立法議会国民公会における党派である[5][11]自由主義[5]共和主義を掲げ[11][12][13]、大きな港湾都市の銀行家や大商人[3]、商工業ブルジョアジーの利益を代表し[5][6][11][12]、立法議会ではフイヤン派に対して左翼、国民公会では山岳派に対して右翼を成した[6]。主な指導者はブリッソーピエール・ヴェルニヨコンドルセA.ジャンソネM.ガデイスナールロラン内務大臣であった[1][2][3]

当時は「ブリソ派」や「ロラン派」と呼ばれ[3]1874年に出版されたラマルティーヌ著の『ジロンド派の歴史』(原題:Histoire des Girondins[16]がベストセラーになって「ジロンド派」の語が最も代表的な名称として統一された[5]。なお、ジロンドの語源はフランスのジロンド県であり、指導者のうち3名が同県の出身議員だったため[5][11]あるいは同県出身の議員が多くいたためこの名が付けられた[1][3][6]

経緯

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初期

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もともとはジャコバン・クラブに属しており、1791年立法議会の誕生にあわせて、同派の山岳派とともに民主派の勢力を形成した。

国王ルイ16世王家と亡命貴族(エミグレ)が画策する中、他ヨーロッパ諸国との開戦の気運が高まってくる。ジロンド派は、対外戦争を利用して国王の真意を明確にしようとし、主戦論を展開した。マクシミリアン・ロベスピエールが反戦論を唱えるが、国王の任命により1792年3月にジロンド派内閣が組織され(首班ブリッソー、内相ロラン(妻のロラン夫人が黒子)、蔵相クラヴィエ、外相デュムーリェ、司法相ダントン)、同年4月20日オーストリアに対し、宣戦を布告する。しかし、革命の余波が軍隊におよび、それまでの貴族に取って代わる指揮命令系統のないフランス軍は、各地で敗戦を重ねた。そのため、ジロンド派は敗戦の責任を取り、政権をフイヤン派に譲り渡す。

ジロンド派政権

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対外戦争において苦戦する中、立法議会に代わり国民公会が開催される。ジロンド派はこの議会において多数を占め、王政の廃止および共和国宣言を採択する。しかし、革命の一応の終結を目指すジロンド派と、急進的な革命を推し進めようとする山岳派との対立が激しくなっていった。

やがて、ルイ16世が外国と画策したとされる文書がテュイルリー宮殿内から発見される。また、王妃マリー・アントワネットの外敵通牒も伝えられた。山岳派は、国王や王妃の裏切り行為に対し裁判を要求したが、これ以上の革命の推進を望まないジロンド派は、裁判の実施に消極的であった。しかし、ロベスピエールやサン=ジュストといった山岳派の演説により、国王裁判が開催されることになる。

裁判の結果、ルイ16世の死刑が決定する。裁判におけるジロンド派はまとまりを欠き、死刑に賛成するものや反対するものなど、一致した見解を出すことができなかった。

衰退

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監獄に収監されたジロンド派, 1845年

ルイ16世を処刑したフランスに対し、イギリスなどから経済制裁が行われた。フランスはイギリススペインなどに対し宣戦を布告するが、イギリスを中心としたヨーロッパ諸国は第一次対仏大同盟を結成し、フランス包囲網を形成する。

経済や軍事面でのジロンド派の失政に対し、議会は山岳派主導に傾き始めた。追い詰められたジロンド派は、さまざまな手法で山岳派を陥れようとするが、ロベスピエールの先導により、1793年6月にジロンド派の主要メンバーが捕らえられ、中央政界での基盤を失うことになった。

脚注

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  1. ^ 立法議会の成立年月日である[4]
出典
  1. ^ a b c d e f ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年11月10日閲覧。
  2. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - ブリッソー コトバンク. 2018年11月11日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 世界大百科事典 第2版 コトバンク. 2018年11月10日閲覧。
  4. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 立法議会 コトバンク. 2018年11月11日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2018年11月10日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 百科事典マイペディア コトバンク. 2018年11月10日閲覧。
  7. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - ベルニョ コトバンク. 2018年11月11日閲覧。
  8. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - ボルドー コトバンク. 2018年11月11日閲覧。
  9. ^ デジタル大辞泉 - ボルドー(Bordeaux) コトバンク. 2018年11月11日閲覧。
  10. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ) - ボルドー #歴史 コトバンク. 2018年11月11日閲覧。
  11. ^ a b c d e f デジタル大辞泉 コトバンク. 2018年11月10日閲覧。
  12. ^ a b c 大辞林 第三版 コトバンク. 2018年11月10日閲覧。
  13. ^ a b Girondin political group, France”. Britannica.com. 2018年11月10日閲覧。
  14. ^ David Barry Gaspar; David Patrick Geggus (1997). A Turbulent Time: The French Revolution and the Greater Caribbean. Indiana University Press. pp. 262 
  15. ^ 大槻鉄男・佐々木康之・多田道太郎西川長夫山田稔共編 『DICTIONNAIRE FRANÇAIS-JAPONAIS CROWN クラウン仏和辞典 第2版』 三省堂、1986年(第9刷発行)、651頁。ISBN 4-385-11925-2
  16. ^ Alphonse de Lamartine French poet, historian, and statesman Britannica.com. 2018年11月11日閲覧。

関連項目

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