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ジミー・マカロック

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ジミー・マカロック
James 'Jimmy' McCulloch
基本情報
生誕 (1953-06-04) 1953年6月4日
スコットランドの旗 スコットランド ダンバートン
死没

1979年9月27日(1979-09-27)(26歳没)

イングランドの旗 イングランド 北西ロンドン、メイダ・ヴェール
ジャンル ロック, ハードロック
職業 音楽家, 作曲家
担当楽器 ボーカル, ギター, ベース
活動期間 1967年 - 1979年
共同作業者 ワン・イン・ア・ミリオン
サンダークラップ・ニューマン
ストーン・ザ・クロウズ
ウイングス
スモール・フェイセズ
The Dukes
Blue

ジェームズ「ジミー」マカロックJames 'Jimmy' McCulloch1953年6月4日 - 1979年9月27日)は、スコットランドグラスゴー出身のミュージシャンである。1974年から1977年までポール・マッカートニーウイングスのリード・ギタリストを務めたことで最も知られている。それ以前はグラスゴーのサイケデリック・バンドのワン・イン・ア・ミリオンを皮切りに、サンダークラップ・ニューマンストーン・ザ・クロウズのメンバーとして活動した[1]。兄のジャック・マカロック(Jack McCulloch)はドラマーである[2]

生い立ちと経歴

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マカロックはスコットランドダンバートンに生まれ、クライドバンクカンバーノールドで育った。ジャンゴ・ラインハルトに刺激を受け、11歳のときにギターを弾き始めた。シャドウズハンク・マーヴィンは11歳の彼をバックアップした。

ワン・イン・ア・ミリオン

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やがて彼は、兄でドラマーのジャックらとThe Jaygersというサイケデリック・バンドを結成した。The Jaygersはワン・イン・ア・ミリオンOne in a Million)と改名して、1967年4月にはロンドンのアレクサンドラ・パレスで開催されたThe 14 Hour Technicolour Dreamに出演した。その際、マカロックはThe Utterly Incredible Too Long Ago To Remember Sometimes Shouting At Peopleのリード・ギターを務めた[3]。また彼はワン・イン・ア・ミリオンのギタリストとしてアッパー・カットやその他のロンドン市内の会場におけるライブでも演奏した。この年、ワン・イン・ア・ミリオンはザ・フーのツアーのサポート・バンドを務め、2作のシングル"Use Your Imagination" / "Hold On"と"Fredereek Hernando" / "Double Sight"をリリースした[4][5]。2009年に発表された編集アルバムDouble Sight - The Complete Recordings[6]では、この4曲を含めて彼等の作品を聴くことができる。

サンダークラップ・ニューマン

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彼が名前を知られるようになったのは1969年、ザ・フーピート・タウンゼントの友人で作曲家のジョン・「スピーディ」・キーン[注釈 1](ボーカル、ドラム)、アンディ・「サンダークラップ」・ニューマン[注釈 2](ピアノ)とサンダークラップ・ニューマン(Thunderclap Newman)を結成した時だった。彼等は同年7月に、タウンゼントのプロデュースによるシングル『サムシング・イン・ジ・エアー[7]全英シングルチャートで1位を獲得。当時15歳だった彼は「全英1位を獲得した曲で演奏した最年少のギタリスト」になった。彼等は引き続いてタウンゼントをプロデューサーに迎えて制作したデビュー・アルバム『ハリウッド・ドリーム』を1970年に発表したが、「サムシング・イン・ジ・エアー」に続くような成功は得られなかった。そして1971年1月から4月中旬までイングランド、スコットランド、オランダ、スカンジナビアでツアーを行ない、その数週間後に解散した。

1971年10月、彼はジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのイギリスとドイツでのライヴでギターを担当した。10月31日、ロンドンで自分のバンドであるベント・フレーム(Bent Frame)のステージ・デビューを果たした。彼等は間もなくジミー・マカロック・バンドと改名し、1972年2月にマウンテンのサポートとしてイングランドとスコットランドでツアーを行なった。この頃、彼はセッション・ミュージシャンとしてクラウス・フォアマンハリー・ニルソンスティーブ・エリス、ザ・フーのジョン・エントウィッスル[注釈 3]といったミュージシャンとのセッションに参加している。

ストーン・ザ・クロウズ

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1972年5月、彼同様スコットランド出身のブルース・バンドのストーン・ザ・クロウズが、ギタリストのレスリー・ハーヴェイをステージ上の事故による感電死で失った[注釈 4]。彼は6月にハーヴェイの後任として加入して、制作途中のアルバム『オンティニュアス・パフォーマンス』[8]を完成させるため"Sunset Cowboy"と"Good Time Girl"でギターを演奏した。彼等は1973年6月に解散した[9]

1973年、彼はジョン・キーンのアルバム『Previous Convictions[10]に客演した。また同年、スコットランドのバンドであるブルー(Blue)に加わってギターを演奏したほか、「ザ・ファントム」の仮名でブライアン・ジョゼフ・フリエル(Brian Joseph Friel)のデビュー・アルバム[11]の制作に参加した。

ポール・マッカートニー&ウイングス

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1974年1月、ポール・マッカートニーウイングスに加入する。彼の加入後、最初に発表されたシングルは『ジュニアズ・ファーム』「(1974年)である。

彼はマッカートニーがピアノやアコースティック・ギターを演奏する場合には、ベース・ギターを演奏した。また『ヴィーナス・アンド・マース』(1975年)に反ドラッグソングの「メディシン・ジャー」、『スピード・オブ・サウンド』(1976年)に「ワイノ・ジュンコ」を提供してリード・ボーカルを担当した[注釈 5]

彼はウイングスでの活動と並行して、兄のジャック(ドラムス)、デイヴ・クラーク(ベース、キーボード、ボーカル)とホワイト・ライン(White Line)を結成した。彼等は数回のギグを行い、シングル『"Call My Name"/"Too Many Miles"』をリリースし[12]、1976年11月27日にイギリスのテレビ番組「Supersonic」に出演している。1994年に13曲入りのアルバム『White Line - Complete』がクラークのレーベルであるマウス・レコードからリリースされた[13][14]。マカロックはこの他にも、「The Khyber Trifles」と共に2曲を録音し(未発表)、ロンドンやグラスゴーでのライヴにも参加した。1977年にはロイ・ハーパーの『Bullinamingvase』、リッチ・マーティンの『Bleached』、ザ・フーのロジャー・ダルトリーの3作目のソロ・アルバム『ワン・オブ・ザ・ボーイズ』などに客演した。

スモール・フェイセズ

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1977年9月、マカロックはウイングスを脱退して再結成したスモール・フェイセズに加入し、同月に行なわれたイギリスでのツアーに参加した。アルバム『78イン・ザ・シェイド』(1978年)でギターを演奏している。1978年初めにはブライアン・ロバートソンジミー・ベインケニー・ジョーンズと共に「ワイルド・ホーセズ」を結成したが、その春には脱退した。79年には「ザ・デュークス」に参加した。彼の最後の曲は「"Heartbreaker"」であり、アルバム『The Dukes』(1979年)に収録されている。

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1979年9月27日、ロンドン西部にあるメイダ・ヴェール(Maida Vale)の自宅で死亡した。死因はヘロイン過剰摂取による心臓発作である。26歳だった[15]

音楽

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マカロックはメロディックで強くブルースで影響を受けたギタリストであり、通常ギブソン・SGギブソン・レスポールを演奏した。

ディスコグラフィ

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サンダークラップ・ニューマン

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ストーン・ザ・クロウズ

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  • Ontinuous Performance(1971年)[16]

脚注

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注釈

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  1. ^ キーンが作詞作曲した「アルメニアの空」(Armenia City in the Sky)は、ザ・フーのアルバム『セル・アウト』(1967年)に取り上げられた。
  2. ^ タウンゼンドのイーリング・アート・カレッジ時代の友人で、ジャズ・ピアニストだった。
  3. ^ サンダークラップ・ニューマンはピート・タウンゼントのプロデューサーに迎えてレコードを制作して、ザ・フーのマネージャーだったキット・ランバートクリス・スタンプが設立したトラック・レコードから発表した。その関係もあって、マカロックはザ・フーのメンバーと親しかった。彼は1972年にエントウィッスルの2作目のソロ・アルバム『風の詩』に客演して、ピーター・フランプトンと共に"Apron Strings"、"I Feel Better"の2曲でリード・ギターを演奏した。
  4. ^ ハーヴェイは1972年にスコットランドで結成されイギリスで人気を集めたセンセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンドを率いたアレックス・ハーヴェイの実弟。バンドのボーカリストのマギー・ベルの恋人だった。彼はスウォンジーでのコンサートのサウンド・チェックの際に、接地が不十分だったステージの上で、マイクロフォンとギターの金属弦を同時に触ってしまった。
  5. ^ 作詞は、どちらも元ストーン・ザ・クロウズのドラマーだったコリン・アレンが担当した。

出典

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  1. ^ "Jimmy McCulloch" by Miguel Terol”. The Musicians' Olympus (1997年11月11日). 2007年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年4月29日閲覧。
  2. ^ Discogs”. 2023年6月17日閲覧。
  3. ^ Article: Bell: Performance puzzling...and a plastic past, by Ian McDonald. New Musical Express, issue dated 25 November 1972.
  4. ^ Discogs”. 2023年6月17日閲覧。
  5. ^ Discogs”. 2023年6月17日閲覧。
  6. ^ Discogs”. 2023年6月17日閲覧。
  7. ^ Neill, Andy; Kent, Matt (2007). Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978. London: Virgin Books. p. 223. ISBN 978-0-7535-1217-3 
  8. ^ Discogs”. 2023年6月17日閲覧。
  9. ^ Allen, Colin (2015). From Bournemouth to Beverly Hills: "Tales of a Tub-Thumper". Independently published. pp. 241-247. ISBN 978-1731511355 
  10. ^ Discogs”. 2023年6月17日閲覧。
  11. ^ Discogs”. 2023年6月17日閲覧。
  12. ^ Discogs”. 2023年6月17日閲覧。
  13. ^ Discogs”. 2023年6月17日閲覧。
  14. ^ Mouserecords.kastoffkinks.co.uk
  15. ^ Paul McCartney: A Life By Peter Ames Carlin. Simon & Schuster. p.248
  16. ^ Discogs”. 2022年11月6日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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