ジェフ・バニスター
アリゾナ・ダイヤモンドバックス ベンチコーチ #82 | |
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基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | オクラホマ州ウェザーフォード |
生年月日 | 1964年1月15日(60歳) |
身長 体重 |
6' 2" =約188 cm 200 lb =約90.7 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1986年 ドラフト25巡目(全体621位)でピッツバーグ・パイレーツから指名 |
初出場 | 1991年7月23日 |
最終出場 | 1991年7月23日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ジェフリー・トッド・バニスター(Jeffery Todd Banister, 1964年1月15日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州ウェザーフォード出身の元プロ野球選手(捕手)、元プロ野球監督。右投右打。
愛称はバニー・ルースター[1]。
経歴
[編集]1986年のMLBドラフト会議でピッツバーグ・パイレーツから25巡目(全体では621位)で指名され、捕手として入団。MLBの公式戦には1991年に代打で1試合出たのみだったが、この打席で安打を放ったことから、MLB公式戦での通算打率は「1.000」(1打席1打数1安打)と記録されている[2]。
1993年に現役を引退してからも、2014年までパイレーツに残り、傘下マイナーリーグ球団の監督や守備コーディネーター、トップチームのベンチコーチを歴任した。
2015年にテキサス・レンジャーズの監督に就任する[3]と、前年に西地区の最下位でシーズンを終えていたチームを地区優勝へ導き、アメリカンリーグの最優秀監督賞を受賞した[4]。その一方で、自身の就任前にレンジャーズとメジャー契約を結んでいた藤川球児を、就任の当初から冷遇。シカゴ・カブス在籍中の2013年に右肘のトミー・ジョン手術を受けていたことを踏まえた条項が契約に盛り込まれていたにもかかわらず、このような条項を逸脱した扱いをスプリング・トレーニング中から繰り返した。結局、藤川はシーズン途中の5月で退団を余儀なくされた末に、自身の意向で8月から日本球界へ復帰している[5]。
2016年にもチームを地区優勝へ導いたが、2年ともポストシーズンのプレーオフで敗退した。さらに、チームは2017年にレギュラーシーズンを負け越し。2018年には、チーム10年振りの2年連続負け越しがレギュラーシーズン中に確定したことを背景に、シーズン終盤の9月21日付で監督の職を解かれた[6]。
2022年からはアリゾナ・ダイヤモンドバックスのベンチコーチを務める[7]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1991 | PIT | 1 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 1.000 | 1.000 | 2.000 |
MLB:1年 | 1 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 1.000 | 1.000 | 2.000 |
年度別監督成績
[編集]年度 | 球団 | 地区 | 年齢 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位/チーム数 | 備考 | プレーオフ勝敗 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2015 | TEX | AL 西 | 51 | 162 | 88 | 74 | .543 | 1 / 5 | ALDS敗退 | 2勝3敗 |
2016 | 52 | 162 | 95 | 67 | .586 | 1 / 5 | ALDS敗退 | 0勝3敗 | ||
2017 | 53 | 162 | 78 | 84 | .481 | 3 / 5 | ||||
2018 | 54 | 152 | 64 | 88 | .421 | 5 / 5 | 途中解任 | |||
通算:4年 | 638 | 325 | 313 | .509 | 2勝6敗 |
表彰
[編集]- アメリカンリーグ最優秀監督賞:1回(2015年)
背番号
[編集]- 28 (1991年、2012年 - 2018年途中)
- 70 (1999年)
- 57 (2000年)
- 55 (2011年 - 同年途中)
- 17 (2011年途中 - 同年終了)
脚注
[編集]- ^ Explaining Rangers Players Weekend nicknames MLB.com (2017年8月24日) 2017年8月31日閲覧
- ^ Kepner, Tyler (April 2, 2011). “Extra Bases; Jeff Banister: A Pirate Once, and a Pirate Still”. The New York Times. September 23, 2015閲覧。
- ^ Tim Cowlishaw (2014年10月16日). “Cowlishaw: Rangers getting great story, not 'yes man,' in new manager Jeff Banister”. Dallas Morning News. 2015年9月23日閲覧。
- ^ John Schlegel (2015年11月17日). “Banister top AL skipper; Maddon best in NL” (英語). MLB.com 2015年11月18日閲覧。
- ^ 藤川が阪神タイガースで現役を引退した翌年(2021年)に日本実業出版社から刊行された『火の玉ストレート』第Ⅲ章「憧れの地での苦闘」pp.113 - 124を参照。同書ではバニスターの実名を伏せている一方で、スプリングトレーニング中の実戦登板を6試合までに限っていた契約条項に反して、バニスターの命令で10試合近い登板を余儀なくされたことなどを明かしている。藤川は、(2014年のシーズン途中から臨時監督扱いでレンジャーズを指揮していた)ティム・ボガーが監督へ正式に就任することを前提に、レンジャーズとメジャー契約。契約には2015年のMLB開幕戦出場選手に自分を登録させる条項も盛り込まれていたが、レンジャーズは契約の締結後に、バニスターを監督に招聘した。藤川によれば、「バニスターとは、入団後初めての面談でいきなり『君を開幕からメジャー(MLB公式戦)で投げさせるつもりはない』と言われて以来、信頼関係を築けなかった。実際には、スプリングトレーニングの終盤で大胸筋を痛めたものの、開幕の直前には回復していた。医師からは回復を認められていて、投手コーチのマイク・マダックスからも自分を開幕戦の登録メンバーに入れることを明言されていたにもかかわらず、結局はバニスターの独断で故障者リストへ入れられた」という。MLBは故障者リストへの登録選手に対して、リハビリ目的でのマイナーリーグ公式戦出場を登録当日から30日間まで認めているが、「自分は(故障者リストへの登録中に)AAA級公式戦での調整登板で好成績を挙げ続けていたのに、開幕から3週間経ってもメジャー(トップチーム)へ呼び戻されなかったので、退団する覚悟をひそかに決めた」という。ちなみに、実際には上記の期限間際にMLB公式戦で登板できたが、5月に球団から戦力外通告を受けたことを機に退団。藤川が全幅の信頼を置いていたマダックスも、2009年から在籍していたレンジャーズを2015年のシーズン終了後に退団すると、2016年からワシントン・ナショナルズへ移籍している。
- ^ “レンジャーズがバニスター監督解任2季連続負け越し”. 日刊スポーツ (2018年9月22日). 2018年9月22日閲覧。
- ^ “D-backs hire former Rangers manager Banister as bench coach”. USA TODAY (2021年11月1日). 2022年3月10日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 監督の通算成績と情報 Baseball-reference.com
- Jeff Banister (@bannyrooster28) - X(旧Twitter)