コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

コマツ女子柔道部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コマツ女子柔道部(こまつじょしじゅうどうぶ)は、全日本実業柔道連盟に所属する小松製作所の女子柔道チーム[1]

概要

[編集]

1991年に会社の創立70周年記念事業の一環として女子柔道部が創設された。後に社長や会長を務めることになる坂根正弘の提案に基づくものでもあった。1997年ロサンゼルスオリンピック65kg級金メダリストである松岡義之が新たに監督に就任すると、選手の意識改革や有望選手の獲得を積極的に推し進めて、それまでの生半可な雰囲気を一変させた。

2000年前後にはデフレ不況の深刻化により多くの企業がスポーツ事業から撤退する動きを見せる中で、コマツも業績不振に見舞われたものの、全社を挙げて応援を継続するという強い意志を以ってこの危機を乗り切った。2004年にはコマツ初のオリンピック代表選手になった谷本歩実アテネオリンピックにおいて全試合一本勝ちの活躍で金メダルを獲得したことで、柔道部の活動がよりいっそう盛り上がることとなった。谷本は2008年北京オリンピックでもアテネに続いて全試合一本勝ちで2連覇を達成した。

全日本実業団体対抗大会では1993年にコマツAチームが初優勝して以来、2019年までに12回の優勝を果たしている。「コマツウエイ(柔道編)」と呼ばれる柔道部の心構えを明文化した文書では、「女子柔道部員である前に、コマツの一社員だということを忘れない」とした上で、部員は正社員として雇用され、全寮制の下コマツを拠点に活動するが、宣伝には使わないと定めている。さらには、「世界に通用するダントツ技を作る。『指導』の負けは『一本』で負けるより屈辱。最後まで一本を目指し攻め抜く」とも謳っている。人事部の女子柔道部担当課長であり現役時代に田村亮子の最大のライバルだった中村淳子は、「全社的な応援の下で選手は柔道に打ち込み、現役をやめた後も次の道を目指せるサポート体制をコマツはとっている」と説明する。

これまでに台湾カナダドイツなどからも部員を受け入れてきた。また、6700名にも上る後援会組織が国内の大会で大応援団を務めるだけにとどまらず、「コマツウエイ(柔道編)」に「世界中のコマツ応援団と一体となり柔道を広める」と述べられているように、海外の国際大会においても現地社員が時には100人以上の規模で会場へ応援に駆けつける[2][3][4][5][6]

実業団体での成績

[編集]
順位
1990年 -
1991年 3位(小松製作所B)
1992年 3位(コマツA及びB)
1993年 優勝(コマツA)、3位(コマツB)
1994年 優勝(コマツA)、3位(コマツB)
1995年 3位(コマツA)
1996年 -
1997年 -
1998年 -
1999年 3位
2000年 優勝
2001年 優勝
2002年 2位
2003年 3位
2004年 2位
2005年 2位
2006年 2位
2007年 優勝
2008年 優勝
2009年 優勝
2010年 優勝
2011年 2位
2012年 優勝
2013年 -
2014年 優勝
2015年 2位
2016年 -
2017年 優勝
2018年 2位
2019年 優勝
2022年 2位
2023年 3位
2024年 2位
  • 今大会が始まった1990年から1995年までは複数のチームに分かれて参加していた。1996年からは大会に第1部と第2部の2部門が設けられると、上位カテゴリーである第1部に参加することとなった[6]

スタッフ

[編集]

総監督

女子柔道部担当課長

監督

コーチ

マネージャ

主な在籍選手

[編集]

主な出身者

[編集]

所在地

[編集]
東京都江東区佐賀1−10−1
  • コマツ颯志道場(2019年-)
東京都板橋区志村2-20-10

脚注

[編集]
  1. ^ 杉本美香監督が退任へ 柔道コマツ、後任未定”. 産経ニュース (2022年2月2日). 2022年2月2日閲覧。
  2. ^ 【企業スポーツと経営】コマツ 女子柔道部(上)「ダントツ技」で世界制する
  3. ^ 企業スポーツと経営】コマツ 女子柔道部(中)責任を持って支え続ける
  4. ^ 【企業スポーツと経営】コマツ 女子柔道部(下)
  5. ^ 企業スポーツは今 第1回 コマツ 女子柔道部
  6. ^ a b 全日本実業柔道団体対抗大会(女子)

外部リンク

[編集]