オーストラリア対南アフリカ共和国のラグビーテストマッチ
この項目では、ラグビーユニオンにおいてオーストラリア代表(ワラビーズ)と南アフリカ共和国代表(スプリングボクス)が対戦したテストマッチについて述べる。この両チームはこれまでに88試合対戦しており、結果は南アフリカ共和国の48勝37敗3分である。
1921年にスプリングボクスはオーストラリアへの遠征を行い、5試合のうち3試合でニューサウスウェールズ・ワラターズというチームと戦っている。オーストラリアのラグビーユニオンはかつて、ニューサウスウェールズ州協会とクイーンズランド州協会が合同で統括していた。1919年にクイーンズランド州協会が一時消滅して以降は、ニューサウスウェールズ州協会が単独で運営するようになった。ワラターズはニューサウスウェールズ州の代表チームだが、実質的には当時のオーストラリア代表であった。後に設立されたオーストラリア協会は、当時のワラターズと他国のナショナルチームとの対戦を正式なテストマッチとして認定している。しかし南アフリカ協会のほうは、1921年のワラターズとの3試合はテストマッチとしては扱っていない。
両国がともにテストマッチと認めた最初の対戦は、クイーンズランド州協会が再興後の1933年、ワラビーズが南アフリカ連邦へ遠征したときに組まれた5試合である。結果はスプリングボクスの3勝2敗だった。4年後には逆にスプリングボクスがオーストラリアを訪れて2試合を戦い、ここでもスプリングボクスが敵地で連勝した。1953年・1961年・1963年にはワラビーズが南アフリカ連邦/共和国へ、1956年にはスプリングボクスがオーストラリアへ、それぞれ遠征したが、1963年が2勝2敗の五分だったのを除けば全てスプリングボクスが勝ち越した。ワラビーズが初めて勝ち越したのは、1965年に遠征してきた相手を迎えての2試合に連勝したときだった。
南アフリカ連邦/共和国では1948年以降、国民党政権によって人種隔離政策(アパルトヘイト)が推進されていた。これが国際社会から批判を集めるようになったことで、ワラビーズは1971年を最後にスプリングボクスとの対戦を受けなくなった。アパルトヘイトが1991年に撤廃されると、翌1992年には両国によるテストマッチが21年ぶりに南アフリカ共和国で実施され、さらにその1年後にはスプリングボクスが22年ぶりにオーストラリアへ遠征した。1995年には南アフリカ共和国で第3回ワールドカップが開催され、そこでも両国が対戦した。
1996年からは、両国にニュージーランド代表(オールブラックス)を加えた南半球3か国による対抗戦 "トライネイションズ" が発足した。これには後にアルゼンチン代表(ロス・プーマス)も加わり、現在では "ザ・ラグビーチャンピオンシップ" という大会になった。これにより両国の対戦は、4年に一度のワールドカップでの顔合わせを除けば、主にザ・ラグビーチャンピオンシップ内の一カードとして毎年行われるようになった。
2000年にはトライネイションズの前にもう1試合が組まれ、勝利したワラビーズに "マンデラ・チャレンジプレート" が贈られた。マンデラとは、1994年に黒人として初めて南アフリカ共和国大統領に就任したネルソン・マンデラのことである。このプレートは、2002年には南アフリカ共和国で行われたトライネイションズの一戦にかけられ、その試合を制したスプリングボクスが手にした。さらに3年後の2005年、今度はトライネイションズの前に2試合がプレートをかけて開催され、1勝1敗だったためスプリングボクスが防衛した。2006年以降は、トライネイションズ/ザ・ラグビーチャンピオンシップにおける両国の対戦で勝ち越したほうのチームにプレートが授与され、その年の対戦で決着がつかなかった場合は前年のプレート保持者が引き続き保有することになっている。