ニュージーランド対南アフリカ共和国のラグビーテストマッチ
この項目では、ラグビーユニオンにおいてニュージーランド代表(オールブラックス)と南アフリカ共和国代表(スプリングボクス)が対戦したテストマッチについて述べる。この両チームはこれまでに99試合対戦しており、結果はニュージーランドの59勝36敗4分である。
両チームの対戦は1921年に、スプリングボクスがニュージーランドへ遠征したことで初めて行われた。この遠征で両チームは3試合対戦し、結果は1勝1敗1分の五分であった。その7年後の1928年、今度はオールブラックスが南アフリカ連邦へ遠征したが、4試合で2勝2敗とまたも決着はつかなかった。1937年にスプリングボクスがオーストララシア遠征を行った際に両チームの3度目の対戦が3試合組まれ、スプリングボクスが敵地で2勝1敗と勝ち越した。1949年にはオールブラックスの南アフリカ連邦遠征が21年ぶりに実施され、スプリングボクスが4戦全勝と一蹴した。オールブラックスがスプリングボクスに初めて勝ち越したのは1956年、自国に相手を迎えての4試合を3勝1敗で終えたときだった。
1948年以降、南アフリカ連邦/共和国内で国民党政権による人種隔離政策(アパルトヘイト)が推進されるようになり、これがラグビーにおけるオールブラックスとの対戦にも影響を及ぼす。オールブラックスは南アフリカ連邦/共和国への遠征の際、先住民族マオリの選手をチームから外していた。これに対してニュージーランド国内で批判が出るようになった。抗議運動は拡大していき、1973年には南アフリカ共和国への遠征が中止された。1976年には遠征が敢行されるが、これに反対していたアフリカ諸国が同年のモントリオールオリンピック出場をボイコットすることになった。
1981年にはスプリングボクスがニュージーランドへ遠征するが、ニュージーランド国民による抗議デモが警官隊との衝突に発展したり、両国の対戦中にスタジアム上空からセスナ機が障害物を投げ入れたり、と混乱が広がった。4年後の1985年にはオールブラックスによる南アフリカ共和国遠征が再び中止となったが、選手の大半が翌1986年に、協会に無断でニュージーランド・キャバリアーズというチームを結成して南アフリカ共和国で試合を行い、批判を浴びた。結局、オールブラックスとスプリングボクスとのテストマッチは、1981年以降はアパルトヘイトが撤廃されるまで行われなかった。
1991年にアパルトヘイトが撤廃されると、翌1992年には11年ぶりの両国によるテストマッチが行われた。1995年には南アフリカ共和国で第3回ワールドカップが開催され、大会初出場のスプリングボクスがオールブラックスを決勝戦で下して優勝した。2009年には、この大会におけるスプリングボクスの活躍を描いた映画『インビクタス/負けざる者たち』が公開されている。
1996年からは、両国にオーストラリア代表(ワラビーズ)を加えた南半球3か国による対抗戦 "トライネイションズ" が発足した。これには後にアルゼンチン代表(ロス・プーマス)も参加し、現在では "ザ・ラグビーチャンピオンシップ" という大会になった。両国の対戦も、4年に一度のワールドカップでの顔合わせを除けば、1997年以降は毎年トライネイションズ/ザ・ラグビーチャンピオンシップ内で行われている。また、2004年8月の対戦では勝利したスプリングボクスに、南アフリカ共和国史上初の全人種参加総選挙実施10周年を記念して "フリーダム・カップ" が贈られた。2年後の2006年からはカップが常設化された。トライネイションズ/ザ・ラグビーチャンピオンシップにおける両国の対戦で勝ち越したほうのチームにカップが授与され、その年の対戦で決着がつかなかった場合は前年のカップ保持者が引き続き保有することになっている。
対戦結果
[編集]外部リンク
[編集]- ESPN Scrum
- RugbyData.com
- The 1981 Springbok rugby tour:ニュージーランド文化遺産省の "New Zealand history online" より、1981年のスプリングボクスのニュージーランド遠征に関するページ