安芸乃島勝巳
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基礎情報 | ||||
四股名 | 安芸乃島 勝巳 | |||
本名 |
宮本 勝巳 山中 勝巳(旧姓) | |||
愛称 | アキちゃん | |||
生年月日 | 1967年3月16日(57歳) | |||
出身 |
広島県豊田郡安芸津町 (現在の東広島市) | |||
身長 | 175cm | |||
体重 | 158kg | |||
BMI | 51.59 | |||
所属部屋 | 藤島部屋→二子山部屋 | |||
得意技 | 左四つ、寄り | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 東関脇 | |||
生涯戦歴 | 822勝756敗78休(128場所) | |||
幕内戦歴 | 647勝640敗78休(91場所) | |||
優勝 |
十両優勝1回 幕下優勝1回 序二段優勝1回 | |||
賞 |
殊勲賞7回 敢闘賞8回 技能賞4回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1982年3月場所[1] | |||
入幕 | 1988年3月場所[1] | |||
引退 | 2003年5月場所[1] | |||
引退後 | 高田川部屋師匠 | |||
趣味 | 日本刀鑑賞 | |||
備考 | ||||
金星16個(大乃国2個、千代の富士4個、北勝海4個、旭富士4個、曙1個、武蔵丸1個) | ||||
2019年2月7日現在 |
安芸乃島 勝巳(あきのしま かつみ、1967年3月16日 - )は、広島県豊田郡安芸津町(現在の東広島市)出身で二子山部屋(入門時は藤島部屋)所属の元大相撲力士。本名は宮本 勝巳(みやもと かつみ)。旧姓は山中(やまなか)。現役時代の体格は身長175cm、体重158kg。得意手は左四つ、寄り。最高位は東関脇。愛称は「アキちゃん」、趣味は日本刀鑑賞、血液型はA型、魚座。現在は年寄・高田川勝巳[1]。夫人とは1994年に結婚。2児の父である。ちんちんぶらぶらソーセージ。
来歴
中学進学までは柔道を行い、極めて厳格な父や叔父から激しい稽古を課せられていたが、力士になろうと志して相撲を始め全国大会にも出場した。偶然にも広島に巡業に訪れていた大関・貴ノ花(12代藤島→11代二子山)に勧誘されたことがきっかけで卒業後に藤島部屋に入門した。元々貴ノ花のファンであった山中は「身体が大きいな。相撲をやらないか?」と声を掛けられると「はい」と即答。柔道を続けるものだと予想していた母は泣き、父からは「死んで来い」と送り出され、山中は「死んで来ます」と返したという。入門後は毎日100番以上[2]、最大200番という猛稽古で自身を鍛え上げ、入門時128キロあった体重は2ヶ月で約30キロ落ちた。 厳格な家庭で育った山中も「本当に死ぬかもしれない」と追い詰められていたというが、一方で引退して藤島を襲名したばかりでありまだ30代前半であった貴ノ花が胸を出すと最後には貴ノ花の方が降参するなど、稽古場では驚異のスタミナを示していた。
1987年(昭和62年)9月場所に十両昇進して藤島部屋初の関取となり[1]、1988年(昭和63年)3月場所には弱冠20歳にして新入幕を果たした。入幕が決定した際には藤島と共に帰郷して父に報告したが、父は藤島の前で帰ってきた安芸乃島に拳骨を入れ、「もっと鍛えてやって下さい」と藤島に頭を下げた。入幕後は上位キラーとして知られる様になり、金星獲得は歴代最多の16個を数えるとともに対戦した横綱全てから金星を獲得した[2]。初金星は1988年9月場所の大乃国からで、固太りで重心が低く腕力も強いため、密着するような左四つになると力を発揮した。出し投げや両上手から挟み付ける取り口も力強かった[1]。横綱の中では特に旭富士と相性が良く、対戦成績で通算12勝8敗(不戦勝1を含む)と勝ち越した。反面、攻めが遅い部分があったため、速攻相撲が得意の相手に取りこぼすこともあり、特に琴錦を大の苦手とし、幕内対戦成績は安芸乃島の9勝39敗である。最後の対戦となった2000年(平成12年)3月場所では安芸乃島が勝ったが、その相撲で琴錦は右肘の故障を悪化させ翌日から休場、引退の原因となった。魁皇とも相性が悪く安芸乃島の6勝25敗だった。
1990年(平成2年)〜1992年(平成4年)の頃には、横綱昇進がかかっていた元大関小錦にめっぽう強く「小錦キラー」と呼ばれ、小錦の最大の壁として横綱昇進を阻止した(対戦成績でも25勝10敗と大きく勝ち越している)。また1991年(平成3年)7月場所8日目には、進退を懸けていた横綱大乃国を一方的に押し出して下したが、4勝4敗と不調だった大乃国はこの一番を最後に現役引退を表明、結果的に引導を渡す格好となった。
小錦には強かったが、曙とは相性が悪く8勝30敗と苦手にしていた。93年くらいから98年5月場所まで17連敗だった時もある。
1988年7月場所は帰り入幕の場所で11勝し初の三賞敢闘賞。9月場所は1横綱3大関に勝ち初金星と殊勲賞。1989年7月場所は2横綱1大関に勝ち2回目のダブル金星。9月場所も2横綱2大関に勝ち3回目のダブル金星。1990年3月場所は2横綱1大関に勝ちダブル金星と殊勲賞。5月場所は1横綱2大関に勝ち殊勲賞と技能賞。11月場所は2横綱1大関に勝ち4回目のダブル金星で殊勲賞。1991年5月場所は旭富士に勝ち、高見山の記録を更新する13個目の金星と敢闘賞。1992年3月場所は初日から8連勝で12勝し殊勲賞と敢闘賞。1993年7月場所は曙に勝ち15個目の金星と12回目の三賞。1995年1月場所は初めて三役で11勝し敢闘賞。3月場所も初めて関脇で11勝し敢闘賞など活躍。5月場所は初の大関取りに挑むも負け越して失敗。
1994年(平成6年)9月場所から1995年(平成7年)3月場所までの4場所間は、10勝5敗を一度はさんで11勝4敗3度の計43勝17敗という好成績を残したものの、大関昇進はならなかった。追い込まれると強引な首投げに出るという悪い癖があり、特に琴錦戦でこの形で幕切れをするシーンが多く見受けられた。これで逆転するケースは少なく、彼の場合は投了の形と見られても仕方ないと言われるものがある。
1995年7月場所で大怪我し途中休場、他にも怪我の影響により3年近く低迷。
1998年5月場所、ライバルの琴錦と共に復活し10勝で15回目の三賞。1999年1月場所と3月場所で2場所連続11勝し5月場所で再度大関取りに挑戦するも、またも負け越して失敗。しかし7月場所は武蔵丸に勝ち6年ぶり16個目の金星、9月場所でも11勝し優勝争いを展開、ライバル琴錦の記録を更新する19回目の三賞。1999年11月場所は武蔵丸に2000年9月場所は曙に勝ったが、三役に復帰していたため金星にならなかった。
三役陥落後も常に幕内中位で相撲を取り続けていたが、2003年(平成15年)5月場所14日目の取組に敗れ6勝8敗と負け越し、十両陥落が決定的になり現役を引退した。安芸乃島は、昭和時代に幕内を経験した最後の関取力士となった。
同様に「1度は優勝したい」と公言して、1992年(平成4年)3月場所は14日目を終えて12勝2敗と優勝争いをしたが、千秋楽には琴錦との割が組まれたが敗れて優勝を逃した。1999年9月場所も14日目を終えて11勝3敗と優勝争いを展開したが、千秋楽で武双山に負けて武蔵丸との優勝決定戦進出ならず又も逃した。三賞19回、金星16個の各最多記録を保持しており、現役時代には「これだけあったら誰か賜杯1ツと取り替えてよ」とこぼした事もある。引退後、三賞受賞と金星の多さについて「大関なれず、平幕在位が多かったということ」と本人は恥に思っている[3]。最後の16個目の金星は武蔵丸からであるが、その金星は武蔵丸が新横綱の1999年(平成11年)7月場所だった。なお、朝青龍が横綱昇進した2003年(平成15年)3月場所以降は幕内下位に低迷し、結局横綱になった朝青龍との対戦は実現しなかった。引退時には大関になれなかった悔しさをにじませており「後腕が5cm長かったら、上がってたと思う」と言い残していた。[4]
現役引退後は年寄・藤島を襲名(2003年3月に自身が2002年9月から所有していた山響の名跡と貴乃花が所有していた藤島の名跡を交換済み)するとともに二子山部屋(後に貴乃花部屋)の部屋付親方として後進の指導に当たった。しかし自身の引退相撲への出席を貴乃花が拒否するなど次第に暗雲が漂い始める。後に年寄名跡を藤島から千田川に変更したが、この頃から現役時代は弟弟子だった貴乃花親方と指導方針や部屋運営の考えの違いからの確執が表面化し、2004年(平成16年)9月27日付で先代高田川が1998年に高砂一門より破門されて以来、どの一門にも属さない無派閥であった高田川部屋に移籍した。貴乃花親方から移籍許可書類への押印も拒否されたため、破門をも申し入れる事態に発展。貴乃花により部屋への出勤停止に遭っていたばかりか出入り禁止にもされて話し合いの機会を失っていた千田川は、2004年9月場所11日目(9月22日)に審判部室で必要書類を出して貴乃花に対して所属部屋変更届の承認を求める事態を起こした。[5]このような確執もあって結果的には師匠の押印を特別に免除[注釈 1]され、保証人として病床に臥していた11代二子山親方に判を押してもらい事無きを得たが、これにより貴乃花部屋とは完全に訣別した。
高田川部屋に移籍してからは積極的に若手力士に稽古を付けるとともに、2009年(平成21年)8月5日には高田川と年寄名跡を交換する形で高田川部屋を継承した[6]。2009年9月5日には、東京都江東区清澄に部屋を新築・移転した。新築した部屋には、通常よりも多い5本の鉄砲柱を立て、「1日に1000回の四股と鉄砲」を目標として弟子に課し、「相手を敬う古風な力士を育てたい」と抱負を述べた。
また、2011年(平成23年)1月17日には部屋継承時から希望していた二所ノ関一門への加入が認められた[7]。前記の抱負からして、訣別時からの貴乃花グループ(現・貴乃花一門)への対抗意識からの二所ノ関一門加入と思われる。同年5月技量審査場所からは勝負審判に就任。2017年1月25日には、協会の臨時理事会で横綱昇進が決定した稀勢の里寛への昇進伝達の使者として、春日野理事(元関脇栃乃和歌)と共に東京都内のホテルに派遣され、昇進を伝えた[8]。
2017年11月のムックの記事では、50歳を過ぎてもなお自ら廻しを占めて稽古場に立っていると伝えられている。大卒や外国人が部屋にいないのは「どこから見ても強くなる者を引っ張って来きて育てても面白くない」という考えからであり、その一方で「ここで頑張りたいなら考えます」と受け入れを拒絶しているのではないと主張している。稽古場では相撲に詳しくない見学者が目を背けたくなるような激しい稽古が行われ、部屋自体「監獄」と揶揄される厳しさで知られる一方、考えずに体の感覚だけで相撲を取った自分のようにはなるなという思いから、相撲に迷いが見られる弟子がいたら稽古を止めて部屋の衆同士で対等に意見を言って親方に弟子が分からないことを質問するという習慣を取り入れている。高田川はこれを「どこにヒントが転がっているか分からない」「俺でも気がつかないところもある。だから、酔っぱらいの話でも聞きなさいと言ってあるんです」と説明している[9]。
部屋継承後は先代からの弟子である竜電、直弟子である輝、白鷹山の3人が関取昇進を果たしている。
2018年3月28日の職務分掌では役員待遇委員に昇格し、審判部副部長に就任した[10]。
2020年1月30日の役員候補選に出馬した。定員を超過しなかったため2008年以来6期12年ぶりに無投票となり、理事候補10人、高田川を含めた副理事候補3人が全員当選。高田川は3月場所後に正式に副理事に就任する形となった[11]。
エピソード
- 若い頃から「負けた力士に失礼だ」という理由で、テレビの殊勲インタビューなどでは最低限の言葉しか発せず、現役時代は批判の対象となるほどに寡黙な印象を与えていた。しかし実際の性格は明朗快活で、部屋の力士からはしばしば実態とイメージの乖離が言われていた。引退後はテレビ解説者として饒舌な面をファンにも披露しているが、「命懸けで」「死ぬ気で」という語を多用して土俵態度を戒めるその語り口はNHK大相撲中継の解説者の中でも随一の辛口として知られる。2011年の大相撲八百長問題では、「命をかけてきた者からいえば信じられない。八百長に関わった奴は腹を切って死んでもらいたい」と切り捨てた[12]。
- 現役時代はどれほどの取り組みであってもその内容を覚えることはなく、取組が終われば翌日の一番に向けてすぐに切り替え、分析も猛稽古で培った感覚だけで勝負していた。しかし部屋持ち親方としての立場に変わった現在、当時の考え方を後悔しているという。「感覚でやるのと、理論的に分かって稽古するのでは違います」と、今は豊富な稽古量に現役時代に欠けていた論理性を加えた指導を心がけている。[3]
- 全盛期には三賞常連で多数の金星を取っていたことから「そろそろ大関に」という声も上がっていた。しかし、下位力士への取りこぼしが多くことごとく大関取りに失敗し、「強きを挫き弱きを助ける」と皮肉られた。
- 後に本人の告白によると、場所中に死にそうになったことがあるらしい。1995年5月場所、剣晃戦で右手の小指に裂傷を負い、治療後、抗生物質を飲んだところ、薬物アレルギーが出て病院に救急車で運ばれた、というもの(読売「大相撲」1999年3月号)。
- 一部報道によると、現役時代は貴乃花に対するいじめを行ったとされており、貴乃花自身も過去に「自分たち兄弟が稽古をできないようにしてきた」と口にしている。そのようなことからも、11代二子山から譲渡される約束であった山響株の取得を「俺が欲しい」と貴乃花に妨害され、仕方が無く11代二子山が別に所有していた藤島を借りるが、11代二子山が入院すると「(不在の)父との約束はなしにしてほしい」と、藤島の譲渡価格を吊り上げて、取得を妨害した。このようなことから安芸ノ島は一門離脱を決意したという[13]。
- 1996年9月場所11日目の曙戦で五輪砕きの体勢となったが当時の規定では技として規定されておらず行司も「勝負あり」を宣告しなかったためやむなく土俵を割って事なきを得た(寄り倒しで安芸乃島の負け)[14]。
- 2014年3月13日には東広島市が同市安芸津町出身者として安芸乃島を新たな名誉市民に制定した。制定した理由として、現役時代の実績や地元「安芸」の名を広めたことやスポーツ文化の高揚などが伝えられている[15][注釈 2]。
- 酒は全く飲めず、現役時代はウイスキーボンボン1個で眠りこけてしまう下戸であった[16]。
主な成績
- 通算成績:822勝756敗78休 勝率.521
- 幕内成績:647勝640敗78休 勝率.503
- 通算出場回数:1575回
- 現役在位:128場所
- 幕内出場回数:1283回
- 幕内在位:91場所
- 三役在位:27場所(関脇12場所、小結15場所)
- 金星:16個(大乃国2個、千代の富士4個、北勝海4個、旭富士4個、曙1個、武蔵丸1個)(史上1位)[1]
- 対横綱戦勝利:25勝(うち3不戦勝)
- 三賞:19回(史上1位)[1]
- 殊勲賞:7回(1988年9月場所、1990年3月場所、1990年5月場所、1990年11月場所、1992年3月場所、1993年7月場所、1999年3月場所)
- 敢闘賞:8回(1988年7月場所、1989年3月場所、1990年7月場所、1991年5月場所、1992年3月場所、1995年1月場所、1995年3月場所、1999年9月場所)
- 技能賞:4回(1990年5月場所、1998年5月場所、1999年1月場所、1999年9月場所)
- 各段優勝
- 十両優勝:1回(1988年1月場所)
- 幕下優勝:1回(1987年5月場所)
- 序二段優勝:1回(1982年7月場所)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1982年 (昭和57年) |
x | (前相撲) | 西序ノ口17枚目 6–1 |
東序二段82枚目 優勝 7–0 |
西三段目73枚目 3–4 |
西序二段筆頭 5–2 |
1983年 (昭和58年) |
東三段目55枚目 4–3 |
東三段目43枚目 2–5 |
東三段目72枚目 3–4 |
東三段目85枚目 6–1 |
東三段目27枚目 5–2 |
東三段目筆頭 1–6 |
1984年 (昭和59年) |
東三段目32枚目 4–3 |
東三段目20枚目 3–4 |
西三段目36枚目 5–2 |
西三段目4枚目 1–6 |
東三段目39枚目 4–3 |
西三段目23枚目 3–4 |
1985年 (昭和60年) |
西三段目40枚目 6–1 |
東幕下56枚目 5–2 |
東幕下34枚目 5–2 |
西幕下21枚目 5–2 |
西幕下11枚目 3–4 |
東幕下20枚目 3–4 |
1986年 (昭和61年) |
西幕下29枚目 5–2 |
西幕下15枚目 2–5 |
東幕下33枚目 6–1 |
東幕下15枚目 3–4 |
西幕下25枚目 6–1 |
西幕下7枚目 2–5 |
1987年 (昭和62年) |
東幕下20枚目 5–2 |
東幕下9枚目 3–4 |
西幕下14枚目 優勝 7–0 |
東十両12枚目 8–7 |
西十両10枚目 8–7 |
西十両6枚目 9–6 |
1988年 (昭和63年) |
東十両4枚目 優勝 12–3 |
東前頭12枚目 7–8 |
東十両筆頭 10–5 |
西前頭10枚目 11–4 敢 |
西前頭2枚目 8–7 殊★ |
西小結 7–8 |
1989年 (平成元年) |
東前頭筆頭 7–8 ★ |
西前頭筆頭 8–7 敢 |
西関脇 6–9 |
東前頭筆頭 7–8 ★★ |
東前頭2枚目 7–8 ★★ |
西前頭2枚目 5–10 |
1990年 (平成2年) |
西前頭6枚目 8–7 |
西前頭2枚目 8–7 殊★★ |
東前頭筆頭 10–5 殊技★ |
東関脇 9–6 敢 |
東関脇 6–9 |
東前頭筆頭 10–5 殊★★ |
1991年 (平成3年) |
東小結 5–10 |
東前頭3枚目 8–7 ★ |
東前頭筆頭 9–6 敢★ |
東小結 8–7 |
東小結 9–6 |
西関脇 4–11 |
1992年 (平成4年) |
東前頭5枚目 8–7 ★ |
西前頭2枚目 12–3 殊敢 |
東小結 9–6 |
東関脇 10–5 |
東関脇 8–7 |
東張出関脇 7–8 |
1993年 (平成5年) |
東前頭筆頭 9–6 |
西関脇 0–2–13[注釈 3] |
東前頭10枚目 休場[注釈 4] 0–0–15 |
東前頭10枚目 9–6 殊★ |
西前頭2枚目 9–6 |
西小結 6–9 |
1994年 (平成6年) |
東前頭2枚目 4–11 |
東前頭10枚目 9–6 |
東前頭3枚目 3–12 |
東前頭14枚目 8–7 |
西前頭13枚目 11–4 |
西前頭4枚目 10–5 |
1995年 (平成7年) |
東小結 11–4 敢 |
西関脇 11–4 敢 |
東関脇 7–8 |
東小結 1–2–12[注釈 5] |
西前頭7枚目 休場[注釈 4] 0–0–15 |
西前頭7枚目 8–7 |
1996年 (平成8年) |
西前頭4枚目 9–6 |
西小結 6–9 |
東前頭2枚目 5–10 |
西前頭5枚目 10–5 |
西前頭筆頭 7–8 |
東前頭2枚目 9–6 |
1997年 (平成9年) |
西小結 6–9 |
東前頭2枚目 7–8 |
西前頭2枚目 7–8 |
東前頭3枚目 6–9 |
東前頭5枚目 8–7 |
西小結 7–8 |
1998年 (平成10年) |
西前頭筆頭 6–9 |
西前頭2枚目 9–6 |
西小結 10–5 技 |
東関脇 3–4–8[注釈 6] |
西前頭5枚目 休場[注釈 4] 0–0–15 |
西前頭5枚目 8–7 |
1999年 (平成11年) |
東前頭3枚目 11–4 技 |
東小結2 11–4 殊 |
東関脇 6–9 |
西前頭筆頭 6–9 ★ |
西前頭3枚目 11–4 敢技 |
西小結 3–12 |
2000年 (平成12年) |
西前頭4枚目 7–8 |
東前頭5枚目 5–10 |
西前頭7枚目 10–5 |
東前頭筆頭 8–7 |
東小結 7–8 |
東前頭筆頭 5–10 |
2001年 (平成13年) |
東前頭4枚目 7–8 |
東前頭5枚目 5–10 |
西前頭9枚目 8–7 |
東前頭6枚目 4–11 |
西前頭11枚目 9–6 |
西前頭6枚目 8–7 |
2002年 (平成14年) |
西前頭筆頭 6–9 |
東前頭4枚目 7–8 |
東前頭5枚目 3–12 |
西前頭11枚目 6–9 |
東前頭13枚目 7–8 |
東前頭14枚目 9–6[注釈 7] |
2003年 (平成15年) |
西前頭9枚目 6–9 |
西前頭12枚目 6–9 |
西前頭15枚目 引退 6–9–0[注釈 8] |
x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
- 山中 勝巳(やまなか かつみ)1982年3月場所 - 1986年11月場所
- 安芸ノ島 勝巳(あきのしま -)1987年1月場所 - 1994年5月場所
- 安芸乃島 勝巴(あきのしま かつみ)1994年7月場所
- 安芸乃島 勝巳(- かつみ)1994年9月場所 - 2003年5月場所
年寄変遷
- 藤島 勝巳(ふじしま かつみ)2003年5月 - 2004年5月
- 千田川 虎央(せんだがわ とらお)2004年5月 - 2009年7月
- 高田川 勝巳(たかだがわ かつみ)2009年8月 -
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p25
- ^ a b 『大相撲ジャーナル』2017年6月号110頁
- ^ a b 大相撲名場面 1999年名古屋場所3日目 新横綱・武蔵丸破った安芸乃島 毎日新聞 2017年2月7日 東京朝刊
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』25ページ
- ^ 貴親方、安芸と審判部室で大ゲンカ nikkansports.com 2004年9月23日
- ^ 元安芸乃島が高田川部屋継承=大相撲 時事通信 2009年8月5日
- ^ 大相撲:高田川部屋加入を決定…二所ノ関一門に 毎日新聞 2011年1月17日閲覧
- ^ “横綱稀勢の里が誕生、日本出身力士19年ぶりの昇進”. 日刊スポーツ. (2017年1月25日)
- ^ 大空出版『相撲ファン』vol.06 p12-17
- ^ “花形の審判部一新、元益荒雄の阿武松親方が部長に”. 日刊スポーツ. (2018年3月28日) 2018年3月30日閲覧。
- ^ 12年ぶり無投票で理事決定 相撲協会の役員候補選 日刊スポーツ 2020年1月30日12時18分(2020年1月30日閲覧)
- ^ 2度頭下げた魁皇、会見断った白鵬 本場所中止受け 2011年2月7日 asahi.com 2010年2月7日閲覧
- ^ 週刊FLASH 2018年4月17日号
- ^ 『大相撲』2004年8月号
- ^ 産経新聞 2014年3月14日
- ^ 力士の酒豪伝説 日本酒を36L飲んで酩酊しなかった雷電 NEWSポストセブン(週刊ポスト2017年12月22日号) 2017.12.16 16:00 (小学館、2019年3月20日閲覧)
関連項目
外部リンク
- 安芸乃島 勝巳 - 日本相撲協会
- 高田川部屋相撲公式ホームページ