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== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
中学時代には沖縄選抜として九州大会で優勝<ref name="shuube">週刊ベースボール2012年4月2日号 P60</ref>。[[福岡県]]の[[祐誠高等学校|久留米工大付属高]]に野球留学<ref name="shuube" />。[[大和銀行]]では[[1995年]]に[[日本生命硬式野球部|日本生命]]の補強選手として[[都市対抗野球大会]]に出場<ref name="shuube" />。
中学時代には沖縄選抜として九州大会で優勝<ref name="shuube">週刊ベースボール2012年4月2日号 P60</ref>。[[福岡県]]の[[祐誠高等学校|久留米工大付属高]]に野球留学<ref name="shuube" />。[[大和銀行]]では[[1995年]](平成7年)に[[日本生命硬式野球部|日本生命]]の補強選手として[[都市対抗野球大会]]に出場<ref name="shuube" />。


[[1995年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1995年度ドラフト会議]]で[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]から4位指名を受けて入団<ref name="shuube" />。1年目から中継ぎを中心に一軍で活躍。[[1997年]]にはルーキーストッパーの[[岡本克道]]に繋ぐセットアッパーとして、8勝3セーブを挙げ。[[1998年]]には中盤以降から最後まで先発ローテーションに加わり6勝を記録(先発成績は4勝5敗)。[[1999年]]には[[工藤公康]]に次ぐ左投手の先発2番手として期待され、開幕からローテーションに入ったものの不調で二軍落ち、終盤に復調し[[1999年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第5戦に先発登板した<ref name="shuube" />。同年オフには、[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]で巨人へ移籍した工藤の自主トレにも参加して鍛え直すなど、ポスト工藤の一番手として期待された。
[[1995年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1995年度ドラフト会議]]で[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]から4位指名を受けて入団<ref name="shuube" />。1年目から中継ぎを中心に一軍で活躍。[[1997年]](平成9年)にはルーキーストッパーの[[岡本克道]]に繋ぐセットアッパーとして、8勝3セーブを挙げ。[[1998年]](平成10年)には中盤以降から最後まで先発ローテーションに加わり6勝を記録(先発成績は4勝5敗)。[[1999年]](平成11年)には[[工藤公康]]に次ぐ左投手の先発2番手として期待され、開幕からローテーションに入ったものの不調で二軍落ち、終盤に復調し[[1999年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第5戦に先発登板した<ref name="shuube" />。同年オフには、[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]で巨人へ移籍した工藤の自主トレにも参加して鍛え直すなど、ポスト工藤の一番手として期待された。


{{by|2000年}}、開幕ローテーションに入るものの、3試合の登板でことごとく打ち込まれ、以降一軍での先発登板がなかった。この年チームは[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]2連覇を達成するがその輪には入れず、[[2000年の日本シリーズ|日本シリーズ]]の左投手攻略用打撃投手要員で一軍に呼ばれるという屈辱も味わった。
{{by|2000年}}(平成12年)、開幕ローテーションに入るものの、3試合の登板でことごとく打ち込まれ、以降一軍での先発登板がなかった。この年チームは[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]2連覇を達成するがその輪には入れず、[[2000年の日本シリーズ|日本シリーズ]]の左投手攻略用打撃投手要員で一軍に呼ばれるという屈辱も味わった。


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{{by|2003年}}(平成15年)、[[松田匡司]]との交換[[トレード]]で[[阪神タイガース]]へ移籍。[[読売ジャイアンツ]]へ移籍していた[[タフィ・ローズ]]とダイエー時代相性が良いことなどが期待されたが、制球難が顔を出すなどして、さらに[[ジェフ・ウィリアムス]]や[[吉野誠]]ら分厚い阪神中継ぎ左腕投手陣を乗り越えることはできず、登板機会は与えられなかった。


速球派とも軟投派とも言えず、これといったセールスポイントがないことも問題となっており、{{by|2004年}}キャンプではそれまでのオーバースローからサイドスローにフォームを変更<ref name="shuube" />。試行錯誤が続いたものの、一軍では全く結果を出せず、{{by|2005年}}10月5日に[[戦力外通告]]を受ける<ref name="shuube" />。
速球派とも軟投派とも言えず、これといったセールスポイントがないことも問題となっており、{{by|2004年}}(平成16年)キャンプではそれまでのオーバースローからサイドスローにフォームを変更<ref name="shuube" />。試行錯誤が続いたものの、一軍では全く結果を出せず、{{by|2005年}}(平成17年)10月5日に[[戦力外通告]]を受ける<ref name="shuube" />。


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2005年シーズンオフに受けた[[トライアウト|合同トライアウト]]を経て、{{by|2006年}}(平成18年)より、当時左腕投手不足が深刻だった[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]に入団<ref name="shuube2"/>。戦力外通告から横浜入団までの経緯は、2005年12月28日に[[TBSテレビ|TBS]]で放送された『[[プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達]]』の中で紹介された。


2006年は21試合に登板したものの今ひとつ安定せず、年間を通じて一軍に定着することができなかった。
2006年は21試合に登板したものの今ひとつ安定せず、年間を通じて一軍に定着することができなかった。


{{by|2007年}}は再び工藤と同僚となったが、左腕の中継投手が豊富になったチーム事情から一軍に昇格できず、ファーム([[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|湘南シーレックス]])での登板でも失点を重ねるなど結果を残すことができなかった。10月に戦力外通告を受け、現役引退を表明。翌年から横浜の[[打撃投手]]を務め、2011年シーズンオフに退団<ref name="shuube2"/>。
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退団後は地元沖縄に戻り、会社員として株式会社沖縄ダイケンに勤務していた<ref name="shuube2"/>他、2012年・2013年には[[沖縄セルラースタジアム那覇]]での試合で[[RBCiラジオ エキサイトナイター]]の解説を務めた。
退団後は地元沖縄に戻り、会社員として株式会社沖縄ダイケンに勤務していた<ref name="shuube2"/>他、2012年(平成24年)・2013年(平成25年)には[[沖縄セルラースタジアム那覇]]での試合で[[RBCiラジオ エキサイトナイター]]の解説を務めた。


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==詳細情報==
==詳細情報==

2022年1月14日 (金) 08:36時点における版

佐久本 昌広
福岡ソフトバンクホークス リハビリ担当投手コーチ #91
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 沖縄県中頭郡読谷村
生年月日 (1974-07-15) 1974年7月15日(50歳)
身長
体重
176 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1995年 ドラフト4位
初出場 1996年4月2日
最終出場 2006年6月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 福岡ソフトバンクホークス (2015 - )

佐久本 昌広(さくもと まさひろ、1974年7月15日[1] - )は、沖縄県出身の元プロ野球選手投手[1]プロ野球コーチ。現在は福岡ソフトバンクホークスリハビリ担当コーチ。

来歴・人物

中学時代には沖縄選抜として九州大会で優勝[2]福岡県久留米工大付属高に野球留学[2]大和銀行では1995年(平成7年)に日本生命の補強選手として都市対抗野球大会に出場[2]

1995年度ドラフト会議福岡ダイエーホークスから4位指名を受けて入団[2]。1年目から中継ぎを中心に一軍で活躍。1997年(平成9年)にはルーキーストッパーの岡本克道に繋ぐセットアッパーとして、8勝3セーブを挙げ。1998年(平成10年)には中盤以降から最後まで先発ローテーションに加わり6勝を記録(先発成績は4勝5敗)。1999年(平成11年)には工藤公康に次ぐ左投手の先発2番手として期待され、開幕からローテーションに入ったものの不調で二軍落ち、終盤に復調し日本シリーズ第5戦に先発登板した[2]。同年オフには、FAで巨人へ移籍した工藤の自主トレにも参加して鍛え直すなど、ポスト工藤の一番手として期待された。

2000年(平成12年)、開幕ローテーションに入るものの、3試合の登板でことごとく打ち込まれ、以降一軍での先発登板がなかった。この年チームはパ・リーグ2連覇を達成するがその輪には入れず、日本シリーズの左投手攻略用打撃投手要員で一軍に呼ばれるという屈辱も味わった。

2003年(平成15年)、松田匡司との交換トレード阪神タイガースへ移籍。読売ジャイアンツへ移籍していたタフィ・ローズとダイエー時代相性が良いことなどが期待されたが、制球難が顔を出すなどして、さらにジェフ・ウィリアムス吉野誠ら分厚い阪神中継ぎ左腕投手陣を乗り越えることはできず、登板機会は与えられなかった。

速球派とも軟投派とも言えず、これといったセールスポイントがないことも問題となっており、2004年(平成16年)キャンプではそれまでのオーバースローからサイドスローにフォームを変更[2]。試行錯誤が続いたものの、一軍では全く結果を出せず、2005年(平成17年)10月5日に戦力外通告を受ける[2]

2005年シーズンオフに受けた合同トライアウトを経て、2006年(平成18年)より、当時左腕投手不足が深刻だった横浜ベイスターズに入団[1]。戦力外通告から横浜入団までの経緯は、2005年12月28日にTBSで放送された『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』の中で紹介された。

2006年は21試合に登板したものの今ひとつ安定せず、年間を通じて一軍に定着することができなかった。

2007年(平成19年)は再び工藤と同僚となったが、左腕の中継投手が豊富になったチーム事情から一軍に昇格できず、ファーム(湘南シーレックス)での登板でも失点を重ねるなど結果を残すことができなかった。10月に戦力外通告を受け、現役引退を表明。翌年から横浜の打撃投手を務め、2011年(平成23年)シーズンオフに退団[1]

退団後は地元沖縄に戻り、会社員として株式会社沖縄ダイケンに勤務していた[1]他、2012年(平成24年)・2013年(平成25年)には沖縄セルラースタジアム那覇での試合でRBCiラジオ エキサイトナイターの解説を務めた。

2014年(平成26年)11月8日に工藤が監督を務める福岡ソフトバンクホークスの三軍投手コーチに就任することが発表された[3]。古巣に13年ぶりの復帰となる。2017年(平成29年)から二軍投手コーチを務め、2019年(令和元年)はファーム投手巡回コーチを担当する。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1996 ダイエー 24 0 0 0 0 1 3 0 -- .250 168 37.0 43 4 20 0 1 32 1 0 21 20 4.86 1.70
1997 49 0 0 0 0 8 5 3 -- .615 247 59.2 49 0 30 6 2 46 2 1 17 15 2.26 1.32
1998 33 12 0 0 0 6 6 1 -- .500 397 89.1 102 11 35 5 1 54 2 5 50 41 4.13 1.53
1999 13 11 0 0 0 3 6 0 -- .333 250 54.1 73 4 18 0 1 28 2 2 33 30 4.97 1.67
2000 3 3 0 0 0 0 2 0 -- .000 54 11.1 20 2 3 0 0 5 2 0 13 13 10.32 2.03
2001 23 3 0 0 0 1 1 0 -- .500 200 41.2 54 5 25 1 3 25 3 1 24 23 4.97 1.90
2002 7 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 54 11.0 16 3 5 1 2 8 1 0 6 6 4.91 1.91
2003 阪神 6 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 55 10.2 21 7 4 0 1 7 1 0 15 15 12.66 2.34
2004 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 11 2.2 2 0 1 0 0 3 0 0 0 0 0.00 1.13
2005 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 8 1.0 4 0 1 0 0 0 0 0 4 4 36.00 5.00
2006 横浜 21 0 0 0 0 0 1 0 0 .000 76 16.1 16 2 8 0 2 14 1 0 7 7 3.86 1.47
通算:11年 183 29 0 0 0 19 24 4 0 .442 1520 335.0 400 38 150 13 13 222 15 9 190 174 4.67 1.64

記録

背番号

  • 37 (1996年 - 2002年)
  • 47 (2003年 - 2005年)
  • 46 (2006年 - 2007年)
  • 94 (2008年 - 2011年)
  • 91 (2015年 - )

脚注

  1. ^ a b c d e 週刊ベースボール2012年4月2日号 P61
  2. ^ a b c d e f g 週刊ベースボール2012年4月2日号 P60
  3. ^ ソフトB来季コーチングスタッフを発表”. 日刊スポーツ (2014年11月8日). 2014年11月8日閲覧。

関連項目

外部リンク

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