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2009年9月26日 (土) 06:53時点における版
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種類 | 株式会社 (解散) |
---|---|
市場情報 | 東証1部: 8602 |
略称 | 山一 |
本社所在地 | 東京都中央区日本橋兜町12番1号 |
設立 |
1897年 (創業) 2005年 (解散) |
業種 | 証券、商品先物取引業 |
金融機関コード | 9522 |
事業内容 | 証券業 |
代表者 | 野澤正平 (代表取締役社長) |
主要子会社 |
山一信託銀行 山一情報システム 山一證券投資信託委託 山一投資顧問 |
特記事項:1997年11月時点 |
山一證券株式会社(やまいちしょうけん)は、かつて存在した日本の証券会社である。1897年に創業された。
芙蓉グループ(富士銀行、安田生命、丸紅など)と親密で、日本の四大証券会社(山一の他は野村證券、大和證券、日興證券)の一つであった。特に法人関連業務に強く「法人の山一」と言われ、多くの日本の大企業の幹事証券会社であった。
戦前には、日本最大の業績を持つ証券会社だった時期もあったが、1950年代から野村など他社に抜かれ、1965年の日銀特融以降は、四大証券の第4位となった。
1997年に自主廃業したが、法人としての山一證券株式会社は、2005年まで存続した。
破綻の原因とされるもの
ここでは主に、破綻へ至った原因とされているものについて触れる。
- 法人営業への注力
- もともとは、個人顧客を相手にした証券会社だったが、戦後から法人営業に注力し、大口の物件を取る方針をとっていた。不況時には、企業の投資枠縮小に遭って業績不振に繋がった。また、相手が法人であることから、運用利回り保証や損失補償を迫られ、運用上の足枷が大きかった。
- あるいは、一任勘定で発生した損失を引き取らせる事が困難で、それを山一側で引き受けざるを得ない状況に陥った。これが簿外債務となり、破綻の直接の原因となった。
- 日銀特融の経験
- 1964年から1965年の証券恐慌に際して、銀行出身者の日高を社長に迎え、リストラを行っていた。これが報道機関や顧客には山一の危機と映り、取り付け騒ぎを起こした。不安を解消するために日銀特融を受けて会社組織の再編を行ったが、その直後にいざなぎ景気が到来し、特融を早期に返済することが出来た。(経緯については「歴史」の大神一を参照)
- この経験が、あと少し頑張れば自力で再生できたという記憶を残した。バブル崩壊に際しても、しばらく持ちこたえれば日本景気が上向いて業績も回復し、簿外債務、含み損も消せるという期待に繋がり、損失を適正に処理することを躊躇させたdate2009年3月[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。
- 銀行出身者の排除
- 銀行出身者の経営陣がリストラを行った事が取り付け騒ぎ、そして特融を受けざるを得ない状況へ追い込まれた原因と見る向きから、社内には銀行出身者を快く思わない風潮が蔓延し、排除する動きに繋がった[要出典]。これは、山一が破綻に瀕した際に、銀行の積極的な支援を得られない要因ともなった。
- 法令違反
- 運用利回りの保証、損失補填、一任勘定については、1980年代末より批判が高まり、1991年に法律で禁じられた。しかし、表向きはこれらの行為が無くなっても、裏では一任勘定が継続され、含み損を抱え込んだ[要出典]。後にこれらは簿外債務として山一の子会社に移された。これらの債務は決算の度に飛ばしで隠蔽されており、粉飾決算を行っていたことにもなる。
- また、総会屋を中心とする相手に対する不正な利益供与についての捜査も行われ、証券業界がダーティーな印象を持たれた。粉飾決算の件も含めて違法行為を行ったとみなされたため、特融を受けての再生は認められず、自主廃業を選択せざるを得なかった。
- 一部社員・企画室・MOF担による専断
- 東京大学出身者を中心(滅びの遺伝子 山一證券興亡百年史: 鈴木 隆)とする一部の社員が、会社としての指揮命令系統やコーポレート・ガバナンスを無視して重大事項を専断していた[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。そのため、一般社員や取締役の一部の者ですら知らないところで膨大な簿外債務が生み出されていった。
- 企画室は山一の指導者を生み出していく、最も重みのある部門とされた。野村證券や大和証券では、企画室は大蔵省との交渉を担当し全社の経営計画を立案する。しかし山一ではそれだけに留まらず、社長や会長の秘書役を出し、社長と会長の動向を管理。そのうえ社の財政部門を握り、営業など他部門の予算措置まで牛耳り、絶大な権力を有していた。その理由は「40年危機で国に助けられ、国に足を向けて寝られないという雰囲気が社内にあった。そのため、そのパイプ役は重要視され、大蔵省とうまくやっていれば何とかなるという甘えさえ生まれた」ことによる。企画室長は社内事情を知り尽くし、大蔵への窓口として社内報告もする。自ずと社内の裏の部分を知り社長らとともにそれを隠す。山一に隠し事が出来るほど、企画室長は重用される仕組みであった。
歴史
以下、歴代社長の業績を中心に記述する。
小池国三
山一證券は、1897年4月15日に山梨県出身の創業者小池国三が東京株式取引所仲買人の免許を受け、1週間後兜町に小池国三商店を開店したことをもって創業としていた。[1]1907年には小池合資会社に改組した。小池合資は、1909年の国債下引受、1910年の江之島電気鉄道債元引受など、債券引受業務に証券会社として初めて進出した。[2]
国三は、開業20周年にあたる1917年4月15日をもって小池合資を解散することを発表した。
杉野喜精
小池合資の解散を受けて、その跡を引き継ぐ形で1917年杉野喜精を社長に山一合資会社が設立された。
1926年には山一證券株式会社への改組を行った。
太田収
1935年12月、杉野が東京株式取引所理事長に就任するため山一證券社長を辞任し、後任社長には太田収が選ばれた。
太田は1938年5月4日、自らが指揮した鐘淵紡績新株投機戦の失敗の責任を取って[3]山一證券社長を辞任した。
太田の後任として副社長だった平岡伝章が暫定的に社長に就任、さらに12月には専務だった木下茂が社長を引き継いだ。
小池厚之助
1943年9月、山一證券と、小池国三の小池銀行が改組した小池証券とが合併して新しい山一證券株式会社が発足した。社長には小池国三の次男で、小池証券の社長であった小池厚之助が就任した。
大神一
大神一は1921年に山一合資に入社し、1947年には副社長に就任していた。1954年、大神が社長に就任し、小池厚之助は会長となった。 1954年11月から1957年6月までの神武景気、1958年6月から1961年12月までの岩戸景気と景気の拡大が続いた。59年度から61年度までは実質経済成長率が毎年10パーセントを越える勢いだった。株式市場は右肩上がりの景気に沸き急速に拡大。55年から6年間に株式時価総額は1兆1000億円から6兆4300億円と5.8倍に膨れ上がり、株式上場会社も783社から1265社へと急増。61年には東京、大阪、名古屋の各証券取引所に第二市場が創設された。
山一の従業員は56年9月末に2434人だったのが62年9月末には9114人と4倍近くに増え、店舗数も55年に55店舗だったのが61年には109店舗と倍増。手数料収入も9倍となった。山一がこの時期最も注力したのが「顧客の大衆化」と「上場企業の主幹事確保」だった。
しかし1957年頃には野村證券が業界トップの座を占めるようになり[4]、山一は業界2位となって、その差は年々開いていった。
1961年には岩戸景気が終焉を告げ、株式相場が7月をピークに下げに転じた。インフレを懸念した日銀が61年7月、9月と公定歩合を引き上げ、景気は調整局面に入ったのである。さらに63年7月ケネディ米大統領がドル防衛策を打ち出し、61年7月18日に1829円とだったダウ平均は、63年末には1200円台まで落ち込んだ。この中で投信解約や手数料収入の低下により各証券会社の経営は悪化したが、とりわけ山一が窮地に追い込まれたのは、手持ちの株式比率が高かった為である。63年当時で純資産の3倍近い370億円もの有価証券を保有。二部市場の公開ラッシュ時に幹事会社を多数取ったことが裏目に出た。 更に経営陣の判断ミスが山一を苦境に追い込む。当時決定権を持っていた、会長の小池厚之助と社長の大神は経営の合理化を進めたが、株価見通しは強気だった。大神は62年6月、営業現場に「営業の積極的推進を望む」という書簡を出し、ハッパをかけた。61年4月の部店長会議では「今後、不動産関係は積極的にやる」と不動産投資に前向きな姿勢を見せ、62年にかけて山一は大量の不動産を取得。この不動産も含み損を抱えるようになった。時代の動きに山一は逆行したのである。
経常損失は1963年9月期で30億円、1964年9月期で54億円に上った。
64年8月1日から始まった大蔵省の定期検査の検査講評は次のような内容である。
- 会社の経営が必ずしも組織的、合理的に行われていない
- 財産構成が不健全な状況に移行しつつある
- 各職位の職責が明確でなく、責任の所在が曖昧である
- 未公開株を多数抱えているが、不十分な調査のまま取得されているものがある
- 業者としての限界を超え、企業育成の責任があるかのような思い込みが見られる
大蔵省は密かに大神の後任を探すよう、会長の小池に要請した。
1964年11月に大神は会長となり、日本興業銀行出身の日高輝が社長に就任した。
日高輝
1964年8月に大蔵省は検査の結果山一の危機を知ることとなった。山一はメインバンクの日本興業銀行と三菱銀行、富士銀行の共同管理下に置かれた。小池は自身と同じ山梨出身の元日本開発銀行総裁・小林中に後継者探しを要請し、日本興業銀行頭取の中山素平が中心となり、興銀同期入社で日産化学工業の社長をしていた日高輝を再建のため山一證券社長に送り込んだ。業績不振だった日産化学工業を立て直した手腕を買われたのだが、山一證券ではどうにもならなかった。
店舗と社員の大幅縮小というリストラ策、交際費や広告費などを削減するが、金利負担で月1億5000万円の赤字が続く。日高は65年2月(昭和40年)、興銀、三菱、富士の3行と他の18行に金利減免措置を訴えたが、一般行は「株主でもない銀行に減免措置をさせるとは話にならない」と拒み、その直後から山一経営難説が流れ始めた。
山一の経営状態はマスコミの知るところとなったが、大蔵省大臣官房財務調査官・加治木俊道(証券局担当)が読売、朝日、毎日、産経、日経、東京、共同通信のいわゆる「七社会」加盟各社とNHK、時事通信、日刊工業に「今報じられれば山一破綻に留まらず、社会不安に火をつける」と報道自粛を要請し、マスコミは報道を控えていた。ところがその間隙を縫って、七社会に加盟していない西日本新聞が独自取材に基づき1965年5月21日朝刊で1面トップ記事を載せた。NHKに続き、中央紙も同日付夕刊トップで一斉に追随し詳細を伝えた。翌22日は土曜日で半日営業であったが、山一各支店には朝から投信、株式、債券の払い戻しを求める客が殺到した。(取り付け騒ぎ)
28日午後11時30分、田中蔵相と日銀総裁の宇佐美洵が記者会見し、「1. 証券業界が必要とする資金は日本銀行が無制限・無担保で融資する。2. 山一證券については興銀、富士、三菱の3行を通じて融資を実施する。3. 今後、証券金融について抜本的見直しを行う。」ことを発表した。[5]
1965年10月13日、東京の麹町にあった「クラブ関東」で「日高輝君を励ます会」が開かれた。日高を担ぎ出した興銀頭取中山素平や富士製鉄社長永野重雄、住友化学社長の長谷川周重ら日本を代表する財界人約180人が出席。彼らは会場入り口の金屏風に次々と署名し、恐縮する日高に「頑張れよ」と声をかけた。署名者には日銀総裁だった宇佐美洵や東京電力社長・木川田一隆、八幡製鉄社長・稲山嘉寛、ソニー社長・井深大、信越化学工業社長・小坂徳三郎がいる。この3ヶ月前には蔵相の福田赳夫が緊急不況対策として、タブー視されていた国債発行に踏み切ることを表明し、この政策転換を切欠に景気は上昇を始める。57ヶ月間続くいざなぎ景気が到来したのだった。
低迷していた証券市場も、ようやく息を吹き返し、山一は日銀特融を僅か4年4ヶ月で返済して立ち直った。当初計算では18年7ヶ月かかる予定であった。日高は75年4月、日本経済新聞に掲載した「私の履歴書」に「日銀特融の完済を経て今日の山一證券へ転進出来たのは、もとより山一ピープルの精進、才覚によってのみ成ったものではなく、山一をバックアップする関係各方面の多くの理解者の援助、支援が集大成したものである。山一ピープルはグレーター山一への道を驀進している」と宣言した。
1972年、日高は社長を辞任して会長となり、後任として植谷久三が就任した。
植谷久三
植谷は40年危機という山一の混乱を切欠に運を引き寄せ、専務、副社長と昇進し、1972年5月 社長に就任した。ライバルだった役員、同期生は64年11月の株主総会で大神や小池らとともに辞任に追い込まれたり、傷ついて会社を去ったからである。彼はその騒ぎの時、常務大阪店長であり、渦中から遠かったことが出世につながった。
植谷は1935年に旧東京帝国大学経済学部を卒業し、主に投資信託部門や調査畑を歩いた。8年振りの生え抜き社長ということで、社内は「これで山一は一人立ちした」との熱気に包まれ、時代の風も植谷を後押しした。73年と79年に石油危機はあったが、75年の国債大量発行を機に公社債流通市場が確立し、新株を発行して海外で資金調達する企業が急増。「財テク」ブームも高まり、株価は植谷が退任した8ヵ月後の81年8月まで7年間上昇し続けた。
植谷の社長在任中に山一の預かり資産は10倍、純資産は6倍に増えている。会長の日高がほとんど経営に口を挟まないこともあり、植谷は次第に絶対的存在となった。日本証券業協会会長や経団連常任理事、金融制度調査会委員、税制調査会委員などの要職を務め、対外的にも重みを増していた。
しかし、他社も活発な市場で山一以上に業績を上げる中で、営業収入シェアは社長就任時の21%から辞任(会長就任)時には18.8%にまで落ち込んでいた。[6]
植谷は1980(昭和55)年11月10日の常務会で、横田良男を後任社長に指名。1980年12月、社長を譲り、自らは会長におさまった。1987年に相談役に退いた。
横田を選んだ理由を「ニューヨーク山一の副社長などを務めて海外経験が長かった。そのうえ、元電子計算部長でコンピューターにも詳しかった」と植谷は語っている。山一OBの中には「植谷の最も重い罪は横田を選んだことだ」と人事ミスを指摘する声が強い。
横田良男
1984年頃から、後に営業特金と呼ばれるものが存在していた。法人の資金を一任勘定という自由に売買して良いという了承の下に預かり、運用するもので、考案者であった永田元雄常務の名前を取って社内では「永田ファンド」と呼ばれていた。
横田は1985年9月に営業の軸足を法人へ移し、一任勘定・営業特金(「永田ファンド」)の獲得を最優先する決定を下した。
横田の次の社長の候補は2人いた。行平次雄と成田芳穂である。ここで、1986年に三菱重工転換社債事件が発生した。三菱重工業の依頼により、値上がり確実な転換社債を総会屋にバラまいたというものである。このバラまき先のリストを投資情報誌『暮らしと利殖』のオーナー生田盛が手に入れ、それを元に山一に揺さぶりを掛けた。困った山一は総会屋の大御所上森子鉄に仲裁を依頼する。上森が示した調停案は、行平を辞めさせるか、成田を社長にしろというものであった。植谷は悩んだ末、行平を取締役から外し、ロンドンにある現地法人・山一インターナショナルの会長とすることで手打ちとした。誰もが行平社長の目はなくなったと思ったが、逆に植谷と横田は「リストを漏らしたのは成田だ」と信じ込み、成田に一切の情報を流すな」と社内に厳命した。そのため、成田は筆頭副社長でありながら社内失業状態となった。[7]
さらに、事件が明るみに出た。植谷自身が酒に酔って経済誌『財界』のインタビューに応えてすべての経緯を話してしまい、それが1986年12月号の記事となったものが、特捜検事であった田中森一の目に止まったのである。田中が調べたところ、有名な総会屋はほぼ全員転換社債の割り当てを受けており、しかもその資金も三菱銀行から無担保で融資されたことが判明した。さらに、防衛官僚や政治家にも同様に三菱重工の転換社債が渡っていたという贈収賄疑惑があることもわかった。田中は成田を呼び出し、政官界を含めた転換社債とカネの流れについて取り調べをしようとしたが、成田はその数時間前に首を吊って自殺してしまった。結局、事件そのものも検察上層部の意向によってうやむやのうちに潰された。田中は嫌気がさして検察を辞め、闇人脈とのつながりを強めた。[8]
その後行平次雄は帰国し、1988年9月に社長の座についた。行平の社長就任と同時に横田が会長に就任した。横田は1991年には健康問題から会長も退任し、2005年3月に亡くなっている。
行平次雄
山一證券は1987年から1990年にかけて毎年1,000億円以上の経常利益を上げていた。
しかし、1989年5月からの数回にわたる公定歩合引き上げにより、高騰していた株価は1989年12月の最高値を最後に暴落を重ねるようになった。また、1989年11月には大和證券を皮切りに損失補填問題が発覚した。バブル崩壊により、「永田ファンド」=営業特金は多額の損失を抱えることとなったが、行平は根本的な処理をすることなく先送りを続けた。
1992年6月、行平は健康問題を理由に三木淳夫に社長を譲った。
三木淳夫
三木が社長に就任した後も、事実上の決裁権限はすべて会長の行平が握っており[9]、山一證券が簿外損失を処理することはなかった。
1997年3月25日、野村證券に対して東京地検と証券取引等監視委員会の家宅捜索が入った。容疑は総会屋小池隆一への利益供与であった。
4月28日に発表された山一の1997年3月期決算は、1,647億6,300万円という過去最大の当期損失となった。
総会屋利益供与問題の責任を取って8月11日には行平・三木をはじめとする取締役11人が退任した。後任として社長に野澤正平、会長に五月女正治の両専務が昇格することが発表された。
野澤正平
9月24日には、前社長の三木が利益供与問題で逮捕された。
10月6日、常務の渡辺と、前副社長の沓澤龍彦が富士銀行を訪れて、簿外債務の存在を明らかにすると共に再建計画を説明し、支援を求めた。
10月23日は山一の中間決算発表日だった。しかし、当日、東京地検特捜部が昭和リースに対する損失補填容疑で家宅捜索に入った。記者会見は、27億円の経常赤字の発表と利益供与事件拡大の謝罪で終わった。
11月11日、富士銀行から最終回答があった。1. 劣後ローンは富士からは250億円程度が限度で、あとは他行から借り入れてほしい、2. 過去に無担保で融資した分について早急に担保を差し入れてほしい、という内容であった。
11月14日金曜日。野澤は、大蔵省証券局長の長野厖士に対して簿外損失の存在を初めて説明した。
翌11月15日土曜日、大蔵省証券業務課長の小手川大助は長野の指示を受けて山一の藤橋企画室長から説明を受けた。なおこの日、山一が主幹事を務め最後まで資金供給を行っていた北海道拓殖銀行が経営破綻している。
11月19日、野澤は再度大蔵省に証券局長の長野を訪ねた。長野は「感情を交えずに淡々と言います。自主廃業を選択してもらいたい」と通告した。
11月22日土曜日午前3時頃、日本経済新聞が「山一証券、自主廃業へ」という電子ニュース速報を流した。急遽、役員たちが集められ、午前8時から臨時取締役会が開催された。
1997年11月24日は月曜日だったが、振替休日で休業日だった。午前6時から臨時取締役会が開かれ、自主廃業に向けた営業停止が正式に決議された。
午前11時30分から社長の野澤正平、会長の五月女正治、顧問弁護士の相澤光江が東京証券取引所で記者会見に臨んだ。
その後
自主廃業発表後、顧客保護を理由にあわただしく無担保の日銀特融が実施された。日銀特融はピーク時で1兆2千億円にのぼった。
12月13日、常務業務監理本部長の嘉本隆正が委員長となって、社内調査委員会が発足した。3月26日にレポート『社内調査報告書-いわゆる簿外債務を中心として-』は完成し、4月16日に一般に公表された。
翌1998年3月4日、行平と三木の元社長2人、ならびに元財務本部長の3人が、最大2,720億円の損失を隠して虚偽の有価証券報告書を作成したという証券取引法違反の容疑で東京地検に逮捕された。行平と三木にはさらに、粉飾決算の容疑がついていた。2000年3月に、行平と三木に有罪の判決が下された。初審で執行猶予が付いた行平は判決を受け入れたが、実刑判決だった三木は控訴し、控訴審では執行猶予となっている。
自主廃業発表以降事務処理を進めたが、1998年6月の株主総会で解散決議に必要な株主数を確保できなかったことから自主廃業を断念せざるを得なくなった。そのため破産申立てをすることに方針を転換し、1999年6月2日に東京地方裁判所より破産宣告を受けた。
破産宣告後の手続は、債権者の多さや、海外資産の整理に手間取ったために長引いたが、最終的に2005年1月26日の債権者集会をもって終了した。同年2月に破産手続終結登記が行われ、名実共に「山一證券株式会社」はこの世から消えた。小池国三による創業から107年あまりが経過しての終焉であった。
社員・子会社
山一本社所属の従業員や店舗の大多数は米国の大手金融業メリルリンチが設立した「メリルリンチ日本証券」に移籍・譲渡された。なお、最後の社長野澤正平はIT業界に身を投じた後、再び証券業界へ復帰し現在はセンチュリー証券(2006年6月より日産センチュリー証券)の代表取締役社長となっている。
子会社のその後については以下の通りである。
- 太平洋証券 - ユニバーサル証券などに合併され「つばさ証券」(現・三菱UFJ証券)に改称。
- 山一證券投資信託委託 - 三和銀行に譲渡され「パートナーズ投信」(現・三菱UFJ投信)に改称。
- 山一信託銀行 - オリックスに譲渡され「オリックス信託銀行」に改称。
- 山一投資顧問 - フランスの大手金融業・ソシエテ・ジェネラル傘下に入り「SG山一アセットマネジメント」に改称。2004年、りそなアセットマネジメント(旧東京投信→あさひ東京投信。元は東京証券傘下)を合併し「ソシエテジェネラルアセットマネジメント」に再改称。元子会社の中では「山一」の名前を最後まで残した。
- 山一情報システム - 社員は「日本フィッツ(現CSKシステムズ)」に移籍。
- 香港山一証券(香港法人) - 台湾のコアパシフィック財閥(威京総部集団)傘下に入り「コアパシフィック山一インターナショナル(京華山一国際)」に改称。同社の日本法人は2003年にエース交易の子会社となり「アルバース証券」に改称。
- 山一證券経済研究所 - 収集・管理していた資料の一部は、大阪学院大学図書館へ移された。
- 企業同窓会である「山友会」は現在も、日本橋茅場町に事務所を置いて存続している。
- 山一證券の商標権は、2007年に元社員が取得している。その元社員は2013年を目標に山一證券を復活させたいとしている。(日経スペシャル ガイアの夜明け(テレビ東京系)2007年12月18日放送より)
その他
- 『山一證券史』1958(昭和33)年刊。創業60周年記念刊行。前編「わが国における証券市場の発達」・後編「山一證券史」からなる。約1,400頁。
- 『山一證券年表』1985(昭和60)年刊。1958(昭和33)年から1984(昭和59)年まで。
- 『山一證券の百年』1998(平成10)年刊。編集・山一證券株式会社社史編纂委員会、発行・山一證券株式会社。約466頁。「社内調査報告書-いわゆる簿外債務を中心として-」添付資料一部割愛して全文所収。もともと『山一證券百年史 普及版』として編纂されたものを自主廃業決定後に出版したものであるが、非売品扱いでISBNも取られていない。
- 山一證券株式会社社歌 作詞・西條八十、作曲・古関裕而。創業60周年記念制定。
旧URL
- 山一證券グループ www.yamaichi.com
- 山一情報システム www.yis.co.jp
- コアパシフィック山一證券 www.corepacific-yamaichi.co.jp
参考文献
- 佐々木信二『山一證券 突然死の真相』(出窓社、1997年、ISBN 4931178138)
- 草野厚『山一証券破綻と危機管理 1965年と1997年』(朝日新聞社、1998年、ISBN 4022597054)
- 北澤千秋『誰が会社を潰したか』(日経BP、1999年、ISBN 4822241416)
- 読売新聞社会部編『会社がなぜ消滅したか 山一証券役員たちの背信』(新潮文庫、2001年、ISBN 4101348324)
- 河原久『山一証券 失敗の本質』(PHP研究所、2002年、ISBN 4569625304) - 元山一證券常務取締役(1984年退任)による崩壊までの分析
- 鈴木隆『滅びの遺伝子 山一證券興亡百年史』(文藝春秋、2005年、ISBN 4163671404)
- 江波戸哲夫『会社葬送~山一證券 最後の株主総会』(角川文庫、2006年、ISBN 4043801033)
関連項目
- 竹田和平 - 投資家。破綻時点での個人筆頭株主(会社四季報調べ)。
- ブロッコリー - 1984年から1994年まで山一證券に勤めていた木谷高明が設立した企業。
- シャインズ - 名前の由来はメンバーが会社員である事、つまり「社員's」であるが、メンバーの伊藤洋介(現東京プリン)は当時山一證券の社員だった。
- 岡田がる - 漫画家。元社員、新橋支店勤務。
脚注
外部リンク
- 社内調査報告書-いわゆる簿外債務を中心として- - 山一證券株式会社社内調査委員会編(PDFファイル)
- 日本銀行総裁談話・山一證券について 1997年11月24日 - 山一證券の経営破綻に関するコメント。
- 日本銀行総裁談話・山一證券について 1999年6月2日 - 同社の破産宣告に関するコメント。
- メリルリンチ日本証券
- オリックス信託銀行
- 三菱UFJ証券
- 三菱UFJ投信
- ソシエテジェネラルアセットマネジメント
- 株式会社CSKシステムズ
- アルバース証券