コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ジョン・コシンスキー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
31行目: 31行目:
1990年、満を持して「マールボロ・チームロバーツ」よりロードレース世界選手権250ccクラスにフルエントリー。7勝をあげ、圧倒的な強さでチャンピオンを獲得。翌1991年500ccクラスへとコンバート。1勝と表彰台4回の成績を収め神童振りを発揮する。だが、チームオーナーであるケニー・ロバーツとの確執が決定的となり1992年は最終戦で500ccクラス2勝目を遂げるものの、チームから放出の憂き目に遭う。
1990年、満を持して「マールボロ・チームロバーツ」よりロードレース世界選手権250ccクラスにフルエントリー。7勝をあげ、圧倒的な強さでチャンピオンを獲得。翌1991年500ccクラスへとコンバート。1勝と表彰台4回の成績を収め神童振りを発揮する。だが、チームオーナーであるケニー・ロバーツとの確執が決定的となり1992年は最終戦で500ccクラス2勝目を遂げるものの、チームから放出の憂き目に遭う。


1993年は心機一転、[[ラッキーストライク]][[スズキ (企業)|スズキ]]チームのエースとしてロードレース世界選手権250ccクラスにエントリー。開幕戦からトップを快走するシーンもあるなど速さを見せていたが、250ccでは後発であるスズキのマシン開発の遅さに業を煮やし、オランダGPが開催された[[TTサーキット・アッセン]]で[[原田哲也]]との2位争いに微差で敗れたレース後、マシンを[[ドラッグレース#バーンアウト|バーンアウト]]させて破壊。表彰式にも姿見せずボイコットしたとからシーズン半ばにして解雇されてしまう<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/motogp/news/yamaha-suggests-vinales-tried-to-blow-up-his-engine-in-styrian-motogp-race/6646423/ |title=ヤマハに不満爆発? 出場停止”処分”のビニャーレスは「わざとエンジンブローさせようとした」とチーム示唆 |publisher=motorsport.com |date=2021-08-13 |accessdate=2021-08-12}}</ref>。[[カジバ]]は行き場を失ったコシンスキーに500ccクラスのマシンを用意して契約。3戦目のアメリカGPで1勝<ref>{{Cite web|和書|url=https://funq.jp/riders-club/article/573136/ |title=「CAGIVA V594」世界ランキング3位。輝かしい戦績を残して撤退 |publisher=ライダースクラブ |date=2021-03-24 |accessdate=2021-08-12}}</ref>。翌年1994年は[[カジバ]]からフルエントリーし、上位を争うものの今度はカジバがGPを撤退してしまう。こうして、コシンスキーは速さがありながら噛みあわない状況に陥ってゆく。
1993年は心機一転、[[ラッキーストライク]][[スズキ (企業)|スズキ]]チームのエースとしてロードレース世界選手権250ccクラスにエントリー。開幕戦からトップを快走するシーンもあるなど速さを見せていたが、250ccでは後発であるスズキのマシン開発の遅さに業を煮やし、オランダGPが開催された[[TTサーキット・アッセン]]で[[原田哲也]]との2位争いに微差で敗れたレース後、RGV-Γ250を[[ドラッグレース#バーンアウト|バーンアウト]]させて破壊。さらにマシンをコース脇の側溝に蹴り落とし表彰式をボイコットの行為が原因でシーズン半ばにして解雇されてしまう<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/motogp/news/yamaha-suggests-vinales-tried-to-blow-up-his-engine-in-styrian-motogp-race/6646423/ |title=ヤマハに不満爆発? 出場停止”処分”のビニャーレスは「わざとエンジンブローさせようとした」とチーム示唆 |publisher=motorsport.com |date=2021-08-13 |accessdate=2021-08-12}}</ref>。[[カジバ]]は行き場を失ったコシンスキーに500ccクラスのマシンを用意して契約。3戦目のアメリカGPで1勝<ref>{{Cite web|和書|url=https://funq.jp/riders-club/article/573136/ |title=「CAGIVA V594」世界ランキング3位。輝かしい戦績を残して撤退 |publisher=ライダースクラブ |date=2021-03-24 |accessdate=2021-08-12}}</ref>。翌年1994年は[[カジバ]]からフルエントリーし、上位を争うものの今度はカジバがGPを撤退してしまう。こうして、コシンスキーは速さがありながら噛みあわない状況に陥ってゆく。


その後、[[ドゥカティ]]より[[スーパーバイク世界選手権]]に転向し、1997年にはカストロール・ホンダに移籍しSBKにおけるホンダのエースとしてチャンピオンを獲得。ホンダとのパイプを築き、1998年にホンダ・NSR500を使用するサテライトチームだった[[シト・ポンス|モビスター・ポンス]]よりWGP500へと4年ぶりの復帰を果たすが、最高位4位と勝利には遠かった。翌1999年に同じくホンダ系の[[アーブ・カネモト|カネモト・レーシング]]へ移籍、第4戦フランスGPでは2位表彰台を獲得するが、着実に完走を重ねる中でトップ争いに顔を見せることは少なく、同年が最後のWGP参戦シーズンとなった。「もう、GPを走ることはない」と吐き捨ててGPシーンを去っていった。
その後、[[ドゥカティ]]より[[スーパーバイク世界選手権]]に転向し、1997年にはカストロール・ホンダに移籍しSBKにおけるホンダのエースとしてチャンピオンを獲得。ホンダとのパイプを築き、1998年にホンダ・NSR500を使用するサテライトチームだった[[シト・ポンス|モビスター・ポンス]]よりWGP500へと4年ぶりの復帰を果たすが、最高位4位と勝利には遠かった。翌1999年に同じくホンダ系の[[アーブ・カネモト|カネモト・レーシング]]へ移籍、第4戦フランスGPでは2位表彰台を獲得するが、着実に完走を重ねる中でトップ争いに顔を見せることは少なく、同年が最後のWGP参戦シーズンとなった。「もう、GPを走ることはない」と吐き捨ててGPシーンを去っていった。

2024年8月10日 (土) 06:06時点における版

ジョン・コシンスキー
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1968-03-20) 1968年3月20日(56歳)
アーカンソー州リトルロック
レースでの経歴
ロードレース世界選手権
活動期間1988年 - 1994年, 1998年 - 1999年
初レース1988年 日本GP 250cc
最終レース1999年 アルゼンチンGP 500cc
初勝利1989年 日本GP 250cc
最終勝利1994年 オーストラリアGP 500cc
チームヤマハ, スズキ, カジバ
チャンピオン250cc - 1990年
出走回数 勝利数 表彰台 PP FL 総ポイント
99 13 35 20 15 1037.5

ジョン・コシンスキー (John Kocinski, 1968年3月20日 - ) は、アメリカ合衆国アーカンソー州リトルロック出身のオートバイロードレースライダー。1990年ロードレース世界選手権250ccチャンピオン。1988年のGPデビュー(スポット参戦・250ccクラス)以来、クラス・車両を問わず勝ち星を挙げた。

スタイル

コーナリング初期からコーナリング中、脱出と全てにおいて満遍なく速く、かつ接戦にも強い。ケニー・ロバーツのライディング理論を完璧に体現して見せた、「ヤング・キング」。また身長が低いこともあいまって、大きくリーンインしたフォームが特徴的である。

経歴

すべてのアメリカンの例に漏れず、幼少時よりダートレースを開始。AMAにおいて、250ccクラスで活躍しつつ、1987年から1989年は全日本ロードレース選手権およびロードレース世界選手権へのスポット参戦を行う。そこで見せた驚異的な速さゆえに、ケニー・ロバーツの秘蔵っ子と呼ばれる。

1990年、満を持して「マールボロ・チームロバーツ」よりロードレース世界選手権250ccクラスにフルエントリー。7勝をあげ、圧倒的な強さでチャンピオンを獲得。翌1991年500ccクラスへとコンバート。1勝と表彰台4回の成績を収め神童振りを発揮する。だが、チームオーナーであるケニー・ロバーツとの確執が決定的となり1992年は最終戦で500ccクラス2勝目を遂げるものの、チームから放出の憂き目に遭う。

1993年は心機一転、ラッキーストライクスズキチームのエースとしてロードレース世界選手権250ccクラスにエントリー。開幕戦からトップを快走するシーンもあるなど速さを見せていたが、250ccでは後発であるスズキのマシン開発の遅さに業を煮やし、オランダGPが開催されたTTサーキット・アッセン原田哲也との2位争いに微差で敗れたレース後、RGV-Γ250をバーンアウトさせて破壊。さらにマシンをコース脇の側溝に蹴り落とし表彰式をボイコット。この行為が原因でシーズン半ばにして解雇されてしまう[1]カジバは行き場を失ったコシンスキーに500ccクラスのマシンを用意して契約。3戦目のアメリカGPで1勝[2]。翌年1994年はカジバからフルエントリーし、上位を争うものの今度はカジバがGPを撤退してしまう。こうして、コシンスキーは速さがありながら噛みあわない状況に陥ってゆく。

その後、ドゥカティよりスーパーバイク世界選手権に転向し、1997年にはカストロール・ホンダに移籍しSBKにおけるホンダのエースとしてチャンピオンを獲得。ホンダとのパイプを築き、1998年にホンダ・NSR500を使用するサテライトチームだったモビスター・ポンスよりWGP500へと4年ぶりの復帰を果たすが、最高位4位と勝利には遠かった。翌1999年に同じくホンダ系のカネモト・レーシングへ移籍、第4戦フランスGPでは2位表彰台を獲得するが、着実に完走を重ねる中でトップ争いに顔を見せることは少なく、同年が最後のWGP参戦シーズンとなった。「もう、GPを走ることはない」と吐き捨ててGPシーンを去っていった。

エピソード

1990年日本GPにて
  • 極度の潔癖症で、シャンパンファイトを嫌う。ケビン・シュワンツなどに「わざと」シャンパンを掛けられ激昂したことがある。
  • 上記のエピソードが原因でシュワンツに殴りかかり、返り討ちにされたこともある。
  • ヘルメットカラーは白頭鷲をモチーフにしている。これは師匠であるケニー・ロバーツのデザインを受け継いだものである。

戦績

  • 1987年 - 鈴鹿8時間耐久オートバイレース3位(カル・レイボーン/ラッキーストライクヤマハ/YZF750
  • 1989年 - 鈴鹿8時間耐久オートバイレース リタイア(平忠彦/資生堂TECH21レーシングチームヤマハ/YZF750)
  • 1990年 - ロードレース世界選手権GP250ccチャンピオン(マールボロ・ロバーツヤマハ/YZR250
  • 1991年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング4位1勝(マールボロ・ロバーツヤマハ/YZR500
  • 1992年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング3位1勝〔南アフリカGP〕(マールボロ・ロバーツヤマハ/YZR500)
  • 1993年 - ロードレース世界選手権250cc ランキング12位(ラッキーストライク・スズキ /RGV-Γ250
    • ロードレース世界選手権500cc ランキング11位1勝〔アメリカGP〕(カジバ/C593V
  • 1994年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング3位1勝〔オーストラリア〕(カジバ/C594V
  • 1996年 - スーパーバイク世界選手権 ランキング3位(ドゥカティ
  • 1997年 - スーパーバイク世界選手権 チャンピオン(カストロールホンダ/RVF/RC45
  • 1998年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング12位(モビスターホンダポンス/NSR500
  • 1999年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング8位(カネモト・ホンダ/NSR500)

ロードレース世界選手権

1988年から1992年までのポイントシステム:

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
ポイント 20 17 15 13 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1

1993年からのポイントシステム:

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
ポイント 25 20 16 13 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1
  • 凡例
  • ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
クラス チーム マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 ポイント 順位 勝利数
1988年 250cc マールボロ-ヤマハ TZ250 JPN
5
USA
4
ESP
-
EXP
-
NAT
NC
GER
NC
AUT
-
NED
-
BEL
-
YUG
-
FRA
-
GBR
-
SWE
-
CZE
-
BRA
-
24 19位 0
1989年 250cc YZR250 JPN
1
AUS
-
USA
1
ESP
-
NAT
-
GER
-
AUT
-
YUG
-
NED
-
BEL
-
FRA
-
GBR
-
SWE
-
CZE
-
BRA
-
40 14位 2
500cc マールボロ-ヤマハ YZR500 JPN
-
AUS
-
USA
-
ESP
-
NAT
-
GER
-
AUT
-
YUG
-
NED
-
BEL
5
FRA
-
GBR
-
SWE
-
CZE
-
BRA
-
5.5 35位 0
1990年 250cc マールボロ-ヤマハ YZR250 JPN
14
USA
1
ESP
1
NAT
1
GER
3
AUT
3
YUG
2
NED
1
BEL
1
FRA
NC
GBR
NC
SWE
2
CZE
2
HUN
1
AUS
1
223 1位 7
1991年 500cc マールボロ-ヤマハ YZR500 JPN
4
AUS
3
USA
NC
ESP
2
ITA
2
GER
NC
AUT
9
EUR
5
NED
6
FRA
NC
GBR
4
RSM
6
CZE
3
VDM
4
MAL
1
161 4位 1
1992年 500cc YZR500 JPN
NC
AUS
DNS
MAL
-
ESP
5
ITA
3
EUR
5
GER
5
NED
2
HUN
7
FRA
3
GBR
NC
BRA
2
RSA
1
102 3位 1
1993年 250cc ラッキーストライク スズキ RGV250 AUS
2
MAL
5
JPN
9
ESP
4
AUT
7
GER
12
NED
3
EUR
-
RSM
-
GBR
-
CZE
-
ITA
-
USA
-
FIM
-
80 12位 0
500cc カジバ GP500 AUS
-
MAL
-
JPN
-
ESP
-
AUT
-
GER
-
NED
-
EUR
-
RSM
-
GBR
-
CZE
4
ITA
4
USA
1
FIM
NC
51 11位 1
1994年 500cc GP500 AUS
1
MAL
2
JPN
9
ESP
3
AUT
5
GER
NC
NED
8
ITA
NC
FRA
2
GBR
4
CZE
NC
USA
2
ARG
3
EUR
3
172 3位 1
1998年 500cc ポンス・レーシング-ホンダ NSR500 JPN
13
MAL
5
ESP
11
ITA
5
FRA
4
MAD
DNF
NED
-
GBR
-
GER
-
CZE
15
IMO
13
CAT
9
AUS
12
ARG
10
64 12位 0
1999年 500cc カネモト-ホンダ NSR500 MAL
NC
JPN
NC
ESP
6
FRA
2
ITA
8
CAT
9
NED
7
GBR
9
GER
5
CZE
14
IMO
8
VAL
8
AUS
9
RSA
10
BRA
13
ARG
7
115 8位 0

スーパーバイク世界選手権

順位 クラス マシン SMR
サンマリノの旗
GBR
イギリスの旗
GER
ドイツの旗
ITA
イタリアの旗
CZE
チェコの旗
USA
アメリカ合衆国の旗
EUR
欧州連合の旗
INA
インドネシアの旗
JPN
日本の旗
NED
オランダの旗
ESP
スペインの旗
AUS
オーストラリアの旗
順位 ポイント 参照
R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2
1996年 SBK ドゥカティ 1 1 7 6 2 3 Ret Ret 4 6 1 12 3 Ret 1 1 5 2 5 3 3 2 7 5 3位 337
順位 クラス マシン AUS
オーストラリアの旗
SMR
サンマリノの旗
GBR
イギリスの旗
GER
ドイツの旗
ITA
イタリアの旗
USA
アメリカ合衆国の旗
EUR
欧州連合の旗
AUT
オーストリアの旗
NED
オランダの旗
ESP
スペインの旗
JPN
日本の旗
INA
インドネシアの旗
順位 ポイント 参照
R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2
1997年 SBK ホンダ 1 7 2 1 10 5 2 14 1 2 1 1 3 2 5 3 1 3 1 1 9 3 1 Ret 1位 416

鈴鹿8時間耐久オートバイレース

チーム ペアライダー 車番 マシン タイヤ 予選順位 予選タイム 決勝順位 周回数
1987 ラッキーストライク・ロバーツ アメリカ合衆国の旗 カル・レイボーン 26 ヤマハ・YZF750 D 8 2'19”480 3位 198
1989 資生堂TECH21 ヤマハ 日本の旗 平忠彦 21 ヤマハ・YZF750 M 5 2'17”157 Ret 162
1997 カストロール・ホンダ ブラジルの旗 アレッシャンドレ・バロス 4 ホンダ・RVF/RC45 M 12 2'11”048 2位 186
1999 カストロールホンダwithHSC アメリカ合衆国の旗フレディ・スペンサー

日本の旗武田雄一

100 ホンダ・RVF/RC45 M 6 2'10.032 7位 208

参照

外部リンク

タイトル
先代
アルフォンソ・ポンス
WGP250cc チャンピオン
1990
次代
ルカ・カダローラ
');