アーヴ・カネモト
アーヴ・カネモト (Erv Kanemoto、1943年5月7日 – ) はアメリカ合衆国ユタ州出身のオートバイのメカニック、レーシングチームのオーナー。
経歴
[編集]農家の息子として生まれ、彼のメカニック人生は10代の頃ボートレース用のエンジンに触れることから始まった。後には彼の姉貴のためにカートのエンジンチューンを行うようになった。
1968年、カワサキにレースメカニックとして雇われた。1973年にはライダーのゲイリー・ニクソンと組み、速いが扱いにくい2ストローク3気筒750ccのカワサキ・H2RでU.S.国内ロードレース選手権を制した。
1979年にニクソンが引退すると、カネモトはヤマハに移り、若いフレディ・スペンサーと組んで250ccクラスの国内選手権を制した。翌1980年もスペンサーと組み、1981年にはロードレース世界選手権のヤマハチームメカニックとしてヨーロッパに渡り、元500ccクラスワールドチャンピオンのバリー・シーンと組むことになった。
カネモトはその後ホンダに移籍し、フレディ・スペンサーを1983年の500ccクラスチャンピオン、1985年の500cc、250ccダブルチャンピオンの栄光に導いた。
カネモト・レーシング
[編集]カネモト・レーシング | |
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2002年の チーム名 | チーム・カネモト・ホンダ |
本拠地 | アメリカ・カリフォルニア州トレイシー |
代表 | アーヴ・カネモト |
ライダー | 16 ユルゲン・ファン・デン・グールベルク |
マシン | ホンダ・NSR500 |
タイヤ | ブリヂストン |
ライダーズ チャンピオン |
4回 1989年 500cc エディ・ローソン 1991年 250cc ルカ・カダローラ 1992年 250cc ルカ・カダローラ 1997年 250cc マックス・ビアッジ |
1989 - 1990
[編集]1989年にカネモトは独立し、自らがオーナーのカネモト・レーシングを設立する。エディ・ローソンを擁してロスマンズ・カネモト・ホンダとして500ccクラスに参戦、HRC直営ワークスチームを破り、初年度にして見事チャンピオンに輝いた。翌1990年にはローソンに代わりワイン・ガードナーと組んだが、二度のクラッシュが影響しシーズン2勝・シリーズ5位に終わった。
1991 - 1992
[編集]1991年は250ccクラスにエントリーし、ルカ・カダローラをチャンピオンに導く。15戦中8勝、12戦で表彰台に立つ圧倒的な勝利だった。翌1992年には250ccと500ccの両クラスに参戦し、250ccクラスではカダローラが2連覇を果たした。一方500ccクラスでは再びガードナーと組んだが、開幕戦で右足を骨折してしまい、代役として2戦出場したダリル・ビーティーが3位と6位を記録した。その後復帰したガードナーは1勝を収めるが、この年で引退することになった。
1993 - 1994
[編集]1993年からは再び250ccクラスのみのエントリーに戻る。アプリリアから移籍のマックス・ビアッジと、WGPフルエントリー初年度となる青木宣篤の2人を起用し、前年にGP初勝利を挙げていたビアッジにはメインスポンサーとしてロスマンズのサポートが付いた。NSR250で2人ともそれぞれ1勝を挙げ、ビアッジがシリーズ4位、宣篤がシリーズ11位に入った。同年7月に行われた鈴鹿8時間耐久レースでは、全日本500ccクラスに参戦する辻本聡をサポートしていたam/pmとジョイントする形で、辻本とエディ・ローソンのコンビで挑んだチームの監督も務め、ホンダ・RVF750で決勝2位表彰台を獲得した[1]。
1994年にはワークスホンダと同様ロスマンズのスポンサードを失い、HRCワークスカラーでの参戦となった。全日本ロードレース選手権チャンピオンの岡田忠之を擁し、岡田はシーズン2勝、シリーズ2位に入る活躍を見せた。
1995 - 1996
[編集]1995年にチームは500ccクラスに復帰した。アレックス・バロスを擁してMobilカラーのマシンで参戦し、シリーズ7位の成績を収めた。1996年にはかつての盟友カダローラと再び組み、シーズン2勝・シリーズ3位に入る活躍を見せた。カダローラの駆ったNSR500は、大きなスポンサーのない純白のカラーリングだった。
1997 - 1998
[編集]1997年は250ccクラスに戻り、再びビアッジと組んでマルボロ・チーム・カネモト・ホンダとして参戦。前年までアプリリアでクラス3連覇を果たしていたビアッジは、シーズン5勝で見事4連覇を達成する。翌1998年はマルボロ、ビアッジと共に500ccに移り、開幕戦で優勝を果たしたビアッジはシーズン2勝、シリーズ2位に入る活躍を見せた。
1999
[編集]1999年にはビアッジに代わりジョン・コシンスキーがチームに加入、メインスポンサーを失い、ブルーのカラーリングのNSR500でシーズンを戦った。開幕戦でポールポジションを獲得したものの、思ったような結果を残せず、コシンスキーはシリーズ8位に終わった。資金難に苦しんだチームは、この年をもってGP参戦を一時休止することになる。
2000-2002
[編集]2000年からは、最高峰クラス参戦を目指すブリヂストンと契約を結び、開発担当チームとしてテストをおこなうようになった。2002年にはタイヤの実戦テストを目的に、同社のスポンサードを得てユルゲン・ファン・デン・グールベルクをライダーに擁してGPに復帰を果たした。しかしこの年からMotoGPに改称され、4ストローク車勢有利となっていた最高峰クラスでは、2ストロークのNSR500では満足な結果は残せず、グールベルクはシリーズ13位に終わった。この年以降、カネモト・レーシングの世界選手権への参戦は行われていない。
チーム休止後の活動
[編集]チームとしての参戦休止後も、アーヴ・カネモトはMotoGPとの関わりを保った。2004年には、スズキMotoGPチームにテクニカルコンサルタントとして招かれ、ケニー・ロバーツJr.と組んだ。翌2005年にはレプソル・ホンダチームにテクニカルディレクターとして招かれ、かつての盟友マックス・ビアッジと組むことになった。
受賞歴
[編集]2001年、アーヴ・カネモトはオートバイの殿堂(Motorcycle Hall of Fame)入りを果たした。
脚注
[編集]- ^ 「EXECTIVE’S Choice ゼロフィニッシュだけあればいい!」Vol.10 PILOTA MOTO代表・辻本 聡さん SurLuster 2022年5月25日