Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/渋谷黎子 20180711
表示
選考終了日時:2018年7月24日 (火) 23:49 (UTC) →2018年8月8日 (水) 23:49 (UTC)
- (自動推薦)2018年7月度の月間新記事賞受賞記事。--totti(会話) 2018年7月10日 (火) 23:49 (UTC)
- 賛成 良質な記事として申し分のない記事だと思います。以下は例によって細かい部分。
- §1.2 女学校時代〜苦悩から思想へ
- 「後に黎子の弟は、彼女に兄や姉が同誌を読んでいた影響で、黎子も読み始めていたと証言している」
- 意味不明。「彼女は」の間違い?
- § 1.7 定輔との同居〜結婚
- 「一方では黎子の月給で事務所を運営することに対し、「組織に基盤をおかない運営」との批判もあった」
- 誰が批判したのでしょうか。
- 「 2人はそうした考えは断固として反対であった」
- 「そうした考え」というのが何を示しているのかよくわかりません。次の節にある「当時、社会主義運動の男女の同志が、警察の監視から逃れるために夫婦のように生活すること」を指しているのでしょうか。だとすればこの2節は統合して書き直した方がよいと思います。
- 「結婚に際し、名を「黎子」と改名した。」
- これは単に通り名を改名しただけということなのでしょうか。それともちゃんと役場に届けを出して戸籍名自体を改名したということでしょうか。
- 「定輔が1930年6月に提出した「私の生活費及び運動費に就ての報告書」」
- 誰に対して何のために提出したのでしょうか。
- §1.8 埼玉県での農民運動
-
- 渋谷定輔の実家はどんな暮らしをしていたのか(何を生産していたか、生活レベルはどれくらいだったか)気になります。もちろん富農と言うレベルではなかったでしょうが、産婆学校に入学した黎子に経済的援助をしているくらいですから、食うや食わずやの小作農だったとも思えません。本節においては渋谷定輔の実家が大きく関わって来るので、実家の状況について、数行程度の解説があれば良いと思います。
- 「農業家野情勢の参加が多いことも特徴であった」
- 何かのミスタイプか誤変換と思われますが、正しい文が推測できず意味不明です。
- §1.9 吉見事件
- 「雪の降る荒川に腰まで浸かって川を渡った。」
- これは、橋のある道を行ったのでは遠回りになるので、署までの最短距離のコース(そのかわり川を渡渉することになる)を選んで走ったということでしょうか。
- §1.10 事件からの釈放後
- 「定輔が吉見事件での長期留置中」
- 定輔の方はいつ釈放されたのでしょうか。
- § 3 略年譜
-
- 年譜を二列にするレイアウトはあまり見ない気がしますが、このレイアウトは時系列を追う上で非常に不便です。年譜を記載することの意義は、本文だけではわかりにくい各出来ごとの時系列を確認するための資料として、であると私は思っていますので、時系列を追い辛いレイアウトでは意味がありません。長くなっても一列で表示する方がよいでしょう。
- --Loasa(会話) 2018年7月12日 (木) 13:45 (UTC)
- 初版投稿者です。細かなご査読をありがとうございます。「後に黎子の弟は……」は、黎子氏の兄・姉が読んでいたので、黎子氏も読み始めた、とのことです。差当り「彼女の」に訂正させていただきます。
- その他、「誰が批判したか」「改名は役場に届けを出したか」「橋を渡らず川を渡った理由」辺りは出典にも記述が無かったと記憶しておりますが、渋谷定輔氏の実家の生活、吉見事件からの釈放時期などは確か記述があったはずですので、再調査してみます。大方の出典は図書館頼りですので、少々お時間を頂きたく思います。
- 略年譜は、私が人物伝を書くにあたり初めて導入したのですが、同様の立場のある女性の某記事が二列表示でしたので、倣った次第です(責任転嫁のようで気が咎めますので、記事名の名指しは控えます)。できましたら他の皆様にも意見を伺い、やはり一列表示が好ましいとのことでしたら、本記事および略年譜を導入した他記事も修正します。
- 今年度の始まり以来、非常に多忙で資料探しにも難儀しました。時間がとれ次第、国会図書館や、本記事にも記述しております「渋谷定輔文庫」にて、先述の情報不足分を補いたく思う次第です。よろしくお願いいたします。--逃亡者(会話) 2018年7月12日 (木) 19:20 (UTC)
- 図書館資料のコピーなど、手元の資料で一部追記・修正可能でした。以下、2018年7月14日 (土) 09:19(UTC)(差分)での追記・修正内容の報告です。
- 渋谷定輔氏の実家の生活 → 『季刊世界政経』第63号収録、蒲池紀生著「愛とたたかいの光芒 渋谷黎子覚え書き」(NAID 40004163584)p160に、定輔氏の実家の職業が「自作兼小農業」とありました。生活レベルといっていいかわかりませんが、目安として同記事同頁に「所有地が家の敷地と田畑合わせて約1.1ヘクタール、これに約1ヘクタールの小作を加えて生計を立てていた」とありました。
- 「私の生活費及び運動費に就ての報告書 → 何のために提出したかはまだ不明ですが、『農民文学』第206号(NCID AN00202465)収録、杉山武子著「寂莫を超えて 渋谷黎子の生と死(中)」によれば、提出先は全国農民組合埼玉県連合会でした。
- 農業家野情勢のミスタイプ → 埼玉新聞1955年8月8日付p1「近世埼玉故人伝 農民運動に半生を捧げた渋谷黎子」からの記述ですが、×「農業家野情勢」→○「農業家の女性」でした。
- 定輔氏の事件からの釈放時期 → 「いつ」とは明記されていませんが、遺稿集『この風の音を聞かないか』(NCID BN05871019)p317に「定輔の方は(中略)勾留は1か月以上におよび」、「愛とたたかいの光芒 渋谷黎子覚え書き」p162に「定輔の勾留は(中略)1か月にもおよび」とありました。
- 引き続き、再調査を続行いたします。--逃亡者(会話) 2018年7月14日 (土) 09:26 (UTC)
- 再調査分の残りです。以下、2018年7月19日 (木) 17:50 (UTC)(差分)の修正報告です。
- 組織に基盤をおかない運営との批判 → 安田常雄著『出会いの思想史 渋谷定輔論『農民哀史』の世界』(ISBN 978-4-326-15107-3)p263によれば、全国農民組合埼玉県連合会の、主に青年部からの批判とのことでした。
- 「そうした考えは断固として反対」の「そうした考え」とは → ご推察通り、次の節にある「当時、社会主義運動の男女の同志が~」を指すものです。これは単に私の書く順序の誤りでした。渋谷定輔著『農民哀史から六十年』(ISBN ISBN 978-4-00-420340-7)p170で再確認の上、ご助言の通り統合いたしました。
- 略年譜 → 未だ他の皆様からのご意見はありませんが、他のFA記事、GA記事の人物伝を拝見したところ、確かに2列表示は見かけませんでした。ご助言に基き、1列に改めました。本記事の後に投稿した斎藤智恵子#略年譜も、これから他箇所の修正と共に、1列に改める予定でおります。
- 再調査分の残りです。以下、2018年7月19日 (木) 17:50 (UTC)(差分)の修正報告です。
- 続いて、現時点で出典が確認できず、修正できなかった分です。追加調査のために国会図書館か、富士見市立中央図書館の渋谷定輔文庫に行く必要有りと痛感します。特に後者へは記事執筆当時から、月刊記事賞を受賞しようとしまいと、GA選考があろうと無かろうと、いずれ行きたく思っていた次第です。よろしくお願いいたします。
- 改名は通り名のみか、戸籍名自体の改名か → 改名についての記述として、前掲『この風の音を聞かないか』p290、前掲『農民哀史から六十年』p171、新藤謙著『女性史としての自伝』(ISBN 978-4-623-01810-9)p112など調査しましたが、単に「改名した」「名を改めた」といった記述のみで、「役場への届け」「戸籍名」に関する記述はありませんでした。
- 「私の生活費及び運動費に就ての報告書」は何のための提出か → 前掲『出会いの思想史 渋谷定輔論『農民哀史』の世界』p264から要約しますと「渋谷定輔は『私の生活費及び運動費に就ての報告書』を提出した。渋谷は生活費、運動費の明細を次のように明らかにした」とあり、続けて現記事のような生活費の詳細があります。この記述から「生活費や運動費の明細を明らかにするために報告書を提出した」とも読めるのですが、「そのために提出した」と明言されているわけではありませんでしたので、記述を控えました。
- 吉見事件でなぜ橋を渡らなかったか → 事件についての記述として、前掲『この風の音を聞かないか』p295、前掲「愛とたたかいの光芒 渋谷黎子覚え書き」p161、前掲『女性史としての自伝』p121に加え、『桜の聖母短期大学紀要』第38号収録・二瓶由美子著「社会変革に生きた福島の女性 渋谷黎子の生涯」(NAID 40020055958)p147を再調査しましたが、橋をわたらなかった理由は記述なしです。強いて申しますと、『農民文学』第207号収録・杉山武子著「寂莫を超えて 渋谷黎子の生と死(下)」p76-77では現記事での渋谷定輔氏の主張通り、黎子氏は署に差し入れに行って逮捕されたとあるのですが、要約すると「組合員たちが荒川を水に漬かりながら渡り、署に押しかけた。一方では別の農民たちが、荒川大橋を挟んで警察隊と睨み合った。翌朝に黎子が署に差し入れに行き……」とあります。定輔氏を救援に行った人々は二手に分かれ、片方は橋、片方は川を渡って署を挟み撃ちする作戦だったのかもしれません。--逃亡者(会話) 2018年7月19日 (木) 18:08 (UTC)
- 続いて、現時点で出典が確認できず、修正できなかった分です。追加調査のために国会図書館か、富士見市立中央図書館の渋谷定輔文庫に行く必要有りと痛感します。特に後者へは記事執筆当時から、月刊記事賞を受賞しようとしまいと、GA選考があろうと無かろうと、いずれ行きたく思っていた次第です。よろしくお願いいたします。
- 賛成 読んでいて面白い、よく書かれた内容になっているものと思います。1点、「渋谷定輔との出逢い」の節で、1928年11月に渋谷が会いに来た場所を梁川駅としていて、梁川駅 (福島県)にリンクしています。しかし、リンク先の記事を見ていただければわかる通り、この駅は1988年開業であって、1928年当時にはありません。1928年当時でこの付近にある梁川駅は、福島電気鉄道梁川線の梁川駅だと思われます。福島交通飯坂東線の記事に、梁川線の梁川駅の記述がありますが、独立記事にはなっていません。現在の梁川駅へのリンクは外した方が良さそうです。--Tam0031(会話) 2018年7月17日 (火) 15:39 (UTC)
- 細かなご指摘をありがとうございます。ご推察の通り、前掲『この風の音を聞かないか』p287に間違いなく「福島電鉄の駅」とありました(この本は図書館ではなく自前で購入しました)。2018年7月17日 (火) 23:07(UTC)(差分)の編集にて、リンクを外した上で、福島電鉄である旨を書き添え、コメントアウトで内部リンクを注意する旨も書き添えておきました。--逃亡者(会話) 2018年7月17日 (火) 23:11 (UTC)
- 選考終了時点で賛成票2票のため自動延長となります。--Loasa(会話) 2018年7月25日 (水) 00:47 (UTC)
- 賛成 20世紀前半の日本の社会主義者・マルクス主義者について、その生涯、思想的背景、活動と影響、それを生み出した時代背景について非常にわかりやすくまとまっていると思います。人物伝として優れた記事になっていると思います。1点だけ細かいことですが、別名の一覧の中にある名前が本文では土方 黎子、テンプレートでは土田 黎子となっていますが、どちらかが間違いでしょうか。それとも両方とも使用されていた別名でしょうか。注釈には土方とありますが、文中にほぼ登場しない名前のため正誤が判定できませんでした。--TEN(会話) 2018年7月28日 (土) 05:48 (UTC)
- 細かなご指摘をありがとうございます。前掲『この風の音を聞かないか』p128を再確認したところ、「土方」姓が正解、「土田」は誤記です。失礼いたしました。2018年7月28日 (土) 09:55 (UTC)(差分)の編集にて訂正いたしました。--逃亡者(会話) 2018年7月28日 (土) 09:58 (UTC)
賛成のみ3票の状態が48時間継続のため、早期終了・通過となります。--Tam0031(会話) 2018年7月30日 (月) 15:26 (UTC)