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Wikipedia‐ノート:記事名の付け方/日本の皇族/当代天皇の項目名について/過去ログ2008-03-20T10:10:32Z

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関連ページ


評価表

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い.御名 (XXX) ろ.今上天皇 (XXX) は.天皇 (XXX) へ.日本国天皇 (XXX)
1.正式に用いられる - - A A
2.敬意を失していない D - - -
3.必要以上に敬意を表していない - - - -
4.政治的、宗教的中立性 B A A A
5.国際性 A B B A
6.日本語としての正確さ B D A A
7.永続性 A D A A
8.平明さ C B A B
9.既成の百科事典での用例 A B D D
10.マスコミでの用例 C C A C
11.学術書での用例 - A - -
12.過去の天皇の項目名との一貫性 D A B D

A=非常に優れている、B=優れている、C=やや劣る、D=劣る、-=デメリットがない

各個評価

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日本国天皇

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海衛士さん 2006年10月12日 (木) 00:44 (UTC)の発言を受けて

呼称としての使用例や考え方をお聞きしましたが、やはり(へ.1)に反映すべき材料に思えます。(へ.8)はCでしょう。--ととりん 2006年10月13日 (金) 10:55 (UTC)

平明さとは一体どういうことが基準になるのか。。。--海衛士 2006年10月14日 (土) 09:53 (UTC)

過去ログ「ととりん 2006年9月30日 (土) 14:42 (UTC)」とその一段上の記述をご覧下さい。ちょっとわかりにくくなってますが、『「マスコミにおける用例」は~』の部分は「っさん 2006年9月30日 (土) 09:17 (UTC)」のものです。--ととりん 2006年10月14日 (土) 14:00 (UTC)
その言葉を使って、一般の日本語話者がすぐにその対象を同定できる、その単語を聞いて堅苦しい表現だと感じない、あたりでしょうか。または、より口語的な表現である、と言い換えてもいいのかもしれません。-- 2006年10月14日 (土) 14:09 (UTC)

なるほど。有難うございます。まぁ、口語的表現がよいのかというとそうともいえないと思いますが、ただあまり一般的な用例から離れてはいけないので、そのための基準であると理解しました。--海衛士 2006年10月15日 (日) 02:58 (UTC)

今上天皇

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今上天皇に関して、原点に返って調べてみたのですが、広辞苑第四版・日本大百科全書(小学館)で今上天皇の項目を見てみると、重言であやまりとの指摘はありませんでした。(今上のみで「当代の天皇」を指すとはある - 日本大百科全書)ただ、他の面で気になる事がありまして、日本大百科全書の項目を引用してみます。

  • 今上天皇 きんじょうてんのう 現在の天皇を差す呼び方。「上」は天皇の尊貴をたたえる意味を持ち、「今上」「いまのうへ」は当代の天皇をさす。正倉院文書、・・・資料引用部分中略・・・。現在の天皇は皇統譜上一二五代になる。(在位一九八九~ )。名は明仁。→明仁

ここで、「上」は天皇の尊貴をたたえる意味を持ちとあるんですが、これは今上天皇という単語自体に敬意を含む意味があるあるように読み取れます。(ろ.3)の評価に影響するのではないでしょうか。--ととりん 2006年10月13日 (金) 10:55 (UTC)

そうともいえません。今上天皇はもはや名詞化しています。敬意というよりそれ自体が単語化している。その証拠に法的に敬意を込める呼称は天皇陛下に限定されていること。文中に敬意・敬語を表わさない学術論文や専門書、事典のレベルでも今上天皇が使用されていることがいえるでしょう。論文などでは献辞の類以外に敬語は用いませんよね。普通呼び捨てが基本です。それが天皇を表わす際、今上天皇の使用があるというのは、敬意を表することよりも現在の天皇をいいあらわすのに適当であるが故であるからでしょう。今上天皇は敬意を失していないことは事実ですが、必要以上に敬意を込めているかといえば、諾といえないというのが私の見解です。そもそも、皇室用語はすべて封建時代の秩序の中で作られていますから、その意味で敬意・敬称・美称の名残はあって当然でしょう。私は今上は敬称というよりも敬称・美称の名残の部類に入る。即ち、今上の「上」の字をとらえて敬意表現ととるのは、妥当ではないと解します。--海衛士 2006年10月13日 (金) 13:03 (UTC)

今上天皇には適度(必要最低限)な敬意が含まれていると感じられます。論文などでも、適度な敬意を表す事が妥当と考えられ、今上天皇が用いられているのではないでしょうか。-- 2006年10月13日 (金) 18:19 (UTC)
(要出典ってやつかな…と)俊さんの議論には、研究論文の書きかたの作法として「適度な敬意を表す事が必要であり、そのために『今上天皇』を用いるべし」と明記している「論文の書きかた作法」みたいな書物が典拠として必要だと思います。
(語源は語源、語意は語意)該当の記述が気になったお気持は分かりますが、語源に遡るとこうだから…みたいな議論は感心しません。語源がどうあれその語が現在もっている意味で論じるべきです。語源で論じることの危険性についての例を一つあげておきます。おそらくはその同じ百科事典で「天皇」の項目を引くと「天皇は、あめのしたをしろしめすことを意味し云々」みたいなこと、書いてありません?つまり天皇は語源上、天の下一切(無論、全地上)を治(しろ)しめす支配者を示す称号ですが、今日でもそんな意味があるかというと、まあ普通はないってのが正解でしょう。「天皇はその語源上、全世界の支配者に対して用いるべき称号だから日本に限定された君主の称号としてはふさわしくない」なんていう議論はあまり健全ではないと思います。--dakusui 2006年10月14日 (土) 01:52 (UTC)
語源にまで遡ってまで検討を加えるべきではない、とのご指摘には賛成です。ところで、今日また図書館に行って「天皇」の記事を見てきたのですが、語源的な部分の説明は定義文には無く、記事下の節「天皇の称号」(Wiki風に書けば、「天皇#天皇の称号」ですね)にまとめられており、現状との混同が起きないよう配慮されていました。そこで今上天皇の記事ですが、問題の部分には「もともとは・・・」「元来は・・・」など断り書きがなく、今上という用語の成立過程(正倉院時代?)での意味づけ(=語源)であえるとは特定されていません。短い記事ですから節分けなどは無理な話ですが、特定の条件における説明ならば、何らかの前置きがないのは不自然です。ここは素直に用語の現在における意味を詳述していると取るべきだと思うのですが。--ととりん 2006年10月15日 (日) 07:41 (UTC)
「今上」は史記に出典のある語です(日本国語大辞典)。はっきり言って私は「『上』は尊貴を称える」意味を持ち云々という件の百科事典の記述もかなり疑いを持っています。司馬遷がほんとに尊貴を称える意味で「今上」の語を使ったなどというのは確かめるすべがないことであり、司馬遷がそういう意味で使ったという論考も聞いたことがないため。私が知らない論考があれば是非ご提示いただければと思います。
まあ、百科事典がほんとに大丈夫なのか?というのは言いっこなしにします。が、語源ではなく語意として「尊貴を称えている」のならば「今上は天皇の尊貴を称える語であり云々」という記述になっていないことの説明も付きませんし、国語辞典で「敬意を含んだ表現」なりの記載がないことも説明が付きません。百歩譲っても件の百科事典の記載は「語意について言っているのか、語源についていっているのか判断がつかない」ってところじゃないでしょうか。--dakusui 2006年10月16日 (月) 14:25 (UTC)
そうですね。この短い記事のみでは、判断が付かないという結論になると思います。しかし、語意と読み取れる(読み取る人がいる)資料がある以上、両論併記の立場から、これを無視するわけにもいかないと思います。やはりある程度は評価に反映させるべきではないでしょうか。--ととりん 2006年10月16日 (月) 16:28 (UTC)
判断が付かないのならば、反映のしようがない…ってのが穏当なところかな…って思っているのですが。文章の上で「判断が付かない」以上、そう読み取るというのはその人の読み方が誤読であるか、牽強付会であるか、先入観があるか…っていうことです。誤解や誤謬を何かに反映するってのはいかがなもんかと…。--dakusui 2006年10月16日 (月) 22:58 (UTC)
だとすると、判断がつかない文章を、語源の説明と読取ったdakusuiさんの 2006年10月14日 (土) 01:52 (UTC)のご意見は、誤読であるか、牽強付会であるか、先入観があるか…ということになりますが?--ととりん 2006年10月17日 (火) 15:35 (UTC)
(いまごろ気がついてコメントを書くのもなんなんですが)たしかに。ただ、私のもともとの指摘は、「百歩譲っても判断がつかない」であって普通は「語源の説明」ととるでしょ?ってのが本意です。語源の説明ととるにしても、判断がつかないととるにしても反映のしようがないのは同じ事なんでどっちでもいい気はしますけど。--dakusui 2006年10月24日 (火) 22:38 (UTC)どっちでもいいことを書くのもわざわざ書くのも混乱のもとなんで消しときます。
私の方もこれ以上言うことはありませんので、この件についての議論を終えたいと思います。--ととりん 2006年10月25日 (水) 16:40 (UTC)

御名

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政治的、宗教的中立性(い.4)はCかDであろうと思います。中立とは何か?との問いもありますが。正式な名称にそれを求める考えもありますが、私は大多数の意見だと考えています。-- 2006年10月13日 (金) 18:19 (UTC)

決して、多数意見が中立ではありません。だとしたら、先の大戦で中立とは、連合国側こそが中立になってしまいます。中立とは、どのグループにも与しないことです。ですから、「赤」が80、「青」が20だったとき、中立とは赤紫でも紫でもなく、黄や白が中立です。ただし、ウィキペディアにおける「中立的な観点」では、「どちらの意見をも書くこと」が中立なので、赤と青とのまだらが中立ってことになるのかなあと思っています。-- 2006年10月14日 (土) 05:49 (UTC)
中立については色々な考えがあるかと思います。ただ、記事名にどの意見でも書くことはできず、どれか一つを選ばなければならないのですよね。大多数から許容され、論争を招かない記事名こそ中立ではないでしょうか。-- 2006年10月14日 (土) 08:03 (UTC)
俊さんへ。多数・少数といういう視点で判断しようとすると、っさんが述べている通りどちらかに肩入れする結果になり、中立性の維持は困難です。しかし、用語の使用例を調査し、その量の多少で一般的な例かまれな例(あるいは特定の方向に偏っている例)かを判別して議論に反映させることは可能です。そういった視点で検証されてみてはいかがでしょうか。--ととりん 2006年10月15日 (日) 07:56 (UTC)

多数・少数という視点と、用語の使用例の量の多少に、どういった違いがあるのかと思います。
それでも、ととりんさんの提案にお応えしますと、用例は「9.既成の百科事典での用例」「10.マスコミでの用例」「11.学術書での用例」で示されている通りです。御名は既存の百科事典で用例が多く見られ、他では少ない事が判ります。
ただウィキペディアと既存の百科事典は改訂の頻度など性質が大きく異なりますので、新たな観点としてウィキペディアでの用例[1]を調べてみました。以下の通りです。御名のみを記す用例が少ない事が判ると思います。ウィキペディアを執筆する不特定多数の方々は、御名のみを適当と考えなかったのでしょうね。-- 2006年10月22日 (日) 18:27 (UTC)

なるほど、他の百科事典でも他の記事で当代天皇をどう表記しているのか、興味ありますね。調査・集計が大変なので実際に調べるのは無理でしょうが・・・。ただ、この結果からすると、御名のみの使用率が低いということは言えますが、それが政治的・宗教的中立性による判断かどうかが今ひとつ分かりません。(い.4)の評価に用いるには、調べた用例の中から、さらに政治的・宗教的中立性を判断できる例を見出す必要があると思います。--ととりん 2006年10月23日 (月) 15:42 (UTC)

中立を旨とするウィキペディアですから、執筆される多くの方々は、中立と考えられる妥当な言葉を用いるでしょうね。-- 2006年10月25日 (水) 17:32 (UTC)
いかがでしょうか?特にご意見が無ければ、(い.4)はDに変えようかと思います。-- 2006年11月3日 (金) 17:47 (UTC)
どうでしょうか。ウィキペディアは中立なはず、だからウィキペディアに用いられることの少ない語は中立的でない、の論理には無理があるかと。-- 2006年11月3日 (金) 23:30 (UTC)
私の2006年10月25日 (水) 17:32 (UTC)の発言は、ととりんさんの「それが政治的・宗教的中立性による判断かどうか」に対する返答です。-- 2006年11月4日 (土) 08:06 (UTC)
うーん、私も考えてみたのですが、この事例から中立性を判定するのは、難しいように思います。やはり執筆者の政治的・宗教的な立場が明確にされない限り、そういった傾向を断ずるのは難しいかと。そういった意味では、下にある、Adayさん 2006年10月24日 (火) 04:17 (UTC)の事例をもっと詳しく検討した方が可能性があると思います。--ととりん 2006年11月6日 (月) 13:45 (UTC)

評価の終了

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そろそろ評価表をいじるのを終了しましょう。「ろ4」は「-」にしました。「へ.日本国天皇 (XXX)」を入れることについては特にご異論がなかったので、「仮」を外しました。

のこりは「へ8」でしょうかね。-- 2006年10月16日 (月) 12:32 (UTC)

まったまった、ろ.4は他のものがAであるのに一等減じたBにするには出典が必要である。ということで「要出典」とされていたはずです。ですので結局出典が提示されなかった以上、Aにせざるを得ないはずです。こういった混乱を避けるために、4は欠陥のない項目を「-」として評価するべきと提案したつもりだったのですが。--dakusui 2006年10月16日 (月) 14:14 (UTC)
どっちかなと迷ったのです。Aにしました。-- 2006年10月16日 (月) 14:17 (UTC)

ろ4のAに賛成します。「今上」という表現についての討議の中で、かつての語源的概念にまで遡らないことは争いはないと思います。故にdakusuiさんのご意見は正しいと理解します。ちなみに、日本国天皇の平明さについてですが、確か、平明さの基準として、特定しやすさと口語的な用例があるかどうかが判断基準として考えられるというお話があったと思います。私は平明さという点で評価するのであれば、口語的な問題というよりも特定できるかどうかが重要ではないかと考えます。そもそも、天皇を直接言葉に言い表す文化が皆無であればこそ、この問題の難点があるわけで、口語的表現と正確性とは相容れぬ観点で、正確性こそ最も重要でしょう。口語的な用例を判断基準にいれれば、日本国天皇の平明さはBであろうと思いますが、必ずしも口語的表現云々を含まないのであれば、あまり減点の理由は浮かびません。--海衛士 2006年10月16日 (月) 14:22 (UTC)

あのう、今は、「評価項目の軽重を判断する段階に進むための」前の段階ですよね?重要性を元にした論理の展開はいかがなものでしょうか。あと、ここに来て『特定性』を「平明さ」の基準に加えよというのは、「新たに『特定性』を評価項目に追加せよ」と言ってるのと同じです。いささか無理がある提案だと思います。--ととりん 2006年10月16日 (月) 16:28 (UTC)

いえ、基本的に誤解をされていると思うのですが。そうではなくて。っさんの回答を得て特定性はそもそも判断基準の中に入っているという前提でお話をしたわけで。あたらな項目を入れるという趣旨で申し上げているのではなくて、そもそも特定性と口語的表現云々といのうが平明さという基準が入っていて、口語的表現が平明さの基準に入っているでという点について意見を呈したに過ぎません。それだけです。何か重大な問題提起をしたつもりもありませんし意見を言ったまでですので余計なら流して下さい。--海衛士 2006年10月17日 (火) 01:16 (UTC)

(っさんへ)「平明さ」の基準に、「特定性」も入るんでしょうか?私にはそういう認識は無かったんですが。--ととりん 2006年10月17日 (火) 15:35 (UTC)

すいません。私も誤解を招く表現にしたようです。っさんは、日本語話者がその言葉を聞いて同定できること、堅苦しく感じないという点を仰せになったと思います。それで、私は特定云々といいましたが、特定性という概念を新たに投じたいわけではなく、っさんの仰せになった基準のうち、より前者が重要であると述べたのです。誤解をまねいたこと重ねてお詫びします。 ただ、平明さという観点を容れるとすれば、いわゆる「わかりやすさ」ということが軸になると思うのですが、あくまで評価基準としての平明さを考えた時、っさんの仰せになったうち、「堅苦しく感じない」という点については、そういった観点が入るのはどうかなと思ったのです。「同定できる」というポイントが項目名における平明さを考える上での軸ではないかと。そう申し上げたかったのです。--海衛士 2006年10月17日 (火) 16:30 (UTC)

っさんとの合議(過去ログ 2006年9月30日 (土) 14:42 (UTC))を経て、「平明さ」の判断基準をWikipedia‐ノート:記事名の付け方/日本の皇族/当代天皇の項目名について/過去ログ2006-10-12T14:28:18Z#評価項目に追記してありますので(追記したの当時ですよ、勿論)、それをもう一度見て貰えないないでしょうか。っさんからそれを変更するという話は聞いていないで、海衛士さんが基準と思っていらっしゃるっさんの発言は、それの理解を促すための一種の例えだと私は理解しています。--ととりん 2006年10月19日 (木) 13:01 (UTC)
そんなに急いで評価を終えなくても良いんじゃないですかね。今まで長くやってきましたし。各評価をいじるのと、評価項目の軽重を判断するのと、並行してやれない理由はありますかね。結論の期日まで各評価は続けても問題は無いと思っていますが。-- 2006年10月16日 (月) 17:29 (UTC)
うーんと、それだと議論が発散して収拾がつかなくなりそうなので、各個評価に一区切りつける必要は感じます。逆に現在の評価で同意できない点ってどれかなあ?ってのは知りたい気がします。個人的には「まあ、こんなもんだろう」っていうところにはだいぶ近づいていると思っています。--dakusui 2006年10月16日 (月) 23:11 (UTC)
各評価と評価項目の軽重は全く別の話ですよね?議論は発散しないと思っているのですが。今の流れだと、各評価に評価項目の係数を掛けて、単純に計算で結論を得るのであろうと思っているのですが、違いますでしょうか?現在の評価で同意できない点は(い.4)ですね。どう返答しようか考えているところです。ウィキペディアに多くの時間を割けられない者も居るという点を、ご配慮いただきたく願います。評価表は全体的に妥当な感じにはなっているんですけどね。今後、新たな観点が出てくるかもしれないですし。終えなくても良いんじゃないですかね。-- 2006年10月17日 (火) 17:43 (UTC)

(F:) 評価そのものと項目の軽重とは完全に分けて議論しないと、混乱するように思っています。それで、時間で分けようかと思ったのですが、その必要がなければ軽重の判断にはいっていいと思います。どうでしょうか。

それから、現在、評価について具体的に出ているのは、「ろ3」と「い4」でしょうか?-- 2006年10月18日 (水) 14:21 (UTC)

軽重の判断には入るべきと思います。-- 2006年10月22日 (日) 18:30 (UTC)
政治的中立性、宗教的中立性の観点からして、左翼、極左、共産党の機関紙では確実に100%御名の呼び捨てか、御名+さん付けで呼んでいます。御名呼び捨てに中立性は一片も無いです。--Aday 2006年10月24日 (火) 04:17 (UTC)
左派の機関誌で御名を使っているという報告、ありがとうございます。しかし、そのことと「中立性がない」こととどう結びつけようか... 気持ちはわかるんですが。-- 2006年10月24日 (火) 10:08 (UTC)
「へ8」は先週木曜でやりとりが止まっていますが、あと24時間待って議論の継続がないようなら、提案どおりCに修正しようと思います。--ととりん 2006年10月24日 (火) 14:37 (UTC)
口語的でないということで劣ってはいますが、わかりやすさという点ではいい評価になると思いますが。-- 2006年10月25日 (水) 13:49 (UTC)

っさんと同じで、わかりやすいといえると思います。平明さとは、わかりやすくはっきりしているという意味ですよね。口語的であるか否かがわかりやすさの判断材料の一部にはなりえますが、それ自体が評価の昇降を左右する材料になるとは思いません。口語的でなくとも、わかりやすくはっきり理解できるとはいえるでしょう。--海衛士 2006年10月25日 (水) 14:11 (UTC)

うーん、もう一度言いますが、こっちは評価できる、こっちはできないと二つの観点に価値の相違があるのなら、それは本来別個の評価項目として考えるべきことのような気がするのですが・・・。しかし他の方からの指摘もありましたし、議論の長期化は本意ではないので、Bで良しとします。--ととりん 2006年10月26日 (木) 15:15 (UTC)
評価表に反映しました。--ととりん 2006年10月31日 (火) 09:52 (UTC)

評価の軽重

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(F:) では、そろそろ軽重の判断に入りましょう。とりあえず、こんな風に表明してみてください。やり方が悪ければ変えますので。たとえば、

  • 1は2より重い。理由....--~~~~
  • 1は2の3倍重い。理由....--~~~~
  • 2は意味がない。理由....--~~~~

以上、例です。ただし、他の人の意見に反論するのは、しばらく待ってください(異なる意見を言うのは全く構いません)。ごっちゃになりますので。-- 2006年10月24日 (火) 10:08 (UTC)


とりあえず以上です。-- 2006年10月26日 (木) 18:45 (UTC)

ほかはありませんか? これはもう、主観で仕方ないと思っているのですが。-- 2006年10月30日 (月) 03:34 (UTC)

  • 「平明さ」:最も重い。
今回のような場合は原点に返って、Wikipedia:記事名の付け方冒頭部の「日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの」という考え方で判断ができると思います。今回の対象は日本固有の制度と人物であり、日本語母語者の一般的な使用傾向が明らかであれば、それが上記の考え方にかなうと言えます。また、一般的でない候補を採用すれば、利用者はなぜ一般から離れた例を採用するのかと、不自然に思うでしょう。
  • 「マスコミ」:最も重い。
これも日本語母語者にとって日常的に接している表現であり、利用者にとって最も理解しやすい例と言えるでしょう。「日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの」を判断する上で有力な項目と言えます。
  • 「日本語としての正確さ」:重い。いくら一般に流布していても誤用の可能性があれば、問題です。この項目でそれが判断できます。
  • 「政治的、宗教的中立性」:重い。利用者に記事名で中立性を疑われては、記事自体の信憑性が失われててしまいます。

以上です。--ととりん 2006年10月31日 (火) 09:49 (UTC)

重いと考える順に列挙します。

  • 学術書での用例 : 現状、日本語版wikipediaにおける判断の柱になっていると思います。
  • 政治的、宗教的中立性 : これも判断の柱になっていますが、学界基準の方が優先されていると思います。
  • 過去の天皇の項目名との一貫性 : 不規則性を容認するには相当の理由が必要と思います。
  • 敬意を失していない : 著しい非礼は当人に対する非礼であるのみならず、当人を崇敬する集団全体に対する攻撃となりますので慎重な配慮が必要と考えます。
  • 既成の百科事典での用例 :絶対的なものではありませんが、ある程度客観的な基準になると思われます。
  • マスコミでの用例 : 概ね一般に受け入れられていますが、マスコミ的言い回しとして特殊なものもあります。
  • 平明さ : 実用上必要ですが、正確さ・中立性が損なわれると逆に混乱を招くので上記項目を満たす範囲で尊重されるべきと考えます。
  • 国際性 :日本語版としての体裁を損なわない範囲で翻訳などへの配慮をするべきと考えます。
  • 正式に用いられる :記事名としては上記に挙げた基準より優先されているとは思われません。
  • 日本語としての正確さ : 広く用いられていれば語学的に正確である必要はないと思います。
  • 必要以上に敬意を表していない :「好意的な立場で書く」という原則もありますので、社会常識的におかしいレベルでなければ問題はないと思います。
  • 永続性 :あまりに頻繁に変わるような名称でなければ問題ないと思います。

--Extrahitz 2006年11月3日 (金) 14:15 (UTC)

私も評価の軽重について参加してみます。以下、重要と思われる順序でまとめたいと思います。

    1. 正式に用いられる:百科事典は客観的かつ正確に理解するためのもの。標準的な表記であるべき。一般的な用例には正確性よりも利便性が重視される場合もあり、正確な理解から程遠いこともある。
    2. 日本語としての正確さ:日本語として正確でないものが、どうして国際的な百科事典として相応しいといえようか。「正式に用いられる」とともに、「日本語としての正確さ」は読者を標準的かつ正確に理解へ導く上での基本であるといえると思う。
    3. 学術書の用例:学術書の用例は、正式に用いられる表現に則ることから、学術的な用例はきわめて重い。ただ、学術書といえども、外国語で著した論文では、日本語として正しい表記よりも理解しやすいように、その言語の特質にあわした表現方法を用いるケースもある。よって、非常に重要な参考資料ではあるが、日本語としての正確性の方が重い。
    4. 政治的宗教的中立性:百科事典は特定の価値観に立って、思想信条をおしつけるものではない。どのように解釈するかは利用者次第である。あらゆる思想の意図的な投稿を排除し、きわめて客観的でなければならない。但し、中立であるが故に、それぞれの国の特質や文化性、歴史的な背景・経緯を極度に無視或いは軽視する場合も散見され、中立性の意義を見直す必要がある。
    5. 必要以上に敬意を表していない:客観的表記を原則とする以上、非常に重要。但し、文化的背景、歴史的変遷により、敬語が一般名詞として転化するケース、敬称・美称の名残が概念化され、必ずしも敬意を込める意図でなくとも用いられるケースがある。必要以上に敬意を表さないことは基本であるが、だからといって敬語・敬称といった敬意表現のすべてを抹殺することは、かえって妥当ではない。
    6. 他の百科事典の用例:重要。しかし、複数の媒体で代表的で表記法があったとしても、絶対的でなかったり、紙幅の限られた中で便宜的表記の介在が散見され、正確性が必ずしも尊重されているとも限らない。百科事典のひとつであるキペディアにおいて他の百科事典の用例は重いが、それをして盲信したりすることは正しくない。そうなれば、ウィキペディアでの独自の表記を考えてよいのか。匿名であるウィキペディアンの記事にどこまで信用や正確性が担保しえるのかという議論は必ず出てこよう。しかし、ウィキペデイァンによる独自の価値観だけで検討するわけではない。他の公文書、学術文書、専門書等の比較をしながら検討するわけで、ウィキペディアなりの表記方法は創り得ると考える。
    7. 国際性:そもそも、この媒体が世界的なWikipediaという媒体の日本語版であるということは忘れてはならない。日本国内の正確な用法にのっとった上で国際標準の表記方法にも気を配る必要がある。但し、国際的な通用性を尊重するあまり、その概念の生まれた国の歴史・文化的特質を無視した表現方法となり、本来の意味を逸脱する危険も考えられる。
    8. マスコミの用例:マスコミの用例は一般的な表現として解釈される。但し、便宜的な表現も多用されることから、手放しに一般的用例を信ずることもできない。マスコミの用例そのものは重いが、正確性に準ずるものと理解する方が妥当。
    9. 永続性:重要だとは思うが、今上天皇の場合、将来必ず変わりえるわけで今回のケースで永続性が上位にくることは妥当ではない。
    10. 過去の天皇との一貫性:過去の天皇は諡号である。在世中の天皇と同一化は困難であるから、あえて低位に置く。天皇皇室そのものは日本の文化的歴史的背景をもって存続しているものであり、一方で、今日では日本国憲法上の象徴として存続している。過去の天皇は歴史となっており、文化的側面からとらえるのが妥当。しかし、在世中の天皇はいくら歴史的変遷の上に成り立っているとはいっても憲法の象徴として存在している以上、過去の天皇とは区別すべき部分もある。一貫性は重要であるが、一貫性にこだわると正確性を欠く恐れも免れない。
    11. 平明さ:まったく重要ではない。何故なら百科事典である以上、正確性が第一であるから。そもそも、百科事典とは何たるかということを考えた場合、わかりやすく理解することが第一なのか、正確に理解することが第一なのか。普通は後者ではないだろうか。平明な理解を要する場合、入門書などは異なる媒体で期待できる。誰もが理解できる百科事典というのがひとつの理想としてある場合、その意味では平明さは確かに重要ではある。但し、単語の正確な表現を壊してまでわかりやすくすると本来の意味を失いかねない。その意味では単語ををわかりやすくするというよりも、構文ないし文法的な点での改善に努めるべき。ここは天皇陛下の項目名についての議論なのだから、その名称について平明さが重要であるとは考えられない。

以上。--海衛士 2006年11月8日 (水) 00:26 (UTC)

そろそろ意見表明を締め切りたいんですが、いいでしょうか。-- 2006年11月8日 (水) 14:26 (UTC)

「一般論としての評価」が終わったら「百科事典としての評価」に取り掛かるようお願いします。たとえば、上の評価表の「平明性」は「百科事典としての平明性」ではありません。「政治的、宗教的中立性」が「A」というのも、一般論ですね。--miya 2006年11月9日 (木) 04:35 (UTC)
いえ、私は常に百科事典としての評価を皆さんにお願いしてきたし、皆さんもそうされてきたと思いますが。-- 2006年11月13日 (月) 02:10 (UTC)
そうですね。基本的な前提と認識しています。--ととりん 2006年11月13日 (月) 14:08 (UTC)

仮集計

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これまでのところ、4.政治的、宗教的中立性、11.学術書での用例、1.正式に用いられる の順で重要性が語られているようです。それに次ぐのが 6.日本語としての正確さ 9.既成の百科事典での用例 10.マスコミでの用例 といったところでしょうか。-- 2006年11月13日 (月) 02:28 (UTC)

「今上天皇・明仁」はどうでしょう。--以上の署名のないコメントは、211.9.101.66会話/Whois)さんが 2006-11-27T11:47:10 に投稿したものです。

これまでの議論の推移の中では、「今上天皇」と「明仁」の両方の悪いところを併せ持つだけのように思いますが-- 2006年11月27日 (月) 12:12 (UTC)

詳しくはわかりませんが、私としては現在の「明仁」の項目を「今上天皇」へ移動させ、現在の称号に就いて解説してある「今上天皇」は「今上天皇(称号)」と言う項目に移動させるのが適切だと思います。そしてまた場合によっては今上陛下に就いての項目である新「今上天皇」の項目の先頭に曖昧さ回避のテンプレートを貼り付けるのも良いと思います。一例として「日本」の様にです。--16toki 2006年12月18日 (月) 07:47 (UTC)

議論が止まってしまっていますが、いずれにしても、「今上天皇 (XXX)」なり「天皇 (XXX)」のように曖昧さ回避のカッコ書きのある記事名へ移動することが決まっています。-- 2006年12月18日 (月) 08:00 (UTC)

学術書での用例って正式に用いられることより大事なのでしょうか?古代の天皇の呼称についての研究書なら兎も角、現在の陛下について正式な呼び方と異なる呼び方をする学術書ってそもそも中立的じゃないと思うのですが。--板の魔術師 2007年1月6日 (土) 05:11 (UTC)

理屈はどうあれ、今上陛下に対して「明仁」と呼び捨てにするのが中立的というのは間違っています。そういうことが正しいなどと考える方が自称「中立」などといわれるのをみると情けなくなります。そもそも敬意を全く表さないののどこが中立的なのかわかりません。それに何故「今上天皇」という用語が称号の説明になって、陛下のことを「明仁」になっているのかわりません。いずれにしろ、現在の「今上天皇」とう項目は移動させるべきです。--16toki 2007年1月12日 (金) 07:02 (UTC)

古い議論はログをお読みください。そこまで議論を戻す必要がありますか?-- 2007年1月12日 (金) 08:19 (UTC)
過去の議論の完全否定や本項目に関しては今のところ異論を実行する意図はありません。唯、称号を解説している「今上天皇」のタイトルを移動させたいというところです。ところで、また本項目も移動が決定しているのであれば早く移動すべきではないでしょうか?この侭、放置しておくのも今までの議論の放棄に繋がりかねないと思います。編集合戦の虞があるにしても移動はすべきだと思うのですが。--16toki 2007年1月12日 (金) 08:54 (UTC)
これまでの議論の中で、今上天皇の項目はそのまま残し、実際の人物については括弧付きで表すことに合意されています。私も次の段階に進みたいのですが、これまでの議論に参加されていた方がこのところ議論から遠ざかっておられるので、動きようがないのです。次の段階とは、上に書いたように、「今上天皇 (XXX)」にするか「天皇 (XXX)」にするかという問題、また、かっこ内をどうするかという問題です。スモールステップで進んでいますので、あまりあわてないでくださいね。-- 2007年1月12日 (金) 11:33 (UTC)

Wikipediaの英語版では、連合王国のエリザベス女王の項目名はElizabeth II of the United Kingdomです。スウェーデン語版ではカール国王Carl XVI Gustafで、デンマーク語版ではマルグレーテ女王Margrethe 2.で立項しています。アラビア語版では預言者ムハンマドは、単に「アブドゥッラーフの子ムハンマド」とあるだけです。それがNPOVというものではないでしょうか。敬意というのはしょせん感情的なものです。

これまでの議論を遡って読んでいくと「不敬だから」「不快だから」「日本は特別だから」というような、感情が先行して理屈があとからついてくる論調が散見されます。たとえば、このようなやりとり。

政治的中立性、宗教的中立性の観点からして、左翼、極左、共産党の機関紙では確実に100%御名の呼び捨てか、御名+さん付けで呼んでいます。御名呼び捨てに中立性は一片も無いです。--Aday 2006年10月24日 (火) 04:17 (UTC)
左派の機関誌で御名を使っているという報告、ありがとうございます。しかし、そのことと「中立性がない」こととどう結びつけようか... 気持ちはわかるんですが。--っ 2006年10月24日 (火) 10:08 (UTC)

法衣の下から鎧が見える、というものです。〈「明仁」という項目名には中立性がない〉という結論が先にあって、理由付けがあとからついてくるような議論では、客観的な説得力は持ちえません。日本語を母語とする者のすべてが日本国籍を有するわけではありません。誰に対しても説得力のある論拠が必要です。まして、Wikipediaのガイドラインによれば、NPOVは「絶対的で交渉の余地のないもの」だそうです。ジミー・ウェールズが「寛大な独裁者」であることからすれば、漠然と「日本人ならわかるはずだ」というような情緒的な論拠だけで、NPOVの例外規定を認めてもらうことはとてもできないでしょう。

〈正式な呼び方かどうか〉という点も、百科事典の項目名の妥当性を議論するうえでは、あまり重要ではないのではないでしょうか。宮内庁が官報などで使用している用語である、というのは、極論すれば「本人がそのように自称している」というレベルの問題でしかないと考えます。廃位されて国を追われた君主でも、正式な呼び方はあくまで「国王陛下」なのです。またしてもエリザベス女王の例ですが「コモンウェルスの元首」「信仰の擁護者」などの称号は、項目名では使われていません。親王などの身位は、たとえば著書や論文に自署したり、学習院大学の卒業証書に記載されていたりして、一定の客観性を持っているかもしれませんが、天皇や皇后の場合はどうでしょうか。おふたりは著書や論文にただ「明仁」「美智子」とだけ署名しています。また、曖昧さを回避する必要もありません。ほかに中国人なり韓国人なりの「明仁」なる人物がいるとか、芸名を「美智子」と名乗っている著名なアーティストがいるとか、そういう事情があるならば別ですが、ただ「明仁」「美智子」と書けばあのおふたりを指すことは自明です。日本語の人名はラストネームを持つことが当然で、ファーストネームしか持たない人はおふたりのほかにはいないからです。現在の「美智子」の項目をいくら読んでも、わざわざ曖昧さを回避する必要性はまったく見出せません。

それと、評価表では4つの候補が挙がっていたかと思いますが、いつのまに2つに絞られてしまったのですか?--呆庵入道 2007年1月12日 (金) 13:59 (UTC)

西洋の例をいくつかあげられていますが、英国でいうエリザベス2世(統治名)にあたるのが今上天皇で、HM The Queenにあたるのが天皇陛下では?当代の君主に対する中立的な呼び方が全ての文化圏で同一ではないと思います。漢字文化圏では当代の君主の御名の呼び捨ては、誹謗ととられても仕方がないのでは?また、現実に皇室に敵意を持つ方々が畏れ多くも「明仁天皇」等と呼称するのは有名な話と思うのですが。--板の魔術師 2007年1月12日 (金) 14:59 (UTC)
今更ここの話に参加するのも荒れそうで躊躇われていたのですが、「これまでの議論に参加されていた方がこのところ議論から遠ざかっておられる」とのことですので(進行役すら遠ざかっているこの状況は極めて異質と思いますが…)。私は別に好意も敵意も抱いておりませんが(天皇制を支持もしないし、かと言って廃止論を支持もしない。中立というのはそういうもの)、「畏れ多くも」という表現をされる時点でイデオロギーは感じます。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年1月12日 (金) 16:18 (UTC)
追記。上で「「今上天皇・明仁」はどうでしょう。」という意見があります。随分以前にも似たような項目に移動する経緯があって、「右翼からも左翼からも不満が出るような項目を何故考えるのか」といったような突っ込みがあったと思います。私も個人的には同意見です。が、ひょっとするとこれは「逆は真なり」かもしれないとも思うのです。要するに、右翼も左翼も納得しないというのは、裏を返せば「極めて中立」なのではないか、と。どちらにも迎合しないのは、むしろ中立なのではないかと。無論、それが百科事典として相応しいかどうかはまた別問題でしょう。しかし、中立とはそういうものなのかもしれない、という視点は保持すべきものではないでしょうか。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年1月12日 (金) 18:50 (UTC)
連合王国の「Elizabeth II」に当たるのは日本の「明仁」であり、連合王国の「Her Majesty The Queen」に当たるのは日本の「天皇陛下」であると考えます。連合王国の王室オフィシャルウェブサイトと日本の宮内庁ホームページを比較対照すれば一目瞭然です。官報の「皇室事項」欄でも「天皇陛下」と対応関係にあるのは「国王陛下」や「大統領閣下」になっています。
君主の実名を敬避するのは、何も漢字文化圏に限った習慣ではありません。世界中にいくらでもある話です。たとえば、各国の王室のオフィシャルウェブサイトでは大概そうしています。逆に、漢字文化圏の実名敬避は君臣間のそれよりもまず私人間・親族間のものです。たとえば、子は親の諱を敬避しなければなりません。中国人は、日本人と違って、子どもの名前に親の一字をとってつけるということはまずしないそうです。子どもが親の諱を敬避することができなくなるからでしょう。
皇室への敵意を天皇や皇后を諱で呼ぶことによって表現する者がいることと、Wikipediaにおいて「中立性の観点」を確保することとは、それほど関連性がないのではないでしょうか。「敵意を示すこと」の反対は「敵意を示さないこと」であって「敬意を表すること」ではないと思います。「敵意を示さないこと」と「敬意を表すること」はあきらかに違います。どちらがより中立的かといえば、当然、前者だと思います。--呆庵入道 2007年1月14日 (日) 12:56 (UTC)
項目名「美智子」に皇后を付けようというのは、「皇后」位が「身位」だから。項目名「明仁」を変えようというのは、日本に天皇の名前を呼び捨てにするような文化や慣習が無いから。ではないでしょうか。外国の中立視点を持ち込もうとしても、日本人編者の多いwikiでは、無理があるのではないか…と個人的には思います。このwikiをどういった人が使用するのか、という点も大事なのではないか、とも思います。個人的には、ここでの結論に異論はありません。もう数年にわたる議論のようですから、結論に達してもよいと思います。どこかで妥協も必要ですよね。--つくば 2007年1月15日 (月) 06:45 (UTC)
失礼ながら呆庵入道さんのご意見に対し、不審な点を感じましたので質問・意見させて頂きます。先ず日本の「明仁」というのは生誕直後即ち最初の名であるということに対して英国の「Elizabeth II」というのが生誕直後の称ではなく即位後の称ではないでしょうか?そして是に伴い「Elizabeth II」に当たるのは「明仁」ではないということです。
仮に「Elizabeth II」と言う称が生誕直後のものであったとしても英国を含めた歴代西洋の君主の称は「XXXX X」というのが常であり、またそれも一般的なものであるのにたいして、日本の歴代天皇の称は「何某+称号」と言うのが慣わしで且一般的でそれを「何某」などというのは本来前代未聞の筈です。百科事典に歴史をつくるなとはいいませんが、ウィキペディアはあくまで事典の分に留まるべきです。
又、ウィキペディアは出来る限り事象を公平且好意的・発展的に扱う筈であり、敢えて不快な表現を用いる必要は無いと思います。不快に感じる表現を用いるのが中立的とはいえないのではないでしょうか?--16toki 2007年1月15日 (月) 06:51 (UTC)

進展的な議論を望む方は読み飛ばしても構いません、不快な表現を用います)感想になりますが、私も含めて結局のどのサイドの方々も相手に対して譲歩する気などないでしょう。今までの議論を全て否定する様な発言ですが、どうも議論というよりただのディベート大会のレベルに落ちてしまった気がします。そもそも自分の長い間培(つちか)ってきた思想をそう簡単に曲げてまで対立する者の主張を反映させるなど無理でしょう。これではいつまで経っても理屈の練り廻しです。一つ全体への助言になりますが、「将を射んとすれば先ず馬を射よ」という諺に習って相手の思想の方に直接意見をぶつけてみるのも得策になるのではないでしょうか?同じ事をくりかえしますが枝葉末節の議論をしていてもきりがない、唯の自己アピールの庭になっている様で残念です。どちらにせよ百科事典という情報を提供する事、一人の人間を扱う事を肝に銘じて作業出来る様になればいいなと思います。頑張りましょう。--16toki 2007年1月15日 (月) 07:20 (UTC)

日本の文化や慣習では、呼び捨てにしてはいけないのは、天皇や皇后の名前に限りません。隣人や同僚の名前でも同様です。
「妥協」はこの場合単に“ごね得”を容認するだけのものです。賛同しかねます。
「不快だからダメだ」というのは、以前からたびたびなされてきた個人的な感情論の繰り返しです。NPOVからはかけはなれたものです。賛同しかねます。
日本の天皇は、死後は「諡(またはそれに代位・類似するもの)+称号」または「諡」で呼ばれるのが一般的です。生前は「諱」「称号」「称号+諱」のいずれかで呼ばれるのが一般的です。
「思想」はWikipediaで議論すべきではないと考えます。Wikipedia日本語版の公的な方針で明確に禁止されているからです。--呆庵入道 2007年1月15日 (月) 12:46 (UTC)
「生前は「諱」「称号」「称号+諱」のいずれかで呼ばれるのが一般的です。」とのことですが、「称号」については判りますが、「諱」あるいは「称号+諱」で一般に呼ぶというのは聞いたことがありません。過去の天皇でもけっこうですので御例示頂けないでしょうか。--板の魔術師 2007年1月15日 (月) 16:18 (UTC)
問題は現在の天皇の呼び方だけですよね。過去の天皇が生前なんと呼ばれていたかは本件の議論とはあまり関係がない。現在の天皇の呼び方は「天皇」「明仁」「天皇明仁」の3種類があり得ます。「天皇」は2人称か3人称であり「明仁」は1人称であり「天皇明仁」は3人称です。いずれもどこかでご覧になったことがおありだと思います。いずれにしても「陛下」はNPOV違反なので使用できません。「今上天皇」は、過去の天皇の呼び方である「諡+称号」と並べたときに整合性を持たせるための便宜的な表現に過ぎません。「今上」は「当代の皇帝」という意味の漢語ですから「天皇」と重ねると意味がかぶります。--呆庵入道 2007年1月15日 (月) 20:39 (UTC)

上に書いたように、4.政治的、宗教的中立性、11.学術書での用例、1.正式に用いられる、6.日本語としての正確さ 9.既成の百科事典での用例 10.マスコミでの用例 の順です。これを、い.御名 (XXX)、ろ.今上天皇 (XXX)、は.天皇 (XXX)、へ.日本国天皇 (XXX)についてみると、「い」は「ろ」に対して優位なのはやっと9.で、それ以外は「ろ」が優位です。になります。また、「は」と「へ」では、以上の項目において「へ」に優位性がありません。一方、「ろ」と「は」を比べると、以上の項目においてほぼ互角です。

以上から、「ろ.今上天皇 (XXX)」と「は.天皇 (XXX)」が候補として残ると考えています。-- 2007年1月15日 (月) 13:30 (UTC)

ご解説ありがとうございます。よくわかりました。ただ、私としては、評価表自体にいささか注文をつけたい気持ちもありまして…。たとえば(い.4)や(い.6)や(ろ.8)などのの評価はもう少し高くてもよさそうな。まあ、私はアカウントを取得したのが去年の8月で、この議論の存在に気づいたときにはもう仮集計が始まっていたので、いまさら四の五の言える立場にない…。もっとも、たとえば(は)は「天皇明仁」や「天皇(明仁)」になる可能性もまだあるわけですよね。私は、過去ログをいくら読んでも「明仁」ではなぜいけないのかさっぱりわからないものですから、とにかく“まず改名ありき”の議論にさえならなければと思って見守っております。もちろん適宜に口は出しますが。最初に書いたように、変えるなら変えるなりの説得力は必要だと考えますので。--呆庵入道 2007年1月15日 (月) 20:39 (UTC)
「明仁」でいけない理由は、諱を口にすることは礼を失することになると考える日本語話者が多数いるから、です。敵意すら感じるようです。そこが、一般人を呼び捨てにしているひかの記事との異なる点なのでしょう。-- 2007年1月16日 (火) 03:50 (UTC)
それだけ天皇に特別の敬意を持つ方が多いということでしょう。全員生粋の日本人ということなら意外と多いとも感じられます。ちなみに一般人なら「姓+名」ですが皇室ですと「名」だけになるので同じ呼び捨てといっても示唆するものに違いがあるといえるでしょう。これは「安倍晋三」を「晋三」と呼ぶのようなものです。友人や身内じゃあるまいし。。いずれにしろ早く移動してほしいと個人的には感じます。--16toki 2007年1月16日 (火) 06:40 (UTC)
なぜ明仁天皇が候補の中に入っておらぬ?Sionnach 2007年1月16日 (火) 07:41 (UTC)

「多数いるから」というのはなんの理由にもなりません。100人でも「多数」です。1万人でも「多数」です。100万人でも「多数」です。人数に意味はありません。まして、この議論に積極的に参加しているのはわずかに10人ほどではありませんか。

かりに「多数」=Majorityという意味で言われているのだとしても、それだけではやはりなんの理由になりません。2006年10月14日(土)05:49(UTC)において「多数意見が中立ではありません」と指摘されたのは、ほかならぬさんご自身ではありませんか。

Wikipediaの根本的な方針のひとつであるNPOVは、次のように定義されています。

異なった観点について公平に好意的に表現しなければなりません。

つまり、天皇や皇族への敵意も、ひとつの「異なった観点」として「公平に好意的に」扱わなければならないということです。NPOVが要求しているのは、天皇や皇族に対する「好意」ではありません。ガイドラインの記述は単純かつ明確です。誤読の余地はないはずです。--呆庵入道 2007年1月16日 (火) 11:24 (UTC)

私はこの件について自分の意見を持っていますが、今はまとめ役に徹しています。自分の意見を書かずに他の方の意見を代弁しています。
「明仁」に敵意を感じる人もいれば感じない人もいる。しかし強く敵意を感じるという人が日本語話者の中に多くいるとしたら、強く敵意を感じる話者にとっては、その用語は敵意を内包しているのだから、日本語として中立的な表現といえない、という意見に一理あると思います。-- 2007年1月16日 (火) 15:00 (UTC)
まず、小生は「今上天皇(xxxx)」がベターと考えています。数ある天皇陛下を指す表現の中で、失礼ではないが最も敬意の度合が小さく、政治的にニュートラルな言葉だと考えるからです。貴方は誤解されているようですが、明仁や明仁天皇という表現を嫌悪している方は、敬意のある表現をせよといっているのではなく、失礼な表現は避けよといっているのです。NPOVですが、小生も新参者なので誤読をしていたら申し訳ないのですが、「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」とあります。「今上天皇」という表現をする人の皇室に対するスタンスはそれだけでは判りませんが、「明仁」という表現をするひとの立場は明らかですよね、どちらが論争を呼ぶでしょうか?また、「今上天皇」と「明仁」どちらがより一般的な表現でしょうか?(「今上天皇」は重言というご指摘ですが、gooleで調べますと「今上皇帝」で多数の漢籍が「今上天皇」でも少なくとも明治の用例は見つかりますので、誤用とはいえない)あと付け加えると、「天皇明仁」あるいは「明仁」と呼ぶべきと主張する人もいるという一文をいれれば、「異なった観点について公平に好意的に表現しなければならない」という点も満たされると思います。--板の魔術師 2007年1月16日 (火) 13:18 (UTC)
「「明仁」という表現をするひとの立場は明らかですよね」…そのような事はございません。少なくとも私は皇族に「さま」付けなぞしませんし、「明仁」と呼びます(いずれも呼び捨てという訳では無いので、念の為)。あなたが私のスタンスをどうであると捉えようと構いませんが、別に敵意なぞ抱いていないのは前述の通りです。そのような存在はマイノリティーだと仰るならばそれまでですが、そうした部類の人間もいることをお忘れ無きよう。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年1月16日 (火) 16:42 (UTC)

天皇を「明仁」と呼ぶことを、天皇への敵意を表現する手段としている者がいる。それは否定しません。そういう人もいるでしょう。しかし、それだからといって、天皇を「明仁」と呼ぶことが、つねに天皇への敵意の表現として解釈されなければならない、ということにはならないはずです。

天皇を「明仁」と呼ぶ立場と呼ばない立場と、どちらがより論争の種になりやすいか、という比較は意味がありません。そのような比較は、現に論争になってしまっている以上、呼ぶ立場も呼ばない立場も同様に論争の種になるのだ、という結論しか導きません。

また、論争の種にならないから「明仁」よりも「今上天皇」のほうがWikipediaの記事の項目名として優れている、とは言えません。NPOVが要求しているのは、そのような単なる“事なかれ主義”ではないはずです。「論争の種」云々の記述に続けて「偏りのない記述は、最も普及している観点だけを提示するものではありません。また、最も普及している見方を正しい見方として提示するものでもありません」と記されています。この方針自体が論争の種になりやすいことは、この部分だけでなく「Wikipedia:中立的な観点」の記述の全体が、さまざまな批判に対してながながと弁明するかたちになっていることに示されていると思います。政治的な雑音に惑わされることなく、天皇に対するスタンスは同じ日本語を母語とする者であっても多様であって決して一様ではないのだという事実をきちんと明示することは重要な意味があるものと思います。それこそがNPOVの精神に合致するものだと思います。

Googleでヒットした「今上天皇」の用例というのは具体的にはどんなものでしょうか。私も検索してみましたが、それらしいものが見つかりません。また、Googleでヒットした件数の多寡は「今上天皇」という言葉が誤用かどうかを判断する根拠にはなりません。なお、私は「今上天皇」が誤用であるから項目名として不適当だ、ということを主張するつもりはありません。ただ、誤用ではないから項目名として適当である、ということにはなりません。--呆庵入道 2007年1月18日 (木) 13:18 (UTC)

貴方の引用されているところを読み返しましたが、本文を想定しておりタイトルについてはあまり想定されていない気がします。当該箇所は、「名前を直接呼ぶことへの抵抗感、実際に使われている頻度から今上天皇を主張する人がいる。しかし、百科事典は中立を旨とするべきで明仁がふさわしいという人もいる、また天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇でなければ駄目という人もいる。」といった文書にすべきといっているのだと思います(左文書はあくまでも。PとかQでは判りにくいので作った例です、意見はわざと3つにしています。誤解なきよう)。どの意見もけなさず、客観的に紹介しなさいということですよね。本文なら難しくないですがタイトルについては如何でしょうか?意見が2つなら今上天皇(明仁)or明仁(今上天皇)という案もありえますが、3つ以上なら・・・。NPOV以外の要素で決めるしかないと思いますが。それとgoogle検索ですが舌足らずでした。条件日本語で「今上天皇 今上皇帝」で検索してください。「自由民権期の天皇観」というサイトには当時の裁判記録も載っています。漢籍については中文頻体字で「今上皇帝」で検索ください。例えば「巴蜀道教碑文集成」というサイトの碑文では南宋孝宗が今上皇帝と表記されています。日本での用例は検索条件の工夫次第でもっと古い用例も拾えると思います。
すみません署名忘れてました。--板の魔術師 2007年1月19日 (金) 14:58 (UTC)
私は今上天皇の項目名については改名派( 日本国天皇(明仁)もしくは今上天皇(明仁) )ですが、「明仁」という項目名が必ずしも不敬不遜であるとか、公平ではないと必ずしもとらえてはいません。明仁という項目名に妥当性があるとすれば、客観的証明が困難で、法的な名称に拠るのがベターであるとすれば、氏のない皇室においては明仁という項目名もまた自然かつ妥当性を有するとは思います。しかし、私はあえて改名を主張するのは、要は全体のバランスなのです。

天皇は憲法の象徴であるとともに、連綿と続く皇室の継承者であり、また外交上は実質的に元首または君主としての待遇を受ける地位でもある。世間一般的な理解とともに法的・政治的・文化的・国際的な視点に耐え得る整合性を有することが原則であろうと思います。 特に歴史上の天皇との比較や宮号身位を含めた項目名となっている皇族との比較、括弧付きで地位を表記している諸外国君主との比較をしても、明仁のみがやや表現として孤立化している。特殊な地位ゆえかきわめて整合性のない表現になっているというところに問題意識の核があります。 今上天皇が今上天皇個人と称号とに区別され得るのであれば、明仁という名そのものも、今上天皇にのみ独占されているわけではないのであって、明仁を項目名の基本とするにしても、明仁のみでは明らかに不都合である。また、諸外国の君主では例えばイギリス女王がエリザベス2世 (イギリス女王)という表記をしているのを鑑みると、せめて、人名及び地位・称号の表記はあってしかるべきだろうと思います。 幸い、きわめて慎重かつ建設的な議論が展開できており、これまでの議論では今上天皇(明仁)またはその他の案で議論しているのでその中から選択しをしぼっていければいいとは思います(個人的には日本国天皇(明仁)または明仁(日本国天皇)のいずれかがベストと考えていましたが)。 いずれにせよ、百科事典ということで、特に特定の分野の事典ではないという意味もあるし、さらには明仁が如何に正当であろうと、一方では無用な争いを起こす表現であるということもまた厳然たる事実ではある。再び火種を残すことを避け、多角的な視点に耐え得る表現となることが私はベターであろう、かように思います。--海衛士 2007年1月20日 (土) 02:54 (UTC)

NPOVを確保するためのひとつの方策として、ガイドラインが記事本文に各論を併記することを挙げていることはご指摘のとおりです。一方、記事本文と違い、記事名では各論併記という方策は物理的に採れないこともご指摘のとおりです。しかし、それだからといって、記事名ではNPOVを逸脱してもかまわない、という結論には賛同しかねます。むしろ逆に、各論併記ができない分だけ、記事名ではより厳格にNPOVが貫かれるべきだと私は考えます。一定の価値判断を含む記事名よりも、単純な事実の指摘であってなんら価値判断を含まない記事名のほうが、Wikipediaにおいては優れた記事名だと言えるのではないでしょうか。
私は、Wikipediaにおいては整合性よりも中立性のほうがはるかに重い、と考えます。もちろん整合性をまったく考慮しなくてよいとは申しませんが、本件の場合、現状でも整合性への配慮が不足しているとは言えないでしょう。
まず、現に生存している天皇とすでに死去した天皇とは同列に論じられません。両者の呼び方が整合性を持たないのは当然です。「平成天皇」という表現が、誤用と言われ続けながら根強く用いられるのは、正確さよりも整合性が優先されているからです。
天皇と皇族とが同列に論じられないことも同様です。皇族の記事名が宮号や身位を伴っているのは、正確さを最優先してのことではないでしょうか。「寛仁親王」「寛仁親王妃信子」のような一般になじみのない表現が記事名として採用されているのも同じ理由でしょう。天皇についても同じスタンスでよいと考えます。
君主の記事名に括弧つきのものが散見されるのは、たとえばルートヴィヒ4世のように、実際に同一の言語圏に同じ名前を名乗った君主が複数いるためです。括弧をつけて区別するのは、君主の地位ゆえのことではありません。単に曖昧さ回避のためです。コンスタンティノス7世のように重複のおそれがない人物であれば、括弧は必要ありません。エリザベス2世の場合は、おそらく有名な豪華客船と区別するために括弧がついているのだと思います。本件の場合、曖昧さを回避する必要がまったくないことは、すでに2007年1月12日 (金) 13:59 (UTC)で述べました。
私は、現在の記事名が「無用な争いを起こす」あるいは「火種を残す」ものだとは考えませんが、かりにそうであったとしても、それは記事名が悪いのではなく、無用な争いを起こしたり火種を炎上させたりする者たちが悪いのです。NPOVを損なってまで現在の記事名を変更する理由にはなりません。2007年1月18日 (木) 13:18 (UTC)で述べたとおり、NPOVが要求しているのは“事なかれ主義”ではないと私は考えます。--呆庵入道 2007年1月20日 (土) 14:35 (UTC)

なるほど、仰せの旨、一理ありと解しました。確かに議論の中では色んな要素を比較しましたし、その意味で中立性は整合性よりも重いというのならばその点には異論ありません。しかし、中立性と整合性はそもそも対立したりわけて考えるものなのかという点ではいまひとつ合点がいかぬところもあります。中立にして整合性のとれる表現こそベターではないか。 そもそも、エリザベスやヴィクトリアが曖昧さ回避ゆえであるならば、明仁とて曖昧さ回避を適用できる余地がおおいにあるのではないか。太郎などのように代表的な人名ではない故、すべての人名が項目化される必要性はありませんが、著名人の中にも明仁(みょうじん)や明仁(あきひと)という氏や人名が存在している例もあることからも(二宮明仁矢野明仁田中明仁丹羽明仁畔津明仁明仁愛子、松村明仁)、明仁がそのままの記事名であってよいのかという点は、やや疑問の余地を感じます。--海衛士 2007年1月21日 (日) 04:43 (UTC)

まず確認したいのは、漢字圏において君主をで呼称することは著しい非礼であることです。これは記事を参照していただければお分かりであると思います。非礼であり、一般的にも使用されていない呼び方がNPOVであるというご主張には全く賛同できません。情報記述に関して「事なかれ主義」的に筆を矯めることは問題ですが、伝達情報を損なうことなく言い換えることができるのであれば、一般常識的な礼儀に配慮するべきでしょう。礼儀の存在を知りつつもそれを無視することは敵意の表明であり、NPOVとは言えません。近年において差別用語とされているが、本来的には侮蔑の意味を持たない表現に関しても、Wikipediaは今までこのような姿勢で臨んできています。--Extrahitz 2007年1月21日 (日) 23:16 (UTC)

繰り返しになりますが、本件の場合、曖昧さを回避する必要がまったくないことは、すでに2007年1月12日 (金) 13:59 (UTC)で述べました。ほかに「明仁」というファーストネームを持つ人がどれだけいようと、天皇がラストネームを持たない以上、ほかの「明仁」と重複するおそれはまったくありません。まして「明仁」というラストネームと混同するおそれは皆無です。現在の記事名は、中立性と整合性をともに充分に満たしています。
これも繰り返しになりますが、君主の諱を敬避することは、漢字によって書き表す言語を用いる文化に限った習慣ではありません。また、漢字によって書き表す言語を用いる文化においては、敬避されるのは君主の諱だけではありません。そのことはすでに2007年1月14日 (日) 12:56 (UTC)で述べました。まして、現代の日本において、天皇の諱のみをことさらに敬避することは、もっぱら好事家の教養にとどまるところであって、一般的でもなければ常識でもありません。
これも繰り返しになりますが、天皇を諱で呼ぶことを天皇への敵意の表現としている者がいるからといって、天皇を諱で呼ぶことがつねに天皇への敵意の表現として解釈されなければならないわけではないことは、すでに2007年1月18日 (木) 13:18 (UTC)で述べました。いわゆる“差別用語”が排除の対象にされるのは、その表現がつねに被差別者への侮蔑の意味を込めて使用されてきた実態があるためであって、その表現の本来の意味に問題があるからではありません。まして、諱で呼ばれることが天皇に対する差別として機能しているような実態は存在しません。--呆庵入道 2007年1月22日 (月) 12:05 (UTC)
政府の公式用法は当然のこと、右から左まで全てのマスコミが一致して遵守している儀礼習慣を「好事家による教養」と片付されることは理解に苦しみます。差別用語も「常に」侮蔑の意をもって用いられているものではありませんし、バカチョンカメラのような明らかに後付け的に差別用語とされているケースもありますが、こういった例も含めて敵対的と捉えられかねない表現は避けることがwikipediaにおける慣習です。「敵意をもって使われない場合もあるが、一般的に敵意のある表現と捉えられる」という意味では差別用語と諱表記は全く変わりません。また、漢字圏以外「でも」避諱のごとき習慣があることは漢字言語において避諱を行わない理由にはなりません。--Extrahitz 2007年1月22日 (月) 14:12 (UTC)
Extrahitzさんの観点については、すでに議論されています。過去ログをお読みください。-- 2007年1月22日 (月) 23:04 (UTC)

官公庁が公式に用いている敬称が「本人の自称」のレベルにとどまることはすでに2007年1月12日 (金) 13:59 (UTC)で述べました。官公庁の“お墨付き”が必ずしも記事の正確さを保証するわけではありません。

天皇を諱で呼ぶことが、もっぱら天皇への敵意の表現として解釈されるのだとしたら、それは解釈する側の誤読というべきです。日本語を母語とする者にとって、そのような解釈が一般的である、などという事実は存在しません。むしろ、それが特殊な解釈であるからこそ、かえってことさらに声高に主張される必要があるのです。

多くのマスメディアで天皇や皇族に特殊な敬称・敬語が使用されるのは、少なからず、いわゆる“菊のタブー”の威圧によるものです。単に自然な敬意の発露というだけで説明できる性質のものではありません。--呆庵入道 2007年1月23日 (火) 13:18 (UTC)

少なくとも西洋の君主についてはwikiの他の君主の項目もその国の自称を使っていますよ。西洋の君主の呼び名は、即位時に君主自身が決める非常に政治性の高いもので、例えばエリザベス2世の場合、スコットランドにおける統治名の問題が発生しています。(スコットランド参照)スコットランドを治めたはエリザベスという女王は過去いないので、現女王はスコットランドではエリザベス1世であるというのも客観的に見ると一理あるのですが、wiki英語版でもその主張を本文のかなり下のほうに取り上げているのみです。これは官公庁(王室or裁判所)の“お墨付き”を重視していることにならないでしょうか?また、所謂「反天皇制」を標榜する政治団体が、天皇を諱で意図的に呼ぶことで誹謗の意味を込め、諱で呼ぶことを政治的にバイアスのかかった行為にしているのを本当にご存じないのでしょうか?プラカード事件の言葉なんていい例ですよね。このような言葉を戦後「反天皇制」を標榜する政治団体が使い続けている実態があります。貴方のおっしゃる特殊な解釈などではないです。念のため申し上げますが、小生は皇室崇拝をするような方が使う過度の敬称をつけた言葉を主張しているのではありません。政治的な偏向ができる限り無い用語を使うべきだと主張しているのです。それと、貴方は以前「「生前は「諱」「称号」「称号+諱」のいずれかで呼ばれるのが一般的です。」とおっしゃられましたが、現在の天皇陛下で「諱」または「称号+諱」の形で著されるのが一般的に使われているという例を示してください。--板の魔術師 2007年1月24日 (水) 13:52 (UTC)

君主が政治を業とする者である以上、その名前が一定の政治性を帯びるのは当然のことです。本件記事名をめぐる議論も、当然にその前提のもとになされてきたものであるはずです。しかし、そうは言っても、やはり名前は名前であって、称号とは区別して考えるべきです。両者はあくまでも別のものです。日本における「明仁」に対応するのは、連合王国における「Elizabeth II」であり、日本における「天皇陛下」に対応するのは、連合王国における「Her Majesty The Queen」です。君主の名前がどんなに強い政治性を帯びたものであっても、その点は動かせないと考えます。将来プリンスオブウェールズが王位を継承しても、継承されるのはあくまでも王権とそれを表現するもろもろの称号群であって、名前ではありません。新国王がElizabeth IIIを名乗ることはまずあり得ないでしょう。

Wikipedia英語版のエリザベス女王の記事でスコットランドにおける王名をめぐる論争に関する記述が「かなり下のほう」に位置していることはご指摘のとおりです。しかし、それは、当該記事において「Titles, styles, honours and arms」の節自体が「かなり下のほう」(最新版である10:51, 26 January 2007の版では、第13節)に位置しているためではないでしょうか。英語版のエリザベス女王の記事を執筆した人たちにとっては、女王の正式な称号を記す意味は、映画で女王を演じた女優の顔ぶれへの言及よりも劣る、その程度のものだったということになりはしないでしょうか。

ご指摘の「実態」なるものに対する私の立場は、これまでも再三述べてきたとおりです。天皇を「明仁」と呼ぶことを、天皇への敵意を表現する手段としている者がいる。それは否定しません。そういう人もいるでしょう。しかし、それだからといって、天皇を「明仁」と呼ぶことが、つねに天皇への敵意の表現として解釈されなければならない、ということにはならないはずです。「実態」なるものが何百件あるのか何千件あるのか存じませんが、そのような行為にわれわれがあえて追随しなければならない理由はありません。言いたい者には言わせておけばよいのです。われわれはただNPOVに徹するだけです。彼らが彼らの立場に即してWikipediaの記述に手を加えてきたとしても、そのような「政治的」に「偏向」した編集は元に戻してしまえばよいだけです。それこそがWikipediaの他の百科事典にはない美点ではないでしょうか。

「一般的」か否かについては、とりあえずこちらが参考になるのではないでしょうか。なお、私は「今上天皇」と「明仁」とでは、どちらがより一般的な表現かなどという不毛な議論に熱中するつもりはまったくありません。用例の多寡が記事名の妥当性に直結するわけではないからです。まして、Wikipediaでは、原則として多数決は排斥されることが公式な方針として宣言されています。--呆庵入道 2007年1月26日 (金) 15:47 (UTC)

小生の主張の前提は「今上天皇」はNPOVに違反していないしその他の点でも問題が少ない、その上で「明仁」の問題点を挙げている(「明仁」がNPOV違反でないにしても、より問題が少ないほうを採用すべきという主張です)。貴方は「明仁」のみがNPOVに沿っているという前提で、NPOV以外の要素はさほど重要でない、というお立場の気がします。前提条件が異なる上に議論がかみ合ってません・・・。このまま進めても結論がでない気がします。仮集計との絡みも含めて、議事の方向性を決める必要があるのかなと思いますが、いかがでしょうか--板の魔術師 2007年1月26日 (金) 17:51 (UTC)

前提条件が異なるとも、議論がかみあっていないとも、私は考えておりません。前提条件が異なるとお考えなのであれば、まず前提条件を共有する努力をなさるべきです。議論がかみあっていないとお考えなのであれば、まず議論をかみあわせるための努力をなさるべきです。「議論がかみあわない」のではなく「まだ議論がはじまっていない」のです。たった2週間ほど、わずかな言葉をやりとりしただけで、短兵急に「結論が出ない」と決めつけることには賛同しかねます。
たとえば、私は、現在の「明仁」という記事名について、板の魔術師さんが挙げたいくつかの問題点がいずれも取るに足りないものであることを論証しようと努力してきたつもりです。板の魔術師さんも、ご自分の意見を記事に反映させたいのであれば、それなりの努力をなさるべきです。
私の立場は、単純かつ明確です。「まず改名ありき」の議論であってはならない。それだけです。このまま議論することを回避して結論を出さないのであれば、それはただ記事名が現状のまま凍結されるだけのことです。--呆庵入道 2007年1月28日 (日) 11:59 (UTC)
これまでの議論で感じてきた違和感の理由が判りました。貴方は「「まず改名ありき」の議論であってはならない。」、即ち「改名すべきかそうでないか」を議論されていたのですね。変だなと思っていた貴方の論の進め方も理解できました。
しかし、念のため過去ログを読み直しましたが、この議論は基本的に改名を前提に進んできてます。もし、「明仁」が採用されても、それは採用された案が現状と同じなだけです。もし貴方が「改名すべきかそうでないか」まで議論を戻すべきとお考えならコンセンサスをとった上で行われたほうがよいかと思います。--板の魔術師 2007年1月30日 (火) 14:36 (UTC)

私の立場は、すでに1月12日の時点で次のとおり申し上げております。

〈「明仁」という項目名には中立性がない〉という結論が先にあって、理由付けがあとからついてくるような議論では、客観的な説得力は持ちえません。日本語を母語とする者のすべてが日本国籍を有するわけではありません。誰に対しても説得力のある論拠が必要です。まして、Wikipediaのガイドラインによれば、NPOVは「絶対的で交渉の余地のないもの」だそうです。ジミー・ウェールズが「寛大な独裁者」であることからすれば、漠然と「日本人ならわかるはずだ」というような情緒的な論拠だけで、NPOVの例外規定を認めてもらうことはとてもできないでしょう。

同様のことは、別の場所でも述べました。幸か不幸か、いまだにどなたからも反論らしい反論がありません。当然、過去ログを熟読したうえでの投稿です。むしろ、過去ログを読めば読むほど、この疑問は深まります。議論の出発点がそもそもまちがっているとしたら、議論に1年かけても2年かけても意味がありません。私ごときが二言三言「それはちょっとおかしいのではないですか」と疑問を呈したらみなさん押し黙ってしまうような、そんな「コンセンサス」になんの意味があるでしょうか。

板の魔術師さんは、議論によって私を論破することを避け、実体のよくわからない「コンセンサス」なるものをふりかざして議論そのものを封殺することを選択されたわけですが、アプリオリに〈「明仁」ではダメだ〉という情緒を共有できる人たちだけでなんとなく形成されてきた“場の空気”的なものだけでは、Wikipediaのなかで日本語版だけが突出した異常な記事名を選択する論拠としては、あまりにも薄弱だと考えます。天皇の諱を敬避すべきか否か、などという問題は、以前「好事家の教養に過ぎない」と切って捨てたことからもおわかりのように、私にとってはまったくどうでもいいことなので、ことさらこれまでの議論を完全にリセットすることを要求するものではありませんが、いまこの場をなんとかやり過ごして記事の改名を強行したとしても、いずれ相応の理論武装をした人が現われれば、そんなものは簡単に覆されてしまうことでしょう。--呆庵入道 2007年2月1日 (木) 13:28 (UTC)

読み返すと1月26日の小生の提案は誤解を招く表現でしたね、その点は申し訳ない。議論がかみ合ってないと感じたし、仮集計をこれ以上ほっとおくのもよくないと思ったので、論点の整理と今後の議論をするにあたっての方向性というかルールを決めようと提案したかっただけでした。まあ、それで貴方の立脚点がこれまでの流れとまったく違うことがわかったわけですが。
貴方のスタンスは例えるなら選挙で候補者を選ぼうとして現職を含む候補者の論評をしている席(「明仁」を含む複数の案の中からどれがよいかを選ぶ議論)で、現職の信任投票(変更するかしないかの議論)を前提に現職(「明仁」)を擁護しているようなものです。それで、根本的に違う前提の上での主張なら、場の参加者へ正式に議題の変更を提案し了承を得るべきではと、お勧めしたわけです。ご理解は頂けないようですが。
まあ、貴方との議論再開という雰囲気でもないので、仮集計の次のSTEPに進むまでしばらく静観させて頂きます。スレ汚し失礼しました。--板の魔術師 2007年2月2日 (金) 17:01 (UTC)

貴方のスタンスは例えるなら選挙で候補者を選ぼうとして現職を含む候補者の論評をしている席(「明仁」を含む複数の案の中からどれがよいかを選ぶ議論)で、現職の信任投票(変更するかしないかの議論)を前提に現職(「明仁」)を擁護しているようなものです。」というご指摘は、比喩としてわかりにくいだけでなく、これまでの議論の把握として不正確です。私の立場に対する論評としても不正確です。私の立場は、単純かつ明確です。「まず改名ありき」の議論であってはならない。それだけです。この点は、すでに2005年12月15日から16日にかけてのやりとりで確認されています。その後の議論はすべてこの前提のもとになされているはずです。この前提が否定されるのなら、それこそ本件の議論は何もかもすべて白紙に戻されなければならないでしょう。--呆庵入道 2007年2月4日 (日) 12:12 (UTC)

「まず改名ありき」の議論ではありませんよ。再検討はされていますが。-- 2007年2月5日 (月) 15:05 (UTC)

案において「永続性」という項目がどれも「優れている」ことになっていますが、本当に皆さんそんなことを思っているのですか?実際に元号が変わった時の事を想像して(それは非常に悲しい事ですがいつか必ず来ます)、その時に「平成天皇」という項目に移動する作業を誰もしないと思っているのですか?それともこれは元号が変わるまでの永続性なのですか?R-H 2007年2月9日 (金) 03:34 (UTC)

確かに変ですね。どの案でもいずれ諡号に変わりますからね。。。ですから皆さんは「評価の軽重」で「永続性」を低く見ているのでしょうね。-- 2007年2月10日 (土) 16:40 (UTC)

称号を解説している項目「今上天皇」の改名に就いて

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ノート:今上天皇で改名の議論を諮ろうとしたところGokiさんよりここで議論するように助言されました。「今上天皇」という項目は現在のところ称号に就いて解説しているものであり、皇族を解説している訳ではありません。それでもここで議論しなければならないのでしょうか?--16toki 2007年1月15日 (月) 05:47 (UTC)

今上天皇の記事改名の必要はないと考える。今上天皇と呼ばれた人物は複数存在し、過去の記述や今上天皇の意味そのものを説明する文脈の引用において今上天皇なる単語が現われ、そこに内部リンクをはられる可能性が否定できない。しかしながら明仁という名前の人間は複数存在するにもかかわらず、明仁の記事が占有されている現状には不都合が生じる。よって明仁天皇への改名を提案したい。Sionnach 2007年1月15日 (月) 11:57 (UTC)
記事明仁については、Wikipedia‐ノート:記事名の付け方/日本の皇族/当代天皇の項目名についてで議論しています。最近また前の議論の繰り返しになってしまっていますが。-- 2007年1月15日 (月) 13:20 (UTC)

本件の議論がいつまでも堂々めぐりを続けるのは、現在までのところ〈「明仁」ではダメだ〉という主張が「不快だから」「不敬だから」「ストレスだから」というような、もっぱら情緒的なものに立脚したものにとどまっているからです。だから、対立意見を押し切るだけの客観的な説得力を持ち得ないのです。

一方〈「明仁」ではダメだ〉という主張が同工異曲に繰り返し蒸し返されてくるのも同様の理由でしょう。いくら言葉を尽くして議論しても、それがもっぱら情緒的なものに基づく主張を前提としている限り、結局は〈理屈はどうあれ嫌なものは嫌なのだ〉ということにしかならないからです。--呆庵入道 2007年1月16日 (火) 11:28 (UTC)

確かに「不快」というのは情緒に基づくものではありますが、それは「明仁」賛成派でも同じような気がします。どちらも幾分情緒を含んでしまうのはしかたのないことですし、情緒だからといって議論の相手にもしないというのは少し疑問があります。現状賛成派も「敬意を表したくないから」というような情緒的な理由で反論している部分があるのではないでしょうか?いずれにしても現状反対派だけを批判されるのには足りないものだと思われます。--16toki 2007年1月17日 (水) 07:05 (UTC)

しょせんは人間のすることですから、情緒的なものをまったくまじえずに議論することはもちろん不可能でしょう。ただ、最初から情緒的なものを前面に押し出して、それを根拠にして対立意見を押し切ろうとするスタンスと、なるべく情緒的なものを排して、美意識や価値観を異にする相手とも議論の前提を共有できるように努めるスタンスとは、同列に論じられないはずです。それに「敬意を表したくないから」という理由を公言した論者がこれまでにいたでしょうか。「不快だから」という理由を公言した論者は複数いました。--呆庵入道 2007年1月17日 (水) 13:36 (UTC)

ところで、その名前を記述するのは不敬だから天皇(xxx)etc.にしようという論理にとって、称号の後ろのカッコに名前を入れるというのはその人物にとって不敬ではないのでしょうかね。それにwikipedia日本語版の常識に沿えば名前(称号)であるはずで、「第三帝国総統(アドルフ・ヒトラー)」なんて項目を作ったら1時間もしないうちに移動してしまうでしょうに。
それに、結局のところページの最初の文の中には「お名前は明仁」といった説明を入れなくてならないのだから、wikipediaの常識どおりに作ればいいと思うのですが。R-H 2007年2月12日 (月) 19:14 (UTC)

今上天皇(明仁)、今上天皇(称号)と分ければよい話ではないでしょうか。 --以上の署名のないコメントは、124.24.215.182会話/Whois)さんが 2007-02-20T07:24:00 に投稿したものです。

はっきり言って、多くのウィキペディアンは陛下の正式なお名前「明仁」でいいじゃないかと思っているのではないですか。そもそも、日本で出版されている百科事典のほとんどで「明仁」が項目名であるのに、「日本版」ではなく「日本語版」であるウィキペディアでなぜ「改名」が必要なのか、さっぱりわからないという人がほとんどでしょう。参考までに、以前にご覧に入れた対照表を再掲します。--miya 2007年3月4日 (日) 06:47 (UTC)

ひとことだけ。こちらで久しく議論がされていますが、百科事典の項目はだれかに敬意を表したり奉ったりする場所ではない、という前提さえ確認できれば、記事名もおのずと決まってくると思います。畏れ多いとか不敬であるとかは理由としても動機としても全く不適切です。私としては、天皇にそのような気持ちを抱いている方はそもそもこのような議論に不向きだと申し上げたい。これは挑発的な意味ではなく、自戒でもあります。Wikipedia:ウィキケットに「あまりにも情熱を持っている事柄については執筆を避けてください。」と記されていることを受け止めていただきたいと思います。--みっち 2007年3月5日 (月) 10:25 (UTC)
はじめまして。
いささか武道関連の編集に参加させていただいてるけど、例えば私からみて当流の宗家やお師さんに該当する人の名前でも、いちいち○●宗家が、とか師範は、先生は、とか書きゃあしない。なぜなら、他人様から御覧なれば宗家でも師範でもナンでもナッシングな、イチ地球人に過ぎない次第を考慮して…なので畏れ多いけど個人的な想いは排除した呼び捨てで記入してる。
いくら世話になってても他人様には関係ナッシング。
ウィキペディアのマナーは兎も角、これ世間一般の社会常識でしょ。百科事典なら尚更ってこと。
--タノQ 2007年3月6日 (火) 07:25 (UTC)
ひさびさに議論に参加します。この件はここまで、「敬称を付けるべきかつけぬべきか」という部分の議論が比較的多かった気がします。しかし、実際のところ「明仁」と「今上(天皇)」という二つの名称のどちらを選ぶかと言うことは、「Wikipediaにおいて、項目名たりうる正式名称を二つ以上もつ事物の項目名をどう選ぶか」という問題なのではないでしょうか。有り体に言ってしまえば、やくみつるはた山ハッチか、瀬戸内晴美瀬戸内寂聴か、という問題と大差ないと思います。これらの項目が、「やくみつる」や「瀬戸内寂聴」を項目名として選んでいるのは、ひとえに「どちらの方が利用者にとって平明であるか」でしかないでしょう。従って、現在の天皇について調べたいときにユーザーは「明仁」で検索するのか「今上天皇」で検索するのか。それを考えればおのずと答えは出てくると思います。
それから、Wikipediaではポール・マッカートニーショーン・コネリーを見ればわかるように、叙勲され"Sir"の称号(これは「敬称」であるとサーに明記されている)を持つ人物に関して、記事名にはせずとも少なくとも本文中で<ある種の正式名称としての敬称を含んだ呼び名>を用いる前例は存在します。これに関しては明仁でも記事冒頭以外では「明仁」と書いていないようなので問題ではないかも知れません。写真のキャプションには「天皇(明仁)」と書いてありますね。Creature 2007年3月6日 (火) 15:57 (UTC)
…本気で書いているのだとしたら勘違いも甚だしい。「やくみつる」も「はた山ハッチ」も、そういう「名前」であり「固有名詞」ですが、「明仁」は名前で固有名詞、「今上(天皇)」は位であり一般名詞。「サー」はともかく、「はた山ハッチ」と「今上」の言葉の違いを混同されるようでは宜しくないと思われます。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年3月6日 (火) 16:06 (UTC)
「今上天皇」が位であることは重々承知しています。しかし、利用者の視点から見たときに「二つ以上呼び方が想定される」ということでは代わりはないわけです。私が「明仁」という項目名で問題視しているのは不敬だとかいうことではなくて、そもそも利用者は「明仁」で探さないだろうということです。「明仁」という名前の認知度自体にかなり疑問があります。位の名前としての「(今上)天皇」と区別をつけたいなら「(今上)天皇(人物)」でも良いわけですし。はっきり言って「平成天皇」が一番探しやすいのではないかとすら思うんですが、さすがにこれでは「間違い」になってしまいますからね。Creature 2007年3月7日 (水) 03:54 (UTC)
失礼ながら、どうにも矛盾した話のように思えてなりません。Creatureさんの意見を整理させて頂きますね。
ファイル:TRON 9-9267.gif 「平成天皇」が一番探しやすい。しかし「間違い」であるため却下。
ファイル:TRON 9-9268.gif 利用者は「明仁」では探さない。従って探しやすい項目ではない。
…であるとしたら、「(今上)天皇」にせよ「(今上)天皇(人物)」にせよ、そのような文字列(括弧付きは最早名詞や単語とは呼べない)で探す者がいるのかと、突っ込まざるを得ません。Creatureさんの理論では恐らく解無しになるのではないでしょうか。少なくとも私は「(今上)天皇」などという文字列を検索フォームに入力することはおよそありません。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年3月7日 (水) 04:14 (UTC)
普通の人は明仁では探さないなんていうのはこじ付けかと。普通の人であれば「平成天皇と呼ばない=明仁で探す」と思いますが。そもそもそんなことも知らない人間が今上天皇などという言葉を知っているとは思えない。それにその理論で行けばナチス・ドイツのフランス侵攻なんて項目はどうなるのか(どうしようもありませんが)。今上天皇を項目名に入れるのであれば、今上天皇に現在の天皇は~と書いてある現在のままの体制でよいのでは。R-H 2007年3月7日 (水) 17:24 (UTC)
上記の議論を拝読しまして、呆庵入道さん、miyaさんのご意見に同感です。私も個人的には今上陛下への崇敬の思いを持っておりますが、ここウィキペディアは百科事典です。崇敬の念を持ち込むべき場じゃーありません。その対象を客観視して記述する、それが百科事典ってもんです。下表を見れば、百科事典の立ち位置ってのは極めて明らかですよね。明仁という項目名をなんでそんなにまでして変えたがるのか、理解できないって人がほとんどだろうと私も思います。--shimoxx 2007年3月6日 (火) 17:29 (UTC)
おそらくですが、日本語の慣習において今の項目名では、陛下に対する侮辱と感じられるからだろうと思います。慣習ですからね。日頃に接する情報などで個人差があろうかと思います。ただ、私も今の天皇を尊敬しており項目名に違和感を感じていましたが、議論を聞き考えている間に、御名の呼び捨てでも受け入れられるようにはなりました。侮辱ではないと言える十分な理由はあると考えております。-- 2007年3月7日 (水) 17:33 (UTC)

非常に見識豊かなユーザーとして名の知られた方も含めて、いわゆる天皇の敬意問題としてこの項目名の問題をとらえておられませんでしょうか。私はその議論に若干ではありますが違和感があります。百科事典たるべく敬意を除いて考えた場合、天皇が先に来るのか、明仁が先に来るのかはもしかすると、卵が先か後かの議論と似ていてあまり重要性はないかもしれません。 秋篠宮文仁親王など親王たる地位であれば連綿たる呼称との整合性が何の違和感もなくすんなり合意されたのに対して、天皇という地位はそもそも呼ぶことすら憚られた文化的背景があるとすると、それはもはや「明仁」という諱以外で合理的な表現方法がないといっても、いいのかもしれないと最近は考えるようにはなりました。私自身も崇敬の念はありますが、ごく一般的なもので百科事典の記事名が敬か不敬かであること以上に、純粋に記事のバランスとして考えておりました次第です。 ただ、その中で、私は「明仁」という項目自体、曖昧回避記事などへの移行が考えられると思っています。つまり、天皇陛下に相当する記事は曖昧回避で細分化された一項目となり、その場合、明仁 (天皇)或いは明仁 (~~)ということになるという話です。補足しておくと、たまたま他に矢野明仁氏のように何人か同名の人がいるという以上に姓なり一定規模以上の法人名となっている事例もあるようなので、曖昧回避の可能性を指摘させて頂いた次第です。--海衛士 2007年3月28日 (水) 14:46 (UTC)

本件記事名について、曖昧さを回避する必要性が皆無であることは、2007年1月22日に指摘しました。現時点まで、その点については誰からもなんの批判も反論もありません。
1月22日以降、本件記事名について曖昧さを回避しなければならない事情が新たに生じたのであれは、承りたく思います。--呆庵入道 2007年4月2日 (月) 14:40 (UTC)

いえ、長々と失礼しましたが、現時点でそうだというわけではありません。偶然に、地名や姓名、法人名を扱う身であることから、項目化に至る可能性のある候補がいくつか散見されたので、将来的には曖昧回避という手段がとられえると想定したまで。故にこの議論自体存在しないと思っていただいて結構です。 ただ、そうした場合、こうした天皇陛下の項目名の記事の論議とは別件でありますし、可能性があれば別途、明仁のノートより、提起されるべきものと考えます(ここでの論議はあくまで明仁という名称が天皇陛下の項目名としての正確性のみを扱う場であることから)。--海衛士 2007年4月3日 (火) 14:43 (UTC)

了解しました。ありがとうございます。--呆庵入道 2007年4月4日 (水) 12:23 (UTC)

日本国憲法において

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日本国憲法の天皇署名は「御名のみ」で肩書きは付されていないようです。 http://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Nihon_Kenpo02.jpg

何といっても憲法における陛下ご自身のご署名ですから、「御名のみ」が最も正式なのではないかと思われます。

--221.187.77.56 2007年4月12日 (木) 08:29 (UTC)

ふと思ったことなのですが、ここで「御名」と書いている方は「明仁」という名称を使いたく無い(使うのを避ける)目的でいた訳で、そうなると「御名」に決まるのであれば「明仁」と書く行為を避けるために項目名や文中表記を「御名」と記していくつもりなのだろうか、と、シュールな事を考えてしまいました。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年4月12日 (木) 09:53 (UTC)
たしかに。シュールっていうのか、想像したら不気味な感じ。
--タノQ 2007年4月12日 (木) 14:57 (UTC)
いえ、ここでは天皇陛下のお名前を一般的にあらわす名詞として「御名」という言葉を用いていますが、wiki記事においては項目名は「明仁」とし、また文中では「陛下」と記すことを提案しています。
なお、法律の公布の際に陛下がなされる署名も「明仁」のみなのですから(御名御璽参照)、wikipediaの項目名もこれにならい「明仁」と御名のみによって表記するのが相当であると考えます。--221.187.77.56 2007年4月12日 (木) 17:04 (UTC)
…? 項目名が「明仁」であっても、文中は「陛下」にするおつもりだったのですか、ここにおられる各位は。何か、根本的な処で何かが違っている気がします。ひょっとして、ここでされている議論そのものがナンセンスな物だったりしませんか?--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年4月12日 (木) 17:22 (UTC)
たしかに。項目名が個人名なのに文中は個人名ぬきで敬称だけだと、かなり不自然。
--タノQ 2007年4月12日 (木) 18:13 (UTC)
「明仁」を推す方は(私もそうですが)、敬称・呼称の問題もさることながら、永続性についても論じてきたつもりです。で、それに付いてはこれまでも「今上」を推す方達が各自、理論を打ってきた訳ですが、それらの理論に納得が行くかどうかは別として、“本文では「陛下」等の表現を用いるから”という理由を以って敬意や永続性の点での「明仁」を否定された方は、私の記憶にある限り、一人もおられませんでした。始めから項目名のみに限っての議論をされていたのだろうか、否、項目名と記事本文は両方存在して百科事典の一項目として成立するものであろうと私は考えています。その意味で、これまで延々と議論していたことが意味のあるものだったのかどうか、疑問に感じたのです。
「御名」という表現(「明仁」では無い)に対してかように感じたのは、「御名」と書く方達の本音が「自分は“明仁”とは書けないから“御名”と書く。しかし百科事典の項目名や本文で“御名”とは書けない(そもそもこれは固有の人物を差す言葉では無く“御芳名”という意味しか持たない)から“明仁”と書く事になってしまうと自分は編集に参加すらできなくなってしまう。故に“明仁”は受け入れられない。“今上”でないと困る」という理由によるものだったのではないかと思ったからです。違うのであればそれは私の思い違いであって謝りますが、ならば本文ではどのように記すのか?…という疑問に再び戻る訳です。
然るにあたっては、先に投票集計を行ったものを一旦破棄し、本文(「明仁」以外の項目を含む)ではどのように記述するのかも含めた上での議論、再投票を行うべきなのではないかとも思えます。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年4月12日 (木) 20:22 (UTC)
この議論は、もともと当代天皇の項目名についての議論であって、本文呼称についての議論ではないのですが…。
そもそも、タイトルと本文呼称は異なるのが当然です。たとえば、小泉純一郎ジョン・F・ケネディがタイトルであったら、文中で彼をあらわす名詞は全て「小泉純一郎」、「ジョン・F・ケネディ」というフルネームで表示しなければならないのでしょうか? この場合などの代名詞が用いられるのは、むしろ当然であるといえます。
そして、項目名が明仁であっても、本文中では、この人物名を指すのに適切な人称代名詞が用いられるべきであり、そしてここで用いられる人称代名詞は、君主に対して用いられるもっとも一般的な代名詞である陛下を用いるのが最も自然であると考えています。--221.187.77.56 2007年4月13日 (金) 06:58 (UTC)
>>自分は“明仁”とは書けないから“御名”と書く。しかし百科事典の項目名や本文で“御名”とは書けない(そもそもこれは固有の人物を差す言葉では無く“御芳名”という意味しか持たない)から“明仁”と書く事になってしまうと自分は編集に参加すらできなくなってしまう。故に“明仁”は受け入れられない。“今上”でないと困る
あり得ません。もともと主語が省略されることの多い日本語で、本文で彼をあらわす名詞を書かなければならないことになることなど滅多にありません。実際問題として、今の明仁の項目においては、ほとんどの主語が省略されてしまっています。--221.187.77.56 2007年4月13日 (金) 07:13 (UTC)
>221.187.77.56さんへ
ええとですね、陛下は敬称でありまして、代名詞などではございません(cf.敬称)。一般に百科事典ですとか論文・研究報告のたぐいでは、敬称を用いないことが当たり前となっております。これは客観性を担保するための措置です。私自身も抵抗を感じることではありますが、本文中の表記とすれば、「明仁は」「彼は」などを採用すべきでありまして、「陛下は」といった敬意を含む表記は排されるべきでありましょう。--shimoxx 2007年4月14日 (土) 17:01 (UTC)
誤解をしているようですが、代名詞とは、「名詞、または名詞句の代わりに用いられる言葉」です。そして「陛下」は一般に「天皇」や「国王」の代わりに用いられる言葉であり、この場合には代名詞です。(ある言葉が敬称であるからといって、それが代名詞でないということにはなりません)
一般に、百科事典や論文・研究報告においては、敬称を用いないのが慣例となっていますが、これはあなたがおっしゃるように客観性を担保するための措置ではなく、むしろ中立性を担保するための措置です。そして、天皇は敬称を持って呼ばれるのが一般であるから、むしろ敬称を用いない表現は中立的とは言えないのではないかというのが、私が本文表記として陛下を支持する理由です。-122.25.10.196 2007年4月28日 (土) 00:28 (UTC)(上記221.187.77.56と同一人物)
確かに「社長」と言えば当該会社の代表取締役を指すでしょうが、これは「その会社を中心にした考え方」であり、且つ「呼称」です。これを「陛下」にあてると、これが「日本を中心とした考え方」であり、「呼称」である事に気付かれると思われます。明らかに中立的な観点から逸脱したものであると考えます。下でも議論のテーマとなっているようですが、飽く迄も「日本語版」である事に注意して下さい。「日本語では慣習的にこう言うだろう」というのは、この場合は当て嵌まらないのではと思われます。
なお、ご自身でも理解されているようですが、可変IPアドレスですと議論に支障を来します。今後も議論に参加されるのであれば、出来ればアカウントを取得される事を強く推奨すると共に、お願いしたい所存です。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年4月30日 (月) 03:31 (UTC)
あれれ↑なんだか取り違えてらっしゃる221.187.77.56氏。「本文で彼をあらわす名詞を書かなければならないことになる」など٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥様はクチにしてらっしゃらない。そんな調子の発言をなすったのは221.187.77.56氏でして、前後ゴチャにしては、ダメ。
221.187.77.56氏には「項目名と記事本文は両方存在して百科事典の一項目として成立するものであろう」の提議を、よく理解していただきたい。だいいち彼=陛下なんて話しは飛躍でね、誰も姓名そろったフルネームの提案なんかしてないし(明仁はフルネームだけど特殊)そして我々の国に君主は存在してないし、牽強付会が過ぎる感じ。
--タノQ 2007年4月13日 (金) 10:02 (UTC)
論旨を明確にして、かつ丁寧な言葉づかいで発言をなされることをお勧めします。--122.25.10.196 2007年4月28日 (土) 00:54 (UTC)(上記221.187.77.56と同一人物)
明確な論旨なら「本文で彼をあらわす名詞を書かなければならないことになる」など٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥様はクチにしてらっしゃらないし、そんな調子の発言をなすったのは、いまや誰が誰やら解らん可変IP氏。そして私は「項目名と記事本文は両方存在して百科事典の一項目として成立するものであろう」たる提議を推した次第。彼=陛下なんて無茶な飛躍ホームランおよび誰も姓名そろったフルネームの提案なんかしてない現状についても指摘した。あとから追記補足して自己弁護してらっしゃるけど私の指摘が先行してます。我々の国に君主は存在してないことも憲法を引き合いに出してるんだな、これ。
明解か否か誰だって読めば解るのに可変IPさん、ひょっとして異国の参加者さんですか。これ差別や蔑視ぬきで感じた印象なんだけど。
タノQ 2007年5月1日 (火) 12:27 (UTC)
(タノさんが日本人であるということを前提にしています。もし「我々の国」が日本でなかったら申し訳ありません、無視してください)「日本に君主がいるかどうか」、すなわち「天皇が君主であるかどうか」は微妙な論争を招く可能性があります。日本は立憲君主制であるという学説もあったと記憶しています。―霧木諒二 2007年4月13日 (金) 10:23 (UTC)
おやおや↑霧木くん、って仰る人。ずいぶんキミは無礼千萬だね。たとえ仮に私が他国民であれ他民族であれ異教徒であれ、出自系を話題にするッてのは個人攻撃とか議論妨害そのものなんじゃあ、ないのかな。行儀わる過ぎ。猛省すべし。
もし私がキミをタイムスリップしてきた人、とかいったら議論にならないでしょ。
立憲君が云々の話しだけど、敗戦前の憲法はともかく現行の憲法じゃあ「象徴」と、明記されてるんだな。敗戦前と現在の我国をゴチャにしては、ダメ。
--タノQ 2007年4月13日 (金) 11:16 (UTC)

議題からズレるので難なのですが…、タノQさん。あなたの仰る事は間違っていないと思いますが(私の思惑も読み取って頂けているように窺える)、挑発的過ぎる気がします。指摘をなさるのは結構なのですが、いま少し、物腰のカドを落とされると宜しいように思われます。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年4月13日 (金) 17:42 (UTC)

議論ズレまくりなのは、私のせいじゃないですよう。
もちろん挑発なんぞ心がけてるわけじゃなくって、さばさば直截トークを心がけてる次第。議論はムニャムニャいって要点はずすと、たちまち活きが下がるから…いや、たしかに上記のは個人攻撃へムカ( ̄^ ̄)ときてたので、向後カドには気をつけます。
--タノQ 2007年4月13日 (金) 20:38 (UTC)

(場所を間違えて私のノートに投稿があったので、本来あるべき場所へタノQが移動させました。以下↓全文)
どうもこんにちは。霧木です。私の発言が波風を立ててしまったようですので、説明に参りました。

  1. 「日本人であるということを前提にしている」という発言について。
    これはタノさんの出自や国籍を問題にしていたのではなく、Wikipedia日本語版(日本版ではありません)において「我が国」という言葉が特定の国(ようは日本ですね)に立った読者を限定する表現であり、中立的な観点から避けるべきと考えられていることを指摘したつもりでした。まあ日本語版では編集者・読者の大部分が日本人でしょうけれども。
  2. 「日本は立憲君主制という説もある」について。
    現行憲法上の天皇の地位は「象徴」であることは私も百も承知です。その一方で現在も天皇を「元首」あるいは「君主」とみなす学説もあります。たとえば上記リンクやWikipedia:井戸端/日本は帝国か?のリンク先をご覧ください。

特に前段の発言は言葉尻を捉えた不要に挑発的なものであり、タノさんを不快な気分にしたことをおわびします。―霧木諒二 2007年4月14日 (土) 08:09 (UTC)

まず正しい引用は「タノさんが日本人であるということを前提にしています。もし「我々の国」が日本でなかったら申し訳ありません、無視してください」でしょ。
1.について
中立的な観点を指摘? 天皇の話しをする場所に参加してる者が「我々の国」だけいえば、ふつう日本。じつはチベット人でした、なんてありえない。要するに何を仰りたいのか、よくわからなくて困る。
2.について
いち学説より、まず憲法にかいてあることを重要だとみなす、それが中立的な観点ではないのかな。もともと節名から「日本国憲法において」とある場所だし。

ところで挑発的っていうより外国人差別みたく、よめましたよアレ。
--タノQ 2007年4月14日 (土) 13:56 (UTC)

横槍を入れるようで何ですが……。
この場にいる方の多くが日本人である事は恐らく事実でしょうが、天皇・皇室制度を研究されている他国の方が議論に参加される事は十分にあり得る事であり、「天皇の話しをする場所に参加してる者が『我々の国』だけいえば、ふつう日本。」と参加者が日本人である事を前提とした発言の方がよっぽど外国人差別です。ここは日本語版であって日本版では有りません。
また、天皇を元首または君主と見なすと言う学説は一般的に、憲法に書いてある「象徴」を「元首・君主」と解釈すると言う事であり、憲法に象徴とかいてある事と対立する主張では有りません。従って「憲法にかいてあることを重要だとみなす」という発言は全く的を射ていないかと。「君主なんだから,陛下にもっと権力を」という右派の方から「日本に君主は不要だから天皇制を廃止しろ」と言う左派の方まで幅広く(とは言っても真ん中部分がすっぽり抜けている様な印象は有りますが)支持する人がいる学説ですし、一定度の配慮はあって然るべきかと。
どちらにしても自分の意見が絶対だと過信した他者への配慮を欠いた発言に見受けられます。--121.3.130.83 2007年4月14日 (土) 23:39 (UTC)

横槍さまへ(←これ揶揄でなく名無しさんだから仮名)かなーり本題から外れてらっしゃる様子だけど、べつだん私の所為じゃないよね。付き合ってるだけだもん。

前半
いや、前後の状況から鑑みて「我々の国」だけいえば、ふつう日本でしょ。チベット人だったら私はチベット人ですけど我々の国では、とか仰るんじゃないの。前振りなくて自然かな。わざわざ日本語版で天皇の話題ノートに他国から参加してらして、とつじょ前振りが何もなく「我々の国」ってだけ仰る無理なケース実在したら、具体例を示していただきたい。ていうか、それこそ困ったちゃん例ですよね。つまるところ日本語版も他国語版も、まったく関係ない話しへ、よっぽどタノQは外国人差別だとか私を形容するのは、こじつけ飛躍ホームラン。
後半
象徴は象徴だと解するのが中立的な見解でしょ。象徴を、いろいろイメージ膨らませて拡大解釈するのは言論の自由だけど、それは中立的な見解かな。しかも私「対立する主張」だなんて一体いつ、かきましたっけ。私の投稿を拡大解釈なさるのは言論の自由じゃあなくて、すごく迷惑な飛躍ホームラン。
末説
上記の通りでして「どちらにしても自分の意見が絶対だと過信した他者への配慮を欠いた発言」てのは、じっさい横槍さま自身のことだと鑑定申上げる次第です。

タノQ 2007年4月15日 (日) 20:33 (UTC)

当代天皇の項目名について 再論

[編集]

 途中から失礼致します。天皇陛下の項目名についてですが、私としては「今上」が最も望ましいと思います。

 「今上」は陛下に固有の御名前ではありません。もし「固有名をもって項目名とする」という原則に厳密に従うならば、在世中の陛下には諡号などの別名はありませんから、「御名」とするしかないでしょう。

 しかし、日本国および日本語の慣習においては、天皇の御名は軽々しく言ったり書くべきものではないことは、常識であり、マナーであります。「敬意を失する」のではなく、「失礼に当たる」のです。だからこそ皇室に敵意を抱く極左団体は敢えて御名呼び捨てで呼ぶのです。法令などに陛下が御署名をされる時は「御名」ですが、これは陛下自身の御名前だから問題無いのであって、他人がその御名を書くことは慎むべきものです。事実、法令の全文を『官報』が掲載する際は、御署名の部分は直接書き写さないで、「御名御璽」なる文字列に置き換えられています。こういったタブーがあることから、陛下のことを言及する場合において御名を直接言う代わりの呼称として造られた語が「今上(きんじょう、いまのうえ)」であります。「今上」という呼称は、単なる「現天皇」「現国王」「現大統領」などとは意味合いが本質的に異なると思います。

 Wikipediaにおいて、神武天皇から昭和天皇まで歴代天皇の項目名はすべて諡号(追号含む、以下同)を用いています。過去の天皇ならば御名の代わりに諡号で呼ぶことになりますが、当代の天皇においてそれと同列の呼び方が「今上」なのです。したがって、陛下の項目名は「今上」とすることを推します。但し、Wikipediaのシステム上の制約(移動の残骸)のため、単に「今上」だけの項目名にすると御代替わりの際に支障を来たすようですので、実際には「今上 (xxx)」という文字列の項目名になるでしょう。(xxx)を付けるのはシステム上の制約を回避するための処理です。記事本文では単に「今上」と記せば良いでしょう。また他項目からリンクを張る場合は「[[今上 (xxx)|]]」とすれば、「[[今上 (xxx)|今上]]」と書くのと同じになるようです。

 ちなみに、私が「今上天皇」ではなく「今上」を推したのは、どなたかが「今上天皇」は重言であり誤用であると御指摘になったからです。ご指摘の通り、単に「今上」と言うのが本来正しい用語法であり、「今上天皇」は重言となります。しかし、実際に用いられる場面においては、歴代天皇の諡号である「〇〇天皇」と語呂を合わせて体裁を良くするための便宜として、「今上天皇」と書かれる場合があります。これは飽くまでも便宜のための表記であって、誤用とまではいかないまでも、正確・正式な表記といえるものではありません。「今上天皇」が国語辞書にも掲載されているのは、実際の用例が多いからと思われますが、「みんな使っているからいいじゃないか」という理屈で、「今上天皇」という正確ではない表記をWikipediaの項目名にしてしまうのは如何なものかと思います。既成の百科事典では『万有百科大事典』が「今上天皇」を採用しているそうですが、正確性・厳密性が求められる百科事典において本来用いられるべき用語法ではないと思います。

 なお、「今上」は指し示す対象が時代によって変化し、WP:DATEDに反するという御意見もありましたが、これについては「御名」を項目名にしたところで、退位された時には諡号(追号)の「平成天皇」に移動しなければならないことには変わりないので、考慮するのは無意味だと思います。またこれを考慮して「御名」を項目名とすることによって、それが陛下に対する失礼に当たるのですから、このケースに関しては例外(WP:IGNORE)として認めざるを得ません。

--平成の光源氏 2007年8月1日 (水) 05:09 (UTC) 2007年8月2日 (木) 23:28 (UTC)

まず、平成の光源氏さんの提示した論点は、いずれもこれまでの議論ですでに取り上げられ、いずれもこれまでの議論ですでに解決済みの問題であることを指摘しておきます。
「日本国および日本語の慣習においては、天皇の御名は軽々しく言ったり書くべきものではないことは、常識であり、マナーである」というのは、事実に反します。将来の皇位継承が容易に予測される立場の皇子女が誕生するたびに、その偏諱や諱そのものを平然と自らの子女に命名することが流行するのがあたりまえという国情の日本にそのような常識やマナーが存在するはずもありません。薬害エイズ問題のとき、旧厚生省のある官僚が逮捕されましたが、彼のファーストネームは「明仁」でした。もちろん天皇よりもはるかに年少の人でした。『官報』が「御名御璽」という表現を用いているのは、単に旧大日本帝国時代の慣行を引き継いでいるという以上の意味は持ちません。いわば官公庁の内規のようなものです。『官報』が「皇室事項」欄で天皇を明仁と呼ばずあくまでも「天皇陛下」と呼ぶのは、一般的な外交上のプロトコルに従ったものに過ぎず、やはり「日本国および日本語の慣習」とは無関係です。
「今上」が敬意を含んだ表現であって、それ単独で称号として用いることができ、さらに「今上天皇」が同じ意味の言葉を重ねたものであることは、私も同じ考えですが、元来「今上」という言葉は漢語であることは指摘しておきます。漢民族も「上」「今上」だけでなく「今上皇帝」という言葉遣いもしていますから、特に日本特有の表現ではありません。
Wikipedia:ルールすべてを無視しなさい」を援用しておられますが、ガイドラインにはこうも書かれています。
もしも、いまあるルールが妨げとなって、ウィキペディアの改善や維持が難しくなるのなら、そのルールを無視することも考えてみてください。その場合でも、Wikipedia:五本の柱にまとめられた基本原則は尊重してください。あなたがウィキペディアを理解しており理性的な行動をとるのなら、きっとうまくいくでしょう。
申し訳ありませんが、平成の光源氏さんの主張はWikipediaの基本原則のひとつであるWikipedia:中立的な観点に決定的に反しています。私が下線を引いた部分の意味をよく考えてみてください。
なお、平成の光源氏さんにお尋ねしますが、天皇を「明仁」と呼ぶことを、天皇への敵意を表現する手段としている者がいる。それは否定しません。そういう人もいるでしょう。しかし、それだからといって、天皇を「明仁」と呼ぶことが、つねに天皇への敵意の表現として解釈されなければならない、ということにはならないはずです。違いますか?違うというのなら立証していただきたいと思います。ちなみに、以前にも何人かの別の方に同じことを質問したことがありますが、私の質問にきちんと正面から筋道立てて回答することのできた人はいままでひとりもいませんでした。--呆庵入道 2007年8月5日 (日) 12:13 (UTC)

昔からの慣行や外交上のプロトコルが、「日本国および日本語の慣習」となぜ無関係なのか、よく解りませんね。-- 2007年8月6日 (月) 17:08 (UTC)

まず「昔からの慣行」というのは、私の投稿のどの部分を指したものか明確にしていただきたいと思います。日本人には天皇や皇族の実名を敬避する習慣がないことを指摘した部分のことでしょうか?
次に、外交上のプロトコルというのは、本質的に非日常的なものなのであって、日常的な慣習とは次元を異にするものであることを指摘しておきます。ふだんやらないことをわざわざやるからこそ、儀礼としての意味があるのです。日常的に誰でもやっていることをそのままやっているだけでは意味がありません。
ついでながら、百歩譲って、平成の光源氏さんがおっしゃる「日本国及び日本語の慣習」なるものが実際に存在したとしても、それが必ずしも常にWikipediaの記事の編集を拘束するものではないことも指摘しておきます。どの言語で書かれていようと、ここがWikipediaである以上、Wikipediaの基本方針のほうが優先されるのは当然のことです。--呆庵入道 2007年8月7日 (火) 12:38 (UTC)

恐縮ですが、横やりをいれさせて頂きます。私は明仁という呼称には反対です。 確かにここは、Wikipediaです。しかし、この問題は日本国の象徴に関する問題でもあります。 また、マスメディアなど日常的には天皇、天皇陛下と呼ばれる事が一般的であるため、その理由がどのようなものであっても、一般的に浸透している呼称を記すのが中立的といえるのではないでしょうか。また、呆庵入道さんは『天皇を「明仁」と呼ぶことが、つねに天皇への敵意の表現として解釈されなければならない、ということにはならないはずです。』とおっしゃていますが、その呼称を現に「天皇への敵意の表現として解釈」している人がいることが事実であり、また明仁という呼称が、「天皇への敵意を表現する手段としている者」がいるのに対し、天皇陛下という呼称は主義主張のために使用されることはありません。失礼いたしました。--SJHS

SJHSさん、あなたの指摘は過去再三に渡り議論が尽くされ、既に結論が出ています。例え広く一般的に使用されていたとしても、用法上「平成天皇」は誤用であるし「陛下」は敬称にあたります。従って、これらは正確性、中立性の観点から明らかに誤りです。それに、一部の人間が批判的に捉えるからといって、それが中立性を失う理由にはなりません。そもそも「明仁」という一個人名が「敵意の手段」になるということ事態おかしな話です。それに、ただ「一般的である」という理由だけで、過去再三にわたって議論された内容を「その理由がどのようであっても」と一括りにしてそれらを全否定すること自体、議論を否定していることに他なりません。--岡崎 教授 2007年11月20日 (火) 00:29 (UTC)

「第125代天皇」ではどうでしょうか。「明仁」には落ち着かないものを覚えます (こういう意見を無視したり意味がないと言ったり、結論が出ていると決めつけたりするのはやめてください)。例えば今の代のダライ・ラマは、「テンジン・ギャツォ」ではなく「ダライ・ラマ14世」で項目が立てられていますよね。--61.114.222.194 2007年12月23日 (日) 04:33 (UTC)

結構長い間議論に参加していなかったのですが、項目名を出し合って評価してというのは前に2度3度やった気がします。 それぞれの意見もけっして間違っているわけでもないので、話し合ってもなかなか分かり合えないでしょう。 一通り候補は出揃っていると思うので、投票で決める頃合ではないでしょうか。--代言人【右】 2007年12月23日 (日) 14:49 (UTC)
(改名案)他の皇族の記事名は「個人名+尊称」がほとんどですので、正確な用法ではないかもしれませんが、「明仁天皇」当りが無難な気がします。--Game-M 2008年1月13日 (日) 11:55 (UTC)
「御名+天皇」という表記法は、あまり慣習的ではありませんが、さかのぼれば記紀にもありますし、よいのでは。--愛国の歌人 2008年2月5日 (火) 07:40 (UTC)
現在の天皇陛下が「第125代」であるというのは、単なる一行政機関に過ぎない宮内庁が管理している『皇統譜』ではそうなっているというだけのことで、学術的根拠は何もありません。もっぱら政治的・イデオロギー的な理由で決定されただけのものです。そのような不正確で客観性のない数字を記事名とするべきではありません。
過去ログを熟読されればおわかりになると思いますが、基本的に、皇族の記事名は「実名+尊称」ではなく「実名+身位」という構成になっています。少なくともこのノートの過去の議論では、身位(親王、王妃など)は尊称ではなく名前の一部と解釈されています。天皇という称号とは同一視できません。そもそも天皇は皇族ではありません。また、記紀における天皇表記を基準とするのであれば、たとえば「仁徳天皇」は「大鷦鴒天皇」に、「雄略天皇」は「大泊瀬幼武天皇」に改名しなければならなくなります。現在のような漢風諡号というものがまだ存在しなかった時代の古文書の記述をもって現代のWikipediaの記事名の当否を論じるのはナンセンスです。いずれにしても、正確でもなく慣習として定着してもいない記事名案をそれと承知のうえであえて推すのは議論として非常に不誠実です。--呆庵入道 2008年2月6日 (水) 13:38 (UTC)

「落ち着かない」。「分かり合えない」。「無難」。理解に苦しみます。この問題は情緒や感情の問題ではないはずです。いずれも、頭から議論を放棄する態度です。これまで積み重ねてきた議論の成果を根こそぎ突き崩そうとする暴挙です。Wikipediaの理念にもルールにも明確に違背するものです。それと、私がこれまで提起してきたいくつかの問題に対して、いまだに誰もまともな反論も批判もしてくれていません。それを放置したまま、ここへきて議論をいっさい放棄しようという提案には同意できません。これまでの2年間はなんだったのですか。まったく無意味だったというのですか。これまでいくつか提起された改名案がWikipediaの記事名としてふさわしくないのは、中立性と正確性が欠けているかまたは不足しているからです。一方「明仁」は中立性も正確性も完備しています。この点をクリアできなければ、ほかにどんな理由があろうと改名は行うべきではありません。--呆庵入道 2008年1月23日 (水) 14:05 (UTC)

腐った話もあって暫く静観していましたが、もっと理解に苦しむものがあるのですけれどもね。この下にある天皇項目名比較対照表というのは何の為にあるのでしょう。「参考迄に」という意味だろうとは思いますが、実は「宗教信仰者における科学書」みたいなものなのではと思い始めています。要するに、宗教や教典の正しさを証明するために科学書を引用したりするものの、教えと反する学説はスルーというあれです。現状、特に参考にしている気配もないですし、さもなければ、何の為の表なのかと思う次第です。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2008年1月23日 (水) 17:01 (UTC)

何の為? もちろん改名案の参考にするためでしょう。記事の名称を検討する上で既存の事典を参考にするのは当然のことです。実際、「称号を解説している項目「今上天皇」の改名に就いて」にて、利用者:miya殿によって引用されていますが。

はっきり言って、多くのウィキペディアンは陛下の正式なお名前「明仁」でいいじゃないかと思っているのではないですか。そもそも、日本で出版されている百科事典のほとんどで「明仁」が項目名であるのに、「日本版」ではなく「日本語版」であるウィキペディアでなぜ「改名」が必要なのか、さっぱりわからないという人がほとんどでしょう。参考までに、以前にご覧に入れた対照表を再掲します。

「宗教信仰者における科学書」というのは、はっきり申しまして暴言ではないですかね。調査して下さった方々の苦労を揶揄する暴言です。--伏儀 2008年3月12日 (水) 13:00 (UTC)

何が暴言なのかまったく判りかねます。それは、現実の「宗教信仰者における科学書」は暴言に然りと伏儀さんご自身が解釈されている、と捉えて宜しいのでしょうか?--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2008年3月12日 (水) 14:41 (UTC)

要するに、宗教や教典の正しさを証明するために科学書を引用したりするものの、教えと反する学説はスルーというあれです。とあなた自身が説明しています。なぜ、「伏儀さんご自身が解釈されている」という話になるのでしょう?--伏儀 2008年3月12日 (水) 16:01 (UTC)

宗教や教典の正しさを証明するために科学書を引用したりするものの、教えと反する学説はスルーしている場面があり、それは事実であるし、その点に対してそう唱えたとして暴言だとは私は思いません。本件もまた然りと見え、故に暴言とは思いません。そしてあなたは?…と訊いたのですよ。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2008年3月12日 (水) 16:12 (UTC)

わかりました。もっと言い方というものがあるだろうと思いますが、対照表の問題点を指摘すること自体は暴言とは言えないですね。ちゃちゃを入れるようなことをして申し訳ないです。とはいえ、具体的に問題点を指摘しないと反論のしようがないということは、ご理解いただけたらと思います。--伏儀 2008年3月12日 (水) 16:28 (UTC)

それで、この議論は結局どうなっているのでしょう? 「自分はファシリテータだ」と振舞いながらうちに喧嘩を吹っ掛けて来られた誰ぞもとうの昔に来られなくなって(ご自身のユーザーページや会話ページも白紙化されておられますが、…会話ページの白紙化って宜しいものなんでしょうか?)、中心となっていた御仁が揃って現れなくなった状況には大いに白けるものがあります。これほど長期間話し合っていて、放置状態? いい加減、この議題、閉じてしまって宜しいのではありませんか?--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2008年3月15日 (土) 11:35 (UTC)

意見をしないのなら暗黙の合意と見なせるでしょう。議論を終了として問題ないと思います。Template:改名提案も外してよいと思います。--伏儀 2008年3月16日 (日) 09:22 (UTC)

了解です。ただ、後から卓袱台を引っ繰り返された挙句、面倒を起こされるのも難ですので、テンプレートはコメントアウトにしておきます。自称ファシリテータに正式に外して頂くとしましょう。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2008年3月16日 (日) 11:12 (UTC)

「今上天皇」の評価について

[編集]

「日本語としての正確さ」がAになっていますが、日本語としては、「馬から落馬する」「橋の橋脚」のような表現であり、正確さはないと思います。但し、この質問は「今上天皇」の項目の削除を狙ったものではないことを附加しておきます。

「永続性」もBというのは良く見過ぎでしょう。「永続性」というテーマに関してはイエスかノーの2択しかなく、ノーである以上はDと考察します。上の署名無しの発言は私のものではありません。履歴を辿るのも面倒なので放置しますが。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2008年3月15日 (土) 11:35 (UTC)

天皇項目名比較対照表

[編集]
百科事典名 出版社 改訂年 122代
天皇
123代
天皇
124代
天皇
125代
天皇
125代
天皇の
皇太子
古事類苑 編纂:文部省 - 東京学士院 - 皇典講究所 - 神宮司庁 1896年(明治29年)~1914年(大正3年) 今上 (?) (?) (?) (?)
国民百科事典
平凡社 1971 明治天皇 項目なし 裕仁 明仁 項目なし
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小学館 1988 裕仁 明仁 徳仁
世界大百科事典 平凡社 1988 明治天皇 大正天皇 ひろひと あきひと なるひと
世界大百科事典 第2版 平凡社 1998 明治天皇 大正天皇 昭和天皇 明仁 徳仁
ブリタニカ百科事典 ブリタニカ 昭和天皇 明仁 (?)
エンカルタ 総合大百科 2005 マイクロソフト 2004 明治天皇 大正天皇 昭和天皇 明仁 (?)
Encyclopedia Britannica ブリタニカ 2005 Meiji Taisho- Hirohito Akihito Naruhito
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