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Wikipedia‐ノート:日本中心にならないように/過去ログ6

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年度

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年度については国や組織によって開始月が異なりますがどうなんですか?4月始めとするところもあれば、10月始めとするところもあれば。同じ国の中でも企業によって年度初めが違いますよねっ。--36.3.174.141 2016年5月7日 (土) 18:30 (UTC)

まず、意短くも36.3.174.141氏が「同じ国の中でも」というように、同じ国でも、あるいは分野でも年度の期間は異なります。それは他ならぬ「年度」にも書かれてることです。ということは、それは日本/日本以外という区切りとは本質的に別問題です。よって、JPOVでそれを規定しようというのがそもそも誤りです。
また、実際の運用面でも、例えばある人物の学歴に「○○年度卒」と書かれていた場合、それが4月開始か9月開始で、読み手に非常に大きな誤解を生じさせるというケースはまず無いでしょう。中には、開始月が異なることによって、読み手に大きな誤解を生じさせるというレアケースもあるかもしれませんが、その場合はその記事中に説明が書かれてれば十分であるし、実際、まず書かれると思います。そういうレアケースのために、大半の問題の無いケースも全部、問題の渦中に落としこんで原則論で一律に縛るような制限を付けるというような提案はJPOVでなくとも、反対です。--EULE会話2016年5月8日 (日) 01:15 (UTC)

「問題となりうる文章例」の修正提案

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①IPユーザーが、Wikipedia:日本中心にならないように#注意すべき表現へ、頻繁に合意なき追加を繰り返すので、保護依頼しました。しかし、そもそもこの節が必要なのか疑問です。具体的な例が挙げられているのですが、結果的には言葉狩りに悪用されているだけに思えます。最近でも、本規定を誤用して、「未邦訳」を「未日本語訳」という珍妙な日本語に書き換えまくったIPユーザーがいました(利用者‐会話:36.3.174.141#未日本語訳参照)。本規定は観点の中立性を求めるものであり、それが担保されていれば、本来どのような言葉を使ってもいい筈です。にもかかわらず、絶対使ってはいけない表現だと勘違いして、通常の日本語にはない”ウィキペディア語”を創作する輩が後を絶ちません。”ウィキペディア語”の創作こそ究極の独自研究ですよね。よって、百害あって一利なしであるWikipedia:日本中心にならないように#注意すべき表現の節を削除することを提案します。
②もう一点。「問題となりうる文章例」の冒頭の「世界的にみられる事象をそのことに触れず局地の事象のみを描写している場合~」ですが、片手落ちであると考えます。上記#Template:国際化は適切? 不適切?で疑問を呈したのですが、「局地的な事象が世界的にみられる事象であるかのように描写されること」への注意も盛り込むべきだと思います。このような記述は、日本中心の観点に基づいた独自研究という、三大方針の二つに違反するものです。よって「~望ましいでしょう。しかし、」と「最初から全てを網羅~」の間に、「逆に日本の局地的事象を世界的な事象であるかのように描写することも、日本中心の観点に基づいた編集です。また、世界中の似て非なる事象を同列に並べ立てるのは、独自研究でもあります。」の一文を加えることを提案します。--uaa会話2016年8月22日 (月) 06:34 (UTC)

反対 さすが、「然し」「或いは」「反れとも」といった表記を使う自由を主張するような方は言うことが違いますね。1は、単にそのIPユーザーの問題というだけで(あるいは uaaさんの問題であって)それだけです。「どのような言葉を使ってもいい」訳ではないというのが、この文書の趣旨です。「ウィキペディア語を創作しない」のはもちろんですが、それとは関係のないことで論外です。2については、その趣旨の是非はともかく、この文書で扱う内容からは逸脱しており蛇足になるため反対します。--Hisagi会話2016年8月22日 (月) 18:38 (UTC)
古い話を持ち出しての個人攻撃から始まるとは、さすが、礼儀を理由に2回もブロックされた人ですね。本規定の趣旨は、観点が日本に偏重するような”表現”を避けることであり、単語の使用規制ではありません。趣旨を勝手にでっちあげないように。本規定の趣旨から鑑みても、単語の使用規制や一律書き換えを促すような書き換えの例示は、少なくとも、削除すべきでしょう。②については、確かに当該節で扱う内容ではありませんね。「概要」節の片手落ちな重複なので、逆に全部除去してもいいですね。現状を維持すべきと主張するなら、その理由を説明してください。--uaa会話2016年8月23日 (火) 03:09 (UTC)
反対 Wikipedia:井戸端/subj/「各国の制度」節と「日本の制度」節ではどちらが先に来るかでも少し表明しましたが、全体的にuaa氏のJPOVに対する解釈・理解に賛同できません。JPOVとなりうる表現を回避しようとして稚拙な表現になってしまったのであればそれはそれで個別に修正すればよいだけであり、JPOVの観点から避けるべき表現や注意すべき表現があるという文面自体を削除する理由にはなりません。
なおIPユーザーが議論なしに追加したとして編集合戦になった「来日 → 訪日」の言い換えですが、今まで気にしていませんでしたが確かに「来日」というのに対して「来米」「来英」といった使い方はしないという非対称性があり、少なくとも検討に値するのではないかと思いました。--頭痛会話2016年8月24日 (水) 18:48 (UTC)
文面自体の削除までは必要なくても、稚拙な表現をされないようにする必要はあると思います。よって、⓵の代案として「我が国(わが国)」「本邦」「邦人」についても、その下の「外国」等の段落に組み入れることを提案します。現在の記述だと、一律書き換えなければならないように見えます。それ以前に、「邦人」の書き換えが 「日本人」のみというのもおかしいですね。文脈によっては「自国民」とかもあると思います。
②については、異論無いのですね?--uaa会話2016年8月26日 (金) 19:49 (UTC)
コメント はじめまして、①について幾つかコメントさせて頂きます。Uaaさんが挙げられた「問題となりうる文章例」を濫用したIP利用者のお話のような問題については、「注意すべき例」の削除ではなく説明を加えることによって解決すべきだと思います。私も「邦」という漢字を含む単語を機械的に削除・変更する方を見かけたことがありますが、彼らは「日本中心にならないように」という理念を理解できないからそういった頓珍漢な編集を繰り返すのであって、彼らのような利用者でも理解できるように「注意すべき例」の表現がどんな場合にどんな理由で「日本の視点によるもの」とみなされ、「避けることが望ましい」のか、またそれを踏まえた上でどのような言い換えが望ましいのかを誰にでも理解できるようにもっと詳細に書くことこそが必要なのではないかと思います。--ミクロ経済学会話2016年9月24日 (土) 08:33 (UTC)

「日本語中心にならないように」配慮する必要はあるのか?

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はじめまして。ある利用者の方がWP:JPOVを根拠として「邦訳」を「日本語訳」、「邦題」を「題」、参考文献節の「邦語文献」を「日本語文献」、「外国語文献」を「欧語文献」といった具合に機械的に置き換えられているのを目にしたのですが、WP:JPOVは「日本語が表現の中心になること」すらも禁じているのでしょうか?私は「日本語版」のウィキペディアである以上、日本語が表現の中心になることは一切問題が無いと思うのですが。--ミクロ経済学会話2016年9月24日 (土) 08:49 (UTC)  追記 関連した問題として次の3つを確認させて頂きたいです。

②ある概念の辞書的な定義を紹介する際に日本語辞書だけを引用することに問題はあるのでしょうか?(もちろんその概念が関連する分野によっては関連性の強い言語の辞書を引用することも必要だと思いますが)私は「日本語版」百科事典なのだから英語辞書、韓国語辞書、ドイツ語辞書などを網羅的に引用する必要はないと思います。

③ある概念「甲」の記事において、甲の語源を説明する際に日本語としての甲の語源だけを説明することに問題はあるのでしょうか?例えば「甲」に対応する英単語として"koh"があった場合、"koh"の語源も紹介しなければいけないのでしょうか?私はその必要はなく日本語中心に記事を形成していけば良いと思います。

④ある学術分野「乙」の記事において、日本語圏における乙の発展だけに焦点を当てた節を設けることには問題があるのでしょうか?そのように世界的な「研究史」の節とは別に「日本(語圏)における乙の研究」の節を作る場合は「中国(語圏)における乙の研究」や「ドイツ語圏における乙の研究」などを同程度に作成すべきなのでしょうか?私は「日本語版」ウィキペディアなのだから、記事で扱われる題材が日本語で書かれた研究論文に偏っていても問題ないように思います。もちろんその記事に「一般的・世界的な研究動向」が充実していることが前提ですが。

以上です。既出のものがあったらすみません。--ミクロ経済学会話2016年9月24日 (土) 09:16 (UTC)

個人的な意見ですが、「日本語中心」で構わないと思います。ただし「日本語圏」でない場所に居る日本語話者の事を考慮すべきだと思ってます--aki4会話2016年9月24日 (土) 11:41 (UTC)
私もAki42006さんと同意見です。日本語中心でいいと思います。ただし、日本人だが海外に住んでいる人や日本語を第2言語として学んだ外国人の学生さんも世界中にいることでしょうから、そういう配慮はするべきだと思います。そういう意味で言えば「邦訳」という言い方より「日本語訳」という言い方のほうが読者にとって都合がいいかと個人的に思います。
また、例えばミクロ経済学さんの下記の質問
ある概念の辞書的な定義を紹介する際に日本語辞書だけを引用することに問題はあるのでしょうか?
日本語辞書だけ参照することは問題ないと思います。ただし、Wikipediaの記事は常に編集され変わっていくものですから、日本語文献を出典とした編集の後に他の編集者が日本語以外の言語の出典を追加しても排除すべきではないし、日本語・他言語の資料は平等に扱われるべきだと思います。-ShuBraque会話2016年9月24日 (土) 16:11 (UTC)
(追記)これは私の個人的な意見であって、wikipediaの統一的な見解ではありません。-ShuBraque会話2016年9月24日 (土) 16:18 (UTC)

返信 コメント有難うございます。①②③についてはWP:JPOVの範囲外であり、より一般的なWP:NPOVの範囲で考えればよいということが確認でき良かったです。④の問題についてはケースバイケースでしょうね。ちなみに図書館で幾つかの辞書を調べたのですが、「本邦」が「この国。わが国。」(広辞苑第6版)、「this country, our country」(ウィズダム和英辞典)と定義されているのに対し、「邦訳」は「外国文を日本語に訳すこと。また、その訳したもの。和訳」(広辞苑)、「Japanese translation」(ウィズダム和英辞典)であり、日本語の文章の中で「邦訳」という言葉を使った場合にJPOVが危惧する問題が起こる可能性はゼロだと思います。したがって、出典の記述や一般的なコロケーションとして自然な表現であれば躊躇なく「邦訳」という単語を用いても問題ない、というのが私の結論です。--ミクロ経済学会話2016年9月25日 (日) 08:27 (UTC)

日本語からしたら英語や中国語は「外国語」に他なりませんから、「外国語文献」を「欧語文献」に直すのは行き過ぎかと思います。それ以外の修正は妥当でしょう。「邦訳」は辞書を引けば「日本語に訳したもの」と出てきますが、それは日本語辞書を引くのが日本人であるという前提があるからで、Wikipedia:日本中心にならないようにで避けた方が良いとされている「邦人」と事情は同じです。まあ、「邦訳」と書いてあったところで致命的にまずいというようなことでもないですから、ほかの編集の序にでも「日本語訳」などに直したほうがよろしいと思います。--頭痛会話2016年9月25日 (日) 09:55 (UTC)
ちょっと確認なのですが、「それは日本語辞書を引くのが日本人であるという前提があるから」の部分には出典が必要なのではないでしょうか。
「邦人」の場合「自国の人」「日本人」の二通りの意味を挙げている辞書が複数ある(広辞苑、精選版日本国語大辞典、デジタル大辞泉)のに対し、「邦訳」は上記三辞書すべてが、上でミクロ経済学さんが挙げている意味しか載せていません。この点で、無条件に「「邦人」と事情は同じ」とはいえないと感じており、「日本語の文章の中で「邦訳」という言葉を使った場合にJPOVが危惧する問題が起こる可能性はゼロだと思います」というミクロ経済学さんのご認識に私も賛成です。実際のところ、「邦訳」を「日本語以外の特定の国の言語に訳すこと」の意味に用いられた実例があるのか、ということ自体に疑問を感じています。
なお、「邦」が本来「くに」一般の意味であるというくらいは当然存じていますが、「日米関係」の「日」を「太陽」、「米」を「コメ」の意味に解釈する人が普通いないのと同じように、単語の本来の意味と、熟語での用いられ方は文脈によって当然変わる場合があり、単純に文字単位にばらして本来の意味で解釈する行為が常に成立するとは限らないと認識しています。
なので、さすがに「日本語訳」を「邦訳」に直して回るような行為は不毛だと思いますが、あえて「邦訳」を「日本語訳」に直すべき理由も現時点では無く、仮にそれがなされるべきであるなら、裏づけとなる外部のしかるべき出典(「邦訳」の使われるべき場面の適否などを、直接的であれ、他の熟語などのついでであれ論じている専門家の文献など)が必要なのではないかと、私は考えています。--Sumaru会話2016年9月25日 (日) 14:02 (UTC)
なるほど。たしかに「邦人」とは違い「日本語に訳す」という定義しか確認できないようです。
なお「邦」を漢語辞典でひくと「1.国家。国土。2.わが国の。日本の。」とあり、「邦文」「邦楽」「邦訳」が2の例として出てきます(岩波新漢語辞典)。「単語の本来の意味と、熟語での用いられ方は~」というのはおっしゃる通りと思いますが、このようなかたちで字義を単語と結び付けて解説されている以上、やはり「避けた方がよい」といいうるであろうと私は考えます。もっとも「邦楽」は「日本音楽」と必ずしも言い換え可能ではないようなので、無理なく言い換えられるならというところでしょうか。「邦語」は辞書に「自国の」とあるので避けるべきだが「邦文」「邦訳」はないので異なる、というのは漢字のなりたちから考えてだいぶ釈然としないものがあります。--頭痛会話2016年9月25日 (日) 17:44 (UTC)
>このようなかたちで字義を単語と結び付けて解説されている以上、やはり「避けた方がよい」といいうるであろうと私は考えます
確かにそういうお考えも一理あると思います。しかしその書き方は逆に、『邦訳』等の場合は、一般的な「くに」の意味で使われていない(=日本の事象のみを指す熟語である)ことを裏付けているとも言えますから、『邦訳』=日本語訳、以外に解釈されないことをむしろ証明しているようにも解釈できませんか。(「わが国の」のみが挙げられていて「邦訳」がその例に挙がっているなら問題でしょうが、「日本の」という字義もあげられている状況では、強く問題視されるべきものとは私は感じません。『邦訳』という語を見て「これは『わが国の訳』の意味だ。そしてわが国といえば日本なのだから邦訳とはすなわち日本語訳なのだ」という面倒な理解しかしない人が日本人であれ、外国人であれ、そう多いとは考えられないということです)
>漢字のなりたちから考えてだいぶ釈然としないものがあります
おっしゃりたいことはもちろん理解できます。しかし、全く(あるいはほとんど)使われることの無い語義(の可能性)まで、「漢字の成り立ち」から配慮する必要があるものなのでしょうか。『邦人』は二通りの意味があるから日本語の不自由な話者が辞書を引いても迷う可能性はゼロではない、しかし、『邦訳』は辞書を引けば一意に確定させられる可能性が高く、日本語の不自由な話者がそもそも『邦』の「成り立ち」にまで遡って意味を推察する可能性は低いのですから、避けるべきというのは「誰に対する」配慮なのか、が分かりません。
ただ、中国人ならば自国での字義に照らして確かに奇異に感じるかもしれません。しかし、それは「日本語」の解釈ではありません。
そして、それを言い出せば『米国』でさえ、他の漢字文化圏(「美国」)と異なる表現であり、「漢字の成り立ち」からも離れた「日本の視点によるもので、避けるべき」ということになりかねません。しかし、「日米関係」を「日本アメリカ合衆国関係」と言い換えよ、という主張は多分誰もしないでしょうし、しても支持されないでしょう。『米国』の「米」は本来の字義を離れていても問題ないのに、『邦訳』の場合の「邦」は慣例的に「日本」の意味以外には理解されなくても、「くに」という本来の字義に配慮せねばならない、というのは、私には過剰反応に感じられます。--Sumaru会話2016年9月25日 (日) 18:32 (UTC)
頭痛さんの引用された『岩波新漢語辞典』が「日本語辞書を引くのが日本人であるという前提」を採っている可能性が高いと思います。つまり、仮に「日本語辞書を引くのが日本人であるという前提」を放棄している辞書ならば、「1.国家。国土。2.わが国の。日本の。」ではなく「1.国家。国土。2.わが国の。3.日本の。」と書かれているはずでしょう。私もSumaruさんと同様に「邦訳」が「日本語以外の特定の国の言語に訳すこと」の意味で用いられているのを見たことがありませんし、頭痛さんの理想とする「日本語辞書を引くのが日本人であるという前提」を放棄している辞書であれば「2. わが国の。」ではなく「3. 日本の。」の例として「邦訳」が掲載されていたのではないでしょうか?要約すると、「日本語辞書を引くのが日本人であるという前提」から脱却することを目的とした議論に「日本語辞書を引くのが日本人であるという前提」を採用した文献を根拠として持ち出したことによってパラドックスが生じている可能性がある、ということです。--ミクロ経済学会話2016年9月25日 (日) 19:24 (UTC)
「米国」を続けて引き合いに出されている意図がちょっとよくわかりません。「米」は漢字辞典でも独立した字義のひとつとして「アメリカ合衆国」と明記されています。私が問題に感じているのは、「2.わが国の。日本の。」というふうに、「わが国」「日本」が字書の定義として明確に分けられず並列されているという点です(「くに」という一般事象が「日本」に置き換えられているという点ではありません)。これは日本語話者にとっての「わが国」が「日本」である、という前提から生じている事象に他ならず(逆ではありえません)、かつ両方の字義を明瞭に区別することができない、ということを意味していると私は考えます。漢字の字義にまで遡って捉えるべきであるか、という点について疑問に思われるのはもっともかと思いますが、「一般事象について述べるとき、できる限り平易で公平な観点で描写するのが望ましい」( 傍線引用者)という現状の文面を額面どおり受け取るなら、それを言い換えることによって失われるものがない限りにおいては可能な別の表現をとった方が良いとは言いうると思いますし、それを過剰反応であるとは考えません。なお蛇足ですが、日本語にかぎらずその言語の初学者のほうが、むしろ単語を構成する要素を手掛かりに個々の単語の意味を覚えたり解釈しようとする傾向がないでしょうか。
もっとも実際問題としては「邦訳」でなにか困ったことが生じるとは考えにくいと私も思いますし、この上「邦訳」や「邦文」を避けるべきと考えることを共通認識とすべきだとまで主張しようとは思いません。--頭痛会話2016年9月25日 (日) 19:58 (UTC)
「くに」一般なのか、「わが国」なのか、という点につき、私の主張に一部混乱があったことをまずお詫びします。その上でですが、
>かつ両方の字義を明瞭に区別することができない
そうでしょうか。少なくとも私の手元の『新漢語林』第二版では、「わが国」の意味は日本で追加された意味(元の中国の語義には無い)であることが示されていますが、お手元の辞書にはそういう記号等がありませんでしょうか。日本で付与された意味なら「わが国」が「日本」になるのは自明ですが、他方で『邦人』の「自国の人」という意味も「わが国の人」の意味から派生しているのは明らかでしょう(広辞苑で『邦』(ほう)を引くと「わが国。自国。日本」とあります)。『邦人』の場合、「わが国」という日本で付与された意味から「自国の人」「日本人」の二通りの意味が導かれているのですから、意味の区別は可能と考えられます(もっとも個人的には、日本の意味から離れた「自国の人」の意味で『邦人』を使っている実例を見たことがありませんが)。そうであれば、いきさつはどうあれ、現に「邦」が「日本」の意味でしか使われなくなっている熟語があることを、ことさら問題視しなくてよいのではないでしょうか(上で述べた「面倒な理解しかしない人」云々はそういう意味です)。
アメリカの例は日本で独自の意味が付与され、日本でしか通用しないものの例として挙げました。現実問題として「日本語訳」の意味でしか使われていない『邦訳』が、元々の意味に遡って「わが国=日本」という図式より導かれたから不適切、となるのであれば、Wikipedia:日本中心にならないように#注意すべき表現の「日本の視点によるものであり、通常は避けることが望ましい」は『米』という字にも適用されるべき(日本人以外の視点ではコメがアメリカを意味することはありえないのですから)、という意図です。もっとも、この例はあくまでも言葉狩りというか文字狩りに繋がる過剰反応では、という意図で出したに過ぎないので、別にこれ以上こだわるつもりはありません。
当方としては、「ほかの編集の序にでも「日本語訳」などに直したほうがよろしいと思います」と仰っていた頭痛さんが「「邦訳」や「邦文」を避けるべきと考えることを共通認識とすべきだとまで主張しようとは思いません」と明言して下さったので、この話題をこれ以上続ける意図はありません。--Sumaru会話2016年9月25日 (日) 22:16 (UTC)
ミクロ経済学さんが出されたお題についコメントさせていただきます。
①について
日本語版である以上、正しい日本語で表記することが第一であると考えます。ここは”ウィキペディア語版”ではありませんから。従って、「日本語訳」は許容できますが、「未日本語訳」はないと思いますね。「欧語文献」とか「日本語題」も見慣れない表現ですし。「邦題」を「題」としたら意味自体変わってしまいますしね。逆に、「邦語文献」については「日本語文献」のほうが一般的なように思えます。日本語を学ぶ外国人への配慮が指摘されていますが、ならばこそ、正しい日本語(一般的に使われる表現)を使うべきなのではないでしょうか?「ウィキペディアで日本語を勉強した、変な日本語を使う外国人」が現れたらシャレにならないでしょう。
②③について
日本語辞書の定義のみでもいいとは思います。しかし、記事の主題によっては、対応する外国語の定義が日本語とずれている場合もあります。そのような場合は、他言語における定義も示した方がいいと思います。その辺が曖昧で、記事全体がぐちゃぐちゃになっているケースが多々見られます。語源も、日本語のものだけでもいいでしょうが、他国語だと「語源が違うから定義も微妙に違う」のようなこともあると考えられます。
④について
問題ないと思います。逆に、他国の事象も書かなければならないという強迫観念に駆られて、独自研究に走ることを防げないだろうかと考えています。--uaa会話2016年9月25日 (日) 17:19 (UTC)

返信 皆様、参考になるコメントをありがとうございます。◆頭痛さんの「日本語辞書を引くのが日本人であるという前提がある」という部分についてはSumaruさん同様に私も懐疑的な立場です。また、仮に広辞苑などの日本を代表する辞典が「邦訳」等の語彙を定義する際に「日本語辞書を引くのが日本人であるという前提」を採用していたならば、ウィキペディアでも同程度の基準を採用して良いと思います。というのも、中立性に関する基準は相対的な問題であり、どういった「程度」を採用するかという裁量が我々に求められているからです。もちろん辞典と事典の違いはありますが、辞典を作る一流の学者が仮にその程度の「前提」を採用していたならば、事典を作る我々もそれを模範として採用する、という決定には一定の合理性が認められると思います。◆uaaさんの「正しい日本語を使うべし」、という一貫した主張は強く同意できます(先に挙げられた「未日本語訳」はその極端な例でしょう)。ただし、「正しい日本語」や「適切な表現」は分野やコロケーションによって変化し得る、というのが私の主張です。例えば、「邦語文献」という表現は一部の学問分野や学術雑誌において「日本語文献」という表現よりも主流であり、「邦語文献」に対しては「欧語文献(あるいは漢語文献)」、「日本語文献」に対しては「外国語文献」というように表現を使い分けている方もいるようですし、こういった「何が正しい日本語か」という基準についても各記事の編集者がJPOVとは別の次元で追求する必要があるかと思います。何れにせよ、上記の問題はJPOVの領域外であると考えて良いでしょう。--ミクロ経済学会話2016年9月25日 (日) 17:49 (UTC)