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黒木為楨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
黒木為禎から転送)
黒木くろき 為楨ためもと
黑木 爲楨
渾名 クロキンスキー
生誕 天保15年3月16日
1844年5月3日
日本薩摩国鹿児島郡加治屋町
(現:鹿児島県鹿児島市加治屋町)
死没 (1923-02-03) 1923年2月3日(78歳没)
日本の旗 日本東京府東京市赤坂区青山南町6丁目
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1871年 - 1914年
最終階級 陸軍大将
除隊後 枢密顧問官
墓所 多磨霊園
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黒木大将および第一軍参謀長藤井茂太遼陽会戦
黒木大将および英国の観戦武官イアン・ハミルトン沙河会戦
日露戦争における二元帥六大将
(左端が黒木為楨)

黒木 為楨(くろき ためもと、旧字体黑木 爲楨1844年5月3日天保15年3月16日〉- 1923年大正12年〉2月3日)は、日本陸軍軍人[1]。最終階級陸軍大将伯爵通称は七左衛門。

生涯

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天保15年3月16日1844年5月3日)、薩摩藩士・帖佐為右衛門の三男として薩摩国鹿児島城加治屋町猫之薬師小路(下加治屋町方限)に生まれる。のち、黒木万左衛門為善の養子となり黒木姓を名乗る。

戊辰戦争に4番隊半隊長として従軍。鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩の小銃隊を指揮して幕府歩兵を集中射撃により敗走させ、宇都宮城攻防戦では城壁に突進して取り付くなど奮戦し、勝利の契機をつくった。明治2年(1869年)2月、1番大隊小隊長となる。

明治4年(1871年4月に上京し、同年7月、陸軍大尉任官、御親兵1番大隊に配属。明治5年(1872年8月、陸軍少佐に昇進し近衛歩兵第1大隊長に就任。近衛歩兵第2大隊長を経て、1875年(明治8年)2月、陸軍中佐に進級し広島鎮台歩兵第12連隊長となる。1877年(明治10年)3月、西南戦争に出征し、同年10月まで従軍。1878年(明治11年)11月、陸軍大佐に昇進。1879年(明治12年)1月、近衛歩兵第2連隊長に転じ、中部監軍部参謀参謀本部管東局長を歴任。1885年(明治18年)5月、陸軍少将に進級し歩兵第5旅団長に就任し、次いで近衛歩兵第2旅団長を務めた。

1893年(明治26年)11月、陸軍中将に進み第6師団長に就任。1895年(明治28年)1月、日清戦争に出征し威海衛の攻撃に参加する。同年8月、軍功により男爵を叙爵し華族となる。1896年(明治29年)10月、近衛師団長に親補され、西部都督に転じた。1903年(明治36年)11月、陸軍大将に進む。

1904年(明治37年)1月、軍事参議官に就任。同年2月、第1軍司令官となり、翌月、日露戦争開戦に伴い出征。鴨緑江から奉天会戦まで連戦し、ロシア軍からは、「クロキンスキー」と恐れられた。欧州では、ニコライ2世 (ロシア皇帝)が「猿のような」と評した日本人が単独で大国ロシアに勝てるわけがないと思われて、指揮した黒木は長年ロシアに苦しめられてきたポーランド人と報道した新聞もあった[2]

1906年(明治39年)1月、再び軍事参議官となり、1907年(明治40年)4月から6月までアメリカに出張。同年9月、軍功により伯爵を叙爵。1909年(明治42年)3月、後備役に編入、1914年大正3年)4月1日に退役した[3]1917年(大正6年)4月から1923年(大正12年)2月まで枢密顧問官を務めた。

1923年大正12年)2月3日午後10時、肺炎のため東京市青山の自邸(港区立青南小学校向い。現在の王子ホームズ青山)に於いて薨去享年80(満78歳没)。

人物

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  • 薩摩武士らしい豪傑肌の性格で、論理よりも経験を重んじる猪突猛進型の軍人であった。それを証明するかの様に、面白半分に相撲の相手を挑んできた明治天皇を容赦なく投げ飛ばし叩き付けたという逸話が残っている。
  • 野戦指揮官としての長年の経験と勘を生かした優れた采配を見せ、日露開戦直後の日本軍の快進撃は黒木の手腕によるところが大きい。しかし、その猪突猛進型の性格が災いし、総司令部の意思に反した突出を見せることがあり、奉天会戦時には余りの突出ぶりに満州軍総司令部より再三「進撃中止」の命令を出されている。
  • 日露開戦後、全軍に対する訓示において、「忠誠を尽くし、武勇を振るい、速やかに平和を克服せざるべからず」と述べたとされる[4]
  • 日露戦後は他の軍司令官が元帥位に登る中、黒木と乃木希典は大将で軍歴を終えている。軍歴や功績を考慮すれば元帥に任命されてもおかしくはないのだが、黒木本人がお飾りだけの名誉職としての元帥位を嫌い、最後まで現場の指揮官としての地位を好んだということもあるが(同僚に書いた手紙の中に、そのような内容が記されているものが残っている)、その剛直で荒々しい性格が軍中央で好まれなかったというのが理由であるとされている(乃木にも元帥打診の話があったが、本人が固辞した)。

栄典

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位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族

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脚注

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  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「黒木為楨
  2. ^ 20世紀初頭のライプチヒ-植物学者大野直枝のドイツ日記 増田芳雄、人間環境科学 8 9-38, 1999 帝塚山大学人間環境科学研究所
  3. ^ 『官報』第503号、大正3年4月6日。
  4. ^ ノーベル書房編集部編『陸軍郷土歩兵聯隊写真集 わが聯隊』 ノーベル書房、1979年。p95
  5. ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
  6. ^ 『官報』第2584号「叙任及辞令」1892年2月15日。
  7. ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
  8. ^ 『官報』第5740号「叙任及辞令」1902年8月21日。
  9. ^ 『官報』第7253号「叙任及辞令」1907年8月31日。
  10. ^ 『官報』第525号「叙任及辞令」1914年5月1日。
  11. ^ 『官報』第3153号「叙任及辞令」1923年2月6日。
  12. ^ 『官報』第527号「賞勲叙任」1885年4月8日。
  13. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  14. ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  15. ^ 『官報』第2971号「叙任及辞令」1893年5月27日。
  16. ^ 『官報』第5072号「叙任及辞令」1900年6月1日。
  17. ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
  18. ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
  19. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  20. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  21. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  22. ^ 『官報』第6919号「叙任及辞令」1906年7月23日。

参考文献

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  • 秦郁彦『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。ISBN 4130301357NCID BA73066386全国書誌番号:20887138https://id.ndl.go.jp/bib/000007913368 
  • ゲームジャーナル編集部『坂の上の雲5つの疑問』並木書房、2011年。ISBN 9784890632848NCID BB09223989全国書誌番号:22013693https://id.ndl.go.jp/bib/023159668 

関連書

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外部リンク

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軍職
先代
北白川宮能久親王
第6師団
第6代:1893年11月10日 - 1896年10月14日
次代
茨木惟昭
先代
佐久間左馬太
近衛師団
第5代:1896年10月14日 - 1897年10月27日
次代
奥保鞏
先代
山地元治
西部都督
1903年1月13日より中部都督部事務取扱を兼務
第2代:1897年10月27日 - 1904年1月14日
次代
廃止
日本の爵位
先代
陞爵
伯爵
黒木(為楨)家初代
1907年 - 1923年
次代
黒木三次
先代
叙爵
男爵
黒木(為楨)家初代
1895年 - 1907年
次代
陞爵