茨木惟昭
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茨木 惟昭 | |
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茨木惟昭(1899年) | |
生誕 |
1849年10月24日 紀伊国 |
死没 | 1914年7月14日(64歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 |
1871 - 1900 1904 - 1906 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
留守第4師団長 第6師団長 歩兵第8旅団長 歩兵第10連隊長 |
戦闘 |
佐賀の乱 西南戦争 日清戦争 日露戦争 |
除隊後 | 貴族院議員 |
茨木 惟昭(いばらき これあき、1849年10月24日(嘉永2年9月9日[1][2]) - 1914年(大正3年)7月14日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。男爵。幼名は守之助。
経歴
[編集]紀州藩士・茨木藤助の長男として生まれる[1]。1871年(明治4年)、陸軍大尉に任官[1][3]。以後、歩兵第10番大隊取締、大阪鎮台歩兵第10番大隊長を経て、1874年2月から翌月にかけて佐賀の乱に出征[1]。1877年3月から10月にかけて歩兵第10連隊長として西南戦争に出征し奮戦した[1][3]。
歩兵第14連隊長、大阪鎮台参謀長、参謀本部副官、近衛参謀長、陸軍戸山学校長などを歴任し、1890年6月、陸軍少将に進級[1][3]。
日清戦争には歩兵第11旅団長として、1895年1月から12月にかけて出征した[1][2]。戦後、第2軍司令部付として金州行政長官、さらに占領地総督府民政部長、同総督府参謀長兼民政部長を務めた[1][2][3]。歩兵第8旅団長を経て、1896年10月、陸軍中将となった<[1][2][3]。第6師団長を務め、1900年4月、予備役に編入[1][2][3]。
日露戦争勃発に伴い召集を受け、1904年3月、留守第4師団長を1906年2月の召集解除まで務めた[1][2][3]。1911年4月1日に後備役となる[4]。
1895年8月、男爵の爵位を授爵し華族となる[1]。1905年(明治38年)12月15日、補欠選挙で貴族院男爵議員で選出され[5]、1911年(明治44年)7月9日までに在任した[1][6]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1888年(明治21年)5月29日 - 勲三等旭日中綬章[10]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[11]
- 1895年(明治28年)
- 8月20日 - 男爵、勲二等旭日重光章[12]
- 11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[13]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章・功三級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[14]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、22頁。
- ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』98頁。
- ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』18-19頁。
- ^ 『官報』第8363号、明治44年5月11日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、15頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』64頁。
- ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
- ^ 『官報』第2094号「叙任及辞令」1890年6月24日。
- ^ 『官報』第8091号「叙任及辞令」1910年6月13日。
- ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
- ^ 『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。
- ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ^ 『官報』第3849号・付録「辞令」1896年5月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 茨木(惟昭)家初代 1895年 - 1914年 |
次代 茨木昭一 |