鹿島透
表示
鹿島 透(かしま とおる、1896年(明治29年)12月2日[1] ‐ 1980年(昭和55年)1月24日[2]) は、大正末から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]宮崎県[2]児湯郡上穂北村[3]穂北[4](西都町を経て現西都市穂北)で、鹿島栄三郎の三男として生まれた[3]。1923年(大正12年)東京高等工業学校(現東京工業大学)附設工業教員養成所を卒業した[2][3][4]。
宮崎県、大阪市の小学校訓導、宮崎県立宮崎工業学校(現宮崎県立宮崎工業高等学校)長兼教諭、青年学校視学委員、宮崎県教育会長、同県建設業協会長、国土計画審議会委員、上代日向研究所委員、日本教育会宮崎県副支部長、宮崎県教育委員長などを務めた[2][3][4]。
1946(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に宮崎県全県区から無所属で出馬して当選し[5]、衆議院議員に1期在任した[2]。この間、協同民主党文化部長、国民協同党宮崎県支部長、同党常任委員などを務めた[2][3][4]。1947(昭和22年)4月の第23回総選挙で宮崎県第1区から国民協同党公認で立候補したが落選した[6]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第15版 上』人事興信所、1948年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第22回』衆議院事務局、1950年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第23回』衆議院事務局、1948年。
- 宮崎県政外史編纂委員会編『宮崎県政外史』宮崎県政外史刊行会、1967年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。