魏巍
魏巍 | |
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ペンネーム | 紅楊樹 |
誕生 |
魏鴻傑 1920年1月16日 中華民国 河南省鄭州市 |
死没 |
2008年8月24日 (88歳没) 中華人民共和国 北京市 |
職業 | 詩人、小説家 |
言語 | 中国語 |
国籍 | 中華人民共和国 |
最終学歴 | 抗日軍政大学 |
活動期間 | 1951年—1980年代 |
ジャンル | 小説 |
代表作 | 『東方』 |
主な受賞歴 | 茅盾文学賞(1982年) |
配偶者 | 劉秋華 |
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魏巍(ぎ ぎ、1920年3月6日 - 2008年8月24日)は、中華人民共和国の小説家、詩人。本名は魏鴻傑、筆名は紅楊樹。河南省鄭州市出身。中国共産党党員。代表作に『東方』『誰是最可愛的人』『火鳳凰』。元第一回至第三回全国人大代表、中国文学芸術界連合会栄誉委員、中国作家協会顧問、中朝友好協会副会長、中国解放区文学研究会会長。
略歴
[編集]1920年3月6日、中華民国河南省鄭州市の農村に生まれた。平民小学、郷村簡易師範卒業。
15歳の時に両親が死去。清書で生計を立てた。
1937年12月、17歳の時山西省趙城県八路軍に入隊。八路軍一一五師軍政幹部学校(後併入八路軍総部随営学校)に入学。
1938年4月、中国共産党に入党。卒業後、魏巍に配属される晋察冀敵背抗日根拠地。
1946年3月19日、劉秋華と結婚。
1949年4月、晋察冀野戦軍騎兵第六師団第十六騎兵連隊の政治委員。
1950年5月、総政治部に移籍し、学校教育科副科長、創作室副主任に就任した。
1950年12月、抗米援朝戦争の期間、朝鮮を取材し、中国人民志願軍の英雄的献身に心打たれ、戦場からのレポート 『誰是最可愛的人』を書いた[1]。1951年4月11日、『人民日報」の頭版に掲載されると、1951年の『誰是最可愛的人』で注目される[2]。
1956年と銭小恵合作映画を書いた小説「赤色の嵐』。
1957年、『華北解放戦争史』の編纂を開始。
1978年、北京軍区文化部長、北京軍区政治部顧問等に就任。
1978年、『東方』を発表。1982年に同作品で中国文学の最高権威茅盾文学賞を受賞している。
2008年8月24日、病気のため北京にて88歳で死去。
著書
[編集]詩集
[編集]- 『両年』、1951年
- 『黎明風景』、1955年
- 『不断集』、1963年
- 『魏巍詩選』、1985年
- 『紅葉集』、2007年
長篇小説
[編集]- 『長空怒風』、1952年
- 『地球的紅飄帯』、1988年
- 『火鳳凰』、1997年
- 『東方』、1978年
- 『懐人集』、1980年
短篇小説
[編集]『志愿軍叔叔和朝鮮小姑娘』、1952年 『我愛老師』、1984年 『老煙筒』、1954年 『女将軍』、1958年
散文集
[編集]- 『我的老師』、1956年9月
- 『誰是最可愛的人』(だれが最も愛すべき人か)、1951年
- 『在漢江南岸的日日夜夜』、1951年
- 『依依惜別的深情』、1958年
- 『年軽人、讓你的青春更美麗吧』、1951年
- 『春天漫筆』、1959年
- 『魏巍雜文選』、1994年
- 『幸福的花為勇士而開』、1956年
- 『話説毛沢東』、1993年
- 『壮行集』、1980年
- 『魏巍散文選』、1982年
- 『四行日記』、2008年
- 『新語絲』、2008年
文学賞
[編集]- 『東方』— 茅盾文学賞(1982年)
脚注
[編集]- ^ “中国の著名な作家魏巍氏死去”. 中国通信社. (2008年8月26日)
- ^ “魏巍和他的《誰是最可愛的人》” (中国語). 中国共産党歴史網. (2014年10月20日)