高橋信雄 (ゴルファー)
Nobuo TAKAHASHI | |
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基本情報 | |
名前 | 高橋 信雄 |
生年月日 | 1950年1月17日(74歳) |
国籍 | 日本 |
経歴 |
高橋 信雄(たかはし のぶお、1950年1月17日 - )は、日本のプロゴルファー。
来歴
[編集]1968年に進学した[1]日本大学ゴルフ部では高橋勝成の1年先輩に当たり[2]、竹田昭夫監督のスパルタ指導で頭角を現す[3]。3年次の1970年と4年次の1971年には全日本学生を優勝し、自身の2連覇であると同時に日大勢6連覇となる。高橋は日本学生で初めて2勝し、その後は金谷多一郎、丸山茂樹、池田勇太、大田和桂介、松山英樹が2勝している[4]。
1970年には母校の先輩である山田健一、入江勉と共にアイゼンハワートロフィー日本代表に選出されて個人戦8位に入り[5]、1971年には日本オープンではローアマを獲得[6]。同年の『第22回NHK紅白歌合戦』では関東甲信越地方代表の地方審査員として出演[7][8]。
卒業後の1972年にプロテストで一発合格し、1973年の関東オープンでは初日を小川清二・陳清波(中華民国)と並んでの3位タイ[9]でスタートすると、3日目は青木功・菊地勝司と並んでの9位タイ[10]に着け、最終日には青木と並んでの6位タイ[11]に入った。ファーストフライトでは河野高明・尾崎将司、ベン・アルダ(フィリピン)に次ぐと同時に石井裕士と並び、小川・村上隆・青木功・鷹巣南雄・橘田規を抑えての4位タイ[12]に入った。
1974年の日本プロでは青木から「練習ではいいゴルフをするんだから消極さを捨てろ」と言われ、尾崎将と並んでの首位タイで、プロ入り初の初日首位に躍り出たが、最終的には石井富男・新井規矩雄と並んでの10位タイ[13]であった。続くKBCオーガスタでは初日に5アンダーで山本善隆・中村通と共に初日を首位タイで終え[14]、1975年には山田と共にシード入り[15]する。
1975年は春頃は低迷したが[16]、東北クラシックでは3日目に呂良煥&陳健忠(中華民国)・竹安孝博と並んでの8位タイ[17]に着けるなど上り調子となり[16]、札幌とうきゅうオープンでは初日を石井・森憲二・小林富士夫と並んでの2位タイ[18]でスタート。2日目は最終9番ではパーに終わったが、12、18、6番とロングホールで確実にバーディーを取ってしぶといところを見せる[16]。強風に悩まされながらも堅実なゴルフで3バーディー、2ボギーにまとめ、森と共に通算5アンダー139で首位タイ[16]に立った。3日目は村上・謝永郁(中華民国)と最終組で回り、2番でボギーを叩くが、3番のミドルホールでピンの手前に2オン[19]。村上とほとんど並んで6mとなり、村上がうまく沈めてバーディーにしたのに対し、高橋のボールは惜しいところでカップから逃げた[19]。4、6番と続いたバーディーチャンスでパットが決まらなかったが、インに入ってダブルボギーを叩いた後は手堅くまとめる[19]。謝永と共に村上との1打差を守る2位タイ[19]に着けたが、迎えた最終日は22位に転落した[20]。スポーツ振興インターナショナルでは3日目に首位タイの宮本康弘・新井と1打差、尾崎将・陳清と並んでの3位タイ[21]に着け、最終日には寺本一郎と並んでの5位タイ[22]に入った。
1978年の日本国土計画サマーズでは初日に68をマークして山本・新井・柴田昇と並んでの首位タイ[23]でスタートし、2日目も67と1つ伸ばして単独首位[24]となり、3日目には72を叩いたが首位[25]をキープ。
1991年の北海道オープン[26]を最後にレギュラーツアーから引退。
脚注
[編集]- ^ “日本大学ゴルフ部OB会”. zz109.secure.ne.jp. 2024年3月28日閲覧。
- ^ “出身プロ一覧”. www.nihon-u-golf.com/. 2024年2月17日閲覧。
- ^ “Untitled”. www.golferweb.jp. 2024年2月17日閲覧。
- ^ “日本学生ゴルフ選手権|日本橋室町店”. www.golfpartner.co.jp. 2024年2月17日閲覧。
- ^ “JGA 日本ゴルフ協会”. www.jga.or.jp. 2024年2月17日閲覧。
- ^ “JGA 日本ゴルフ協会【日本オープンゴルフ選手権競技】”. www.jga.or.jp. 2024年2月17日閲覧。
- ^ “第22回 (1971年)”. TVデータベース. 2024年11月28日閲覧。
- ^ 現役のアスリートが地方審査員を務めたケースは同じ第22回に同年のバドミントン全英オープンに優勝した中山紀子が中部地方の地方審査員に(第22回は著名人で構成される特別審査員と視聴者代表審査員との括りを廃して地方代表審査員に一本化したが第23回以降は再び特別審査員審査員と視聴者代表審査員に戻した)、第36回(1985年)に当時アマチュアゴルファーだった服部道子が全米女子アマで優勝したことがきっかけで中部地方の地方審査員に、第39回(1988年)に1988年ソウルオリンピックスポーツピストル銀メダルの長谷川智子(現:福島實智子)が近畿地方の地方審査員になった例がある。なお、服部は第49回(1998年)に年間5勝を挙げて賞金女王に輝いたことから特別審査員を務めた。地方審査員と特別審査員の両方を務めた初めてのケースとなった。
- ^ 朝日新聞縮刷版p236 昭和48年9月7日朝刊18面「無名の菊地がトップ パットさえ、5アンダー 関東オープンゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p308 昭和48年9月9日朝刊18面「陳清波と田中文並ぶ 関東オープンゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p341 昭和48年9月10日朝刊19面「新鋭3人でプレーオフ 地元栗原に初の栄冠 関東オープンゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p847 昭和48年9月24日夕刊5面「18アンダー河野高優勝 ファーストフライト・ゴルフ」
- ^ “第42回日本プロゴルフ選手権(1974年)”. www.golfdendou.jp. 2024年2月17日閲覧。
- ^ “中村通(東城陽) 男子プロゴルファー “74年KBCオーガスタ・ゴルフトーナメント” 第1日”. photobank.mainichi.co.jp. 2024年2月17日閲覧。
- ^ “大学ゴルフ界から新星続々 “学士プロ”のルーツをたどる”. golfdigest.jp. 2024年2月17日閲覧。
- ^ a b c d 朝日新聞縮刷版p429 昭和50年6月14日朝刊17面「高橋と森が首位に並ぶ 陳健は6位に後退 とうきゅうオープン・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p234 昭和50年6月8日朝刊14面「尾崎、首位におどり出る 2位のボールに3打差 東北クラシック(第三日目)」
- ^ 朝日新聞縮刷版p392 昭和50年6月13日朝刊16面「陳健忠トップ 2位に石井、森ら4人 とうきゅうオープン・ゴルフ」
- ^ a b c d 朝日新聞縮刷版p459 昭和50年6月15日朝刊15面「村上が首位奪う 5打内にひしめく17人 とうきゅうオープン」
- ^ 朝日新聞縮刷版p486 昭和50年6月16日朝刊18面「最終パットで優勝決めた マーシュ競り勝つ 宮本・謝永の猛追かわす とうきゅうオープン・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p845 昭和50年7月27日朝刊15面「新井追い上げ宮本康と並ぶ インターナショナル・オープンゴルフ第3日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p867 昭和50年7月28日朝刊13面「宮本康が逃げ切る インターナショナル・オープンゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p335 昭和53年8月11日朝刊15面
- ^ 朝日新聞縮刷版p364 昭和53年8月12日朝刊14面
- ^ 朝日新聞縮刷版p394 昭和53年8月13日朝刊14面
- ^ “高橋 信雄選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site”. www.jgto.org. 2024年2月17日閲覧。