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高岡宗泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
高岡宗泰
時代 鎌倉時代後期
生誕 建長7年(1255年
死没 嘉暦元年7月15日1326年8月13日
改名 千手麿(幼名)→佐々木宗泰→高岡宗泰→覚念(号)
別名 八郎(通称)
戒名 崇岳寺殿前左金吾校尉覚念公
官位 左衛門少尉
幕府 鎌倉幕府隠岐守護代
主君 惟康親王久明親王守邦親王
氏族 宇多源氏出雲佐々木流高岡氏
父母 父:佐々木泰清[1]、母:葛西清親の娘
兄弟 義重時清塩冶頼泰富田義泰
茂清基顕頼清宗泰義信清村
清賀桃井頼直妻、佐々木宗経妻、
東六郎左衛門
正室:意岐国造信貞の娘
多寳丸、娘(富田師泰室)、娘(高岡宗義室・念智禅定尼
養子:宗義[1]
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花輪違(七宝に花角)

高岡 宗泰(たかおか むねやす)は、鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府御家人隠岐国守護代出雲高岡氏の祖。隠岐(佐々木)泰清の八男。

来歴

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建長7年(1255年)、佐々木泰清の八男として生まれる[1]。母は葛西清親の娘。

弘長4年/文永元年(1264年)、出仕[2]。文永6年(1269年)に元服し、宗泰と名乗る[2]。「宗」の字は当時の執権北条時宗からの一字拝領とみられる。

文永11年12月頃(1275年1月頃)、異国警固番役として、筑前国遠賀郡黒崎付近で防衛の任につく[3]

隠岐国守護代

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隠岐・大山神社

建治2年9月5日(1276年10月13日)、隠岐国守護・佐々木泰清は、隠岐国知夫郡美多荘の大山社焼火山を御神体として奉る大山神社)の禰宜であった僧・慈蓮に下文を発し、所領を安堵して郎党に組み込んだ[4]。これは、慈蓮が百姓らに違背したとして没収されていた先祖伝来の所職(大山社禰宜)と神田(美多荘)を、「和与した」として慈蓮に還補したものである[4]

下   (佐々木泰清 花押[5]
隱岐國知夫郡)美多庄大山社禰宜職事。
      僧・慈蓮

右、禰宜職者、慈蓮爲重代相傳所職之處、
聊依令違背百姓等、禰宜職并神田内四段、
大被召上之、被成御正作云々。令和与之
上者、如本所令還補也。恒例・臨時之御
神事、不可有退轉、御祈祷可致丁寧。
彼於神田畠等者、且任先例、且如亡父
恒元法師。社務慈蓮可被沙汰付、至御正
作者、以便宜田、可被沙汰入、仍沙汰人
百姓等宜承知。不可違失之状下知如件。

 建治二年九月五日 — 隠岐笠置文書『佐々木泰清下知状[5]
(『鎌倉遺文』16巻12466号)

さらに翌、建治3年4月(1277年5月頃)、泰清は八男・宗泰を隠岐国守護代として派遣し、僧・慈蓮は「八郎殿御殿人(御家人)」であるとして、隠岐国美多荘の荘官の進止下にはないことを証する袖判を附した下文を発給した[4]

下(高岡宗泰 花押[6]
隱岐國美多庄住人・慈蓮法師者、八郎殿[7]
御殿人也。縱雖有罪科、御代官沙汰人等、
無左右不可致其沙汰。若有其煩之時者、可
申子細之状如件[8]
建治三年四月 日 — 隠岐笠置文書『高岡宗泰袖判下文[6]
(『鎌倉遺文』17巻12724号)

大山社焼火山を祀る隠岐島民の信仰の拠点で、これを隠岐国守護の管轄下に置くことで、隠岐支配を円滑に進める目的があったとされる[4]

弘安元年(1278年)頃、父・泰清より出雲国神門郡塩冶郷高岡邑を分与されて、始めて高岡氏を称した[9]

永仁5年6月3日(1297年6月23日)、所領高岡邑の壱町を出雲鰐淵寺に寄進[10]

奉 寄進鰐淵寺法花不斷讀誦料田事。
合壱町者、在高岡、坪付別紙在之。
法花經者、三世諸佛之出世本懐、一切
衆生之成佛直道也云々。依之深所令存懇
志、異他之儀也。然者且爲父母二親成佛
得道、且爲自他法界平等利益限永代停止
萬雜公事。令 寄進、令 此經讀誦料田
於鰐淵寺畢。至子々孫々向後全不可爲違
失之状如件[11]
永仁五年六月三日
     左衞門尉源朝臣宗泰(花押) — 『高岡宗泰寄進状』
(所収『出雲鰐淵寺文書』第30号)

晩年は沙弥となり覚念と号す[1]

正中3年2月23日(1326年3月27日)、出雲鰐淵寺の三重塔と堂宇が失火により悉く炎上した。この三重塔は、宗泰の亡父・佐々木泰清菩提を弔う目的で建立されたものであったため、宗泰は鰐淵寺衆徒の悲歎の意を容れ、再建を発願した。

去二月廿三日子剋比、類火北院三重
塔婆以下堂舍悉以炎上由事、驚歎之
至盡御悲歎誠察入候了。
於彼塔婆御造立之間、可申承由事、
衆徒御状委細承了。
雖小分儀可被得内々其聞事申候御使了。
願口上可然様承申候者更不可有等閑之
儀候。恐々謹言[12]

(正中3年)六月五日 沙弥覺念(花押)

 謹上 鰐淵寺衆徒御返事 — 『沙弥覺念書状』
(所収『鰐淵寺文書の研究』第45号)

嘉暦元年7月15日1326年8月13日)入寂。享年72歳。

家督は甥(富田義泰の五男)で娘婿の宗義が継いだ[1]

補註

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  1. ^ a b c d e 『尊卑分脈』。
  2. ^ a b 外部リンク。
  3. ^ 現在の福岡県北九州市八幡西区黒崎附近。
  4. ^ a b c d 『中世隠岐の公文』井上寛司著(所収『島前の文化財』第12号、隠岐島前教育委員会、昭和57年(1982年)12月)
  5. ^ a b 『鎌倉遺文』16巻12466号
  6. ^ a b 『鎌倉遺文』17巻12724号では『隱岐守護佐々木泰清下文』として所収されているもので、井上1982では、これを泰清の八男・宗泰(八郎)のものとする。文中にある「八郎殿」が宗泰を指すことに異論はないが、自身を「八郎殿」と呼ぶのかとの考えからその父で隠岐守護であった「佐々木泰清」の下文とするものが多いが、井上1982が指摘するように花押は「宗泰」のものであり、泰清のものとは異なっている。宗泰は守護代に着任当初の頃であり、宗泰以外の人(おそらく慈蓮側)が用意した文書に宗泰が花押を加えて下文としたもの。大山神社の氏子を含めて、荘官からの支配を断ちたいとの思惑が感じられ、文書の性格から言えば、井上1982の指摘「宗泰による下文」が正しい。
  7. ^ 「八郎殿」とは高岡宗泰のこと。
  8. ^ (意訳)「隠岐国守護代・高岡宗泰が下し置く。隠岐国知夫郡美多庄の住人・慈蓮法師(焼火山を御神体とする大山神社の社家)は高岡宗泰の御家人(郎党)である。たとえ、罪科があったとしても美多荘の荘官(代官)の管轄によって決裁してはならない。もし煩らわしい事態が起きたならば、詳細を申し述べよ。建治三年四月」
  9. ^ 現在の島根県出雲市高岡町
  10. ^ 『高岡宗泰寄進状』(所収『出雲鰐淵寺文書』(第30号文書)28-29頁)
  11. ^ 「永代に渡って法華経の功徳を得んがため、鰐淵寺に寄進たてまつる采地の事。一、高岡村の田・壱町。区域の詳細は別紙に附載する。右に記す法華経とは、三世諸仏の出現の本懐、一切衆生の成仏の近道を説く。よってこれに深く帰依するところである。しからば、亡父母両親も成仏し、自他法界が平等に利益を得るだろう。永代に渡って総ての公事を停止させ、この経を唱えさせるため、采地を鰐淵寺に寄進した。子々孫々に至るまで、この意に背くこと勿れ。永仁五年六月三日。左衛門尉源朝臣宗泰 書判」
  12. ^ (意訳)「去二月廿三日、子の刻ころ、鰐淵寺北院にある三重塔婆と堂舍が、ことごとく炎上してしまったと聞き驚愕しました。皆様が悲歎されておられるご様子をお察し申し上げます。鰐淵寺衆徒の書簡を承り、この塔婆が造立された理由を申し上げたく思います。けれども、些細な件については内々に聞いた事を申し上げますので、使いを差し向けました。口頭にて申し上げたく、然るべく御了承いただければと思います。殊更、なおざりにしておけない事についてです。恐々謹言。(正中3年)六月五日、沙弥覺念(花押)
    謹上 鰐淵寺衆徒御返事」

参考文献

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外部リンク

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