高岡念智禅定尼
高岡 念智禅定尼(たかおか ねんちぜんじょうに、1284年 - 1360年)は、鎌倉時代初期の御家人・高岡宗泰の次女。出雲鰐淵寺の仏像修復・新造の大檀那[1]。出雲国造家が千家・北島両家に分かれる発端となった覚日尼の従姉妹。月山富田城主で美作国守護となった富田秀貞の叔母にあたる。史料では「高岡禅尼念智」とも書かれる[2]。
来歴
[編集]隠岐国守護代で、出雲国神門郡塩冶郷高岡邑を領して高岡氏を称した高岡宗泰の次女として生れる。母は意岐國造信貞の女。姉は富田義泰の嫡男・富田師泰に嫁して富田秀貞を生んだ[3]。秀貞の子孫がのち大名となった伊勢国安濃津城城主・富田一白や、その嫡男・伊予国宇和島藩祖・富田信高である[4]。
高岡宗泰の嫡男・多寳丸が早世したことにより、念智禅定尼[5]が、富田義泰の五男・宗義(師泰の弟)と婚して高岡氏を継がせた[6]。子は高岡師宗[3]。この子孫は、出雲源氏高岡氏となり、のち備後・但馬に分流した。但馬満福寺の第57世住職・弘融上人の先祖にあたる[7]。
佐々木秀義 | 佐々木義清 | 佐々木政義 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐々木泰清 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
葛西清親女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多寳丸[8] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
意岐信貞女 | 念智禅定尼 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
髙岡師宗[9] | 髙岡重宗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
髙岡宗泰 | 髙岡宗義[10] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女子 | 女子 | 髙岡髙重 | 女子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
富田義泰 | 富田秀貞[11] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
富田師泰[12] | 富田直貞 | 女子 | 髙岡貞重 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
塩冶頼泰 | 塩冶貞清 | 塩冶高貞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
覚日尼 | 東孝景 | 東時孝 | 東景髙 | 東貞頼 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千家孝宗 | 千家直国 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出雲義孝 | 出雲泰孝 | 出雲孝時 | 北島貞孝 | 北島資孝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
髙岡重頼 | 髙岡重泰 | 髙岡重盛 | 髙岡宗孝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
浄安入道 | 髙岡宗明 | 髙岡宗政 | 髙岡宗房 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(参考文献)『鰐淵寺文書』、『尊卑分脈』、『群書類従』、『髙岡氏系譜』、『弘融上人略傳』
鰐淵寺の仏像修復と南北朝
[編集]正平10年3月(1355年5月頃)、念智禅定尼が72歳の年、出雲鰐淵寺の仏像修復とそれまでの落雷による火災などで失われていた薬師如来、千手観音等の仏像新造立を発願。これは自身が、父・高岡宗泰の入寂した年齢72歳をむかえたことや、父・宗泰(沙弥覚念)が死去する直前に、宗泰の父・佐々木泰清(念智禅定尼の祖父)を弔う鰐淵寺三重塔の再建[13]を発願した先例に倣ったものであると考えられている[14]。
一、可造立佛像修復古佛事、於新造藥師・千手及眷属十六躰者、日光・月光・十二神、并婆蘇山功德天二躰也。大檀那高岡禅尼念智、泰覺[15]彦孫高岡金吾師宗母堂也。既被造立供養畢。所殘廿八部衆、但婆蘇・功德者、以前十六躰内也。并四天王像、可建立之、次古像諸尊、并一切經以下聖教及佛具・曼荼羅供彿具以下注文在別。道具注文在別。等隨破損可加修復也。就中、釋迦・多寳塔、二如來者、天福以往古像、脱度々火災霊佛也。而嘉暦廻禄、御身両雖存、座光者共焼畢。而于今無沙汰、云冥慮、云見聞、誹謗尤有憚忩可奉造加哉。 — 『鰐淵寺大衆條々連署起請文』(部分)
(所収『鰐淵寺文書』、正平十年三月)
当時、鰐淵寺は南院の長吏であった頼源が率先して後醍醐天皇に味方し、甥の富田秀貞も観応の擾乱の時、宮方(南朝)に転じ、南朝方として出雲国守護として補任されていた。秀貞は勅裁に任せて、正平6年/観応2年7月25日(1351年8月18日)鰐淵寺南院へ仁多郡阿井郷を寄進。同年、幕府(北朝)は山名時氏を出雲守護とするが、時氏は京極道誉との対立から、翌年出雲で宮方(南朝)に帰順。道誉から派遣された目代・吉田厳覚(北朝)を追放して、富田秀貞(南朝)を守護代としている[16]。
その後、正平9年/文和3年(1354年)、幕府は出雲守護職を京極道誉に戻し、富田庄をはじめとする富田秀貞の所領を没収して道誉に与えたが、南朝側が富田氏の所領である富田庄を本領安堵し、伯耆国守護・山名時氏が出雲にも勢力を張ったため、富田氏は、明徳の乱(1391年)まで、実質的に本領を保持し続けた[1]。
念智禅定尼が、出雲鰐淵寺の仏像修復と新造立を発願した際の『鰐淵寺大衆條々連署起請文(一山連署式目)』においても、「正平10年3月」と南朝年号が依然として使われており、幕府の支配が富田庄ならびに鰐淵寺に及んでいないことを示している[14]。これは、念智禅定尼が「仏像修復と新造立」の名目のもと北朝を牽制し、南朝勢力の引き締めを図ったものと見られ、起請文としては異例の衆会、評定、勤怠、着座、月例法会、安居作法、臨時勤行などを含めた鰐淵寺に於ける憲法の如き内容を含めて記載されている。末文には、阿闍梨澄成以下122名連署があり、正本は北政所竹瓦坊に所蔵され、文安2年1月(1445年3月頃)、長享2年7月21日(1488年8月28日)にもそれぞれ写本が作られ、その重きを成した[17]。
補註
[編集]- ^ a b 『中世に於ける出雲鰐淵寺の構造について』平岡定海著、大手前女子大学、62頁
- ^ 『鰐淵寺大衆條々連署起請文』(所収『鰐淵寺文書』、正平10年3月)
- ^ a b 『群書類従』塙保己一編、1819年
- ^ 『寛政重脩諸家譜』第7輯
- ^ 当時は出家以前。
- ^ 『鰐淵寺大衆條々連署起請文』正平10年(南朝)3月
- ^ a b 『高岡氏系譜』
- ^ 多寳丸、早世
- ^ 元弘三年八月行幸供奉
- ^ 髙岡宗義。法名宗惠。
- ^ 富田秀貞。四郎左衞門、正五位下、伊豫守、使美作守、仕山名時氏、出雲國目代。月山富田城城主、正平二十二(貞治六)年丁未、討死於出雲。
- ^ 富田師泰。佐渡守、四郎左衞門。母近江太郎左衞門重綱女。正中三年三月十八日出家、法名如覺。建武三年七月廾ニ日入寂。
- ^ 落雷の失火により焼失(『鰐淵寺文書』)
- ^ a b 『出雲鰐淵寺文書』鰐淵寺文書研究会編、鰐淵寺文書研究会、法蔵館、2015年、69頁
- ^ 佐々木泰清の法名
- ^ 『太平記』
- ^ 『出雲鰐淵寺文書』鰐淵寺文書研究会編、鰐淵寺文書研究会、法蔵館、2015年、77頁
参考文献
[編集]- 『尊卑分脈』洞院公定編、永和2年(1376年)頃成立
- 『群書類従』塙保己一編、1819年
- 『鰐淵寺文書の研究』曽根研三著、鰐淵寺文書刊行会、1963年
- 『出雲鰐淵寺文書』鰐淵寺文書研究会編、鰐淵寺文書研究会、法蔵館、2015年
- 『松江市史』通史編2、160頁
- 『中世に於ける出雲鰐淵寺の構造について』平岡定海著、大手前女子大学 (通号 16) 1982.11 p.p49~85
- 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 高岡 タカオカ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、3257-3259頁。全国書誌番号:47004572 。
- 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 富田氏」『寛政重脩諸家譜. 第7輯』國民圖書、1923年 。