陸軍騎兵学校
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陸軍騎兵学校(りくぐんきへいがっこう)は、大日本帝国陸軍の騎兵術に関する教育を行う唯一の実施学校である。1888年(明治21年)に陸軍乗馬学校として設立され、1898年(明治31年)に 陸軍騎兵実施学校と改称し、さらに1917年(大正6年)、陸軍騎兵学校と改称した。
日本で最初に車両研究を行ったのは陸軍自動車学校であるが、日本で初めて装甲車や水陸両用車・軽戦車などの車両の試験や機甲部隊に関する本格的な教育が実施したのは陸軍騎兵学校が最初であり、騎兵学校内には、後の機甲部隊の教育や研究の中心を担うこととなる陸軍戦車学校が組織されている。そして1941年(昭和16年)に機甲本部が設置されると陸軍歩兵学校で行われてきた研究成果も「陸軍戦車学校」に統合され、日本における戦車をはじめとする機甲教育の土台が出来上がった。
概要
[編集]本校は日本全国の陸軍の各連隊から選抜された甲・乙種の尉官級の将校学生の為の実施学校として設置。通称は騎兵学校(きへいがっこう)又は習志野騎兵学校(ならしのきへいがっこう)で、「騎兵の町・習志野」を象徴する存在の一つだった。騎兵監管轄下に置かれ、1941年(昭和16年)に騎兵監が廃止されると陸軍機甲本部長の隷下におかれた。
陸軍士官学校と同様、卒業式や終業式には必ず天皇や皇族、陸軍首脳部が臨席して行われるなど日露戦争後、特に重要視される存在となった。大正以降は、馬術教育が盛んに行われ、多くのオリンピックの馬術競技の代表選手を世に送り出した。なお、馬術や乗馬に親しみを持つ皇族、その他の将官なども私的興味から練習風景や馬術大会を見学に度々訪れるなど親しまれる存在で、学校行事として行われる馬術大会や御前馬術の際は東京などから馬術部の学生や見物客が詰め掛けるなど、陸軍の中でも人気が高く、騎兵学校の教官や学生の中には、習志野錬兵場での演習がない際に、学生や一般人に対し馬術を披露したり、馬術指導をするなど交流を深める者も少なくなかったという。日露戦争での騎兵連隊の活躍から外国人将校も騎兵学校の視察に訪れた[1]。
日本の近代馬術は、もっぱら西洋馬術を主に、大日本帝国陸軍において導入し発達したという経緯があった。そのため、用語の多くは、軍隊用語の流れを汲むものとなっているほか、陸軍騎兵学校が日本で唯一の馬術学校だったことから、多くのオリンピック選手を輩出した。このため、日本馬術連盟の公式大会が習志野原(陸軍習志野練兵場)で開催されるなど騎兵学校と習志野原は馬術のメッカとしても栄えた。このような背景から現在の日本の馬術文化は騎兵学校を起源としている。
しかし、第一次世界大戦で、戦車や航空機、機関銃などの近代兵器が登場すると、騎兵無用論・騎兵廃止論が議論されるようになり、論争の末、吉橋徳三郎陸軍少将が割腹自殺を図るなどして社会問題化するなど騎兵科は危機に立たされた。この時、蓮沼蕃、山田乙三、栗林忠道などの中堅の騎兵科出身者中心に、これまでの馬に乗って戦う戦法から戦車(機甲部隊)を主力とする騎兵科近代化案を提唱し、それまで、輜重兵科の陸軍自動車学校自動車隊で研究されていた戦車などの車両(機甲)研究を陸軍騎兵学校内に移し(但し、丁度、同時期に陸軍歩兵学校内にも陸軍自動車学校から、同じように機甲研究が移され、歩兵学校内でも主に歩兵を主力とする歩兵支援を主な目的とした戦車研究が行われるようになった)、戦車や装甲車などの車両の具体的な運用や戦法などの活用方法を目的とした機甲部隊の研究と教育活動を活発化させた。
そして、昭和9年を境に近代化に対応するため機械化が導入され、日中戦争(支那事変)後は、馬術学生の募集は停止され、機甲教育機関へと移行。騎兵学校内に後の陸軍戦車学校の前身となる戦車第2連隊の練習部(教育・研究担当)と下士官候補者隊が組織され、1936年(昭和11年)8月には騎兵学校内に陸軍戦車学校の名称で戦車教育を主とする教育機関が設置された(同年12月1日に千葉県千葉市黒砂町に移転している)。
そして、昭和16年には機甲本部が創設され実質的に騎兵は無くなり、「陸軍騎兵学校」は正式に「陸軍軽機甲学校」に改められた。
太平洋戦争中には、陸軍軽機甲学校の研究主題は島嶼防御におかれ、本土防衛の戦術的中心となった。そのため、昭和18年にまず、教導隊が1か月にわたり房総半島の南端で防御戦闘の研究を行い、翌年の昭和19年に「島嶼防御の参考」を作って普及教育を実施している。
なお、学校の軍馬は昭和16年の628頭をピークに学校全体が動員され、昭和19年に20頭、翌年の終戦時には10頭を残すのみだった。
教育区分
[編集]- 甲種学生(戦術学生)…(対象階級は、大尉又は中尉)
- 1898年(明治31年)設置。日中戦争の勃発に伴いより停止されたが、昭和16年(1941年)に復活、機甲兵団の戦術教育を開始。
- 乙種学生(馬術学生)…(対象階級は、大尉又は中尉)
- 1898年(明治31年)設置。日中戦争の勃発に伴いより停止。
- 丙種学生…(対象階級は、中尉・少尉)
- 1923年(大正12年)設置。通信又は射撃を修得。
所在地
[編集]学校の沿革
[編集]- 1888年(明治21年): 東京麹町区元衛町陸軍乗馬学校として設立。
- 1891年(明治24年): 東京荏原郡目黒村に移営。
- 1898年(明治31年): 陸軍騎兵実施学校と改称。
- 1907年(明治40年):『騎兵甲聯隊機關銃特業教育教令』が制定され、 機関銃教育を実施。
- 1916年(大正5年)12月20日: 習志野原(千葉県千葉郡二宮村薬園台)に移転[2][注釈 1]。
- 1917年(大正6年)
- 9月13日: 陸軍騎兵学校と改称。
- :教導中隊は、2コ中隊の教導隊に拡張。
- 1918年(大正7年):教導隊に機関銃8挺を交付。
- 1919年(大正8年)
- 1920年(大正9年):騎兵の機械化に関する研究(騎兵用軽機関銃搭載の三輪自動車)の開始。フランス製ルノー戦車を交付。
- 1929年(昭和4年):騎兵随伴軽戦車の研究開始。89式軽戦車交付。
- 1930年(昭和5年):騎兵随伴装甲自動車の研究開始。陸軍技術本部が試作した92式重装甲車交付。
- 1931年(昭和6年)
- 1933年(昭和8年)4月21日 :研究部を新設。教導隊に無線電信教習隊を新設し通信教育を開始。
- :軽機関銃が全騎兵連隊に配当完了。
- 1934年(昭和9年)
- 1935年(昭和10年)
- 1936年(昭和11年)
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)
- 1942年(昭和17年):教導隊の中隊は馬匹全廃し乗車中隊に改編。校馬は学校本部.騎兵幹部候補生教育のため幹部候補生隊に一部残置した他は 陸軍士官学校に移管。
- 1944年(昭和19年)7月6日:学校に動員下令[4]。教導隊を 戦車第29連隊(佐伯静夫大佐:陸士28期)に改編。同校は研究・調査任務を解除、幹部候補生教育機関に改編
- 1945年(昭和20年) -
停戦時の学校組織
[編集]- 本部
- 研究部:騎兵・機甲捜索部隊に関する学術の調査研究を行い、且つ兵器、その他資材の研究試験。
- 教育部:騎兵・機甲捜索部隊に要する学術を各隊に普及を行う。
- 教導隊:騎兵・機甲捜索部隊に要する学術を修得する。
- 幹部候補生隊 (甲種幹部候補生教育:第1中隊)
- 下士官候補者隊(下士官候補者教育 :第2中隊)
- 材料廠
校長・秋山久三少将以下1,012名、馬匹10頭。
停戦に伴い秋山少将以下120名は復員官として残務整理を開始。
兵器類は米軍に引き渡し、被服・糧秣・需品類は移転して来た大阪第二陸軍病院へ、衛生材料は加古川第二陸軍病院に引き継いた。
習志野への移転の背景
[編集]- 騎兵実施学校は、周辺住民の請願により誘致されたといわれている。薬園台や大和田は、江戸時代には、成田街道の宿場として栄えたが、鉄道建設に伴い参拝客が減少、以後習志野原の野営地との商売に頼っていたが、後に大久保に移転し閉鎖されたため、付近の住民が軍隊に請願して移転することになったという話がある。
学校の主な行事
[編集]- 騎兵学校馬術大会
- 各連隊で行われる軍旗祭と同じで、騎兵学校では年に一回馬術の競技大会が行われ、技術が競われた。
- 御前馬術大会
- 天皇が臨席の下に行われる馬術大会で、優勝者には天皇自ら記念品が下賜された。
- 補足
行事の祭には、来賓の送迎を鉄道連隊が津田沼駅から騎兵学校まで行った[注釈 18]。
人物
[編集]歴代校長
[編集]- 初代 平佐是純 中佐:1888年3月24日 - 1896年8月8日(死去)[5]
- 第2代 秋山好古 騎兵中佐(旧3期):1896年8月15日 - 1900年7月10日[6](* 1897年10月11日 大佐 * 1899年10月28日 兼 陸軍獣医学校長)
- 第3代 渋谷在明 騎兵大佐(旧2期):1901年2月23日 - 1901年11月3日
- 第4代 河野政次郎 騎兵中佐:1901年11月3日 - 1906年2月23日
- 第5代 豊辺新作 騎兵大佐(旧5期):1906年2月23日 - 1908年4月24日[7]
- 第6代 吉田平太郎 騎兵大佐:1908年4月29日 - 1909年9月15日
- 第7代 秋山房次郎 騎兵大佐:1909年9月15日 - 1912年6月2日死去
- 第8代 森岡守成 騎兵大佐(陸士2期):1912年6月8日 - 1913年8月22日
- 第9代 吉橋徳三郎 騎兵大佐(陸士2期):1913年8月22日 - 1916年5月2日
- 第10代 鈴木荘六 少将(陸士1期):1916年5月2日 - 1917年8月6日
- 第11代 植野徳太郎 少将(陸士3期):1917年8月6日 - 1918年7月24日[8]
- 第12代 大島又彦 少将(陸士3期):1918年7月24日[8] - 1921年7月20日[9]
- 第13代 田村守衛 少将(陸士5期):1921年7月20日[9] - 1922年2月8日[10]
- 第14代 南次郎 少将(陸士6期):1922年2月8日 - 1923年10月10日[11]
- 第15代 三好一 少将(陸士8期):1923年10月10日 - 1926年3月2日[12]
- 第16代 森寿 少将(陸士11期):1926年3月2日 - 1928年3月8日[12]
- 第17代 梅崎延太郎 少将(陸士12期):1928年3月8日 - 1929年8月1日[13]
- 第18代 柳川平助 少将(陸士12期):1929年8月1日 - 1930年12月22日[14]
- 第19代 市瀬源助 少将(陸士13期):1930年12月22日 - 1932年4月11日[15]
- 第20代 宇佐美興屋 少将(陸士14期):1932年4月11日 - 1933年3月18日[16]
- 第21代 原常成 少将(陸士15期):1933年3月18日 - 1934年8月1日[17]
- 第22代 飯田貞固 少将(陸士 期):1934年8月1日 - 1935年12月2日[18]
- 第23代 稲葉四郎 少将(陸士18期):1935年12月2日 - 1937年8月2日[19]
- 第24代 石田保秀 少将(陸士 期):1937年8月2日 - 1939年9月12日[20]
- 第25代 大賀茂 少将(陸士21期):1939年9月12日 - 1940年12月2日[21] (*1939年10月2日 中将)
- 第26代 西原一策 少将(陸士 期):1940年12月2日 - 1941年10月1日[22]
- 第27代 佐久間亮三 少将(陸士27期):1941年12月1日 - 1944年7月28日[23]
- 第28代 秋山久三 大佐(陸士25期):1944年12月22日 - 終戦[24] (*1945年6月10日 少将)
歴代幹事
[編集]- 稲葉四郎 大佐(陸士18期):1933年8月1日 - 1935年3月15日 (1934年3月5日 少将)
- 久納誠一 少将(陸士18期): 1935年3月15日 - 1935年12月2日
- 吉田悳 少将(陸士20期):1936年8月1日 - 1937年8月1日
- 大賀茂 少将(陸士21期):1937年8月2日 - 1938年3月1日
- 佐久間為人 少将(陸士22期):1939年3月9日 - 1940年12月2日
- 佐久間亮三 大佐(陸士27期):1940年12月2日 - 1941年12月1日 (1940年8月25日 少将)
研究部
[編集]- 主事:黒田芳夫 少佐: - 1944年5月19日
- 主事:平 忠生 少佐:1944年5月19日 -
教育部長
[編集]- 小坂平 中佐(陸士10期):1918年6月15日 - 1921年6月28日 (1919年4月15日 大佐)
- 石川亀彦 大佐(陸士12期):1923年8月6日 -
- 飯島昌蔵 大佐(陸士13期):1928年8月10日 - 1928年8月10日
- 山田乙三 少将(陸士14期):1930年8月1日 - 1931年8月1日
- 蓮沼蕃 少将(陸士15期):1931年8月1日 - 1933年3月18日
- 稲葉四郎 大佐(陸士18期):1933年3月18日 - 1933年8月1日
教官
[編集]- 秋山好古 中尉(旧3期):1883年3月16日 - 1883年4月9日
- 牧野正臣 中佐(陸士4期):1908年4月22日 - 1918年4月24日
- 吉橋徳三郎 中佐(陸士2期):1909年9月25日 -1911年9月6日
- 植野徳太郎 中佐(陸士3期):1911年12月27日 - 1912年4月25日
- 小島吉蔵 中尉(陸士18期):1915年7月 日 - 1916年5月
- 閑院宮載仁親王 :
- 遊佐幸平 大尉(陸士16期):1917年 -
- 山田乙三 少佐(陸士14期):1918年6月 -
- 吉田源治郎 中佐(陸士11期):1918年7月24日 - 1919年4月15日
- 石川亀彦 中佐(陸士12期):1920年2月25日 - 1921年4月20日
- 小島吉蔵 少佐(陸士18期):1923年8月 -
- (兼)中島今朝吾 砲兵中佐(陸士15期):1924年2月8日 - 1925年4月18日 (本職:陸軍野戦砲兵学校教官)
- 小島吉蔵 中佐(陸士18期):1928年3月 - (兼騎兵学校教導隊長)
- 土居明夫 大尉(陸士29期):1928年12月 -
- 大賀茂 中佐(陸士21期):1931年3月 - 1933年3月
- 大内孜 少佐(陸士26期):1931年11月 - 1932年2月
- 久納誠一 大佐(陸士18期):1932年8月8日 - 1933年3月18日
- 笠原幸雄 中佐(陸士22期):1933年3月18日 - 1934年3月5日 (1933年8月1日 大佐)
- 森 赴 中佐(陸士28期):1933年8月11日 - 1935年6月15日
- 西竹一 大尉(陸士36期):1933年8月 - (ロサンゼルス五輪馬術金メダリスト)
- 和田義雄 大佐(陸士21期):1936年3月7日 - 1937年8月2日
- 大内孜 中佐(陸士26期):1937年4月1日 - 1937年8月2日
- 斎藤義次 大佐(陸士24期):1937年8月2日 - 1938年7月2日
- 専田盛寿 中佐(陸士30期):1938年5月 - 1939年10月 (1939年8月 大佐)
- 小原一明 大佐(陸士26期):1940年7月8日 - 1941年3月1日
- 親泊朝省 少佐(陸士37期):1940年 - 1940年8月
- 城戸俊三
- 早瀬秀夫
- 田村久井
- 河野巌
- 三浦七郎(御前馬術優勝者、日本医科大学・東京医科大学・慶應義塾大学馬術倶楽部元指導者)
- 蓮沼蕃(陸士15期)
- 馬場正郎 (陸士24期)
- 竹田宮恒徳王(陸士42期)
- 堀栄三(陸士46期)
- 稲葉四郎(陸士18期)
- 柳川平助(陸士12期)
- 寺田正男(陸士10期)
教導隊長
[編集]- 寺田正男 (陸士10期)(兼教官)
- 小島吉蔵 中佐(陸士18期):1928年3月 日 - (兼教官)
- 小島吉蔵 中佐(陸士18期):1930年8月1日 - 1932年8月8日
- 若松晴司 大佐(陸士17期):1932年8月8日 - 1934年3月5日
- 佐久間為人 中佐 (陸士22期):1936年3月7日 - 1937年12月4日 (1936年8月1日 大佐)
- 佐伯静夫 大佐(陸士28期): 1943年8月 日 - 1944年7月6日
- 教導隊中隊長:小島吉蔵 大尉(陸士18期)
学校 附
[編集]- 石本寅三 (陸士23期)
- 内藤正一 大佐(陸士18期):1930年8月1日 -1930年12月2日
- 吉橋健児 中尉(陸士37期)
- 鮫島宗隆 大尉(陸士31期)
- 片桐茂 少将(陸士25期):1939年8月1日 - 1939年9月12日
- 秋山久三 大佐 (陸士25期):1943年6月10日 - 1944年12月22日
材料廠長
[編集]- 河野直 少佐: - 終戦
著名な卒業生
[編集]- 三笠宮崇仁親王(陸士48期)
- 閑院宮載仁親王
- 西竹一 (陸士36期)(ロサンゼルス五輪馬術代表、金メダリスト)
- 城戸俊三(アムステルダム五輪・ロサンゼルス五輪馬術代表)
- 遊佐幸平 (陸士16期)(アムステルダム五輪からヘルシンキ五輪の馬術代表)
- 吉田重友(アムステルダム五輪・ロサンゼルス五輪馬術代表)
- 岡田小七(アムステルダム五輪馬術代表)
- 今村安(ロサンゼルス五輪馬術代表)
- 山本盛重(ロサンゼルス五輪馬術代表)
- 奈良太郎(ロサンゼルス五輪馬術代表)
- 金光瑞(独立運動家、朝鮮半島の救国の英雄「白馬に乗ったキム・イルソン将軍」伝説のモデルの一人)
- 蔣介石
- 栗林忠道(陸士26期)
- 綾部橘樹(陸士27期)
- 安田伊左衛門
- 坂田祐
- 樋笠一夫(元プロ野球選手、史上初の代打逆転サヨナラ満塁本塁打(釣り銭なし)を放った)
- 河野巌(ノモンハン事件で戦死)
- 古賀伝太郎(陸士15期)(軍楽「噫!古賀連隊」の元の人物)
学校が開発した車両
[編集]当時の遺構等
[編集]- 習志野駐屯地に残されている騎兵学校当時の兵舎などがまだ多く残されているが、整備のため、新築の建物があいついで建てられており、保存が危ぶまれている(正門に向かって、成田街道沿いのスレート屋根の古い建物は、1941年(昭和16年)に戦車格納庫として急造された建物である)。
- 移転を記念して薬園台の仲三好屋という商人が桜並木を騎兵学校(現陸上自衛隊習志野駐屯地)敷地内に寄贈しており、桜並木寄付記念碑というものが現在でも同駐屯地内に建っている。また、松林や桜の木も当時のままに残されている。移転時に移築された御馬見所は現在空挺館と名称を変え残されている。空挺館では快速部隊として活躍した騎兵科の装備や活躍を紹介した展示品や大戦後に設置された第一空挺団の起源でもある大日本帝国陸軍の空挺部隊(義烈空挺隊)の装備や歴史を紹介するブースが設けられている。
交通
[編集]注釈
[編集]- ^ 陸軍騎兵学校が転出後の目黒の跡地へは、信濃町から陸軍輜重兵第一大隊(のち連隊)が転入。
- ^ 騎兵隷下に初の砲兵の建制部隊編入。騎砲部隊は従来より存在していたが砲兵の隷下にあり、共同訓練実施するに際しても一々お伺い立てねばならず、機動や戦術の統一思想・運用に難があったが、騎兵旅団を真の独立兵団と運用する下地が整った。
- ^ 各師団訓練所の教官や助教要員は戦車第2連隊練習部において集合教育を実施した。
- ^ 支那事変において、軽装甲車訓練所は独立装甲車中隊の動員を担当した。
- ^ 直後の支那事変発生により、軽装甲車訓練所は独立軽装甲車中隊を動員する。
- ^ ノモンハン事件後の昭和14年には、在満の第23師団にも軽装甲車訓練所を設置。
- ^ 但し、これは騎兵監部の意見による創設ではなく、参謀本部の発意で、騎兵界としては、名称・編制・装備に不賛成であった。しかし、これと言った騎兵界として他の良策が無かったのが実情であった。
- ^ 2名1組の斥候班で、1名は96式4号無線機を装備し、本隊との無線通話。1名は着剣可能な96式軽機関銃を装備、敵との不期遭遇に備えた。
- ^ 昭和16年10月、実用実験隊として、捜索第48連隊に九七式自動二輪車などを60両集中配置した自動二輪車隊を設置し南方作戦に参加させた。さらに、比島での捜索第48連隊の活躍を参考にして、捜索第2連隊にも自動二輪車隊が増加されジャワ作戦に参加した。
- ^ 改編後は軽装甲車訓練所を閉鎖、教習任務を引継ぐ。
- ^ 騎兵連隊のまま存置の近衛騎兵連隊.金沢騎兵連隊.善通寺騎兵連隊には.戦車中隊を設置し.全国満遍なく機甲教育行ない戦地兵員補充を融通した。
- ^ 全国満遍なく機甲教育の反対に、台湾では、第48師団を完全車両化し馬匹全廃した。
- ^ 憲兵科を除く各兵科は、兵科の中の一つである各兵種となった。(例)これにより、従来は不可能であった、砲兵大尉を歩兵連隊内の歩兵砲中隊長や、連隊砲中隊長への補職が可能となり、転科手続きなく人事行政に断髪力を持たせ、新兵器・新戦術に対応した戦備・戦力拡大図ることが可能となった。
- ^ 戦車は、歩兵科戦車兵から兵科機甲兵となる。
- ^ 乗車騎兵に歩兵出身者の補職も可能となる。
- ^ 挺身兵には、戦車も山砲もあるが航空であったり、船舶兵には、高射砲や野砲もあるが工兵である等、従来の兵科の垣根を跨るものの柔軟運用が可能となった。
- ^ 全ての車輌における操縦・整備・燃料・戦術の研究・教育・行政は機甲本部に一元化。
- ^ 鉄道連隊演習線
脚注
[編集]- ^ 1929年(昭和4年)5月には、当時のイギリス国王ジョージ5世の第3王子で、英国の貴族であるグロスター公爵家のグロスター公ヘンリー・ウィリアムが来日した際には騎兵学校を訪れて、馬術見学や試乗を行った。[1]
- ^ 『官報』第1319号、大正5年12月23日。
- ^ 『日本騎兵史』下巻 P330~
- ^ 軍令陸甲第七十六號『戰車第四師團臨時編成要領』
- ^ 外山、森松 1987, 160頁.
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』58頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』65頁。
- ^ a b 『官報』第1794号、大正7年7月25日。
- ^ a b 『官報』第2692号、大正10年7月21日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』113頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』118頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』134頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』167頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』169頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』178頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』186頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』196頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』216頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』226頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』255頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』264頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』328頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』375頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』344-345頁。
参考文献
[編集]- 司馬遼太郎『坂の上の雲』
- 日本騎兵写真集編纂委員会『日本騎兵写真集』1979年。
- 萌黄会『日本騎兵八十年史萌黄の栄光』1983年。 ISBN 4-562-014059
- 佐久間亮三・平井卯輔『日本騎兵史』1968年11月24日発行
- 船橋市郷土資料館『地域研究資料3 薬園台の歴史 正伯物語』2003年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 習友会、 開拓50周年記念誌『砂塵を越えて』1995年。
- アジア歴史資料センターレファレンスコードB04012502700 国際「オリムピック」競技大会一件 第二巻
- 『官報』
- 外山操、森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
関連項目
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