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稲葉四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
稲葉 四郎
生誕 1885年12月15日
大阪府
死没 (1948-03-13) 1948年3月13日(62歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1905 - 1941
最終階級 陸軍中将
指揮 東部軍司令官
東京防衛司令官
第6師団
騎兵第4旅団長
騎兵第16連隊長
戦闘 日中戦争
*武漢作戦
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稲葉 四郎(いなば しろう、1885年〈明治18年〉12月15日[1][2] - 1948年〈昭和23年〉3月13日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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大阪府出身[1]大阪陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業[1][2][3]。翌年6月、騎兵少尉に任官し騎兵第4連隊付となる[1][3]1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(第24期)を卒業した[1][2][4]

1913年(大正2年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、騎兵第4連隊中隊長、第15師団参謀参謀本部員、中国政府応聘、陸軍騎兵学校教官、軍務局課員などを経て、1925年(大正14年)11月から一年間、陸大専攻学生として学んだ[1]1926年(大正15年)12月、騎兵監部員となり、フランス出張、騎兵第16連隊長を経て、1929年(昭和4年)8月、騎兵大佐に昇進[1][4]1930年(昭和5年)12月、騎兵監部員に就任し、騎兵学校教育部長、同校幹事を歴任し、1934年(昭和9年)3月、陸軍少将に進級[1][4]

1935年(昭和10年)3月、騎兵第4旅団長となり満州に赴任し、騎兵学校長を経て、1937年(昭和12年)8月、陸軍中将となり騎兵集団長に就任[1][2][4]。同年12月、第6師団長に親補され武漢作戦などに参加[1][2][4]1939年(昭和14年)12月、東京防衛司令官、1940年(昭和15年)8月、東部軍司令官[5]を歴任し、1941年(昭和16年)10月に待命[1][2][4]。同年12月、予備役に編入された[1][2][4]1944年(昭和19年)3月から翌年8月まで賀陽宮家別当を務めた[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

栄典

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勲章等
外国勲章佩用允許

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、22頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』92頁。
  3. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』225-226頁。
  4. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』226頁。
  5. ^ 梅津美治郎、山田乙三が大将に進級『東京日日新聞』(昭和15年8月2日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p781 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」36頁。
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  8. ^ 『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。