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梅崎延太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
梅崎 延太郎
生誕 1880年7月13日
佐賀県小城町(現・小城市
死没 (1964-04-24) 1964年4月24日(83歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1901年 - 1935年
最終階級 陸軍中将
指揮 騎兵第18連隊
陸軍騎兵学校長
騎兵第1旅団長
軍馬補充部本部長
第20師団長
勲章 勲一等瑞宝章
出身校 陸軍士官学校
陸軍大学校
配偶者 くに
子女 國男 貞子 宮子
親族 信量(父)
良雄(弟)キシ(良雄妻)
季雄(弟)キシ(季雄妻)
肥田金一郎(妻の兄)
除隊後 南鮮合同電気株式会社取締役
北鮮合同電気株式会社取締役
墓所 青山霊園
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梅崎 延太郎(うめざき のぶたろう、1880年明治13年)7月13日 - 1964年昭和39年)4月24日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍士官学校12期、陸軍大学校22期。最終階級は陸軍中将(1931年8月1日)。栄典は従三位勲一等[2]

年譜

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1880年(明治13年)7月13日、士族梅崎信量の長男として生まれる。1916年(大正5年)家督を相続する[2]

1901年(明治34年)陸軍士官学校を卒業し、陸軍少尉に任官する[2]

それからドイツスウェーデンなどに留学し、スウェーデン公使館デンマーク公使館附武官を勤め、1920年(大正9年)9月27日、騎兵第18連隊長、1928年(昭和3年)3月8日陸軍騎兵学校長、1929年(昭和4年)8月1日騎兵第1旅団長、1930年(昭和5年)12月22日、軍馬補充本部長などを歴任する[2][3]

1931年(昭和6年)8月1日、陸軍中将に任ぜられ、1932年(昭和7年)8月8日に第20師団長に補される。1935年(昭和10年)3月30日予備役に編入[2][3]

退職後1941年時点で南鮮合同電気株式会社、北鮮合同電気株式会社の取締役を務めている[2][3]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]

栄典

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著書

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  • 『奈翁戦史講授録』陸軍大学校将校集会所、1926年(講義録)[6]
  • 『奈翁戦史略』(上下巻)偕行社、1943年[7]

脚注

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  1. ^ 偕行 (156);6月号』偕行社、1964年6月https://dl.ndl.go.jp/pid/11435267/1/6 
  2. ^ a b c d e f 人事興信録 第13版上』人事興信所、1941年https://dl.ndl.go.jp/pid/3430443/1/303 
  3. ^ a b c 外山操『陸海軍将官人事総覧 陸軍編』芙蓉書房、1981年9月https://dl.ndl.go.jp/pid/12285734/1/109 
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」185頁。
  5. ^ 『官報』第5484号「叙任及辞令」1901年10月11日。
  6. ^ 奈翁戦史講授録”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2021年2月7日閲覧。
  7. ^ 奈翁戦史略”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2021年2月7日閲覧。