コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

世祖 (朝鮮王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
首陽大君から転送)
世祖 李瑈
李朝
第7代国王
世祖大王御真の抄本
王朝 李朝
在位期間 1455年7月25日 - 1468年9月22日
姓・諱 李瑈(イ・ユ、이유
粋之(スジ、수지
諡号 恵荘承天体道烈文英武至徳隆功聖神明睿欽粛仁孝大王
廟号 世祖
生年 永楽15年9月29日
1417年11月7日
没年 成化4年9月8日
1468年9月23日
世宗(次男)
昭憲王后
王后・王配 貞熹王后(坡平尹氏)
妃嬪
  • 謹嬪 朴氏
  • 廃昭容 朴氏
  • 淑媛 申氏
子女 下記参照
陵墓 光陵
テンプレートを表示
世祖
各種表記
ハングル 세조 / 이유 / 수지
漢字 世祖 / 李瑈 / 粹之
発音 セジョ / イ・ユ/ スジ
日本語読み: せいそ/ り・じゅう/ すいし
ローマ字 Sejo/ I Yu /Suji
テンプレートを表示

世祖(セジョ、せいそ、1417年11月7日 - 1468年9月23日、在位:1455年6月11日(新暦7月25日) - 1468年9月7日(新暦9月22日))は、李氏朝鮮の第7代国王。は瑈(ユ、)。即位前は晋平大君(チンピョンデグン、しんへいだいくん)→咸平大君(ハムピョンデグン、かんへいだいくん)→晋陽大君(チニャンデグン、しんようだいくん)を経て1445年に首陽大君(スヤンデグン、しゅようだいくん)に冊封された。一時、領議政に就任。孫に第9代国王成宗などがいる。第4代国王世宗の第2王子であり、第3代国王太宗の孫である。

略歴

[編集]

世宗の次男として生まれた。1452年に兄の文宗が没し、自らの甥にあたる端宗が11歳で即位すると、錦城大君とともに王を補佐する役割を担う。しかし、1453年安平大君や端宗を補佐する皇甫仁ら大臣を排除して政権を掌握する(癸酉靖難)。1454年に錦城大君も配流とし、1455年には譲寧大君や温寧君、申叔舟権擥韓明澮らの後押しにより自ら端宗に退位を強要し、39歳(数え年)でそのまま即位した[1]

即位後

[編集]

王位に就くと、山のような上書を書いたり、また王宮の広場で座り込んで訴訟をする反対勢力を拷問や股裂きの刑罰等でことごとく粛清し、議政府署事制を廃して再び六曹直啓制を復活、王権を自身の元に集約する。において、1457年1月16日 (旧暦)に当時上皇であった英宗景泰帝より帝位を奪還、重祚した奪門の変が起こると、甥で上王であった端宗を同年6月 (旧暦)に魯山君、後に庶人に降格し同年11月11日(10月24日 (旧暦))に配流先で賜薬により死刑にしている。

晩年には自身の身体皮膚が徐々に癩病(現在でいうハンセン病)に侵されるようになり、1468年9月7日に次男の海陽大君(のちの睿宗)に王位を譲って上王となったが、先述の通り翌日に52歳(数え年)で薨去した。

強力な王権を維持するため、官制の改革、法制や軍制の充実に努め、朝鮮王朝の基本法典である「経国大典」の編纂を開始した。また1457年から申叔舟らに命じ、太祖李成桂にはじまる歴代国王の治績のなかから模範となる事実を収録した編年体の歴史書「国朝宝鑑」の編纂を開始した。

家系

[編集]

宗室

[編集]

世祖が登場する作品

[編集]
映画
テレビドラマ

関連項目

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『世界各国史17朝鮮史』武田幸男 146頁
先代:
端宗
李氏朝鮮国王
第7代:1455年 - 1468年
次代:
睿宗