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盧守慎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
盧守慎
各種表記
ハングル 노수신
漢字 盧守愼
発音: ノ・スシン
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盧 守慎(ノ・スシン、노수신、 1515年旧暦4月16日 - 1590年旧暦4月7日)は、李氏朝鮮の文臣、儒者。本貫光州盧氏[1]。字は寡悔。号は蘇齋、伊齋、暗室、茹芝老人。諡号は文懿、文簡。

人物

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1534年に科挙生員進士の二試に合格し、成均館に入学し、金麟厚と莫逆の交友を結んだ。1543年に式年文科に及第し、成均館典籍や弘文館修撰を経て、翌年には王室侍従に入り、東宮(のちの仁宗)講官を拝命し、同選の李退渓と往来伴直を共にし、道義を講論して切磋琢磨した。

1545年、幼帝の明宗が即位すると、母の文定王后による垂簾聴政を契機に乙巳士禍が勃発し、盧守慎は罷免され、1547年に珍島に配流され、同地で学究生活を続け、従来の朱子学の訓釈に異を唱える「人心道心弁」を執筆した。

1567年に宣祖が即位すると、罪を許されて弘文館校理に除目された。1568年以降は、司諫院大司諫、吏曹参判、大司憲などを歴任し、1573年に右議政、1578年に左議政、1585年に領議政に昇進した。1590年に致仕し、漢城郊外の寓居に卒した。

脚注

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  1. ^ 종가 25. 상주 소재 종가” (朝鮮語). 경북일보 - 굿데이 굿뉴스 (2016年7月24日). 2023年2月11日閲覧。

参考文献

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  • 「アジア人物史 第7巻」集英社 2022年