飛越七橋
表示
飛越七橋(ひえつななきょう)は、岐阜県と富山県の県境付近の庄川に架かる、国道156号の7か所の橋の総称である。
この付近は庄川の蛇行のため、約3キロメートルの間に7か所の県境を6本の橋で通過する[1]。飛越七橋はこの6本の橋に楮橋を加えたものである。この区間を飛越峡合掌ラインともいう。
それぞれの橋の高欄は7色に塗り分けられていることから「虹のかけ橋」の愛称がある(ただし、色は虹の色とは一致していない)。
概要
[編集]庄川の上流側から記述する。
合掌大橋
[編集]白川郷・五箇山の合掌造り集落の合掌造りをモチーフにしている[2]。飛越七橋では最も長く、県境を2回通過する。橋の中央に公園と完成祈念碑がある。
- 橋名:合掌大橋(がっしょうおおはし) - 架け替え前の名称は「新滝橋」[2]。
- 供用:1979年(昭和54年)10月9日[3]
- 延長:440.1m[2]
- 幅員:9.7m[4]
- 構造:2径間非連続桁斜張橋[2]+2径間鋼鈑桁橋(日本初のアーチ式逆ローゼタイプ[5])
- 区間:岐阜県大野郡白川村小白川
- 橋の中央(公園)で、富山県南砺市成出を通過するが、橋の両端とも白川村小白川である。
飛越橋
[編集]飛騨国と越中国を跨ぐことから、飛騨国の飛と越中国の越から命名された。
- 橋名:飛越橋(ひえつばし)
- 供用:1977年(昭和52年)6月29日[6]
- 延長:149.0m[4]
- 幅員:9.5m[4]
- 構造:3径間連続非合成鈑桁
- 区間:岐阜県大野郡白川村小白川 - 富山県南砺市成出
- 高欄の色:赤
- 桁の色:赤
- 管理者:岐阜県
成出橋
[編集]- 橋名:成出橋(なるでばし)
- 供用:1977年(昭和52年)6月29日[6]
- 延長:197.9m
- 幅員:9.5m[4]
- 構造:アーチ合成鈑桁
- 区間:富山県南砺市成出 - 岐阜県大野郡白川村小白川
- 高欄の色:赤
- 桁の色:赤
- 管理者:岐阜県
小白川橋
[編集]- 橋名:小白川橋(こしらかわばし)
- 供用:1977年(昭和52年)6月29日[6]
- 延長:126.0m[4]
- 幅員:9.5m[4]
- 構造:鋼鈑桁橋1連+上路トラス橋[4]
- 区間:岐阜県大野郡白川村小白川 - 富山県南砺市楮
- 高欄の色:緑
- 桁の色:赤
- 管理者:富山県
宮川原橋
[編集]宮川原の名の由来として、天正年間の山崩れで神社が庄川の川原に押し流され、数年後にこの地で御神体の木像が見つかったという伝説がある。
- 橋の名前:宮川原橋(みやかわはらばし)
- 供用:1978年(昭和53年)11月22日[7]
- 延長:127.5m
- 幅員:9.5m
- 構造:トラス橋
- 区間:富山県南砺市楮 - 岐阜県大野郡白川村小白川
- 高欄の色:青
- 桁の色:赤
- 管理者:富山県
火の川原橋
[編集]木材を運搬するさい、いかだで庄川を下った人々がこの川原で休憩し、焚き火をしたという。
- 橋の名前:火の川原橋(ひのかわらばし)
- 供用:1978年(昭和53年)11月22日[7]
- 延長:128.0m[4]
- 幅員:9.5m[4]
- 構造:上路トラス+合成鈑桁橋[4]
- 区間:岐阜県大野郡白川村小白川 - 富山県南砺市楮
- 高欄の色:藍
- 桁の色:赤
- 管理者:富山県
楮橋
[編集]この橋のみ、県境を跨がない。
- 橋の名前:楮橋(こうずばし)
- 供用:1975年(昭和50年)
- 延長:106.9m
- 幅員:9.5m[4]
- 構造:上路トラスPC桁橋[4]
- 区間:富山県南砺市楮 - 南砺市打越
- 高欄の色:紫
- 桁の色:赤
- 管理者:富山県
脚注
[編集]- ^ “たった3kmの間に県境が7つの道 マニアも唸る奇跡の聖地”. NEWSポストセブン. 小学館 (2017年3月12日). 2024年9月15日閲覧。
- ^ a b c d 西岡武雄・松野和夫・松田哲二・前田研一『合掌大橋(旧名:新滝橋)工事報告』(PDF)川田工業、1981年 。2020年6月29日閲覧。
- ^ 『北日本新聞』1979年10月10日付朝刊17面『待望の4橋、3トンネル完成 富山 - 岐阜 国道156号 合掌大橋で渡り初め 上平村 "陸の孤島" 五箇山を解消』より。
- ^ a b c d e f g h i j k l FR16:川を渡る橋・富山県(2024年8月19日閲覧)
- ^ 『北日本新聞』1979年11月22日付朝刊15面『国道"イチコロ"が変身 白川(岐阜)と16橋で結ぶ 庄川町で開通式 冬場の交通難解消』より。
- ^ a b c 『北日本新聞』1977年6月29日付朝刊13面『きょう渡り初め 上平村庄川に飛越など三橋』より。
- ^ a b 『新聞に見る20世紀の富山 第3巻』(2000年11月26日、北日本新聞社発行)152頁。