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須藤新吉

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須藤 新吉
人物情報
生誕 (1881-07-04) 1881年7月4日
大日本帝国の旗 大日本帝国
新潟県中蒲原郡能登村
死没 1961年12月21日(1961-12-21)(80歳没)
出身校 東京帝国大学
子供 須藤俊男(長男、鉱物学者)
須藤泰男(次男、心理学者)
学問
研究分野 哲学
論理学
心理学
研究機関 第三高等学校
第一高等学校
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須藤 新吉(すどう しんきち、1881年明治14年〉7月4日 - 1961年昭和36年〉12月21日)は、日本哲学者、論理学者、心理学者。元第一高等学校第一文学科主任教授。第一高等学校名誉教授。

略歴

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新潟県中蒲原郡能登村(現 新潟市南区能登)出身[1]1901年明治34年)3月に新潟中学校を卒業[注 1]1905年(明治38年)7月に第三高等学校を卒業[注 2]1908年(明治41年)7月に東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修)を卒業[1]

1908年(明治41年)10月から1910年(明治43年)7月まで、浦和中学校に嘱託教師として勤務。1909年(明治42年)9月から1914年大正3年)7月まで、東京帝国大学文科大学大学院で心理学を研究(「リズムノ生理心理的研究」)[1]

1915年(大正4年)に第三高等学校講師を嘱託され、独語を担当、1916年(大正5年)12月から論理学と心理学も担当、1917年(大正6年)2月17日に第三高等学校教授に任官[1]1920年(大正9年)から論理学と心理学のみを担当。

1922年(大正11年)3月25日に第三高等学校を依願退官、第一高等学校講師を嘱託され、独語を担当、1924年(大正13年)9月24日に第一高等学校教授に任官[1][注 3]、10月から論理学も担当。

1930年昭和5年)8月に第一高等学校第一文学科主任教授に就任[注 4]、9月から心理学も担当。

1942年(昭和17年)5月6日に第一高等学校を依願退官、第一高等学校講師を嘱託され、心理学を担当。

1950年(昭和25年)3月24日に第一高等学校が閉校、玉川大学教授に就任[1]哲学と論理学と心理学を担当。

人物

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須藤新吉は温厚な先生として学生たちから慕われていた。

第一高等学校で須藤新吉の教え子だった中村元は須藤新吉のことを、温厚で、心温かく、情深く、物腰が丁寧で、学生を叱ったり怒ったりすることが一度もなく、「どこまでも親切であられた」と述べている[3][4]

中村元の先輩は「須藤新吉先生という方はなぁ、おめえ、たいへん立派な先生なんじゃぞ! われわれと会っても、先生のほうから挨拶してくださる、丁寧な先生なんじゃ。先生の名前は、ご本や辞典や参考書にまで出ているほど大学者なんじゃ」と述べている[3][5]

中村元が、1943年昭和18年)3月31日に30歳で東京帝国大学助教授に任官した時、挨拶をしに須藤新吉を訪問すると、「温かい言葉で包容するようにして、勉強に向かう心を起こさせてくれた」という[5]

中村元は須藤新吉から、学問は万人に納得されうるものでなければならないこと、学問の根本は論理であることを教示され、このことが自分の研究や活動に計り知れないほど強い影響を与えたと述べており、須藤新吉の著書『論理學綱要』の改版が出版される時(1949年〈昭和24年〉)、『論理學綱要』の「因明」の部分の執筆を依頼されたのは「わたくしにとって至上の喜びであった」と述べている[6][7]

中村元が、晩年、須藤新吉の『論理学綱要』を西洋の論理学の糸口として、ダルマキールティの『論理学小論』(『ニヤーヤ・ビンドゥ〈正理一滴〉』)を東洋の論理学の糸口として、東西の論理学を比較考察し、普遍的な論理学の構築を目指して執筆していた時、中村元は須藤新吉のことを「今その前方に、高く聳えて手を向けて招いてくださっている」、「わたくしの導き手であり、闇夜の灯明のような方である」と述べている[8][9][10][11][12][13][注 5]

須藤新吉の第一高等学校退官を記念して、10人の教え子が須藤新吉に捧げる論文集『ロゴスとパトス 論理學・心理學諸硏究』と『哲學的文化』を上梓した[15][16]

須藤新吉は1926年大正15年)に故郷の白根町白根図書館に書籍39冊(価格100円〈当時〉)を寄贈している[17]

栄典・表彰

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主な教え子

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親族

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著作物

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著書

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論文

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脚注

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注釈

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  1. ^ 須藤新吉は新潟中学校東京での同窓会の常連であった[2]
  2. ^ 1902年明治35年)9月に第三高等学校に入学。
  3. ^ 海軍大学校教授と日本大学講師と研数学館講師を兼任[1]
  4. ^ 1942年昭和17年)5月6日に退任。
  5. ^ 執筆された原稿は、中村元の死後(2000年平成12年〉)に『論理の構造』上・下巻として出版され、中村元の遺著となった[8][9][14]
  6. ^ 新潟県新潟市南区白根3174の西永寺の境内に立っている石碑「須藤翁碑」には、「配市川氏 生一男三女 男新吉嗣」と刻まれている[26]
  7. ^ 「翁風格高雅 儀容端正 性慈愛寛厚 事老母至孝 接人温和 清濁兼容」と刻まれている[27]
  8. ^ 「須藤小路」は新潟南警察署(旧 白根警察署)の北側を東西に走る道路である。

出典

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  1. ^ a b c d e f g 論理学綱要』奥付。『近代日本 哲学思想家辞典』299頁。
  2. ^ 青山同窓会會報』第48号、10面。
  3. ^ a b 東方の英知 わが師 わが友』14頁。『比較思想の先駆者たち 地球志向に生きた二十一人』246頁。
  4. ^ 学問の開拓』57頁。
  5. ^ a b 仏教学者 中村元 求道のことばと思想』21頁。
  6. ^ 東方の英知 わが師 わが友』15頁。
  7. ^ 学問の開拓』58頁。
  8. ^ a b 上野敬子 (2012年5月14日). “中村元・人と思想(6)一高時代の師たち”. 山陰中央新報社. オリジナルの2019年9月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190903153016/https://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1493241113451/index.html 
  9. ^ a b 桂紹隆 (2013年2月23日). “中村元・人と思想(46)新しい普遍的論理学希求”. 山陰中央新報社. オリジナルの2019年9月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190903145945/https://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1493241798005/index.html 
  10. ^ 学問の開拓』58-59頁。
  11. ^ 論理の構造』上巻、10・13頁。
  12. ^ 比較思想の先駆者たち 地球志向に生きた二十一人』249・251頁。
  13. ^ 仏教学者 中村元 求道のことばと思想』21-22頁。
  14. ^ 仏教学者 中村元 求道のことばと思想』22頁。
  15. ^ 日本心理学者事典』592頁。
  16. ^ 東方の英知 わが師 わが友』16頁。『比較思想の先駆者たち 地球志向に生きた二十一人』247頁。
  17. ^ 白根市史 巻五 近代史料』1347頁。
  18. ^ 辭令二」『官報』第4462号付録、1頁、内閣印刷局、1941年11月21日。
  19. ^ 敍任及辭令」『官報』第4457号、438頁、内閣印刷局、1941年11月15日。
  20. ^ 敍任及辭令」『官報』第4603号、573頁、内閣印刷局、1942年5月18日。
  21. ^ 「叙任及び辞令」『官報』第10509号、792頁、大蔵省印刷局、1961年12月28日。
  22. ^ 日本醫史學雜誌』第31巻第1号、144-145頁。『日本醫史學雜誌』第19巻第4号、368-370頁。
  23. ^ 東方の英知 わが師 わが友』15-16頁。『比較思想の先駆者たち 地球志向に生きた二十一人』246-247頁。
  24. ^ 日本語と私』朝日新聞社、96-97頁。『日本語と私』新潮社、107-108頁。『日本語と私《上》』埼玉福祉会、165-166頁。『日本語と私』河出書房新社、98頁。
  25. ^ 白根町誌」92頁。『中蒲原郡誌 上編』802頁。『中蒲原郡誌 白根市編』248頁。『新潟県 精髄 中蒲原郡誌〈上編〉』266頁。
  26. ^ 白根市史 巻二 近世史料』1343頁。『白根市史料 第一集』88頁。
  27. ^ 白根市史 巻二 近世史料』1343頁。『白根市史料 第一集』87頁。
  28. ^ 白根市史 巻七 通史』627頁。『広報しろね』第420号、8面。

参考文献

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関連文献

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