非行少女 (1963年の映画)
非行少女 | |
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監督 | 浦山桐郎 |
脚本 |
石堂淑朗 浦山桐郎 |
原作 | 森山啓 『三郎と若枝』(『青い靴』) |
出演者 | 和泉雅子 |
音楽 | 黛敏郎 |
撮影 | 高村倉太郎 |
編集 | 丹治睦夫 |
製作会社 | 日活[1] |
配給 | 日活[1] |
公開 | |
上映時間 | 114分[1][4] |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
『非行少女』(ひこうしょうじょ)は、1963年に公開された浦山桐郎監督の日本映画[1]。
同年7月開催の第3回モスクワ国際映画祭に出品され、金賞を受賞した[5]。
製作・撮影
[編集]『キューポラのある街』(1962年4月8日公開)のプロデューサーを務めた大塚和は監督の浦山桐郎と、大島渚の映画の脚本家として知られた石堂淑朗を引き合わせた。浦山は。『別冊小説新潮』1962年7月号に掲載された森山啓の小説『三郎と若枝』の脚本を頼みたい、と石堂に話した[6]。浦山は数多くの教護院(現・児童自立支援施設)を取材したのちに脚本に取り掛かった[7][8]。浦山と石堂が共同で書いた脚本は『映画評論』1963年1月号に掲載された。
1962年11月にクランクイン。浦山は主役の和泉雅子をロケ先の実際の教護院に入れ、そこに暮らす少女たちと三日ほど生活させた上でリハーサルを繰り返した[3]。教護院の子どもたちも和泉とともに出演した[9]。内灘町の北陸学園寮がロケ撮影地として使われた[10]。和泉と浜田光夫は日活の看板俳優だったため、正月映画に出演しなければならず、12月に撮影は中断。1963年1月に撮影は再開[11]。映画は内灘闘争がストーリーの要の一つであり、内灘町の海岸の弾薬庫などで撮影が行われたが、いくつかの海岸のシーンは費用の関係で茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)で撮られた[12]。ラストシーンの撮影は白山市の加賀笠間駅で行われた[10]。
1963年3月17日に公開された。併映は西河克己監督の『雨の中に消えて』だった。
同年7月、第3回モスクワ国際映画祭に出品された。4日目の7月10日に上映され[3]、ベリコ・ブライーチ監督の『夕焼けの戦場』、ヤン・カダールとエルマール・クロスの共同監督の『Smrt si ríká Engelchen』とともに金賞を受賞した。グランプリをとったのはフェデリコ・フェリーニの『8 1/2』だった。映画祭に出席した浦山は『8 1/2』に叩きのめされた。ソ連からフランスに入るとパリの映画館で再び『8 1/2』を見た[13][14]。影響を受け、浦山は以後、シンボリックな技法を作品に取り入れるようになった[注 1]。
スタッフ
[編集]- 企画 - 大塚和[1]
- 監督 - 浦山桐郎[1]
- 原作 - 森山啓 『三郎と若枝』(『青い靴』)[4]
- 脚本 - 石堂淑朗・浦山桐郎[1]
- 撮影 - 高村倉太郎[1]
- 美術 - 中村公彦[1]
- 音楽 - 黛敏郎[1]
- 録音 - 神谷正和[1]
- 照明 - 熊谷秀夫[1]
- 編集 - 丹治睦夫[1]
- 助監督 - 大本崇史
- 製作主任- 山野井政則[16]
- 方言指導 - 佐々木守[16]
- 技斗 - 三杉健[16]
キャスト
[編集]- 和泉雅子 - 北若枝[1]
- 浜田光夫 - 沢田三郎[1]
- 浜村純 - 北長吉[1]
- 佐々木すみ江 - 北勝子[1]
- 北林谷栄 - 中野静江[1]
- 佐藤オリエ[16] - 静江の娘
- 沢村貞子[16] - 若枝のおば
- 小池朝雄 - 沢田太郎[1]
- 香月美奈子 - 沢田由美子[1]
- 小夜福子 - 沢田ちか子[1]
- 小沢昭一 - 小使[1]
- 高原駿雄 - 武田[1]
- 小林トシ子[4] - 武田の妻
- 小林昭二[16] - 米田
- 赤木蘭子 - マス[1]
- 加原武門 - 北時十郎[1]
- 高田敏江[16] - 児童相談所の職員
- 鈴木瑞穂[16] - 児童相談所の職員
- 杉山俊夫 - 竜二[1]
- 藤岡重慶[16] -『美しま』の客
- 野呂圭介[16] - 三郎の学友
- 兼松恵 - アキ子[1]
- 吉田志津子 - 富子[1]
- 河上信夫 - 園長[1]
- 日野道夫[16] - 恵愛学園の職員
- 光沢でんすけ[17][16] - 流しのギター弾き
- 森坂秀樹 - 差し入れの少年
受賞歴
[編集]- 1963年 第3回モスクワ国際映画祭
- 金賞 『非行少女』(浦山桐郎監督)[5]
- 1963年度 第37回キネマ旬報賞
- 日本映画ベスト・テン10位 『非行少女』(浦山桐郎監督)[18]
- 1963年 第18回毎日映画コンクール
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 浦山の作品を高く評価し、交流のあった作家の長部日出雄は次のように述べている。「浦山さんはイタリアンリアリズムにすごい影響受けて、いわば一種の詩的リアリズムってものがあの人の本領だったと思うんですよね。ところが『非行少女』を持ってモスクワ映画祭行った時にフェリーニを見て、叩きのめされるわけですよね。こんなすごい映画はないと。帰って来てからね、もうリアリズムの時代じゃないって言い始めたわけですよ。で、それからの映画の中にはですねえ、なんかこうシンボリックな絵が入るんですよ。これがだいたい(笑)出来がよくないんですよね」[15]
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac kinenote.
- ^ 非行少女 - IMDb
- ^ a b c 『朝日新聞』1963年7月24日付夕刊、5面、「モスクワ国際映画祭で金賞に輝いた『非行少女』 浦山監督もステージに」。
- ^ a b c allcinema.
- ^ a b c “IMDB.com: Awards for Each Day I Cry”. imdb.com. 3 January 2021閲覧。
- ^ 原一男 1998, pp. 130–131.
- ^ 『毎日新聞』1963年1月12付夕刊、5面、「あすをになう監督(4)浦山桐郎」。
- ^ 『朝日新聞』1963年1月8日付夕刊、5面、「『非行少女』と取組む 気鋭の浦山監督が第二作」。
- ^ “第91回「非行少女」”. 日本映画映像文化振興センター. 2024年12月2日閲覧。
- ^ a b “非行少女”. 日活. 2024年12月2日閲覧。
- ^ 原一男 1998, pp. 482–483.
- ^ “第68回「非行少女」”. 日本映画映像文化振興センター (2000年11月4日). 2024年12月2日閲覧。
- ^ 長部日出雄「フェリーニの『8 1/2』」 『映画評論』1965年5月号、26-35頁。
- ^ 浦山桐郎「東の想い出」 『海外旅行と海外生活 改訂版』白陵社、1968年。126-132頁。
- ^ 原一男 1998, p. 387.
- ^ a b c d e f g h i j k l 国立映画アーカイブ.
- ^ IMDb.
- ^ "キネマ旬報ベスト・テン1963年・第37回". キネマ旬報社. 1963年. 2022年1月25日閲覧。
- ^ “毎日映画コンクール 第18回(1963年)”. 毎日新聞社. 2022年1月25日閲覧。
参考文献
[編集]- 原一男 編『映画に憑かれて 浦山桐郎―インタビュードキュメンタリー』現代書館、1998年4月15日。ISBN 978-4768476925。
- “非行少女”. allcinema. 株式会社スティングレイ. 2022年1月25日閲覧。
- “非行少女”. KINENOTE. キネマ旬報社. 2022年1月25日閲覧。
- “Each Day I Cry” (英語). IMDb. Amazon.com. 2022年1月25日閲覧。
- “非行少女”. 国立映画アーカイブ. 独立行政法人国立美術館. 2022年1月25日閲覧。