雑賀就正
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時代 | 江戸時代初期 |
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生誕 | 寛永5年(1628年) |
死没 | 元禄6年10月23日(1693年11月20日) |
改名 | 雑賀亀之介(亀之助、幼名)→雑賀就正 |
別名 | 通称:忠兵衛尉→次郎右衛門 |
主君 | 毛利秀就→綱広→吉就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 藤原姓雑賀氏 |
父母 | 父:雑賀元相、母:飯田氏の娘 |
兄弟 | 女(草苅就宗室)、女(毛利元宣室)、就正、就宗、勝之 |
妻 | 内藤就貞の娘 |
子 | 勝正、正真、女(児玉信久室) |
雑賀 就正(さいか なりまさ)は、江戸時代初期の武士。毛利氏家臣で長州藩士。父は雑賀元相。知行は300石。
生涯
[編集]寛永5年(1628年)、長州藩士である雑賀元相の子として生まれる。
寛永19年(1642年)11月15日、毛利秀就から「忠兵衛尉」の官途名と「就」の偏諱を与えられ[1]、以後、毛利秀就、綱広、吉就の三代に仕える。
寛文5年(1665年)8月24日に父・元相が死去し、その後を継いだ。
元禄6年(1693年)10月23日に死去。享年66。子の勝正が後を継いだ。
脚注
[編集]- ^ 『閥閲録』巻65「雑賀三郎兵衛」第8号、寛永19年(1642年)11月15日付 雑賀亀之介(就正)宛て毛利秀就官途状。