コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

隆慶帝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
隆慶帝 朱載坖
第13代皇帝
明穆宗半身朝服像
王朝
在位期間 嘉靖45年12月26日 - 隆慶6年5月26日
1567年2月4日 - 1572年7月5日
都城 北京
姓・諱 朱載坖
諡号 契天隆道淵懿寛仁顕文光武純徳弘孝荘皇帝
廟号 穆宗
生年 嘉靖16年1月23日
1537年3月4日
没年 隆慶6年5月26日
1572年7月5日
嘉靖帝
孝恪太后杜氏
后妃 孝懿皇后李氏(追贈)
孝安皇后陳氏
陵墓 昭陵
年号 隆慶:1567年 - 1572年
万暦帝(14代皇帝)

隆慶帝(りゅうけいてい)は、の第13代皇帝載坖(さいき)。廟号穆宗(ぼくそう)。日本では在位中の元号から一般的に隆慶帝と称されている。

生涯

[編集]
明穆宗隆慶帝

嘉靖帝の三男として生まれ、嘉靖18年(1539年)に3歳で裕王に封じられている。嘉靖帝の晩年、明朝は内政の乱れの他に、「北虜南倭」と称される倭寇モンゴル系タタールによる侵攻にさらされていた。即位した隆慶帝は嘉靖期の弊政を改革すべく、嘉靖帝への諫言により罪を得ていた徐階海瑞などの人材を登用し、それまで朝廷で権勢をふるっていた道士を一掃した。また疲弊する国庫を建て直すため、海外貿易を開放し、倭寇とタタールに対してある程度の貿易を認める柔軟策で、対外的にも安定した時代を現出した。

しかし、隆慶帝自身は凡庸な皇帝であり朝政を省みず、その政務は大学士に代行されていた。また、酒色に溺れ享楽を求めた生活のため、在位5年5ヶ月、36歳で崩御した。

宗室

[編集]

后妃

[編集]

男子

[編集]
  • 憲懐太子 朱翊釴 - 母は孝懿荘皇后。早世。
  • 靖悼王 朱翊鈴 - 母は孝安皇后。夭折。
  • 万暦帝 朱翊鈞 - 母は孝定皇后。
  • 潞簡王 朱翊鏐 - 母は孝定皇后。

女子

[編集]
  • 蓬萊公主 - 母は孝懿荘皇后。夭折。
  • 太和公主 - 夭折。
  • 寿陽公主 朱堯娥 - 母は孝定皇后。侯拱辰に降嫁した。
  • 永寧公主 朱堯媖 - 母は孝定皇后。梁邦瑞に降嫁したが、2カ月後に死別した。
  • 瑞安公主 朱堯媛 - 母は孝定皇后。万煒に降嫁した。
  • 延慶公主 朱堯姫 - 王昺に降嫁した。
  • 棲霞公主 朱堯㜢 - 母は淑妃秦氏。夭折。

登場作品

[編集]
テレビドラマ
先代
嘉靖帝
明の皇帝
1566年 - 1572年
次代
万暦帝