朱堯媖
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朱堯媖 | |
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続柄 | 隆慶帝第四皇女 |
全名 | 朱堯媖 |
称号 | 永寧長公主 |
身位 | 長公主 |
出生 |
隆慶元年2月1日(1567年3月11日) |
死去 |
万暦22年6月5日(1594年7月22日) |
埋葬 | 清良山 |
配偶者 | 梁邦瑞 |
父親 | 隆慶帝 |
母親 | 李皇貴妃 |
朱 堯媖(しゅ ぎょうえい、隆慶元年2月1日(1567年3月11日) - 万暦22年6月5日(1594年7月22日))は、明の隆慶帝の四女で万暦帝の同母妹。永寧長公主に封じられた。母は李皇貴妃。
隆慶元年2月1日(1567年3月11日)辰時に生まれた。万暦10年2月21日(1582年3月15日)、宦官の馮保と宰相の張居正の媒妁によって、富民の梁邦瑞に降嫁した。梁邦瑞は結核に冒され重篤であったが、数万両という大金を媒妁などに費やし、公主の婿になった。婚礼後、宮中の使用人たちも梁邦瑞に金品を要求したが、金が足りず、梁邦瑞を殴ったという。同年4月18日(同5月9日)、梁邦瑞は死亡した。その後、朱堯媖は寡居生活を送った。処女のままであったという。
万暦20年(1592年)、文禄の役における日本と明の間の講和交渉で、豊臣秀吉は明の公主[1]を後陽成天皇[2]の妃とすることなどを講和条件に示した。しかし、沈惟敬ら明の使節は虚偽の報告を行い、この講和条件が万暦帝に達することはなかった。万暦22年6月5日(1594年7月22日)戌時、朱堯媖は薨去した。清良山に葬された。
参考文献
[編集]- 『明史』 - 列伝第九 公主伝
- 『明神宗実録』
- 『永寧長公主墓志銘』