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陶興明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
陶興明
時代 室町-戦国時代
生誕 文明9年(1477年
死没 明応4年2月13日1495年3月9日
別名 五郎
戒名 春圃孝英
墓所 龍豊寺(山口県周南市大道理)
主君 大内政弘義興
氏族 陶氏
父母 父:陶弘護、母:益田兼堯
兄弟 武護興明興房、女子(宗像氏定室または益田宗兼室)
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陶 興明(すえ おきあき)は、室町から戦国時代に掛けての武将。大内氏家臣。通称は五郎。陶弘護の次男。兄に武護、弟に興房

生涯

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龍豊寺(山口県周南市大道理)にある陶興明供養のための宝篋印塔。

文明9年(1477年)興明は陶弘護の次男として生まれた[1][2]。母は石見国益田兼堯の娘[3][4]。興明が6歳の頃、文明14年(1482年)5月に父弘護が山口築山館で石見国人吉見信頼に殺害される[5]。父の跡は兄の武護が継いだ。

家督相続

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兄武護は延徳2年(1490年)10月に陶氏の本拠地である周防国都濃郡富田保の神社へ所領を宛行うなど[6]、当主として活動していた。しかし、その2年後の延徳4年(1492年)7月、武護は摂津国天王寺において出家遁世してしまう[7][8]。これにより、興明が家督を相続することとなった。

興明が新当主として活動していたことは、当時の史料で確認できる。1493年に興明名義で発給した文書である石見国人益田氏との音信[9]をはじめ、周防国都濃郡末武保の日面寺の寺領安堵[10]、周防国都濃郡富田保別所にあった満願寺の住持職と寺領の安堵[11]など、興明の発給文書が残されている。

最期

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明応4年(1495年2月13日、周防国富田の居館において、興明は兄武護(当時は宗景と名乗っていた)によって討ち取られた[8]。興明の母(弘護室)の益田氏が開基となった龍豊寺(山口県周南市大道理)の過去帳には、「春圃孝英大禅定門 明応四年二月十三日 生年十九歳」とある。「春圃孝英」は興明の法名と推定されるので、興明の享年は19歳であったことが分かる[2]

興明を討った武護のその後については、政弘の承認を得た大内義興が明応4年2月23日付で安芸国人阿曽沼氏に安芸国能美島(広島県江田島市)周辺での武護捜索を命じて[12][13]、武護は高野山に赴き[8]、最期は姫山(現・山口市)で討死した[14]

興明の跡は弘護三男(興明の弟)の興房が継いだ[15]

脚注

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  1. ^ 陶興明の母が開基となった龍豊寺(山口県周南市大道理)には、「春圃孝英大禅定門 明応四年二月十三日 生年十九歳」と記した過去帳が残っている。逆算すると文明9年の生まれとなる。
  2. ^ a b 播磨定男 『山口県の歴史と文化』 大学教育出版 2002年、p.10
  3. ^ 「陶弘護肖像賛」(『萩藩閥閲録』第4巻 p.396)
  4. ^ 播磨定男 『山口県の歴史と文化』 大学教育出版 2002年、p.6
  5. ^ 『蔭涼軒日録』長享3年(1489)正月三十日条(『山口県史』史料編中世Ⅰ p.162)
  6. ^ 『防長風土注進案』第8巻(山口県立山口図書館 1964年)p.67
  7. ^ 『蔭涼軒日録』延徳4年(1492)七月二日条(『山口県史史料編中世』1 p.324)
  8. ^ a b c 『晴富宿袮記』明応四年三月二十一日条(山口県文書館発行『山口県史料中世編上』119頁収録)
  9. ^ 『益田家文書』64(『史料集益田兼堯とその時代』所収 益田市教育委員会 1996年)
  10. ^ 「国分寺蔵(興隆寺文書)」33 (『山口県史史料編中世』2)
  11. ^ 「満願寺文書」1 (『山口県史史料編中世』2)
  12. ^ 『萩藩閥閲録』第1巻 p.835
  13. ^ 播磨定男 『山口県の歴史と文化』 大学教育出版 2002年、p.23
  14. ^ 「大内家譜」(島田貫道『防州山口築山屋形盛衰』 龍福寺刊行)
  15. ^ 「陶興房壽像賛」『萩藩閥閲録』第4巻411頁収録

参考文献

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  • 播磨定男 『山口県の歴史と文化』 大学教育出版 2002年 ISBN 4-88730-475-7
  • 藤井崇 『大内義興 西国の「覇者」の誕生』 戎光祥出版 2014年 ISBN 978-4-86403-111-0