吉見信頼
時代 | 室町時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 文明14年5月27日(1482年6月13日) |
改名 | 信頼、徹山(法名) |
別名 | 三郎(通称) |
戒名 | 徹山 |
官位 | 能登守 |
主君 | 大内政弘 |
氏族 | 清和源氏範頼流石見吉見氏 |
父母 | 吉見成頼 母:周布兼宗の娘 |
兄弟 |
信頼、頼興、岸田頼貞、頼高、成廉、 下森頼直、杉野頼豊、夕倉頼元、頼安、 雲松、頼成、立戸頼時 |
吉見 信頼(よしみ のぶより)は、室町時代の武将。大内氏の家臣。石見吉見氏8代当主。
出自
[編集]石見国の国人である石見吉見氏は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の弟・範頼を遠祖とする清和源氏の支流・吉見氏の傍流にあたる。
生涯
[編集]石見の有力国人の一人。応仁の乱が始まると主君の大内政弘(西軍方)に従って上洛し、武功を挙げた。文明2年(1470年)、大内教幸が東軍方の誘いに応じて長門国で挙兵すると、信頼はこれに従った(大内道頓の乱)。しかし、反乱鎮圧に当たる陶弘護に敗北した教幸は、信頼を頼って逃走。再起を図る教幸と信頼の軍勢は、文明3年(1471年)初頭には、長門地福(現・山口市阿東地福)にて大内家臣の末武氏久・延忠・幸氏を討ち取るものの、渡川城・賀年城・江良城などで敗れた。反乱の鎮圧に益田貞兼も加わり、追い詰められた教幸は同年中に自害。信頼は、文明7年(1475年)に元山城(現・山口市阿東徳佐)を攻めるも弘護に撃退された。所領の大半を失った信頼は和睦を求め、文明10年(1478年)に政弘から正式に罪を許される。
文明14年(1482年)5月27日、政弘が山口の築山館で酒宴を開いた際、その席上で弘護を殺害した。しかし自らもその場で内藤弘矩に成敗された(大内山口事件)。信頼が凶行に及んだ理由については諸説あり、道頓の乱以前から領地の境界紛争が生じていた陶氏への不満[注釈 1]や、乱の鎮圧者である弘護への恨みなどが考えられているが、事件直前に家督を弟・頼興に譲っていることから計画的犯行と推測される。また、弘護を殺害した際に凶器として使われた信頼の刀は鵜噬(うくい)と呼ばれる吉見氏家宝の短刀であったがその後「大内政弘からの下賜」という形で父・吉見成頼に返還されていること[2]、弘護の没後に行われた大内政弘による吉見氏討伐も突然中止・撤退して終わったことから、主君である大内政弘がこの事件の背後におり、内藤弘矩による殺害も口封じ目的であったする説もある[3][4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 阿部猛 著、西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年3月。ISBN 4404014120。 NCID BN0099272X。全国書誌番号:87024504。
- 東京大学史料編纂所 編『益田家文書』 家わけ第二十二 「益田家文書之三」、東京大学出版会〈大日本古文書〉、2000年3月。ISBN 4130912933。 NCID BA46991009。
- 藤井崇「大内政弘の権力構造と周防・長門支配」『年報中世史研究』32号、中世史研究会編集委員会、2007年、NCID AN00167910。
- 改題・改稿:藤井崇「政弘期の分国支配」『室町期大名権力論』同成社〈同成社中世史選書(14)〉、2013年。ISBN 978-4-88621-650-2。全国書誌番号:22348379。
- 藤井崇『大内義興 : 西国の「覇者」の誕生』戎光祥出版〈中世武士選書 21〉、2014年6月。ISBN 978-4-86403-111-0。 NCID BB15726292。
- 岡部忠夫『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年、18頁。doi:10.11501/12212336 。