益田宗兼
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益田宗兼 | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天文13年1月10日[1][2](1544年2月12日) |
別名 | 熊童丸[2]、孫次郎[1][2] |
戒名 | 医光寺殿全久宗兼[1] |
墓所 | 石見国医光寺 |
官位 | 治部少輔[1][2]、越中守[1][2] |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 大内義興 |
氏族 | 益田氏 |
父母 | 父:益田貞兼[1]、母:吉見三河守の娘[2] |
兄弟 | 宗兼、徳祐[2]、宇野興兼[2]、兼勝[2] |
妻 | 陶氏の娘[2][注釈 1] |
子 | 尹兼[1]、兼任[2]、兼久、周久[2]、徳陽[2]、娘(内藤隆時室)[2]、男子[2] |
益田 宗兼(ますだ むねかね)は石見国人益田氏第17代当主。
文明15年(1483年)に家督を譲られ、父と祖父から知行を譲り受けた。石見西部の領土を巡って吉見氏や三隅興兼と争う一方、大内義興に従って明応6年(1497年)の少弐政資討伐に従軍、永正5年(1508年)、義興が足利義稙を擁立して上洛すると嫡男の尹兼と共に上洛、在京して外様の有力国人となった。船岡山合戦にも参加、戦功を挙げた。永正15年(1518年)の義興の帰国に伴い石見へ帰還、崇観寺塔頭医光寺を建立した。
天文13年(1544年)に死去。孫の藤兼が家督を継いだ。尹兼は家督を継がなかったとされている。
雪舟と交流があり、文明15年の家督相続で雪舟から『花鳥図屏風』を寄贈された。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 『益田市誌 上巻』益田市編纂委員会編、益田市編纂委員会事務局、1975年。
- 『島根県歴史人物事典』山陰中央新報社島根県歴史人物事典刊行委員会編、山陰中央新報社、1997年。
- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション