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陶武護

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
陶武護
時代 室町時代
生誕 1477年以前
死没 明応4年(1495年
改名 鶴寿丸→武護→宗景
別名 三郎、五郎
主君 大内政弘
氏族 陶氏
父母 父: 陶弘護
兄弟  武護興明興房
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陶 武護(すえ たけもり、1477年以前(次弟興明が1477年に生まれたため[1]) - 明応4年(1495年))は、室町時代後期の武将大内氏の家臣。幼名は鶴寿丸で通称は「三郎」及び「五郎」[2]。別名は宗景。陶弘護の嫡男。弟に興明(おきあき)、興房。子に陶興明(おきあき、子に陶房賢(ふさかた))、陶隆胤(たかたね)、陶晴之(はるゆき)がいる。

生涯

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父が文明14年(1482年)5月27日に吉見信頼に殺害されたため(大内山口事件)、家督を継いだが、幼年のために叔父の陶弘詮(右田弘詮)の後見を受けた。 1483年には政弘が弘詮に宛てた書状では「三郎幼稚候」との文言がある[3](幼名で記載されていない)。

1488年の「大内氏壁書」に「陶中務少輔」の記載がある[4]。 1490年に「中務少輔武護」として発給した書状が残っている[5]

その後、六角征伐に従軍する大内義興に従軍して京都に駐屯していた延徳4年(1492年)に突如、出奔して摂津国の天王寺にて出家し[6][7]、宗景を名乗る[8]

そのため、陶氏の家督は弟の興明が継承したが、明応4年(1495年)になって宗景(そうけい)と号していた武護が突然帰国して、2月13日に興明を討ち取って家督を奪った[7]

興明の殺害には内藤弘矩の同意があったとされる[9]が、政弘の承認を得た大内義興が明応4年2月23日付で安芸国人阿曽沼氏に安芸国能美島(広島県江田島市)周辺での武護捜索を命じて[10][11]、武護は高野山に赴き[8]、最期は姫山(現・山口市)で討死した[12]

明応4年2月28日にはその内藤弘矩とその子内藤弘和が「中務少輔武護為」に誅殺された[13]

ところが、内藤弘矩父子の死について、弘矩を讒言したとされる陶武護に与同を企てたため、先代当主の大内政弘によって殺害されたとする逆の説[14]も伝えられている[15]。また、武護による陶氏当主・興明殺害自体が大内氏に対する反逆とも解され、その直後(15日後)に内藤弘矩が殺害されるなど、時系列的に不可解な点が見受けられる。実際に大内義興は明応4年6月19日付で東福寺に充てた書状にて「陶中務入道宗景(武護)不儀を企て候の間、成敗を加え候につき、尊書拝見つかまつる」と記しており、この時までに義興によって武護が討たれていた可能性が高い[16]

陶氏の家督は弟の陶興房が継いだ。

脚注

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  1. ^ 播磨定男 『山口県の歴史と文化』 大学教育出版 2002年、p.10
  2. ^ 『近世防長諸家系図綜覧』付録 防長新聞社刊
  3. ^ 「宇野与一右衛門家文書」『萩藩閥閲録』第2巻476頁収録
  4. ^ 『萩藩閥閲録』第3巻170頁
  5. ^ 「防長風土注進案」8巻67頁、山口図書館発行
  6. ^ 『蔭涼軒日録』延徳4年7月2日条(山口県編『山口県史』史料編・資料編中世1、162頁収録)
  7. ^ a b 藤井崇 著『中世武士選書‐大内義興』戎光祥出版、2014年、p.44
  8. ^ a b 『晴富宿袮記』明応四年三月二十一日条(山口県文書館発行『山口県史料中世編上』119頁収録)
  9. ^ 山口県編『山口県史』史料編・資料編中世1、324頁収録、『晴富宿墨記』「~舎弟陶五郎内藤者宗景僧伐同意之時令、~」
  10. ^ 『萩藩閥閲録』第1巻 p.835
  11. ^ 播磨定男 『山口県の歴史と文化』 大学教育出版 2002年、p.23
  12. ^ 「大内家譜」(島田貫道『防州山口築山屋形盛衰』 龍福寺刊行)
  13. ^ 山口県編『山口県史』史料編・資料編中世1、324頁収録、『晴富宿墨記』
  14. ^ 『晴興宿禰記』明応4年3月21日条(山口県文書館発行『山口県史料』中世編上119頁収録)
  15. ^ 藤井崇 著『中世武士選書‐大内義興』戎光祥出版、2014年、p.45-47
  16. ^ 藤井崇 著『中世武士選書‐大内義興』戎光祥出版、2014年、p.45

関連項目

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